イザヤ11章1〜10節「神の平和を完成する救い主」

2011年12月24日 クリスマス・イヴ礼拝

信仰に導かれた二十歳過ぎのとき、僕にとっては、「いつも主にあって喜びなさい」(ピリピ4:4)というみことばがとっても新鮮でした。でも信仰生活が長くなるうちに、それが偽善のように思えてきました。

このみことばをいくら思い起こしても、自分のぼやき癖がどうしても直らなかったからです。しかも、世界の悲惨を見て、喜んでいてはならないとも思えたからです。

今年のように大津波によって驚くほど多くの方々が一瞬のうちに命を失い、家族も家も仕事も失ってしまった現実を見ながら、また、原発事故によって多くの方々が帰る家を失ったそのような現実を見る時に、私たちは「うめき、嘆く」ことしかできません。この季節は喪中のお便りが多くなりますが、今年は、声高に、「クリスマスおめでとう!」などと言ってはならないという気持ちになる方も多いことでしょう。

米国のある牧師は結婚カウンセラーでありながら、彼の結婚は子供が6歳になったときに奥さんに去られるという形で破綻しました。それ以来、鬱病と不安に苦しんで来られたとのことですが、その方が、再び鬱のモードに入りつつあると言われながら、本当に心から次のように言われました。

「痛みについて私が学ばされたことをお分かちしましょう。痛みと歓びは共存できるのです。痛みがなくならないと、喜べない、と思う必要はありません。痛みのただなかに主は来られたのですから。Immanuel(主は私たちと共におられる。Rejoice!(喜びましょう)」。

ヘンデル作曲のオラトリオ「メサイヤ」は、そのハレルヤコーラスはあまり有名ですが、それは黙示録19:6,11:15,19:16にある天の賛美を描いたものです。

私たちはそれを、復活の後、天国で初めて聞く賛美かのように誤解することがありますが、これは使徒ヨハネが迫害のまさにただ中で、天の門が開かれ、聞かせていただいた賛美をイメージしたものです(4:1)。

つまり、私たちの世界は混乱に満ちているようでも、イエスの復活以降、天では今既にハレルヤコーラスが響き渡っているのです。私たちは、天での賛美を、この悲しみに満ちた地において霊の耳で聞きながら、今ここで、主にあって喜ぶことができます。また私たちはやがて実現する全地の平和を先取りして、この地で余裕をもって生きることができます。何が起ころうと、それはサタンの最後の悪あがきに過ぎないのですから。

預言者イザヤの時代、イスラエルは二つの国に分かれて争っていました。そして、今まさに北王国イスラエルはアッシリアによって滅ぼされようとし、南王国ユダに対しても来るべき裁きが宣告されていました。そのような中で、イザヤは、国が滅亡した後に実現する神の不思議な救いの御計画を人々に知らせようとしていました。

イザヤ11章では、驚くべきことに、クリスマスの預言と新天新地の預言がセットになっています。つまり、二千年前のキリストの降誕は、全世界が新しくされることの保証として描かれているのです。

「エッサイの根株から新芽が生え」とありますが、エッサイはダビデの父です。ダビデから始まった王家はそれ以降堕落の一途をたどりバビロン捕囚で断絶したように見えましたが、ダビデに劣ることのない理想の王がその同じ根元から生まれるというのです。アブラハムに約束された土地が現実にイスラエルのものとなったのはダビデの時代です。

彼は様々な過ちも犯しましたが、多くの詩篇を記したことにも現れているように、いつも神との豊かな交わりのうちに生きていました。それが、ダビデの支配下で、イスラエルが平和と繁栄を享受できた原因です。救い主は、ダビデの子として、その平和と繁栄を再現すると期待されていました。

イエスは人々の注目を集めずひっそりと生まれますが、彼の上に「主(ヤハウェ)霊がとどまり」ます。それは、彼がヨルダン川でバプテスマを受けたとき、「聖霊が、鳩のような形をして、その上に下った」(ルカ3:22)ことで成就しました。

そして、彼は、公の働きを、ユダヤ人の会堂で「わたしの上に主の御霊がおられる・・」(ルカ4:18)とイザヤ書(61:1)を引用して宣言することから始められました。そして、ここでは、その主の御霊が理想的な王としての働きを三つの観点から可能にしてくれると描かれています。

「知恵と悟り」とは、3,4節にあるような、正しいさばき、公正な判決を下すためのものです。特に興味深いのは、「その目に見るところによってさばかず」とあるように、この方は、人間の視覚や聴覚の誤り易さを深く知っておられるというのです。

「はかりごとと能力」とは、4節にあるように、外の敵と、内側の敵に適正に対処する計画力と実行力を意味します。決して口先だけの政治家の約束ではなく、その口から出ることばが、必ず結果を生み出すような王となるということです。

そして、三番目は厳密には原文で、「主(ヤハウェ)を知り恐れる霊」と記されていますが、「知る」とは、主との生きた交わりを意味し、「恐れる」とは、自分ではなく主のみこころに徹底的に服従する姿勢を表します。これは、理想の王が、日々天の父なる神との豊かな交わりのうちに生き、その生涯を通して父なる神のみこころに従順である姿勢を現します。

そして、この理想の王は、「正義は腰の帯となり、真実はその胴の帯となる」とあるように、帯をしっかりとしめて働きをまっとうし、正義と真実で世界を治め、この地に理想の世界をもたらすというのです。

神は、エデンの園という理想的な環境を造り、それを人間に管理させましたが、アダムは神に従う代わりに自分を神とし、この地に興廃をもたらしました。そして、残念ながら、アブラハムの子孫たちも、乳と蜜の流れる豊かな約束の地を治めることに失敗してしまいました。

そこで、神の御子である方ご自身が、人となり、自らこの地に平和をもたらそうとしたのです。

そして、6節からはこの第二のダビデ、理想の王が、ダビデが成し得なかったような完全な平和をエルサレムに実現し、エデンの園を再興すると語られます。この世界こそが、65:17-25によると、「新しい天と新しい地」と呼ばれるのです。

「狼と小羊、ひょうと子やぎ、子牛と若獅子」とは食べる側と食べられる側の関係ですが、新しい世界においては弱肉強食がなくなり、それらの動物が平和のうちに一緒に生活できるというのです。

「小さい子供がこれを追う(導く)」とは、エデンの園における人間と動物との関係が回復されることです。人が神に従順であったとき、園にはすべての栄養を満たした植物が育っていましたから、熊も獅子も、牛と同じように草を食べることで足りました。新しい世界では、それが一時的な変化ではなく、それぞれの子らにも受け継がれます。

また、「乳飲み子」や「乳離れした子」が、「コブラ」や「まむし」のような蛇と遊ぶことができるというのは、エデンの園で蛇が女を騙したことへの裁きとしてもたらされた、「蛇の子孫と女の子孫との間の敵意」(創世記3:15)が取り去られることを意味します。これは、蛇がサタンの手先になる以前の状態に回復されることです。

「わたしの聖なる山」とは、エルサレム神殿のあるシオンの山を指しますが、それが全世界の平和の中心、栄光に満ちた理想の王が全世界を治めることの象徴的な町になります。

現在のエルサレムは、残念ながら民族どうしの争いの象徴になっています。それは、それぞれの民族が異なった神のイメージを作り上げてしまっているからです。

しかし、完成の日には、「主(ヤハウェ)を知ることが、海をおおう水のように、地を満たす」ので、宗教戦争などはなくなります。本来、ペンテコステの日に、教会の集まりに御霊が下ったのは、この預言の成就でした。そのとき、神はご自身の律法を人々の心の中に書き記し、もはや「主(ヤハウェ)を知れ」と互いに教える必要もなくなるからです(エレミヤ31:34)。

そしてそれが、キリストが、「ご自分の民をその罪から救ってくださる」(マタイ1:21)ということの目的でした。

つまり、神の救いの御計画の目標は、人間を含めるすべての被造物が、「主(ヤハウェ)を知る」ことにあるのです。この世界の悲惨は、根本的には、人間が主を忘れたことに起因します。ですから、私たち人間が本当の意味で、心の底から「主(ヤハウェ)を知る」ときに、この世界は神の平和で満たされるのです。

イエスの上に、「主(ヤハウェ)を知り、恐れる霊」がとどまったように、私たち自身も「主(ヤハウェ)を知り、恐れる霊」に支配される必要があります。痛みと喜びは共存できるのですから、私たちが求めるべきことは、何よりも、私たち自身が、主をより深く知ることと、より多くの人々が主を知るようになることなのです。

仙台福音自由教会から遣わされて、今年の4月から神学校で学んでおられる仲田志保さんが、今年の3月11日の震災直後に被災地支援に行かれた時の様子を次のように記しておられました。

震災直後、瓦礫と瓦礫をとりあえず横に除けただけの被災地では、
カーナビが「間もなく右です」というその位置に道はありません。
眼前に広がるすさまじい光景に、私は誰かに、
これは何かの冗談だと言ってほしいと思いました。
しかし、人に出会うと、これが現実だと悟ります。 
こわばった蒼白の顔で、ひたすら「大丈夫です」と言う人がある。 
全神経を研ぎ澄ませて瓦礫の中に家族を探す人がいる。 
そして、何より痛ましいのは、神とはどなたかを知らずに、
それでも祈る人の姿でした。 
あてども無く祈られたその祈りは、宙に迷い出て漂っているように感じました。 
それでも祈り、憔悴して、すっかり笑顔を忘れたかと思うふとした時に、
思わず涙がこぼれ出るのです……

「神がどなたかを知らずに、それでも祈る人の姿」に彼女は心を痛めました。神のかたちに創造された人間は、たとえ神を忘れてはいても、苦しみの中で必死に、目に見えない神に祈りたいという思いを持っています。その思いに神の方から答え、目に見えない神がご自身を見える姿で現してくださったというのがクリスマスの本質です。

仲田さんは、続けて、「彼らのそのあてども無い祈りが、本来辿り着くべきお方がおられるということ、彼らがその方を知る前から、その方は彼らを造り、そのさまよう祈りをさえ知っておられるということを伝えたいと、切に思わされました」と述べておられます。

実は、キリストこそは、彼ら自身の創造主であられながら、彼らや私たちと同じ痛み苦しみを味わう人間となって、宙に迷い出て漂うような祈りを、天の父なる神に向かっての確かな祈りへと変えてくださる方なのです。

仲田さんは大学院での学びを通してパリ留学への道が開かれたとき、明確な信仰告白に導かれバプテスマを受けましたが、その直後、自分が若年性の緑内障で、失明の恐れがあるということに気づきました。視野が徐々に狭くなって行く病です。

しかし、それを通して、自分が世界を見えているようで、見えていないということに心の深いところで気づかされました。そして、「私たちは、見えるものではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(Ⅱコリント4:18)と言ったパウロの告白が身に迫ってきました。

そして、今回の震災を通して、自分は被災者の痛みは本当の意味では見えていないということに気づきながら、それでも、自分が病を通して見えるようになってきた世界を分かち合ってゆきたいという熱い思いが込み上げてきました。

この世界が、暗闇に向かっているのか、また、主にある平和の完成に向かっているのか、どちらに向かっているかを知るということは、私たちの日々の歩みに決定的な違いをもたらします。

この世界は、人間の罪によって混乱しています。それは目に見えるすべての世界に広がっています。今回の大地震は、この世界の「うめき」の現れです

子やぎも乳飲み子も、自分の痛みを表現することばを持ってはいなくても、救いを待ち望んでいるという姿を、誰よりも強烈に表すことができます。目に見える世界は、神の救いを求めている、それこそが地震や大津波として表れているのです。

シモーヌ・ヴェイユという20世紀初頭に生きたユダヤ系フランス人は世界の悲惨を自分の痛みとしながら34歳で天に召されましたが、キリストとの深い出会いを体験した後、次のような印象的なことばを語っています。

「樹木は、地中に根を張っているのではありません。空(天)にです。」

彼女はギリシャ語で「主の祈り」の初めのことばを暗唱している中で不思議な感動に包まれました。その祈りは、原文では、「お父様!」という呼びかけからはじまり、その方が、「私たちのお父様」であり、また、「天(複数)におられる」と続きます。

彼女はそれを繰り返しながら、自分がこの目に見える世界を超えた天の不思議な静寂と平安に包まれているという感動を味わいました。そればかりか、またその支配者である方が、自分を愛する子どもとして引き受け、その愛で包んでくださるという感動を味わったと記しています。

通貨を用いていなかった南太平洋のサモア諸島の人々がヨーロッパの宣教師によって真の神を紹介されました。しかし、後に彼らは、白人たちは創造主を礼拝しているように見せかけて、実はお金を神としてあがめていると非難したとのことです。これは現代の社会に対する警告とも言えましょう。

現代人は、コンクリートの建物の中と間を忙しく動きまわるばかりで、太陽の光も、小川のせせらぎも、大地の恵みも忘れて生きています。彼らは人間の技術力がすべての富のみなもとであるかのように誤解しています。

しかし、今年3月の原発事故を通して、私たちは改めて、太陽の光や風力こそが最良のエネルギーの源であることを覚えることができました。

 

それは私たち自身の心や身体についても言えることです。優しい日の光に包まれながら、自分が天に根を張ってこの地に一時的に遣わされているとイメージしてみてはいかがでしょう。

もちろん、私たちは、能力を最大限に生かし、世界を少しでも住みよくするために協力し合うべきですが、いのちのみなもとである方を忘れ、人間の能力ばかりを見るなら悲劇が生まれます。

そこに人と人との比較競争が生まれるからです。それによって私たちの心は、卑しく貧しく余裕がない状態へと駆り立てられてしまいます。

しかし、私たちはこの世の悲惨に涙を流しながらも、このイザヤ11章に思いを巡らすとき、この世界が神の平和の完成に向かっていることに心の目が向けられ、いつでも喜ぶことができるのです。