マルコ15章37節〜16章8節「空の墓にある希望」

2011年4月24日

今年の受難節は3月9日に始まりました。そして、その二日後に東日本大震災が起きました。私たちがこの期間をキリストの御苦しみに合わせて過ごし、主とともに嘆くことができたのは大きな恵みです。そして今日は、キリストの復活を祝う日になりました。

この世的に見ると、クリスチャンとは、十字架にかけられた犯罪人を神とあがめる不思議な人間です。キリストの復活こそ、どんなに暗く悲惨な出来事をも喜びの始まりに変える転換点なのです。そして、「空の墓」こそが、キリストの復活の最大の証明になっています。何もない空の状態にこそ、神の不思議なみわざが見られます。

驚くべきことに、明日にはもう仙台行きの新幹線が再開されます。この世界は恐ろしいスピードで動いています。そして私たちもこの世界で生きるようにと召されています。目の前の問題から逃げようとすると、かえって辛くなりますから、どんなに疲れていても、退却することはできません。

しかし、疲労がたまって行きます。そのような中で私たちは自分で自分を駆り立てるのではなく、主の前に静まり、憩うことによって、キリストの復活の力をいただくことができるのです。

1.十字架の死によって始まった新しいこと

イエスはダビデの子、「ユダヤ人の王」でしたが、神と人から見捨てられた「のろわれたもの」として十字架にかかりました。しかし、それによって旧約時代には想像もつかなかった全世界への救いが実現しました。

そのことをパウロは、「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです」(ガラテヤ3:13,14)と述べています。

そして、今、私たちはその「約束の御霊」を受けることができたのです。

マルコはイエスの最後の場面を、「それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた」(15:37)と記していますが、この「大声」とは、ヨハネによると、「完了した」という声だったと思われます。それは、ご自身の働きを全うされたという勝利の声でもあります。

その上で、「息を引き取る」と訳されていることばは、極めて日本語的な表現ですが、厳密には、「霊を出す」となっています。ルカでは、イエスが「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と言われたと記された上で、「霊を出した」とマルコと同じ動詞が用いられています。ヨハネは、「霊をお渡しになった」と、主体的に描かれています。

人間の最後の呼吸が吐く息なのか、吸う息なのかは、諸説があるようですが、イエスの最後は、ご自身の「霊」を父なる神に明け渡すという主体的な行為でした。

イエスは殺されたというよりは、働きを全うされて、霊を明け渡されたのです。そして、その「イエスの御霊」は、今、「約束の御霊」として、私たち一人ひとりに与えられています

その上で、十字架の場面の最後の描写として、「また、遠くのほうから見ていた女たちもいた。その中にマグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリヤと、またサロメもいた。イエスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たちである。このほかにも、イエスといっしょにエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた」(15:40、41) と記されています。

「マグダラのマリヤ」はルカによる福音書では、「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ」(8:2)と描かれますが、彼女はイエスの弟子たちの中で、最も悲惨な過去を持っていた女性でした。今、その女性に最初の復活の証人の栄誉が与えられようとしています。

「小ヤコブとヨセの母マリヤ」とはヨハネでは「クロパの妻マリヤ」(ヨハネ19:25)と呼ばれています。

「サロメ」とは、「ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ」の母です。彼女はイエスに向かい、息子たちを神の国においてイエスの左右の座に付けてほしいと図々しいことを願った女性です(マタイ20:20、21)。

彼女たちは特別に信心深かったというよりも、ごく普通の女性たちでしかありませんでした。

そして、そこでまったく予期しないことが、「すっかり夕方になった。その日は備えの日、すなわち安息日の前日であったので、アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。ヨセフは有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいた人であった」(15:42、43)と描かれます。

まず、「すっかり夕方になった」とは、日没が近づいて、残されている時間が限られていることを示しています。当時の安息日は日没から始まりましたから、そうなってはイエスを葬ることができなくなります。

そこで、「アリマタヤのヨセフ」という人が突然現れ、ピラトにイエスのからだの下げ渡しを願ったというのです。彼の名は、十字架の前にはどの福音書にも登場せず、十字架後にすべての福音書に描かれます。彼は、「イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れて、そのことを隠して」(ヨハネ19:38)いましたが、同時に、「みずからも神の国を待ち望んでいた」とあるように、イエスがイスラエルに神の国をもたらしてくれることを待ち望んでいました。

彼は、ユダヤの最高議会(サンヘドリン)で他の議員たちには同意をしていなかったとあるように(ルカ23:51)、イエスが裁判の席で、ご自身がダニエル7章13,14節に預言された救い主であると宣言されたとき、「全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた」(マルコ14:64)という中には入っていませんでした。そのとき、ヨセフは、議員の席から意図的に離れていたのではないでしょうか。

しかし同時に、彼は積極的に反対もしてはいません。それは、イエスがご自分のことを、「力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのをあなたがたは見る」(マルコ14:62、ダニエル7:13)と宣言されたとき、イエスに疑いを持ち、弁明を止めたからなのかもしれません。

ところが、ヨセフはここで、イエスの十字架の姿を見ながら、イエスへの愛を掻き立てられ、自分を恥じたのではないでしょうか。彼は、その御姿に心を揺すぶられ、それまでの疑問と恐れから解放されました。

そして、彼は、これから何が起こるかを理解できないまま、「今、ここで」なすべきと示されたことを誠実に行おうという勇気を持って立ち上がりました

そのことが、「思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った」と描かれます。これは、自分の立場を不鮮明にしていたヨセフとしては、驚くべき決断でした。なにしろ、イエスの弟子たちはみな、自分たちがイエスの弟子であることを隠さなければ自分の身が危ないと恐怖に駆り立てられていたときのことですから。

ただ、もしヨセフが事前に自分の信仰的立場を公表していたとしたら、このような願いはピラトに聞き入れてもらうことはできなかったことでしょう。

神は、私たちの失敗をさえ、ご自身の目的のために用いることができることの良い例です。

2.「彼の墓は悪者どもとともに設けられた。しかし、彼は富む者とともに葬られた」

そこで、「ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いて、百人隊長を呼び出し、イエスがすでに死んでしまったかどうかを問いただした。そして、百人隊長からそうと確かめてから、イエスのからだをヨセフに与えた」(15:44、45)と描かれますが、イエスの死は驚くほど早いものでした。十字架刑は、何よりも見世物にするのが目的でしたから、息が絶えるまで四日間もかかることがあったとのことです。

しかし、イエスは夜通しの裁判と厳しい鞭打ち刑で衰弱しており、ご自分で十字架を負うことができないほどでしたから、死期が異様に早かったのかもしれませんし、また、そこに神のあわれみとイエスご自身がご自分の死をも支配していたという事実があるのかもしれません。ピラトがヨセフの申し出にすぐに応じたのは、以前から彼のことを知って信頼していたということがあるのかもしれません。

その後の葬りのことが、ごく簡潔に、「そこで、ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納めた。墓の入口には石をころがしかけておいた」(15:46)と描かれます。

この墓は「まだだれをも葬ったことのない」(ルカ23:53)、「自分の新しい墓」(マタイ27:60)でした。ユダヤ人は葬式を非常に大切にしましたから、ヨセフが自分のために用意していた新しい墓を、イエスのために用いようとしたことは極めて自然な動きでした。

これらのことを通して、イザヤが、「彼の墓は悪者どもとともに設けられた。しかし、彼は富む者とともに葬られた。それは、彼が暴虐を行わず、その口に欺きはなかったから」(53:9私訳)と預言したことが成就しました。当時、十字架にかけられた者の死体は、共同墓地に投げ込まれました。

しかし、イエスの遺体は、サンヘドリンの議員のために用意された地域の、真新しい墓に、「富む者」の仲間として、葬られました。それは、神が義人を守り通してくださるということのしるしでした。

そして、神は、このときヨセフを用いて、イエスの復活のための舞台を用意してくださったのです。共同墓地に投げ込まれた遺体がなくなっても、誰も気にも留めません。しかし、真新しい墓に葬られた遺体がなくなったとしたら、人々は、みな、何かが起こったはずだと不思議に思わざるを得ないからです。

私たちもヨセフのように、いろいろ迷いながら行動しながら、後で、自分の行動を恥じることもあることでしょう。しかし、先が見えないながらも、手探りのような状態で、「今、ここで」、自分にできることを大胆に行う勇気が、結果的に、期待をはるかに越えた明日を開く原動力になります

ヨセフは自分の行動が何をもたらすかを知りはしませんでしたが、イエスの復活の後に、自分がイザヤの預言を成就させる者として神によって用いられたことを心から感謝できたことでしょう。ヨセフの墓に葬られたイエスの御霊が、彼の心のうち既に宿っておられたかのようです。

3.「あの方はよみがえられました。ここにはおられません」

「マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスの納められる所をよく見ていた」(15:47)とありますが、「安息日」は、金曜日の日没から始まりますから、女たちは、墓の場所だけを確認して、安息日の後で、もう一度イエスを丁重に葬りたいと思ったことでしょう。

彼女たちは、ただ、イエスの遺体が腐敗して悪臭を放つなどということなどを想像したくないと必死に願いながら、とにかく、今自分たちができる最大限のことをしようとしました。合理的に考えると、遺体の腐敗は決して避けられませんが、神は、そのような彼女たちの人間としての情を用いてくださいます

「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った」(16:1)とありますが、彼女たちは、安息日にイエスの遺体に香料と香油を塗ることができなかったことを歯がゆく思ったことでしょう。それで、安息日が明けた土曜の日没後に香料を買い求めたのだと思われます。

「そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた」(16:2)とありますが、彼女たちは、「朝早くまだ暗いうちに」(ヨハネ20:1)、墓に向かって動き出していました。

そして、神は、そのような彼女たちの切ない痛々しい思いを用いて、彼女たちを最初の復活の証人としようとしておられます。当時の安息日であった土曜日に、彼女たちはどうしても急いで行いたい思いながら、休まざるを得ませんでした。それが益とされたのです。

ところで、マタイは、ユダヤ人の宗教指導者たちが何と安息日に総督ピラトに願い出て、ローマ軍の兵士を番兵に出してもらっていたと記しています。それは、イエスを偽預言者とした彼らの方が、イエスがご自分で三日目によみがえると言っておられたということばを思い出したからでした。イエスの復活預言は、敵対者の間にさえ広がっていたのに、弟子たちはそれをすっかり忘れていたというのです。弟子たちの信仰はそれほど頼りないものでした。

とにかく、このときの墓の状態は、「彼ら(番兵たち)は行って、石に封印をし、番兵が墓の番をした」(マタイ27:66)という状態になっていました。とにかく、ヨセフがすでに「大きな石」(マタイ27:60)で墓の入り口を閉じていた状態が、さらに、ローマの兵士によって、その石がだれにも動かされないように封印されたというのです。

それを前提として、この週の初めの日の日曜日の早朝、女たちは墓に着いたとき、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」と、「みなで話し合っていた」と描かれます(16:3)。彼女たちはそんな当然のことも十分に考えることなく行動してしまいました。

しかし、ときには、そのように熱い情熱だけで動き始めることが、神によって用いられることがあります。すべての準備が整うのを待って行動しようとすると、いつになっても動けないということがあります。

そして、このときも、「ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった」(16:4)という不思議が起きました。私たちのうちに神が行動への思いを与えてくださるとき、しばしば神は、先回りするかのように、すべてのことを備えていてくださいます

それは、かつてイエスも、それを前提に、「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します」(マタイ6:34)と言っておられたとおりです。

そして、ここでまったく予想もしなかったことが起きました。そのことが、「それで、墓の中に入ったところ、真っ白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた」(16:5)と描かれます。ルカの福音書では、そのときの経緯が、彼女たちが、「はいって見ると、主イエスのからだはなかった」(24:3)と描かれます。

彼女たちはとっさに、ユダヤ人の指導者たちによってイエスの遺体が運び出され、どこかにまた「さらしもの」にされているとでも思ったのではないでしょうか。

しかし、彼女たちが「途方にくれていると」(24:4)、「見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た」(24:4)と描かれます。このふたりの御使いと、マルコがここで描いている「青年」は同じ存在です。

それを見て、「彼女たちは驚いた」(16:5)と描かれますが、そこで御使いは、「驚いてはいけません」と言いながら、「あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう」(16:6)と不思議な語りかけをします。

これは厳密には、「あなたがたはイエスを捜しているのでしょう。ナザレ人を、十字架につけられた方を」という語順になっています。これは、イエスを捜している彼女たちの気持ちに寄り添いながら、同時に、「十字架につけられた」ということが既に過ぎ去ったことであるという思いが込められています。

ルカでは、「その人たちは」、「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか」と問いかけたと記されます(24:5)。これほど示唆に飛んだことばがあるでしょうか。今も、「生きている方を死人の中で捜す」ように、イエスを昔の宗教的な偉人としてしかみない人々が多くいます。彼らはイエスをマホメッドや仏陀などと同じように新しい宗教の開祖と見ています。

しかし、どの宗教指導者が、これほど無残な死を遂げたでしょう。もし、イエスが死んだままなら、イエスの教えが世界を変えるなどということはありえなかったはずです。つまり、イエスの復活を文字通りの歴史的な事実として認めることのないすべての人は、聖書の教えを、単なるファンタジーのひとつにしているのです。

その上で、御使いは彼女たちに、「あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です」(16:6)と言いました。

私がイスラエルを旅行し、イエスの墓をイメージさせる園の墓の中に立った時、そこには、空の墓とともに、「He is risen. He is not here」と書いた小さな看板が掲げられていました。そこで、私は、電流が身体を走るように、イエスの復活を、心で実感することができました。

実はその少し前、カトリックとギリシャ正教が共同で管理する聖墳墓教会を見学しました。長い列を作って、金色に飾られた暗い墓の中を見て、何かとってもむなしい気持ちになりましたが、このシンプルな園の墓を訪ねて、深い感動を味わうことができたのです。

イエスは、エルサレムの墓の中にいるわけではありません。また、天にも届くような荘厳なカトリック教会の中にいるわけでもありません。イエスは、今、私たちの交わりのただなかにおられます

それは、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)とイエスが言われたとおりです。

4.「前に言われたとおり・・・・」

その上で、御使いは彼女たちに、「お弟子たちとペテロ」へのメッセージを、「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます」と伝えます(16:7)。

ここで、「前に言われたとおり」ということばが最後に記されていますが、これは、何よりも、弟子たちは既に語られたみことばによってイエスの復活を理解すべきであるというメッセージです。

私たちは復活のイエスに出会うために、遠くエルサレムに旅行する必要はありません。「今、ここで」、みことばをともに読む中で、イエスの復活と臨在を知ることができるのです。

そして、多くの信頼できる古い聖書の写本は、マルコの福音書の最後が、「女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(16:8)で終わっていることを示しています。これは、なかなか理解できない終わり方なので、後に、その後に様々な付け加えが出てきたのかもしれません。

しかし、基本的に、9-20節に記されていることは、他の福音書に記されていることなので、これらの部分をあまり深く詮索する必要もないかと思われます。それよりも、このあり得ないような8節の終わり方こそが、イエスの復活を御使いから聞いたときの最も自然な反応と言えましょう。不思議なのは、それにも関わらず、弟子たちはこの後、イエスの復活を、命がけで伝えるようになったということです。

当時は徹底的な男性社会でした。そして、女性たちのことばは信頼されていませんでしたから、裁判の際の証人としても認められていませんでした。ルカでは、イエスの弟子たちもこのとき同じような態度を取ったことが、「使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった」(24:11)と描かれます。

この後、エマオ途上のふたりの弟子たちに、みことばを解き明かしたイエスの話が、続けて描かれています。そのうちのひとりの名は、「クレオパ」という名が記されています(24:18)。あまり根拠はありませんが、彼は、ヨハネ19章25節のクロパと同一人物であるという解釈もあります。もしそうなら、彼は、十字架を見続け、復活の目撃者となったヤコブの母マリヤの夫ということになります。

ひょっとして、クレオパは、御使いと出会ったという妻の話を聞いてさえも、なおもそれを信じることができなくて、弟子たちの交わりから立ち去って行ったのかもしれません。ところが、イエスは、彼らからご自身の姿を隠しながら、旧約聖書全体から、救い主の受難と復活を解き明かし、ご自身の復活を信じさせてくださったのです。

以前、クリスチャン新聞に、『心の復活』というテーマでメッセージを記させていただきました。そこにジェームス・フーストン氏のことばを、「復活を法的に証明できれば、それは有益な本になります。でも、それは本にすぎません。イエスの復活の本当の『証明』は、イエスが心の中に住むことによって変えられた人生、生まれ変わった人生です」と引用しました。

そして、その結論を、「自分の変化を自分ではかるとナルシズムの世界になります。しかし、茫然自失の状態で、神の御前で、うめき、ため息をついていることは、『心の復活』の始まりです。自分の無力さに圧倒されるような時こそ、自分の願望が死んで、『イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊』が『死ぬべきからだ』の中に働くことを体験する(ローマ8:11)チャンスなのですから」と記しました。

私たちは、ときに、自分の力では何ともできないという絶望的な状況に追い込まれます。そこでは、「ため息」しか出てきません。しかし、それを、主の前での「ため息」とするとき、そこから、「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊」の働きが始まります

キリストの復活は、歴史上の事実であるとともに、私たちが日々の生活の中で体験できる現実でもあります。

私たちはしばしば、先が見えないまま、目の前の働きに専念せざるを得ません。しかし、主は、そこに思ってもみなかった不思議な道を開いてくださいます。それは人生の復活です。

また、私たちはともに集まってみことばを開いている中で、復活の主の臨在を体験することができます。キリストの教会こそ、キリストの復活の生きた証です。

そして最後に、私たちは自分の力の限界を超える絶望的な状況に置かれることで、キリストの復活の力が自分の内側に働くのを、身をもって体験できます。それが『心の復活』です。

それがわかるとき、自分の身を必死に守ろうとする自己防衛的な行動から自由にされます。私たちは自分で自分の身を守ろうとする必要はありません。

主に向かってこの心と身体を開き、それをささげてゆくときに、主ご自身が私たちを守ってくださるということがわかります。そして、そこに真の隣人愛が生まれます。

「空の墓」を御使いの輝きが満たしました。マザー・テレサが「空っぽ」という題の詩を残しています。

神は いっぱいのものを満たすことはできません
 神は 空っぽのものだけを 満たすことができるのです
本当の貧しさを、神は 満たすことができるのです
イエスの呼びかけに 「はい」と 答えることは
 空っぽであること、あるいは 空っぽになることの始まりです 
与えるために どれだけ持っているかではなく、
どれだけ空っぽかが 問題なのです
 そうすることで、私たちは人生において十分に受け取ることができ、
私たちの中で イエスがご自分の人生を 生きられるようになるのです。