新しい天と新しい地を待ち望む教会として

立川チャペル便り「ぶどうぱん」2011年秋号より

今、多くの教会で、自分たちの語ってきたキリストによる「救い」を、もう一度聖書の原点に立ち返って見直す必要があると語られてきています。「救い」を、「イエス様を信じると、死んでも天国に行ける、また、この地においても、神の子として幸せに生きられる……」という、個人的なことに矮小化してはいないかという反省です。このように考えていると、悪いことが起きると、「神を信じて何になるのか……」という失望につながります。しかし、聖書には、神の壮大な救いの物語が記されています。一時的な個々人の苦しみがあっても、それを通して「神の民」としての新しい世界が開かれてきています。

当教会では10年以上前から、時代を先取るように、以下のようなビジョンを掲げています。

「新しい天と新しい地を待ち望み、その創造主を霊とまことによって礼拝し、キリストのみからだとして互いに愛し合い、地の塩、世の光として派遣される」

礼拝は、神の民として、「新しい天と新しい地」における「神の平和(シャローム)」の完成を待ち望んで守られるものです。礼拝環境は極めて大切です。礼拝堂は、黙示録21章に描かれた「新しいエルサレム」をイメージさせるような気品に満ちた空間であるべきでしょう。そこは多くの宝石が記されていますが、それはすべて神からの優しい光に照らされて輝くものです。礼拝堂に「光」をどのように取り入れるかは極めて大切です。またそこは、神への美しい賛美がささげられる場です。プロテスタント教会は、ルター以来、何よりも礼拝音楽を大切にしてきました。「音の響き」もともに考えましょう。

イエス様はサマリヤの女との対話で、「神は真の礼拝者を求めておられる」(ヨハネ4:23) と言われました。礼拝を、「ありがたいお話を聞いて、元気をいただく場」に矮小化させてはなりません。主への礼拝こそが、すべての始まりであり、また世界のゴールです。礼拝は手段ではなく、生きる目的です。

また、教会は、礼拝の場であるとともに、私たちが「キリストのみからだとして互いに愛し合う」というコイノニア(交わり)の場です。ともに食事をし、悩みを聞きあい、喜びを分かち合い、互いのために祈るための場です。機能的な台所と安らぎのある小集会室は本当に大切です。またそこには、幼児からご老人までが暖かく迎えられるための様々な配慮が必要でしょう。

しばしば、日本の教会は、いっしょに集まって何かの奉仕活動をすることのために忙しくなりすぎる傾向があったように思われます。しかし、イエス様は、「もし互いの間に愛があるなら」、黙っていても、周りの人々が引き寄せられてくるという趣旨のことを言われたのです (ヨハネ13:34、35)。

そして、私たちは、不条理に満ちたこの世界に向かって、「地の塩、世の光」として派遣されるためにこそ、礼拝堂と交わりの空間に集められます。教会こそひとりひとりの「心の家(ホーム)」になっている必要があります。そのような教会堂をともに建てられるように、ともに祈ってゆきましょう!