2012年11月4日
多くの人々は、自分の心の醜さや弱さに失望しながら、もっと輝いた人間に変わりたいと思って、神を求めるようになります。
また、人によっては、「あなたは毎週教会に行っているわりに、人格的な成長が見られないわね・・」などと言ってくれる人もいます。世の人々も、教会を、高潔な人間になるための修練の場かのように期待します。
ところが、聖書に最初から記されているのは、目を覆いたくなるような家族のスキャンダルであり、戦争の描写であり、様々な誘惑にすぐに負けてしまう人間の歴史です。そこに記されている物語の核心は、道徳ではなく、ラブ・ストーリーです。そして、その代表格こそホセア書です。
神が私たちに何よりも求めておられることは、私たちが世の人々から尊敬される人格者になること以前に、神との愛の交わりを築き、深めることです。そして、神が私たちに対して何よりも怒りを発せられるのは、私たちが霊的な浮気をして、別の神々に救いを求めることです。
神と人との関係は、夫婦関係に似ています。はたらか見たら、何とも不思議な組み合わせでありながら、当人たちは極めて幸せそうにやっているというのもあります。その機微は、部外者には分かりません。それは神と私たちの関係に似ています。
主イエスは、偽預言者、神を冒涜する者、ペテン師として十字架にかけられました。その弟子が周りの人から尊敬されなくて、何の不思議がありましょう。問われているのは、神との愛の交わり自体です。
1.「行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ」
ユダヤ人の伝統の中では、小預言書は「The Twelve(十二)」と呼ばれ、ひとつの巻物の中に、現在の私たちの聖書の順番で記されていました。それぞれ著者も時代のテーマも違うのですが、預言者イザヤのように神のさばきと救いに関して壮大なビジョンを語っています。
そして、これらの預言が語られた時代は、ダビデから始まってソロモンの後で二つに分かれた王国がそれぞれ、アッシリヤ帝国、バビロン帝国によって滅ぼされ、その後、ペルシャ帝国の下で小さいながらも神殿を再建し希望を見いだすという時代を指しています。
それは、1990年以降の閉塞感に満ちた日本の状況に似ています。ですから、今から2750年~2500年前という大昔、聖徳太子よりも二倍も古い時代に記されたことばは、現代の日本の社会や教会の現実にも深い関連性を持っていると言えましょう。
1章1 節は、原文では「ことば、主(ヤハウェ)の、ホセアにあった・・」という順番で、その時代が「ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代」と記されています。
内容の中心は、北王国イスラエルが「ヨアシュの子ヤロブアム(ヤロブアム二世)」王の時代に全盛期の繁栄を謳歌しながらも停滞期に入った時代に、神が、北のアッシリヤ帝国を用いて、彼らの偶像礼拝の罪をさばくというものです。
ただ、その時代を南王国ユダの四人の王で描いていることに大きな意味があります。ウジヤはヤロブアム二世と時代が重なりますが、彼より約十年長生きし、続く三人の王の時代には北王国の王は半年から一か月や二年という単位で、王が変わり、歴史に名を残すような王は現れなかったからです(まるで現在の日本の政治に似ています)。
そして、この預言は、北王国に向けて語られたものでありながら、実際には、ユダ王国で読まれることを意識して記されていると言えましょう。混乱の渦中にいる人は、残念ながら預言のことばが耳に入りません。そこで流行るのは、超楽観的か超悲観的に揺れる占いのようなたぐいの未来予測のことばです。これも、現代の日本に似ています。そして、預言の意味は、国の滅亡後に、外の世界の人々の心に響くという性質のものでした。
そして、主が最初にホセアに語られたことは、奇想天外なことで、「行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ。この国は主(ヤハウェ)を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ」(1:2)というものでした。それは、すぐに浮気に走りそうな女を敢えて妻とすることで、神がご自分の民から裏切られることの痛みを体験するようにという命令です。
これは、伴侶の浮気に耐えるようにという勧めではありません。律法の中では姦淫の罪は、石打ちの刑で死罪に定められていました。
私たちの多くは、自分の問題の解決のために神を求めますが、信仰の成長とは、神の視点からこの世界を見、また、ご自分の民から浮気をされる神の痛みを理解できるようになることです。
ホセアは神のことばに従って「ディブライムの娘ゴメル」を妻として迎えます。そして、「彼女はみごもって、彼に男の子を産んだ」と記されます(1:3)。「彼に・・産んだ」とあるように、この長男は、明らかにホセアの子でした。主は彼に、「あなたはその子をイズレエルと名づけよ。しばらくして、わたしはイズレエルの血をエフーの家に報い、イスラエルの家の王国を取り除くからだ」(1:4)と命じます。
神はバアル礼拝を大々的に導入したアハブの家と預言者エリヤを迫害したイゼベルを、将軍エフーを用いてさばきましたが、エフーは当時の戦いの中心地「イズレエル」において、神の命令をはるかに超える残虐を行ない、流してはならない多くの血を流してしまいました。
そして、エフー家は四代目のヤロブアム二世の死後、権力闘争による内戦状態に陥り、多くの血が流されることになります。それこそ神のさばきの現れでした。
ホセアの長男の名にはそのことが現されています。そして、「その日、わたしは、イズレエルの谷でイスラエルの弓を折る」(1:5)とは、イスラエルが滅亡する日が来ることを語ったものです。
「ゴメルはまたみごもって、女の子を産んだ」(1:5)とありますが、ここには3節と異なり、「彼に」ということばがありませんから、この娘はゴメルの浮気相手との関係で生まれた子ではないかと思われます。
そして、その子につけるように命じられた名は、「ロ・ルハマ」でした。これはラハム(あわれむ、愛する)の否定形です。その理由を主は、「わたしはもう二度とイスラエルの家を愛することはなく、決して彼らを赦さないからだ」と言われます(1:6)。
その一方で、主は、南王国ユダに関しては、「しかし、わたしはユダの家を愛し、彼らの神、主(ヤハウェ)によって彼らを救う・・」(1:7)と言われます。これはヒゼキヤ王の時に、エルサレムが奇跡的にアッシリヤ帝国の攻撃を退けることを預言したものです。その勝利は、人間の軍隊ではなく、御使いによる勝利でした(Ⅱ列王記19:35)。
その後、「ゴメルは、ロ・ルハマを乳離れさせてから、みごもって男の子を産んだ」(1:8)とありますが、これもゴメルの浮気から生まれた子だと思われます。
そして、「その子をロ・アミと名づけよ」と命じられます。これは「アミ」(わたしの民)に否定形のロをつけたもので、その理由が、「あなたがたはわたしの民ではなく、わたしはあなたがたの神ではないからだ」と説明されます(1:9)。生まれた子がホセアの子ではないように、北王国イスラエルも神の民ではなくなるというのです。
ホセア自身も妻の浮気から生まれた二人の子に、神の命令によって不思議な名前を付けながら、妻の浮気の結果を引き受ける痛みを通して、神の痛みを理解できたのではないでしょうか。
2.「私は行って、初めの夫に戻ろう。あの時は、今よりも私はしあわせだったから」
ヘブル語聖書では私たちの聖書の1章10節が、2章の初めになっていますが、その書き出しは、「そして、なる」で、神ご自身が驚くべきみわざが、「イスラエル人の数は、海の砂のようになり、量ることも数えることもできなくなる」と約束されます。
これはアブラハムがひとり子のイサクをささげたときに、主が、「わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう・・・」(創世記22:17,18)と言われた約束が決して無に帰すことがないという意味です。神の約束は、人の不従順にも関わらず全うされるのです。
そればかりか主は、イスラエルの民が、「生ける神の子ら」と呼ばれるようになると約束されながら、「ユダの人々とイスラエルの人々は、一つに集められ、彼らは、ひとりのかしらを立てて、国々から上って来る」と言われます(1:10,11)。
これはエゼキエル37章15-28節でより詳しく描かれることの走りで、「ダビデの子」と呼ばれる救い主キリストにおいて全世界の民に広げて実現される約束です。ユダヤ人はこの約束の実現を今も待ち望んでいます。
その後の、「イズレエルの日は大いなるものとなるからである」と2章1節の「あなたがたの兄弟には、『わたしの民』と言い、あなたがたの姉妹には、『愛される者』と言え」ということばはセットで理解すべきです。これは今までの三人の子の名前の意味が逆転されるという意味です。
つまり、イスラエル王国が血の海となるイズレエルの日が、「大いなる」祝福の日となり、また、「ロ・アミ」と呼ばれた者が「わたしの民」と呼ばれ、「ロ・ルハム」と呼ばれた者が「愛される者」と呼ばれるようになるという逆転です。キリストにあって「のろい」が「祝福」に変わるからです。
2章2節~5節には一転して、神の怒りに満ちたさばきのことばが描かれます。しかし、表面的な怒りの背後には彼らの回心を願う深い愛が隠されています。「あなたがたの母をとがめよ。とがめよ。彼女はわたしの妻ではなく、わたしは彼女の夫ではないから」(2:2)とは、イスラエルの子らの悲惨は、偶像礼拝に走った彼らの母の罪に対するさばきであることを思い起こさせるものです。
続けて、「わたしは彼女の子らを愛さない。彼らは姦淫の子らであるから」(2:4)と記されるのは、彼らが親の世代の偶像礼拝を受け継いでいて一向に反省しようとしないことを責めたことばです。
そして彼らの親たちがバアル礼拝に熱を上げていた様子を、彼らの母のことばとして、「私は恋人たちのあとを追う。彼らは私にパンと水、羊毛と麻、油と飲み物を与えてくれる」と言ったと描かれます(2:5)。
2章6節の「それゆえ」ということばは転換点です。これは、神ご自身がイスラエルの民がバアル礼拝にこれ以上走ることができないように道を塞いでくださるという意味です。そこで生まれる葛藤が、「彼女は恋人たちのあとを追って行こう。しかし、彼らに追いつくことはない。彼らを捜し求めよう。しかし、見つけ出すことはない」(2:7)と記されます。
そして、そうなって初めて、自分たちの神に立ち返るという様子が、「彼女は言う。『私は行って、初めの夫に戻ろう。あの時は、今よりも私はしあわせだったから』」と記されます。
これは、酒やギャンブルにおぼれて、そこに喜びや興奮よりも、悲しみと絶望を見いだすようになって初めて、神に立ち返る姿です。これは放蕩息子が飢えに苦しんで豚のえさで腹を満たしたいと思うほどになって初めて、父のもとに返ろうと決断することに似ています。残念ながら、人間は、自分の欲望を、破滅を目の前にして初めて抑制できるようになることを示しています。
「私は恋人たちの後を追う」(2:5)と言っていた姦淫の女が、「私は行って、初めの夫に戻ろう」(2:7)と言うようになるのは、神が姦淫への道を塞いでくださったからに他なりません。それでも、この「戻ろう」ということばは、「回心」を意味することばであり、ホセア書の鍵のことばです。
放蕩息子のたとえにも共通しますが、神は私たちの悪への道を塞ぐことによって、私たちに悔い改めへの思いを導いてくださいます。多くの人が神に立ち返るのは、自分の求道心というよりは、肉的な願望を満たすことに失敗した結果に過ぎないとも言えましょう。
3.「わたしは・・アコルの谷を望みの門にしよう」
そして主は恩知らずなイスラエルの問題を、「彼女に穀物と新しいぶどう酒と油とを与えた者、また、バアルのために使った銀と金とを多く与えた者が、わたしであるのを、彼女は知らなかった」(2:8)と告げておられます。
9節では再び、「それゆえ」ということばとともに、神のさばきが、「わたしの穀物・・新しいぶどう酒を取り戻し・・裸をおおうためのわたしの羊毛と麻とをはぎ取ろう・・・彼女のすべての喜び・・すべての例祭を、やめさせる。それから・・彼女が『これは私の恋人たちが払ってくれた報酬』と言っていた彼女のぶどうの木と、いちじくの木とを荒れすたらせ、これを林にして、野の獣にこれを食べさせる。わたしは、彼女が・・・わたしを忘れてバアルに仕えた日々に報いる」(2:9-13)と言われます。彼らは神からの賜物をバアルからの報酬と言った報いを受けます。
ところが、14節からは三度目の「それゆえ」ということばとともに、神の祝福の計画が、「見よ、わたしは彼女をくどいて荒野に連れて行き、優しく彼女に語ろう。わたしはその所を彼女のためにぶどう畑にし、アコルの谷を望みの門としよう」と語られます。
「くどいて」ということばの原文は「魅惑する」とか「誘惑する」という意味に用いられることばです。イスラエルの民はバアル礼拝に魅惑されて自分たちの神から離れたのですが、今度は神ご自身が彼らを魅惑して、敢えて、何もない「荒野に連れてゆき」、そこで「優しく(原文では「心に」)語り」、その荒野をぶどう畑に変えてくださるというのです。
そして、ここでは「わたしは」という神の主導権が強調されながら、「アコルの谷を望みの門にしよう」と告げられます。これは驚くほど感動的なことばです。
「アコルの谷」とは、イスラエルの民がヨシュアに導かれて約束の地に入ってきたとき、アカンとその一族が、神のさばきを受けて石打ちにされ、埋められた場所です(ヨシュア7:24-26)。イスラエルの民は圧倒的に強いエリコの町を神の御手によって征服しましたが、アカンは聖絶すべき分捕り物を盗んで隠してしまい、イスラエルは神の怒りを受けてアイへの攻撃でまさかの敗北を喫します。彼らはアカンの罪によって、一転して民族滅亡の危機にさらされたのです。アカンは自分の罪を認めましたが、彼の一族がイスラエルの民によって絶滅させられるまで、神の燃える怒りはおさまることがありませんでした。
それ以来、「アコルの谷」ということばは、「神ののろい」のシンボル的な意味を持つようになりました。すべての人の罪は、悔い改めれば自動的に赦されるというようなものではありません。神の怒りを侮ってはなりません。
私たちの目の前にも「アコルの谷」があります。多くの人々は、そのような罪に真正面から向き合う勇気を持ちません。これはご本人の了解を受けてのお証ですが、以前当教会でずっと長く礼拝を守っておられた方が、今になって、「実はずっと、高橋先生のメッセージも本も、ちんぷんかんぷんでした。しかし、最近は送られてくるメッセージ原稿のことばが、あることを通して、「干からびた大地に水が いっきに染みていく」のように感じられるようになりました。私は、ずっと、「問題から逃げ、自分を守らなきゃ」という生き方をしてきたから、聖書の解き明かしに感動できなかったのだと分かりました」という趣旨のことを書いてきてくださいました。
私たちの周りにも、神の燃える怒りを受けるべき「アコルの谷」と呼ばれてしかるべき悪の世界があります。できたら、目を背けていたい問題があります。しかし、私たちがそれに正面から向き合い、神に向かって祈るときに、そこに「望みの門」が開かれます。
そして、「その日」に起きることを、主は、第一に、「あなたはわたしを『私の夫』と呼び、もう、わたしを『私のバアル』とは呼ぶまい・・」と言われます(2:17)。彼らは自分から進んで、バアル礼拝から離れるようになります。
第二に、主は、「その日、わたしは・・野の獣・・地をはうものと契約を結び・・戦いを地から絶やし、彼らを安らかに休ませる」(2:18)と言われます。彼らはもう野の獣からの攻撃も、弓と剣による人間からの攻撃からも自由になることができます。
そして、神が再びイスラエルの民に永遠の愛を誓ってくださるということが、「わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ。わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは主(ヤハウェ)を知ろう」(2:19,20)と記されます。
「正義」とは神のまっすぐさ、「公義」とは公正なさばき、「恵み」とは契約の愛を意味するヘセドの訳、「あわれみ」とは先の娘の名「ロ・ルハマ」の反対の神のあわれみに満ちた愛、そして「真実」とは、信頼できるという意味です。これらのことばは、神がどのような方かを現す大切なことばで、神がご自身の民を決して見捨てることなく、守り通してくださるという神の側からの真実の約束を意味します。
2章21節~23節では、「わたしは天に答え、天は地に答える。地は穀物と新しいぶどう酒と油とに答え・・」と記されますが、これは神が再び天から雨を降らせ、地を潤し、豊かな作物を実らせてくださるという意味です。これはバアルが豊穣の神としてあがめられていることに対して語られています。
その上で、再び、ゴメルから生まれた三人の子の名前を逆転させるという意味で、神が「イズレエル」を豊かな実りの地に変え、『愛されない者』という意味のロ・ルマハという名を神の愛の対象とし、『わたしの民でない者』という意味のロ・アミを『あなたはわたしの民』と言う逆の名前に変え、その子も神に向かって『あなたは私の神』と呼ぶように変えられるというのです。
ゴメルの三人の子供の名には神の燃える怒りの思いが込められていました。しかし、その背後には、イスラエルの神がご自分に立ち返って来るのを待つ忍耐に満ちた神の愛が隠されていました。
三人の子供の名が祝福の名に変えられるということは、私たちひとりひとりが先祖伝来の悪習から自由にされ、新しくされることの象徴と言えましょう。
その上で主は再びホセアに向かって、「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ。ちょうど、ほかの神々に向かい、干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの人々を主(ヤハウェ)が愛しておられるように」と言われます(3:1)。
最初の部分は「他人に愛され、姦通している女」とも訳すことができ、干しブドウ菓子とは生殖の女神アシュラ(天の女王)にささげる供え物でした(エレミヤ7:18,44:9)。
神が「天の女王」に浮気をしている民を愛するように、ホセアは売春奴隷に身を落とした元妻を愛するように命じられます。そこで彼は、「銀十五シェケルと大麦一ホメル半で」彼女を奴隷状態から買い戻します(3:2)。これは当時の奴隷売買の相場です。彼女は身を持ち崩して奴隷になっていたのです。
そしてホセアは、「これから長く、私のところにとどまって、もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはならない。私も、あなたにそうしよう」ともう一度夫婦関係をやりなおすという約束をします。
そして、このホセアとゴメルの関係が、再び、神とイスラエルの関係にたとえられ、「それは、イスラエル人は長い間、王もなく、首長もなく、いけにえも、石の柱も、エポデも、テラフィムもなく過ごすからだ」(3:4)と言われます。これは、イスラエルが長らく国を失うことを意味します。しかし同時に、イスラエルの最終的な回復の約束が、「その後、イスラエル人は帰って来て、彼らの神、主(ヤハウェ)と、彼らの王ダビデを尋ね求め、終わりの日に、おののきながら主(ヤハウェ)とその恵みに来よう」(3:5)と描かれます。
「帰ってきて」も、2章7節と同じく回心を意味することばです。イスラエルが神のもとに帰って来ることができるのは、神ご自身がイスラエルを支配する国をさばいたり、また、力づけたりしてくださるからにほかなりません。
姦淫の女のゴメルは、神の命令を受けたホセアによって初めて帰って来ることができました。私たちが神のみもとに帰ることができるのも、神の一方的な恵みのみわざです。
しばしば、親密な人間関係では、「わたしがこれほどあなたのことを大切に思っているのに、どうしてそれをわかってくれないの・・」ということが何よりの怒りの理由になります。そこで、問われているのは、自分がどれだけ人を愛しているかよりも、自分がどれだけ愛されているかに気付いてほしいということです。
それは、神との関係でも当てはまります。信仰とは、何よりも、私たちが何度、神を忘れ、裏切っても、神が私たちを愛し続けてくださることを知ることです。
ホセアは神の命令により浮気女のゴメル娶り、三人の子供たちに忌まわしい名前を付けました。しかし、そこには、神が彼らに与えられた「のろい」を、「祝福」に変えてくださるという奇想天外な望みがありました。神はどれほど変わりようのない人間をもご自身の子供として受け入れ、造り変えることのできるお方です。