マルコ12章13〜17節「あれか、これか、を超えた神の視点」

2012年9月16日

私たちの世界ではしばしば、明確な対立軸を作りながら人々の心をまとめて権力を掌握し、変革を成し遂げるという手法が用いられます。しかし、根底に争いと憎しみを駆り立てる論理があることは次の問題を生み出す種となります。

この教会が始まったときと同じ1989年に消費税が導入されました。その頃の選挙では日本社会党が土井たか子党首のもとで大躍進を遂げました。消費税議論が盛んだった頃、僕が、「消費税は必要かもしれない……」という趣旨の発言をしたら、至る所で、「あなたはそれでもクリスチャンなの……」という反発を受けました。なぜなら、この税は、貧しい人ほど実質的な負担率が高くなるからです。

しかしながら、当時も今も、それに代わる効果的な税制は提示されていません。とにかく、消費税の悪い点ばかりがクローズアップされ、消費税に賛成する人は弱者切り捨てを平然と行う人と見られました。

しかし、その後の歴史はどうなったでしょう。消費税批判で社会党は大きくなりましたが、そのとたん党内抗争が激しくなり、その7年後にはこの党は歴史から消えてしまいました。簡単に言えば、自民党を攻撃する矛先が、内部に向かって、自滅に向かったとも言えましょう。

現在は、原発再稼働の問題が大きな国民的な議論となっています。今回は、幸い、昔のようなイデオロギー対立にはなっていませんが、それでも気をつけなければならないのは、再稼働に賛成する人を、「お金の事しか考えていない人間!」などと一方的に非難する姿勢になってはいないかということです。また、原発に関わってきた人を一律に、悪人呼ばわりしてはいないかということです。対立を煽るような心の姿勢は、必ずと言って良いほど、後の時代に大きな別の問題を生み出します。

しかし、今の日本に、また、世界に本当に大切なことは、再稼働の是非以前に、使用済み核燃料の処理の問題ではないでしょうか。福島原発の四号機は非常に危険な状態にありますが、この地球の環境を破壊できるほど大量の使用済み核燃料の処理は、まだまだ目処が立っていません。まるで下水処理の目処が立たないままマンションを建てたようなものです。

そして、誰の目にも明確なのは、それらの問題に対処するためには、今までの原発に関わってきた技術者や作業員の方々に積極的に働いていただく必要があるということです。それらの方々を悪人呼ばわりするような単純な構図が一般化すると、この日本は滅亡に向かうことでしょう。

互いの憎しみを煽るような論調に対して、信仰者は距離を置くべきです。組織も国も、必ず、内部対立から崩壊するからです。それはイエスの時代のユダヤの問題でもありました。

1.「彼らは、イエスに何か言わせて、わなに陥れようとして……」

イエスはこの二日前に、イスラエル王国を復興する救い主と期待されつつ、群衆の歓呼を受けてエルサレムに入城しました。多くの人々は、これまでイエスが数多くの奇跡を行ない、新しい神の国の福音を宣べ伝えていることを知っていました。

そして、人々はイエスが新しいイスラエルの王として、この国をローマ帝国からの独立に導いてくれることを期待していました。当時の多くの人々が待ち望んでいた救い主の姿は、この約二百年前に、エルサレム神殿をギリシャ人の圧政から解放したユダ・マカベオスのような人でした。

12章13節では、「さて、彼らは、イエスに何か言わせて、わなに陥れようとして、パリサイ人とヘロデ党の者数人をイエスのところへ送った」と描かれていますが、この「彼ら」とは、イエスが神殿から商売人を追い出した後に、「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか……」と質問してきた「祭司長、律法学者、長老たち」のことです (11:27)。

彼らはイエスから何かの政治的な発言を引き出して、訴えの口実を得るために、両極端の政治的見解を持つ「パリサイ人とヘロデ党の者数人を」送ってきました。

「ヘロデ党の者」とは、ローマ帝国の権力者に媚びへつらって自分の生活を守ろうとする体制派とも見られますが、国際政治の力関係を冷徹に見て行動する現実主義者と呼ぶこともできましょう。

一方、「パリサイ人」は、自分たちの信仰深さをアピールしたがる偽善者とも見られますが、神の教えを命がけでも守ろうとする理想主義者と見ることもできます。彼らは神の民イスラエルがローマ帝国の文化に同化されることがないように聖書の教えを日々の生活に適用することに熱心でした。ユダヤ人が今に至るまで、神の民としてのアイデンティティーを保ち続けることができたのは、彼らの功績と言うこともできます。

とにかく、彼らにはそれぞれ民衆に訴える明確な政治的スローガンがあり、当時のユダヤ人は、ヘロデ党に親近感を持つか、パリサイ人に親近感を持つかで二分されていました。これは現在の日本が、原発の再稼働、消費税、TPPの問題などで国論が二分されている状況に似ています。

ところが、イエスはそのような中で、どちらとも距離を置きながら、多くの人々の心をとらえていました。彼らはこの新しい政治勢力に対して連合を組みました。これは、「敵の敵は味方……」という論理からでした。

そして、ここではまず、「彼らはイエスのところに来て」、「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです」と言ったと記されています (12:14)。これは極めて皮肉に満ちた状況と言えましょう。

イスラエルの宗教指導者たちがイエスの権威について質問をしたとき、イエスは反対に、「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。答えなさい」と問い返されましたが、「彼らは群衆を恐れていたので」、正直に答えることができなかったからです。それで彼らはここでイエスのことを、「人の顔色を見ず……」という面から評価したのでしょう。

しばしば、お金のことを気にする人に限って、人前では、「私はお金には無頓着です」などとわざわざ言いたがります。同じく、人の目を気にする人に限って、「私は真実さや真理を大切にしています!」などと敢えて言います。でも、彼らからしたら、イエスはKYな人、「空気を読めない人」と言いたかったことでしょう。

彼らはとにかく、そのような批判めいたことばは横に置いて、イエスから本音を引き出そうと、リップサービスを並べたと言えましょう。

最近は、自民党の総裁候補が代わる代わるテレビのニュースに出演していますが、そのたびに、司会者は、それぞれの候補者から、不用意な発言や本音のことばを引き出そうと必死になっています。そのために有効なのは、褒め殺しか、相手の怒りを引き起こすようなことばです。

2.「なぜ、わたしをためすのか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい」

そして彼らは、当時のホットな話題である、「カイザルに税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか、かなっていないことでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないのでしょうか」という質問をしました。

イエスにとっても、当時の宗教指導者にとっても、「主 (ヤハウェ) は王である」(詩篇96:10) という告白こそが信仰告白の核心でした。ところが、彼らの時代は、「ローマ皇帝こそが王である」と言わなければ生きられませんでした。その象徴が税金を払うということでした。

イエスのことを「ダビデの子にホサナ」と叫んで迎えたエルサレムの群集も、ローマ皇帝の支配から解放されることを望んでいました。そのような中で彼らは、イエスを尊敬しているふりをして、本音を引き出そうとしました。彼らの目には、この質問には、二者択一の答えしかないと思われました。

ここでもし、イエスが、「税金を納めることは、律法にかなっている」と答えてしまうなら、宗教指導者たちはイエスをローマ帝国の支配にへつらう偽指導者として非難する、格好の証拠を引き出すことになります。すると人々はイエスに失望してしまうことでしょう。

しかし、反対に、イエスが、「税金を納めることは、律法にかなっていない」と明確に言うなら、イエスをローマ帝国への反乱を扇動する革命家としてローマ総督に訴えることができます。

彼らは、今までのイエスの言動から、イエスをローマ帝国の敵として訴えることができると期待し、そのような答えを引き出すためにイエスを持ち上げるようなことを最初に言ったのだと思われます。

実際、ルカによる福音書23章1、2節の記事によれば、この数日後、イスラエルの指導者たちはイエスを最高議会において尋問し、イエスからご自分が神の子であるとの発言を引き出した後、ローマ総督ピラトのもとに連行して行きましたが、そのとき彼らはイエスを、「この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることがわかりました」と訴えました。

これは、決してまったくの嘘の訴えとは言えません。なぜなら、当時のローマ皇帝は自分のことを、「神の子」「最高の祭司」だと紹介しており、イエスは自分を「王キリスト」と宣言することで皇帝の権威を否定したと理解できたからです。そうして、当時の人々の常識感覚からしたら、イスラエルの救い主は、ローマ帝国からの独立を勝ち取る軍事指導者としか思えませんでした。救い主が、ローマ皇帝への納税を勧めるなどということは、彼らには「想定外」のことでした。

とにかく、彼らの質問にはイエスを訴える明確な口実を引き出そうとする魂胆が見え見えでした。それでイエスは、「なぜ、わたしをためすのか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい」と反対に問いかけました(12:15)。

このとき彼らは、自分たちが嫌悪するものを持ち歩き、それに頼っていることを認めざるを得なくなりました。当時流通していたコインには、皇帝ティベリオスの肖像画の下に、「アウグストス・ティベリオス、神聖なるアウグストの息子」と記され、裏には「(ローマの宗教儀式の)最高祭司」と記されていました。それは、当時のユダヤ人にとっては、異教の神殿のお守りを持ち歩くような、嫌悪すべき現実でした。彼らはそんなものを一切持つことなく暮らしたかったことでしょう。

しかし、それは必需品でもありました。神殿に献げる時だけは、両替人を用いてその銀貨を偶像のない通貨に両替しましたが、それでは日常の商業取引はできません。しかも、彼らの多くは、ローマの軍隊が守る通商路の恩恵を受けていました。この銀貨は、生活を保証するシンボルのように見えました。

これは現代で言えば、個人商店が、消費税に反対しながらも、消費税分を価格に転嫁せざるを得ないようなもの、また、原発に真っ向から反対しながら、電力の出元を選ぶことができないようなジレンマです。

とにかくイエスは、彼らが持ってきたその銀貨を手にしながら、「これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか」と尋ねました。それに対し、彼らは、しぶしぶ、「カイザルのです」と答えざるを得ませんでした。

多くの人は他の人を批判するときには、自分の置かれている現実を忘れています。昔、ある大臣を、「あなたは、疑惑の総合商社だ!」と攻撃した女性議員が、後には、秘書給与流用問題で、「疑惑の人民公社!」と非難されるようになったように、偶像礼拝に関して人間的な厳しい規範を作っていたパリサイ人たちは、自分たちが嫌悪する対象を生活のために持ち歩いていることを認めざるを得ない状況に追い込まれました。

イエスは、彼らのそのような矛盾を、彼らにデナリ銀貨を見せるように要求することで人々の目に明らかにしました。実は、この時点で、彼らの敗北は明らかになりました。

注目すべきなのは、イエスは、彼らの矛盾を決して真っ向から非難をしてはいないということです。彼らを非難することなく、彼らが恥じ入らざるを得ないような状況を作って行ったのです。

3.「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に」

その上で、イエスは、「税金を納める」という表現を避けながら、「カイザルのものはカイザルに返しなさい」と言われました (17節)。これは、表面的には、税金を納めることを正当化しているようでいて、「こんなカイザルの像のついたものは早くカイザルのもとに返してしまえ……」と言ったとも解釈もできます。

これは当時の人々の革命のスローガンにも通じることばです。旧約外典のマカベア書上巻2章68節には、ユダ・マカベオスの父マタティアが息子たちに向かっての遺言として、「異邦人たちには徹底的に仕返しをし、律法の定めを堅く守れ」と命じたと記されていますが、当時の人々はこのことばをみんな覚えていました。

そして、イエスが「カイザルに返しなさい」と言った言葉は、「カイザルの銀貨を用いて仕返しをしなさい」と、解釈される可能性もあったのです。

つまり、イエスは、当時の「ヘロデ党」に歩み寄るような意味で、「あなたがたはローマ帝国の皇帝の支配下で経済的な便宜を受けているのだから、その現実を受け止め、つべこべ言わずに税金を納めるように」などと、権力への服従を訴えたわけではありません。

イエスは一貫して、お金の奴隷になることを戒め、また、ローマ皇帝にたましいを売ってしまうような奴隷的な生き方を戒めておられました。

同時にイエスは、「ローマ皇帝の肖像がついた銀貨を持ち歩くことは偶像礼拝になる……」などと、現実離れした偏狭なことを教えたわけではありません。

親に精神的に依存している人に限って、親の悪口を言うということがありますが、政治権力に対する姿勢も、パリサイ人のような反抗でもなく、ヘロデ党のようなへつらいの服従でもなく、もっと別の見方が必要なのです。

そしてイエスは続けて、「そして神のものは神に」と言われましたが、原文では「返しなさい」ということばはありません。これは不思議な表現です。当時の銀貨が、ローマ皇帝の像(イメージ)を刻印していたと同じように、聖書によれば私たち人間は、神のかたち(イメージ)に創造されています。

人間はこの世界に、神のイメージを現すために置かれたのです。ところが人間は、自分を世界の善悪の基準、神としてしまい、神のイメージとして生きることをやめてしまいました。

それに対し、「神のものは神に」ということばは、ローマの銀貨をカイザルに返すのと同じように、自分が神のイメージに創造されたという原点に立ち返るようにと言う勧めと理解できます。

当時の「ヘロデ党の者」は、ローマ皇帝を自分の主人とすることが現実的な生き方だと居直っていました。一方、パリサイ人たちは、自分たちはローマ皇帝ではなく、イスラエルの神を自分の主として告白していると言いながら、心の中では自分を神のようにして、自分を正当化して生きていました。

それに対し、「神のものは神に」とは、自分の生活すべてが神のあわれみなしにはあり得ないということを謙遜に認めて、いつでもどこでも神にすがりながら生きることを指しています。

この世の権力に対しても、神が立ててくださったものという尊敬の心を持ちながらも、最終的には、神の権威と矛盾するときには神に従うという覚悟が求められています。

「彼らはイエスに驚嘆した」(17節) とありますが、主はしばしば、「あれか、これか」の選択を迫る質問に、まったく別の角度からの答えを示されます。

今も、多くの人々が、「白か黒か」という二者択一の考え方の中でにっちもさっちも行かなくなっています。しかし、それこそサタンの罠です。どちらの選択にも問題が見えるときは、一呼吸おいて神の前に静まることが大切です。そして、問題を別の角度から見るという知恵を求めることです。

この箇所から、「カイザルの支配」と「神の支配」を区別する政治と宗教の分離の原則を読み取る人々が歴史上に多くいました。しかし、政治を動かしているのはその時代の集合的な国民意識のようなものです。

当時は政治的独立を熱望するユダヤ人の意識に対し、世界制覇を願うローマ人の意識があり、また現代的には領土問題を巡って対立を激化させるナショナリズムがありますが、真の神のご支配を信じる者は、もっと別の神の視点からこの世界の情勢を観察し、この世の政治に対しても冷静な見解を提示すべきでしょう。

政教分離の原則を絶対化することの危険を忘れてはいけません。かつての朝鮮半島支配や日中戦争や太平洋戦争は、すべて、当時の圧倒的な国民の支持を受けて進められたものでした。

現代の中国や朝鮮半島の人々の異常とも言える過剰な反応は、昔の日本人を動かした意識でもあり、日本の過去の過ちへの反発でもあると言えましょう。

イエスの時代の人々は、ローマ皇帝の支配から独立さえできればみんな幸せになれると期待していましたが、現実は、イスラエルはその百七十年ほど前に独立国家を形成しながら、内部の権力争いで自滅したばかりだったのです。

真の問題は、ローマ人の支配以前に、互いの憎しみを増幅させるような意識にありました。この後、歪んだ民族主義者の勢力がますます強くなり、無謀な軍事行動を生み出し、ついにローマ皇帝が直々にユダヤの独立運動を抑えるという軍事介入を引き起こしました。そして、ユダヤ人はその後、約二千年近くにわたって自分たちの国土を持つことができなくなってしまいました。

イエスが「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして、神のものは神に」と言われたとき、権力への妥協でもなく、反抗でもない、新しい視点を示されたのです。

後に使徒パウロは皇帝ネロの支配下で、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです……彼は無意味に剣をおびてはいないからです」(ローマ13:1,4)と、剣による支配にさえ理解を示していますが、それは、この世の権力を神のご支配のもとで見直すという視点を示したもので、権力者の横暴を正当化するものではありませんでした。

イエスの教えは、現在の経済制度にも適用することができます。たとえば、自由主義経済は、勝者と敗者が生まれる弱肉強食の世界とも言えますが、そのシステムを否定してしまえば、政治家が資源の配分から消費までをコントロールせざるを得なくなります。それは、権力者の横暴と腐敗という別のより大きな問題を生み出します。

本来、拝金主義にブレーキをかけるのは政治家の役割以前に、様々な宗教家の責任でした。かつての日本でも、それなりの職業倫理が社会的通念になっていたとも言われますが、それが通用しなくなりつつあるのが心配です。

アメリカではお金の管理に関する講座を教会が開き、多くの人々がそこで立ち直っているとも聞きます。聖書には驚くほど多くのお金の話が出てきます。それはお金の大切さとともに、限界と危険を教えるためです。

イエスは、「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません……神にも仕え、また富にも仕えるということはできません……だから、神の国とその義とをまず第一に求め(捜しseek)なさい」(マタイ6:24、33) と言われました。

あなたの心の中で、神との交わりが常に第一とされ、神が神としてあがめられているでしょうか?イエスは、お金を「カイザルのもの」と呼びましたが、それは、社会のシステムを機能させるための道具に過ぎません。

私たちはそれに頼りながら日々の生活をしています。道具が良いか悪いかを論じる以前に、使いこなす知恵が大切です。その第一は、あなたの主人は誰なのか、あなたはどなたに仕えようとしているのかを問うことです。

私たちは日々、様々な問題を前にして、「あれか、これか」の選択を迫られていますが、地上的な問題の解決は、必ず、次の問題を引き起こすということを忘れてはなりません。それよりもはるかに大きな問いかけは、「問題を抱えたまま生きる力」ではないでしょうか。

「あれか、これか」の対立軸を見せて、人と人とを争わせることこそ、サタンの常套手段です。確かに目の前の問題に蓋をし、見るべきことを見なくなるのも非常に大きな問題ですが、原発の問題を巡って、徹底的に互いを非難し合うような状況は、より大きな悪を招く原因ともなるような気がします。

イエスは、目の前の問題を、根本的なところに立ち返って見るようにと私たちの心を導いておられます。