「正直者がバカを見る」ような世界、言葉巧みにうまく立ち回る人ばかりが評価される世の中は、誰もが嫌だと思いますが、現実はなかなか期待通りには動きません。それどころか、とんでもない邪悪な人間が権力を握ることがあり、神の民を苦しめるときがあります。ダニエル書は、そのような世界の不条理に対する答えとして記されています。そして、神の公平なさばきの現れこそ、キリストの復活です。キリストの十字架は、サタンの勢力の勝利と見られました。しかし、神はキリストを死者の中からよみがえらせました。
イエスは、ご自身の復活を知っておられるからこそ、「悪い者に手向かってはいけません……右の頬を打つような者には、左の頬をも向けなさい」と言われたのです。それは神が最終的に公平なさばきを下されるということを知っている者としての告白です。
1.「彼は不意にやって来て、巧言を使って国を堅く握る」
ダニエル11章には北の王と呼ばれるセレウコス朝シリアと南の王と呼ばれるプトレマイオス朝エジプトの間の戦いの様子が記されています。11節から19節までは、紀元前223年から187年にシリアを支配した北の王アンティオコス三世(大王)による南のエジプト王との戦いの様子が描かれています。
17節には、彼が自分の娘のクレオパトラ1世を南の王のプトレマイオス五世に嫁がせて、エジプトを支配しようとする策略が失敗する様子が描かれています。後にエジプトの女王として有名になるのはクレオパトラ七世ですが、この名が愛されるのは、シリアから嫁いだ最初のクレオパトラが父の意志に反して夫を支え、夫の死後も、息子の摂政としてエジプトを守ったからです。
その後、アンティオコス三世は「島々に顔を向けて、その多くを攻め取る」(11:18) とあるように、西のギリシャ地方に手を伸ばしますが、そこで新興国、ローマ共和国の将軍スキピオとの戦いに敗れ、紀元前188年に屈辱的な講和条約を結ばざるを得なくなります。そのことが、「ひとりの首領が、彼にそしりをやめさせるばかりか、かえってそのそしりを彼の上に返す」(11:18) と記されています。
そればかりか、彼は帰国後、怒った群集に殺されますが、そのことが、「つまずき、倒れ、いなくなる」(11:19) と記されています。大王と呼ばれた王の最後は何とも悲惨です。このときにローマに人質として差し出されたのが、彼の二番目の息子のアンティオコス4世(エピファネス)です。
その後をついだセレウコス四世は、最初エルサレム神殿を尊重する政策を取っていましたが (Ⅱマカバイ記3章)、あるときエルサレム神殿の宝庫の豊かさを耳にして宰相ヘリオドスをエルサレムに派遣します。彼は不敬虔にも神殿の中に立ち入ろうとして、神の御使いによって懲らしめられるという不思議が起こります。
そればかりか、ヘリオドスを遣わしたセレウコス四世自身が、彼によって毒殺されてしまいます (ESVスタディバイブル)。そのことが、ここでは、「彼は輝かしい国に、税を取り立てる者を行き巡らすが、数日のうちに、怒りもよらず、戦いにもよらないで、破られる」(11:20) と記されます。
そしてこのような神の直接的な介入による勝利が見られたのは、エルサレムの住民が大祭司のもとで一致して、神に哀願の祈りをささげたからであるとマカバイ記には記されています。
「彼に代わって、ひとりの卑劣な者が起こる」(11:21) とは、セレオコス四世の後を継いだ弟のアンティオコス四世のことです。彼は先のローマとの屈辱的な協定で、27歳でローマに人質に送られますが、兄のセレオコス四世が王位を受け継いだとき、その息子が身代わりにローマへの人質になり、彼は国に戻ることができます。しかし、兄が家来によって暗殺されたことによって、期せずして彼が後継者になる可能性が生まれました。
彼は権謀術数によって政治の実権を握り、兄の息子を葬り去って、40歳で王になります。「彼は不意にやって来て、巧言を使って国を堅く握る」(11:21) とはそのような彼の行動を指していると思われます。
そして、25、26節では、彼がエジプトに攻め入るとき、エジプト国内で内紛が起き、エジプトが敗北する様子が描かれます。そして、「このふたりの王は、心では悪事を計りながら、ひとつの食卓につき、まやかしを言うが、成功しない」とは、家来に裏切られて力を失ったプトレマイオス六世(クレオパトラ一世の息子)がアンティオコス四世の助けを得て自分の兄弟を追い落とそうとしながら、その計画が頓挫したことを指します。
「彼は多くの財宝を携えて自分の国に帰るが、彼の心は聖なる契約を敵視して、ほしいままにふるまい、自分の国に帰る」とは、アンティオコス四世の最初のエルサレム神殿略奪のことを指していると思われます。
なお、その様子は第一マカバイ記1章に記されていますが、その描写のあまりの違いから、このダニエル書がマカバイ記の影響下にあるという見方が否定されます (TOTC:Baldwin P194)。
その後、アンティオコス四世はエジプトとの戦いに決定的な勝利を収めますが、ローマ共和国の介入に譲歩せざるを得なくなります。そのことが「キティム(キプロス)の船が彼に立ち向かって来るので、彼は落胆して引き返し」(11:30) と記されます。
なお、その間に、ユダヤでの独立運動が起こります。彼は紀元前167年にエルサレムを急襲し、三日間で4万人のユダヤ人を殺し、4万人を奴隷にします。そして、エルサレム神殿をゼウス・オリンポスの神殿に作り変え、安息日を守っていた人々を虐殺しました。そのことが、「彼は、聖なる契約にいきりたち、ほしいままにふるまう。彼は帰って行って、その聖なる契約を捨てた者を重く取り立てるようになる。彼の軍隊は立ち上がり、聖所のとりでを汚し、常供のささげものを取り除き、荒らす忌むべきものを据える」(11:30、31) と記されています。
なお、第二マカバイ記には、アンティオコスが神殿に足を踏み入れるときの先導役となったのが王に取り入って大祭司の地位を勝ち取ったメラニオスであると記しています。かつて、セレウコスの使者が神殿に立ち入ったとき、神の奇跡的な介入でそれが差し止められましたが、今回は、ユダヤ人の大祭司自身が律法を捨ててしまったために、神はご自身の神殿を汚されるままにされたと、マカバイ記では説明されています (Ⅱマカバイ5:17)。
2.「思慮深い人たちは……剣にかかり、火に焼かれ、とりことなり、かすめ奪われて倒れる」
そして、民の中で堕落してゆく者たちと、神を恐れる人々との関係が、「彼は契約を犯す者たちを巧言をもって堕落させるが、自分の神を知る人たちは、堅く立って事を行う。民の中の思慮深い人たちは、多くの人を悟らせる。彼らは、長い間、剣にかかり、火に焼かれ、とりことなり、かすめ奪われて倒れる。彼らが倒れるとき、彼らへの助けは少ないが、多くの人は、巧言を使って思慮深い人につく。思慮深い人のうちのある者は、終わりの時までに彼らを練り、清め、白くするために倒れるが、それは、定めの時がまだ来ないからである」(11:32-35) と記されています。
「思慮深い人」ということばが原文では33節と35節の冒頭に記されていますが、これは32節の、「巧言をもって」、また34節の「巧言を使って」ということばと対比されます。
そして、誰よりもアンティオコスこそが、「巧言を使って」権力を握った人の代表者であり、その同じ生き方をする人がアンティオコスの側に付いたり、また反対に、「思慮深い人」に「巧言を使って」付いたりします。そして、ここには「思慮深い人たち」が、その信仰のゆえに殉教の死を遂げる様子が記されていますが、これは旧約では極めて珍しいことで、最初の殉教者の記録とさえ呼ばれることがあります (Jewish study bible)。
なお、ダニエル書は、ユダヤ教の伝統では預言書には分類されずに、マカベアの武力革命に批判的なグループによって編纂されたと言われています (同解説1642)。そのような見方があること自体が、このダニエル書の存在意義を語っていると言えましょう。神はアンティオコス・エピファネスが登場するはるか前に、ダニエルを通して横暴な君主に武力をもって戦うことの空しさを記していたと考えられるからです。
イエスの時代、アンティオコス四世の軍隊を打ち破って神殿を聖めたユダ・マカベオスが英雄としてあがめられ、彼こそが人々が期待した救い主の姿でした。しかし、イエスはご自分をダビデの子と呼ばせながら、「剣を取る者はみな剣で滅びます」(マタイ26:52) と言います。そしてローマ帝国の総督のもとで、何の弁明もせずに十字架刑の死を迎えます。
それはダリヨス王のもとでライオンの穴に投げ込まれたダニエルの姿と同じです。神は、ユダ・マカベオスのような武力闘争を避けさせるために、「思慮深い人たち」の生き方を指し示したのではないでしょうか。
「この王は……すべての神よりも自分を高め」(11:36) とは、アンティオコス四世が自分を「エピファネス」(神の顕現)という名で呼ばせ、自分を現人神と見させたことに一致します。
ただ、「この王は……憤りが終わるまで栄える。定められていることが、なされるからである」(11:36) とあるように、彼が一時的にこれほど横暴な振る舞いをすることができたのは、天の神が一時的に許したからに他なりません。歴史によると、彼は旧ペルシャ帝国の中心地への遠征の途上で突然の病に倒れ、52歳であっけなく息を引き取ります。ヨセフスはそれを、彼がユダ・マカベオスの軍隊に負け、その後も、ペルシャ戦線で敗北したことのショックのためであると分析しながら、同時に彼がイスラエルの神ご自身によって罰せられたと示唆しています (古代誌12:357-359)。
結局、エルサレム神殿がゼウスの神殿とされ、徹底的に汚されていたのは、たった三年間のことに過ぎませんでした。確かにユダ・マカベオスの軍事的な勝利がこれほど早い神殿の回復につながったのですが、アンティオコスの後継者たちとの戦いは熾烈を極め、ユダは三年後に戦死します。彼はその前に、ローマ共和国との軍事同盟を締結します (古代誌12:416-419)。そして、その百年後にエルサレムはローマ軍に占領されます。
ユダ・マカベオスとその一族のことはマカバイ記に記され、それはカトリック教会では第二聖典に位置づけられています。しかし、ユダヤ人はユダ・マカベオスのような武力闘争を賞賛したがために、最終的にはエルサレム神殿まで滅ぼされ、二千年間の流浪の民となったのではないでしょうか。
「この王は……憤りが終わるまで栄える」とあるように、横暴な王は、神ご自身が、時が来たらさばいてくださいます。それこそがダニエルの預言、イエスの福音の核心です。武力闘争を礼賛してはなりません。
11章40節以降の記事は、それまでの傲慢な王に対して南の王が戦いを挑み、北の王が決定的な勝利を収め、エジプトの南までをも支配すると描いており、アンティオコス四世の最後とは全く異なります。しかし、北から南に攻め入る王が、自分の背後である「東と北」からの知らせに脅えて軍を撤退させ、その途上でエルサレムを攻め滅ぼそうとするというのは、極めて彼らしい行動です。その要点は、人間的に考えると、この横暴な王の攻撃にエルサレムの敗北は避けられないということです。
しかし、ここではその危機存亡のときこそが、この横暴な王の最後になると記されます。この箇所の記述により、このダニエル書11章は、アンティオコス四世だけのことを描いているのではなく、神の民を迫害するこの世のすべての権力者を現しているものであるということが明らかになります。
たとえば、日本では、「巧言を使って」支配者になった代表者と言えば豊臣秀吉です。彼は世界制覇への第一歩として1592年に朝鮮半島に16万人もの兵を送ります。一時は朝鮮半島の全域を支配するところまで行きましたが、朝鮮水軍に敗北し、続いて北の明国からの出兵により、撤退を余儀なくされます。
そして、その直後、サンフェリペ号事件を通して、スペイン、ポルトガルがカトリックの宣教師を通して世界制覇を計っているという計画を聞き、キリシタンの大迫害、1597年の長崎での26聖人の処刑を強行することになります。豊臣秀吉は、朝鮮半島にとんでもない災いを及ぼしたばかりか、キリスト教徒の大迫害への道を開いた支配者ですが、世界制覇の夢が破れたことが神の民の大迫害に結びつくという点では、アンティオコス四世につながります。つまり、ダニエル11章の記事は、すべての時代を通しての、この世の権力者による神の民への迫害に通じる記事なのです。
3.「思慮深い人々は大空の輝きのように輝き……」
「その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる」(12:1) という記事は、時間的には、「彼は、海と聖なる麗しい山との間に、本営の天幕を張る」(11:45) というエルサレムの絶体絶命の時を指しています。
そしてこの時の苦難が、バビロンに神殿を滅ぼされた時に勝るほどのものであると描かれながら、同時にそれが「いのちの書に……名が記されている者」(黙示3:5、13:8) の救いの時でもあるというのです。つまり、神の救いは、人間の目には絶望と思われるときに突如としてやってくるというのです。
「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる」(12:2、3) とは、旧約における復活の記事の代表と見られています。
ここで、栄光の復活にあずかるのことができるのは「思慮深い人々」、つまり、11章33、35節にあった大迫害の中で真の神を礼拝し続けた人です。「定めの時」(11:35) に至るまで「巧言を使う」ような権力者が横暴を働きますが、今、神がさばきを下されるのです。
そして、N.T.Wrightは、この11章後半から12章初めの記事は、2章31-45、7章2-27節で記されていたと同じ出来事を、別のレンズを通して見たものであると語っています (the resurrection of the Son of God. P115)。前者では、「一つの石が人手によらず切り出され」この世の王国を砕いて全地を支配することが描かれ、後者では、「人のような方が天の雲に乗って現れ」全世界を治めるばかりか、その方につながる「聖徒」たちも世界をともに治める者となると描かれています。
つまり、キリストの復活こそが、「思慮深い者」の復活の「初穂」なのです。パウロはそのことを、「今やキリストは眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」(Ⅰコリント15:20) と述べています。
ダニエルはバビロン捕囚が七十年で終わることを期待しましたが、そのとき御使いガブリエルが、神の民の最終的な勝利のときまで七十週(七の七十倍)の時が必要であると語りましたが、12章3節はその成就を示しているのです。そして、このキリストの復活において成就したことが、私たちにもやがて成就することになります。
ですから、イエスもこのダニエル書を前提に、「墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです」(ヨハネ5:28、29)、また、「そのとき、正しい者たちは、彼らの父の御国で太陽のように輝きます」(マタイ13:43) と言われました。
4.「あなたは終わりまで歩み、休みに入れ」
ところで、このとき、10章以来ダニエルに語ってきた「ひとりの人」は、「ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと探り回ろう」(12:4) と不思議なことを言いました。これは、ダニエルに啓示されたことは、キリストを通してしか理解できないことを指します。
「終わりのとき」とは、最終的な滅びの時というよりは、キリストによって実現する新しい時代を指すからです (使徒2:17等)。
「私、ダニエルが見ていると、見よ、ふたりの人が立っていて、ひとりは川のこちら岸に、ほかのひとりは川の向こう岸にいた。それで私は、川の水の上にいる、あの亜麻布の衣を着た人に言った」(12:5、6) とありますが、ここには三人の御使いのような人が登場します。そして、ヘブル語では、6節最初の「私は言った」ということばは、「彼は言った」と記され、「この不思議なことは、いつになって終わるのですか」という質問は、ダニエルではなく川の両岸にいた御使いのひとりが、川の水の上にいるダニエルにずっと語りかけていた御使いに対して質問したと言うことになっています。
つまり、この終わりの日の出来事は、御使いからさえも隠されていることだったというのです。
そこで、「川の水の上にいる、あの亜麻布の衣を着た人」が、「その右手と左手を天に向けて上げ、永遠に生きる方をさして誓って」、「それは、ひと時とふた時と半時である。聖なる民の勢力を打ち砕くことが終わったとき、これらすべてのことが成就する」と言います (12:7)。このことばは、アンティオコスの迫害に関してではなく、7章にある終わりのときの第四の帝国における反キリストの迫害の際に用いられたことばです (7:25)。
そして、ダニエルは、「これを聞いたが、悟ることができなかった」(12:8) というのです。聞いた本人が理解できないことを、私たちが分かるでしょうか。ですから、私たちもキリストによって明らかにされた枠を超えてこの記事を通して、世界の終わりのことがわかると思ってはなりません。
多くの未来予言が、ダニエル書の数字の解釈から今も生まれていますが、それらはダニエルですら分からなかったことを分かったように言うことで、神の主権を侵すことになりかねません。
ダニエルがここでさらに、「わが主よ。この終わりは、どうなるのでしょう」と尋ねたことに対し、「ダニエルよ。行け。このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。悪者どもは悪を行い、ひとりも悟る者がいない。しかし、思慮深い人々は悟る。常供のささげ物が取り除かれ、荒らす忌むべきものが据えられる時から千二百九十日がある。幸いなことよ。忍んで待ち、千三百三十五日に達する者は」(12:9-12)と言われます。
ここで、「思慮深い者は悟る」とは、「千二百九十日」とか「千三百三十五日」という数字自体に込められた意味を悟るということではありません。「ひと時とふた時と半時」とは三年半、つまり、当時の太陰暦で一年を360日とすると1260日であり、千二百九十日とはそれより三十日長い期間、また、千三百三十五日とはそれよりさらに45日間長い期間を指します。つまり、ここでは、もうこれで苦しみの期間が終わると思っても、さらに30日、それになお45日間続くことがあるかもしれないということを受け止めながら、なお、忍耐して待つようにということが勧められているのです。
「思慮深い人」は、神の民の苦しみの時期は、常に、限られた期間に過ぎないということを「悟って」、迫害に耐えることができる人です。
だからこそ、御使いは最後にダニエルに、「あなたは終わりまで歩み、休みに入れ」と語ります。これは黙示録で、「死にいたるまで忠実でありなさい」(2:10) と言われるのと同じ意味です。そして、彼への最終的な保障として、「あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ」と言われます。これは、先の「思慮深い人々」の栄光に満ちた復活と同じことを意味します。
しばしば米国の保守的な教会では預言書の学びが盛んでした。それを通して世界情勢の未来予測をして信仰を励まし合うような風潮がありました。その際、ダニエル書の七十週や北の王、南の王などの記事を、現実の世界情勢に合わせて読むようなことがありました。しかし、そのような中で育ったひとりの姉妹は、「もう、預言書の学びは疲れました。私は、今、ここで、どのように生きるべきかを聖書から知りたいのです」と言うようになりました。
しかし、ダニエル書こそは、未来予告の書などではなく、異教徒や巧言を使って権力を握る人々が権力を握る中で、私たちがどのように誠実を保って生きることができるか、死に至るまで忠実に歩むことができるための励ましとして記されている書なのです。その意味で、ダニエル書は最初から最後まで一貫したメッセージが記されています。
多くの人々は、この世の不条理を見て「神はいない……」と思うか、また「神は不義である」という結論に達してしまいます。詩篇の作者も、「こうして彼らは言う。『どうして神が知ろうか。いと高き方に知識があろうか。』見よ。悪者とはこのようなものだ。彼らはいつまでも安らかで、富を増している」(73:11、12) と嘆いています。
ルターはそのような疑問に哲学者たちが答えに窮してきたことを述べながら、「これらの不可解な疑問に対しては、ただ一言ですむ簡潔な解決がある。すなわち、この世の生の後にもう一つの生がある。その生においては、この世において罰せられず報われなかったことが、罰せられ報われるであろう。なぜなら、現在の生は未来の生の先駆、いや開始以外のものではないからである」(ルター:奴隷的意思、ルター著作集Ⅰ-7、聖文舎、山内宣訳P485) と記しています。
私たちは復活のいのちを目の前に見ることで、この世の不条理の中で誠実に生きる勇気を持つことができるのです。