役立たず……と思えるとき

立川チャペル便り「ぶどうぱん」2011年夏号より

「それはあなたが、私の奥深い部分を造り、母の胎のうちで組み立てられたからです。私は感謝します。恐ろしいほどに、私は不思議に造られました。」(詩篇139:13、14節)

フェイスブックで多くの友人たちが被災地での支援活動にいち早く向かっているのを見ながら、「僕も何かがしたい……」と焦っていました。すると横で妻が、「あなたが行っても、かえって迷惑になるわよ。あなたは、そんなタイプじゃないから……」と言ってくれました。

同じような葛藤を味わっている方が多いのではないでしょうか。そして、このようなときにそれぞれの気質の違いが明らかになります。今のところ、私の場合は、援助活動に関わっておられる方々を支える働きに召されているように思えます。被災地のただ中におられる友人を訪ね、支援の申し出が迷惑になることもあるという本音を聞きながら、その思いを強くしました。

私たちは、自分のことを分かっているようで肝心なことが分かっていません。ところがこの詩篇では、「主(ヤハウェ)」と呼ばれる神は「私」以上に、私の行動やことばを分かっておられると告白されます (2-4節)。そして、神は、私がいつ、どうして活動するのか、休んでいるのかを、すべてに精通しておられ、また、私が何を話そうとするのかさえもご存じだというのです。そこでは、自分が知られていることは「恐れ」ではなく、「安心感」の源とされています。

そればかりか、「私の人生は真っ暗だ。今まさに、人生の真夜中に向かっている」と感じられるような中でも、「あなたには、闇も暗くなる……光のようです」(12節) と告白しながら、慰めを受けることができます。

そして、その関連で、「あなたが、私の奥深い部分を造り」(13節) と言われますが、これは原文で「腎臓」と記され、いけにえの動物を屠るとき、最後に出てくる器官で、体の最も奥深い、暗やみに包まれた部分です。つまり、神は、真っ暗な「母の胎のうちで」、その隠れた部分を造られた方なので、どんなときでも、私たちの人生のすべてを理解しておられるというのです。

当時は、「心」が心にあるように、「感情」の座は、腎臓にあると理解されていました。それで、ここは、「神は、私たちが自分でコントロールをできないような感情さえ造られた方だから、何も隠す必要はない……」という趣旨に解釈できます。

14節は「私は感謝します。恐ろしいほどに、私は不思議に造られました」と訳せますが、これは不思議な感動に満ちた自己認識です。ある人は自分の生涯を振り返って、自分の醜さに唖然としましたが、このみことばに接したときに、自分をそのままで受け入れることができたと言っていました。

人はしばしば、本来の自分を否定し、「今までの自分とは違う何かになろう」として病気になってしまうことがありますが、つまずきを通して、「本当の自分になり得たとき」に、病気から回復することができるとも言われます。そして、私たちは自分のあるがままの姿をそれまでと違った目で見られたとき、「みわざがどれほど不思議かを、このたましいはよく知っています」と心から感謝できます。

レーナ・マリヤさんというスウェーデンのゴスペル歌手は、生まれつき両腕がなく片足も半分の長さしかありません。その彼女がこの詩篇一三九篇の英語訳をそのまま歌にし、神に向かって、「私はあなたを賛美します。なぜなら、私は恐ろしいほどに、不思議に(すばらしく)造られたからです」と繰り返し、まごころから歌っています。

私はそれを聞きながら不思議な感動に包まれ、身体が震えました。人の目から見ると彼女は重度の障害者かもしれませんが、彼女は自分を「神の最高傑作」と見ているのです。実際、彼女には生まれながら、その障害を補う好奇心や冒険心が与えられ、驚くほどに広い活躍の場が開かれてきました。彼女は右足だけで、ピアノを演奏し、作曲をし、料理も裁縫も楽しみ、車も運転します。彼女の全存在がいのちの喜びを驚くほどに伝えていますが、身体の障害は、かえってその感動を伝える媒体として豊かに用いられています。私たちは、障害や欠点と、美しい賜物を区別して考えますが、それは切り離せない統合されたものとして神の作品なのです。

ただし、多くの場合、肉体よりも心の不自由さが問題になります。これは見え難いと共に、矯正が可能だと思われるからこそ問題が複雑になります。しかし、昔から、気質は生まれつきのもので、それは人間の最も奥深い部分の腎臓によって決まると考えられてきました。

たとえば、イエスは特に三人の弟子をご自身の働きのために豊かに用いられましたが、その気質の基本を次のように分類することもできましょう。

第一は分裂気質(内面が分りにくい性格)で、使徒ヨハネにはその傾向が見られます。彼は他の弟子の人物描写は驚くほど見事ですが、自分のことは、「イエスが愛しておられた者」と呼ぶばかりで、ほとんど語ろうとしません。このような人は、人と親密になることを恐れる傾向があり、とてつもない敏感さと、鈍感さが共存しています。しかし、距離を置きながらも、人をよく観察する目があることで交わりを保つことができます。

第二は循環気質(浮き沈みのある性格)で、使徒ペテロに見られる傾向です。非常に勢いの良いことを言っていながら、失敗して深く落ち込むことがあります。爽快と悲哀の感情の起伏が激しくても、自分の失敗などをオープンに語ることができるので、多くの友に支えられます。

第三は粘着気質(こだわりの強い性格)で、使徒パウロに見られる傾向です。回心前は迫害に熱心で、回心後は使徒の代表ペテロまでも叱責し、牢獄に入れられても多くの手紙を残しました。一見、沈着冷静でありながら、急に怒り出したり、人を追い込むところがあります。しかし、忍耐心が豊かなので、失敗をカバーできます。

つまり、それぞれの気質に、神はそれを補う絶妙なバランスをお与えになっているのです。私は自分が好きではありませんでしたが、パウロに似ているかもしれないと思えたとき、嬉しくなりました。また、分かりにくい感じの人もヨハネに似ていると思えると尊敬できるようになり、お調子者のような人もペテロに似ていると思うと、それが愛嬌に見えてきました。

これとは別に、ユングの分析をもとにすると(百万人の福音7、8月号、「内なる旅路」)、私の場合は、「内向」よりも「外向」の傾向が強いので回りの人々の動きに刺激されやすいのですが、「感情」よりも「思考」が優位なので行動が遅く、「直感」よりも「知覚」によって動くので何事も慎重を期すことを第一にすることになります。しかし、それを受け入れるとき、自分らしい支援の仕方が見えてきました。

ただし、これは「私はこのようにしか生きられない……」という居直りを許すものではありません。時と状況によって、私たちはみな自分の枠を破って行動すべきときがあるからです。

私はかつて、「あなたは罪の自覚が足りないから、神の赦しも分らない……」という勧めを聞きながら、神に向かって大胆に生きる前に、いのちの力を自分で抑圧してきたように思います。しかし、健全な罪意識は、「私は神の最高傑作として創造されている!」と自覚する中から生まれるものではないでしょうか。なぜなら、罪とは、その人の欠点を指すものではなく、その人が神を愛し、人を愛する生き方を目指しているかを問うものだからです。自分の存在を感謝できるなら、「私は自分の気質や性格を生かして、もっと、神と人とに仕える生き方をしなければならない」と示されるはずです。

そのとき人は、自分を「役立たず!」などと責めることなく、与えられたすべての賜物を積極的に生かし、世界と人に向って愛をもって関わって行くことができるのではないでしょうか。