Ⅱコリント4章1〜18節「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです」

2012年1月1日 元旦

私たちは年の初めに、「今年こそは、良い年でありますように」と祈りたいものです。それは当然ことで、そのように祈るのは決して間違ってはいません。しかし、毎年、振り返ってみると、一つや二つ、「なんでこんなひどいことになってしまったのか・・・」と思うようなことが必ず起きています。

昨年の年末はいろんな番組で原発事故を振り返る特集が組まれていました。それを見て改めて日本人は、想定外のことを想定するという能力に欠けている民族ではないかと思わされました。そして、私自身も、極めて日本人的であると思わされています。

昨年の元旦にも述べましたが、日本はあらゆる意味で、世界の先頭を走っています。それは原発事故の問題ばかりではありません。まず少子高齢化が進み、十年余りで65歳以上が全人口の30%を超え、生産活動に従事する人の数が急速に減少します。一人子政策を取ってきた中国は約20年遅れで日本と同じ問題に直面します。

日本の債務残高はGNPの約二倍の金額に達し、今年度第三次修正予算では収入の52%を国債で賄っており、債務残高は急速に増え続けています。ちなみにギリシャの債務残高はGNPに比して30%を超える金額で支払い不能と烙印を押されて、超緊縮財政を強いられています。日本はそれよりもはるかに深刻な状況でありながら、海外の投資家までもが日本の国債を買ってくれています。アジア諸国にとって日本は、まだまだ魅力的な国として映っているからかもしれません。

日本には二十年前までは、常に模範や目標にできる国がありましたが、今や世界の先頭を走っており、あらゆる意味で、想定外の世界に直面せざるを得ないのです。

ただし、そのための知恵は聖書には満ちています。基本的に、世の終わりが近づくに連れ世界の混乱が増し加わると預言されているからです。主の祈りで、「我らを試みに会わせず、悪より救い出したまえ」と祈られますが、厳密には、「誘惑に陥らせないで、悪い者から救ってください」と祈られています。多くの英語訳でも、「lead us not into temptation,but deliver us from evil」と訳されます。

「試練」も「誘惑」もギリシャ語では同じことばですが、残念ながら「試みに会わせないでください」と祈っても、私たちが試みに会わないということはあり得ません。この祈りの要点は、何が起こるかわからない人生の中で、サタンの誘惑に負けてしまわないように守ってくださいという意味なのです。

困難を通して神に近づくか、それとも神から離れるか、それが問われています。人生の目標は、平穏に暮らすことではなく、神に近づくことにあるということを決して忘れてはなりません。

1.「神のことばを曲げず、真理を明らかにし・・・」

「こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています」(4:1、2)とは、この手紙のこれまでの要約のような意味があります。

この手紙は使徒パウロから「コリントにある神の教会、ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒たち」(1:1)に向けてのものです。「アカヤ」とは現在のギリシャの南部で、そこにはアテネやスパルタもありコリントは商業の中心都市として繁栄を謳歌していました。パウロはきっすいのユダヤ人として育ち、聖書の最高の教育を受けていましたから、自分がキリストの使徒として召されたときも、まったく異なった価値観を持つギリシャ人に向けて伝道することになるなど、まさに「想定外」だったことでしょう。

しかも、彼はそれによって同胞のユダヤ人から激しく憎まれました。そればかりか、せっかくコリントにおいてキリストの教会を建てあげたのに、パウロが去った後、彼の使徒職に疑問を持つ者が現れて、教会に混乱をもたらされました。

復活のキリストは、パウロに洗礼を授けたアナニアに向かって、「彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを・・示すつもりです」(使徒9:16)と言われましたが、彼の伝道生涯は苦難の連続でした。彼は苦しむために使徒とされたような人でした。

ただし、パウロの関心は、個人的な平穏に満ちた人生を送ることではなく、神の務めを果たすことでしたから、コリントの人々がキリストの福音から離れて行くことを見過ごすことはできませんでした。それで彼は自分を「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒」(1:1)と位置づけながらコリント教会に厳しく向き合いました。

普通なら、「あんな聞き分けのない恩知らずに関わっても、時間の無駄・・」と言いたくなるような人たちに向かって、彼は涙を流しながら、コリント教会で起こっている不道徳と誤った教えを指摘しつつ、彼らを悔い改めに導く手紙を書きました。そして、それが受け入れられ、多くの人々が悔い改めたのをテトスから聞いたとき、その勝利をローマ軍の戦勝パレードにたとえて大喜びをしました。この手紙の書き出しには、そのような涙に満ちた衝突を乗り越えることができたことの感動と喜びが満ちています。

それを彼は、「私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれている」(1:5)と表現しました。福音は何よりも「苦難に耐え抜く力」として現されています。パウロはそのことを自分の苦難を通して証しました。しかも、そこにはこの世のあらゆる理解を越えた「すべての慰め神」からの「慰め」がありました。キリスト者の人生は、「退屈な人生」とは対極にあります。

なおパウロはここで、「神のことばを曲げず、真理を明らかにし」と述べていますが、2章17節では、「私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことは」しないと言っています(2:17)。

パウロの使徒職に疑問を表明した偽教師たちは、豊かな生活を享受しているコリントやアテネの人々の知的好奇心を満たすような話をしましたが、パウロは真っ向からその不道徳を責めました。それによって彼のことばがますますコリントの人々から敬遠される恐れがありましたが、彼は人間的な知恵ではなく、聖霊の働きにゆだねたのです。

ところで、彼は自分の宣教の働きを振り返りながら、「それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々の場合に、おおいが掛かっているのです。その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです」(4:3、4)と、みことばが人の心に届かないのは、「この世の神」の妨害があるからだと語っています。

パウロは、モーセの書の朗読を聞くときにユダヤ人の「心にはおおいが掛かっている」(3:15)と言いながら、「人が主に向くなら、そのおおいは取り除けられるのです」(3:16)と語り、すぐに「その主とは御霊のことです」(3:17私訳)、「主の御霊のあるところには自由があります」と続けます。これは、モーセのように「顔と顔とを合わせて」(出エジ33:11)、神を見る自由を意味します。御霊は人を神に向かわてくださるのです。

私たちはみな、みことばの著者である御霊ご自身に仕える栄光が与えられています。それはモーセにまさる栄光です。そして私たちが御霊なる主に向き、この身を御霊の働きに委ねるとき、真の「自由」を体験できます。

そのとき、「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、主の栄光を鏡に映すように見ながら」(3:18新改訳脚注別訳)、つまり、御霊にある自由の中で、キリストの生涯を黙想し、キリストの素晴らしさが心の奥底に迫ってくることを通して、「主の栄光」である「御子のかたち」(ローマ8:29参照)にまで、栄光から栄光へと、姿を変えられて行く」と約束されています。御霊の働きは何とダイナミックで自由と喜びに満ちていることでしょう。

私は深い自己嫌悪に陥っていたとき、「神は私たちのうちに住まわせた御霊をねたむほどに慕っておられる」(ヤコブ4:5)というみことばが心に迫って深く慰められたことがあります。御霊を受け、神の子とされた誇りを忘れてはなりません。そして、御霊は聖書のどこにおいてでもキリストの姿を見させてくださいます。

2.「神は、私たちの心を照らし・・・知識を輝かせてくださった」

そして、パウロは、自分の使命を「私たちは自分自身をではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えるのです」(4:5)と言います。私たちの心には「私の価値を認めて欲しい」という強い願望があり、それが仕事の最大の動機となりがちです。しかし、パウロは才能や世的な地位までも含めすべてを、自分ではなく、キリストのすばらしさを証しするために生かしました。

しかも、彼が伝えた福音は、「光が、やみの中から輝き出よ」(4:6)と、ひとことで光を創造した神のみわざが彼の「心を照らした」結果です。ここにはパウロ自身の体験が示唆されています。

多くの人々は、信仰は自分で見いだすものだと誤解していますが、パウロはそうではありません。彼はエルサレムからダマスコへと、クリスチャンたちを次々と捕えるために旅行していました。彼は、求道をしていたのではなく、「主の弟子たちに対する脅かしと殺意に燃えて」いました(使徒9:1)。

ところが、「天からの光が彼を巡り照らし」(同9:3)、復活のイエスが彼に向かって、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と言ってご自身を啓示してくださいました。つまり、パウロがクリスチャンになったということ自体が、神の特別なみわざなのです。

それは、私たちひとりひとりについて言えます。私たちも、ほとんどの場合、自分の意志で聖書を買って読み始めて真理を発見したというのではなく、家族や友人を通して、福音への目が開かれています。日本ではクリスチャン・ホーム以外の男性が信仰に導かれる際の、もっとも大きなきっかけは、クリスチャン女性に好意を抱くということに始まっています。それは私たちの信仰が、人間の知恵や求道心を超えていることを現しています。

人は、教会に通うようになったきっかけをいろいろ説明しますが、それよりもはるかに大切なのは、ある日、突然、どういうわけか、「イエスは私の主です」と告白できるようになったということ自体にあります。

私たちは、自分の心に起きた突然の変化にこそ目を留めるべきなのです。あなたの心に、突然、神のみことばが響いてきたということ自体が大切なのであって、そのきっかけがどこにあったかなどということは本質ではありません。

なお、ここで、「輝き出よ」とか「照らし」と訳されていることばはランプの語源となるギリシャ語の動詞、ランポウです。つまり、聖霊を受けている者は、心の中にランプの灯が灯されているのです。

そして、そのことが、「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです」(4:7)とさらに説明されます。なお、この「宝」とは「キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かす」ということを指しますが、それは名詞形ではなく動詞形の「知識を輝かす」というダイナミックな働きを指します。それこそ神の奇跡なのです。

「イエスは主です」(Ⅰコリント12:3)と告白する者の「土器」の中には、「宝」の源である創造主なる聖霊が住んでおられるのです。コリントの人々は目に見える超自然的なことばかりを求めましたが、聖霊の働きは何よりも、私たちの「心を照らす」ことにあるのです。

ポール・トゥルニエは、戦後間もなくのスイスの教会を見ながら、「教会が、過半数は生気がなく、物悲しげで疲れた心の持ち主によって占められている」という現実に心を痛めました。その原因は、教会が聖書の教えを道徳主義に歪めて、恩恵によるひろやかな解放を与える代わりに、過ちを犯し、神の罰を受けるのではないかという「抑圧的な不安」の重荷を与え続けてきた結果でないかと語っています。

ある女性は、古い伝統に縛られた田舎の町で育ちながら、この「抑圧的な不安」を味わっていました。彼女の中には、広い世界で活躍したいと思うのは傲慢であるという声が聞こえていました。そう思っていないと、思うようなことが果たせなかった場合、平静を保って晩年を迎えられないという不安がありました。彼女はその思いを私に相談してきました。私は「広い世界に出て行かずして、どうして謙遜を学べますか」と逆説的に励ましました。彼女はその時、心からの「解放」を味わったと言ってくれました。

人間の心の中で、願望は必ず不安と結びついています。ですから、不安を刺激すれば自動的に願望が抑圧されます。実際、多くの宗教は、不安を駆りたてて人の願望と行動を制御します。でも、それは、同時に、いのちの力をも抑圧させ、生気をも失わせます。

3.「イエスのいのちが私たちの身において明らかに示される」

大切なのは、どこで何をするかということではありません。神のみこころは、恐れに囚われて自分を抑制することなく、キリストの苦しみをともに引き受けようという積極的な生き方を保つことです。そして、神から与えられた「測り知れない力」(4:7)は、困難の中でこそ体験できます。

私たちの肉体という「土の器」は、壊れそうになることがありますが、不思議に、そのような逆境の中で、神からいただいた「宝」の豊かさを体験できるのです。

パウロはそれを四つの対比を用い、「四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません」(4:8,9)と美しく表現します。そして、それらを通して、「イエスのいのちが私たちの身において明らかに示される」(4:10)と言っています。

誰しも不安定な立場は避けたいと思うのが人情ですが、パウロのようなぎりぎりの状況でこそ「イエスのいのち」を体験できるのです。残念ながら、多くのクリスチャンはそれをリアルに体験することができていません。そのような人々は、「私は神と人とのために、損得勘定を超えて自分の身をささげようとしたことがあるだろうか・・自分の身を守ることばかりに汲々としてはいなかったか・・」と、自分に問いかけるべきかもしれません。

なぜなら、「イエスのいのち」は、「イエスの死をこの身に帯びる」ということ、つまり、「四方八方から苦しめられ」「途方に暮れ」「迫害され」「倒される」という苦難を通してこそ現されるからです。

パウロはここで、「私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです」(4:11、12)と不思議なことを言っています。

コリントの教会の人々が求めていたのは、極めて個人的な霊的な祝福体験でした。それに対し、パウロは教会を建てあげるためにいのちを捨てる覚悟で生きていました。彼は、人々から罵られ嘲られ十字架にかけられた「イエスの死」を自分の人生の中で再現していました。しかし、それによってコリントの人々に「イエスのいのち」がもたらされたのです。

私たちが「イエスのいのち」を受けることができた背後には、数えきれないほど多くの人々の「死」があったことを忘れてはなりません。先輩たちの犠牲の血がなければ、福音は日本に届くことはなかったのです。それは宣教師の流した血ばかりではありません。第二次大戦を通して日本に民主化がもたらされ、信教の自由が確立されました。しかし、それは驚くほど多くの人々の血が流されたことによって初めて実現したことなのです。

パウロ が引用した「私は信じた。それゆえに語った」(4:13)ということばは詩篇116篇の要約のような意味があります。それは、信仰者が不条理な苦しみに会いながら、なおも、主への信頼を告白し続ける姿を現しています。そして彼は、「それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです」と言います。

私たちも同じ「信仰の霊」を受けています。そしてパウロはその御霊の働きを、「それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです」(4:14)と説明します。私たちのうちには復活の御霊が宿っているということを忘れてはなりません。

そしてパウロは改めて「すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためです」(4:15)と語って、自分たちの苦しみを通して、世界に祝福が広がっている様子を思い起こさせようとします。

コリントの人々は、世界の不条理を無視して、自分のたましいの救いばかりを求めていました。そして、それは現代の教会にも当てはまります。

しかし、信仰の本質とは、苦しみことができる力にあります。私たちは神からの「測り知れない力」という「宝」を「土の器の中に入れている」のです。その宝の豊かさは、死を乗り越えるいのちとして現されます。不安によって自分の気持ちを抑圧せずに、大胆に困難に立ち向かう者こそが、キリストにあるいのちの輝きを体験することができるのです。

4.外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

パウロは自分の身体が衰える中で、「私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(4:16)と告白しました。「内なる人」とは「イエスのいのち」(4:10,11)を指します。そして、彼は「今の時の軽い患難は・・」(4:17)と言いますが、それは皮肉にも、「三十九のむちを受けたことが五度・・難船したことが三度・・海上を漂ったこともあり・・盗賊に襲われ・・食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいた」(11:23-29)という重い患難を指します。

しかし、それは、やがてもたらされる「測り知れない、重い永遠の栄光」との比較では、一時的な軽いものと見えるのです。その栄光とは、「天から与えられる住まいを着る」(5:2)こと、つまり私たちのからだの最終的な復活の希望です

これは、せみや蝶々の幼虫が、さなぎの中で人知れず成長し、羽を生やした美しい姿に変えられることに似ています。人は老年になると行動範囲が縮まり、能力が急速に衰えます。しかし、その現実の下では、新しい復活のいのちが成長し始めているのです。

しかも、そのいのちはせみのように短命ではなく、永遠に続きます。それが「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続く」(4:18)という信仰の事実です。

ただ、パウロが非難や誤解を受けたのは、彼自身の「弱さ」に原因があると、この世的には評価できるとも思います。私も、自分の善意が通じないどころか別の問題を生むということが重なった時期がありました。それに対し、「このようにすれば良かったのでは・・・」という、数多くの適切な助言を受けながら、かえって心が萎えることがありました。しかし、そのときパウロの葛藤が身近に感じられ、自分の対応の仕方以前に、この世の罪の力自体が、そのような問題を引き起こしているということが心から分かりました。

しかも、それこそが、「弱さを誇る」ことの本質だと分かったのです。なぜなら、人は自分の安全地帯にとどまっていれば、不当な苦しみに会う確率は非常に低くなりますが、パウロのようにキリストの召しによって、この世の矛盾が渦巻く場に身を置くなら、どんなに賢く振舞っても、問題は避けられないからです。

しかし、それこそキリストに従う道であり、そのような中でこそ、自分の弱さを思い知らされながら、キリストの力が現されるという不思議を体験できるのです。

宗教改革者カルヴァンは、その教理問答書で「何が人生の目的だろうか?」という問いに、「神を知ることである」と答え、「どこに人間の幸福があるだろうか」という問いに同じく「神を知ることの中にある」と答えました。

残念ながら、年を重ねるに連れ、世への恨みと怒りをつのらせる人がいます。それは闇への道です。一方、年を重ねるほど、生かされている恵みを感謝できる人がいます。それは光への道です。どちらの道を選ぶかの選択は遅すぎることはありません。

広い世界に出ることで弱さを自覚する人もあれば、肉体の不自由を通して弱さを自覚する人もいますが、イエスのいのちの豊かさはその弱さの中でこそ体験できます。日陰のもやしのような生き方ではなく、光のもとで、「この宝を、土の器の中に入れている」というダイナミックな生き方を求めましょう。