箴言20章〜21章「矛盾を抱えたまま、神と人に仕える」

2011年3月27日

何かに真剣に取り組んだり、犠牲も厭わずに人に尽くすことは本当にすばらしいことです。しかし、ときに、「どうせ、自分のためにやっているのでしょう……」となどと言われることもあります。そのとき人はみな、自分の動機の純粋さを弁明したくなります。

遠い昔のことですが、私も様々な批判にさらされたことがあります。そのとき、私は必死に自分の正当性を訴えましたが、その後、「自己弁護 excuse している人は、自分を責め accuse ている」という逆説に気づいたとき、何か自分の心の底にあることが見えた気がしました。私は自分の心にいつも不真実なものがあることに気づき、それを責めていました。だからこそ、批判されると、必死に、自分が真実な思いで行動していると言いたくなったのです。

先日、仙台への支援物資を送ってくださった方が、ふと、「何かをする機会を与えていただいて、少し、気が楽になりました……」と漏らしておられました。私はその正直さに感動しました。

私たちの愛の行為には、必ずと言って良いほど自己満足的な思いが伴っているものです。しかし、それを正直に認めることができる人は、他の人を責めたり、また、「自分の親切を吹聴する」ようなことはしません。

不信仰を抱えたまま主に仕え、また、自己満足を抱えながら人に尽くすことは、その矛盾に気づいている限り、神に受け入れられます。しかし、必死に自分の正当性を訴える人は、イエスに批判されたパリサイ人の仲間となっているのかもしれません。

隣人愛の実践を絶対化して行動しない人を責め、自分を誇ってはなりません。しかし、同時に、隣人愛に燃えて必死に行動する人を皮肉な目で見ることはさらに危険です。人も自分も優しく見る目を養いたいものです。

1.「人の心にあるはかりごとは深い水、英知のある人はこれを汲み出す」

「人の心にあるはかりごとは深い水、英知のある人はこれを汲み出す」(20:5) とありますが、多くの人は、「人の心にあるはかりごと」をわかっていません。それは「深い水」のように理解しがたいものですが、「英知のある人はこれを汲み出す」とあるように、英知のある人は、その心の奥底にある深い水を汲み出すように、その心の動機を理解できるというのです。

先に、「人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる」(16:2) とあったように、人はみな自分が正しい道を歩んでいると思い込んでいますが、主は心の奥底にある動機を見ておられます。そして、「英知のある人」とは、そのような主の視点を持つ人です。

ところで、私たちの心の中にはどんな動機があるのでしょう。イエスが荒野で40日間受けた誘惑にあるように、多くの人は、確かに、富、名声、権力を求めています。しかし、そのもっと奥には愛への渇きがあるのではないでしょうか。それからすると、富も名声も権力も、愛の代替物に過ぎないということがわかります。

英知のある人は、人の心の奥底にある渇きを理解できるというのです。たとえば、あなたの隣人が、お金儲けに一生懸命になっているとき、「あなたはお金のことばかり考えているね……」と言ったら、その人はどう答えるでしょう。「そうです。そのとおりです」と答える人はまずいないことでしょう。そうではなくて、その人の心の奥底に隠された「愛への渇き」を意識した「優しさ」を、ことばと行いによって示すなら、その人はあなたのことばに耳を傾けてくれることでしょう。

大切なのは、まず、自分の心の中にある「深い水」の状態を見ることです。イエスは、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です」(マタイ7:12) と言われました。

私はかつて自分の中に、人からの愛を強く求める気持ちがあるのを恥じていた面があります。しかし、イエスでさえ、弟子たちの愛を求め、また、ご自分の頭にナルドの香油を注いでくれた女性を絶賛していたのです。弟子たちは、これから十字架にかかろうとするイエスの気持ちをわかっていませんでしたが、彼女はその気持ちを理解していたからです。

箴言19章22節では、「人の望むものは、人の変わらぬ愛である」(19:22) と記されていましたが、「変わらぬ愛」とは、ヘブル語の最も美しいことばのひとつ「ヘセッド」です。これは、「失敗しない愛」「真実の愛」「忠実さ」「誠実さ」とも訳すことができます。聖書に記されているストーリーの中心とは、「神のご自身の計画に対するヘセッド、誠実さ」です。あなたのまわりの人が、本当に、心の底から求めているのは、誠実な友、何があっても裏切らないと信頼できる友なのです。

もちろん、私たちの心は揺れやすく、いざとなったら人をも裏切る弱さを持っていますが、主の「変わらない愛」を受け続けることによって、「変わらない愛」を全うできるように変えられます。

そのような中で、「多くの人は自分の親切を吹聴する。しかし、だれが忠実な人を見つけえよう」(20:6) と記されていますが、ここでの「親切」ということばもヘブル語の「ヘセッド」です。人は自分が誠実で親切な人間であると見られたいという強い欲求があります。たとえば、大地震で苦しんでいる人を助けたいという熱い愛の心の中にも、自分が誠実で親切な人間でありたいという自己満足的な思いが潜んでいることでしょう。

ただ、そのように指摘されたとき、「何という失礼なことを言うのか!私は純粋に無私なこころで行動しているのに……」などと言い張る人は、危ない人です。そのように自分を弁護する人は、人一倍、誠実な人間と見られたいという欲求を持っています。そして、そのような人は、多くの場合、他の人の愛の足りなさを責めてしまいがちです。

しかし、逆説的ですが、「私の中には、そのような自己満足的な思いがあるかもしれません。でも、何かせずにはいられないのです……主よ、あの方々を助けてください……」と祈るなら、その行為は、主に受け入れられます。

主は偽善を嫌われますが、自分の心の貧しさを嘆きながらする愛の行為は受け入れてくださいます。とにかく、偽善性を隠している人間に限って、「自分の親切を吹聴する」という傾向があります。

そして、「だれが忠実な人を見つけよう」とあるように、自分の親切を吹聴する人に、本当の意味で忠実な人を見出すことはできません。

ただし、自分の動機に不純な自己満足を求める思いがあるからといって、何もしないというのも主のみこころに反します。愛とはしばしば、自分の気持ちに反してでも、また自分の敵であっても助けようとする行動に現わされるからです。

あなたの動機が不純であったとしても、目の前の人が助けられること自体に大きな意味があります。もし、あなたの隣人が飢えているとき、「ごめんなさい。私の中には自己満足的な不純な思いがあるから、あなたを助けることはできません……」などと言ったとしたら、その人は、「それこそ自己満足ではないでしょうか。私には助けが必要だということをどうして見ようとしないのですか……」と反論するのではないでしょうか。

「正しい人が潔白な生活をするときに、彼の子孫はなんと幸いなことだろう」(20:7) とありますが、「潔白」とは「完全」とも訳せる言葉ですが、決して、何の傷も欠けもない完璧を意味しているのではなく、目的にかなった生活をしているというような意味です。それは自分に課せられていると思う責任を黙々と果たすような生き方です。そうするときに、子孫が幸せになるということは当然のことでしょう。

それに反して、自分の口で自分の誠実さを吹聴しながら、行動が伴っていないような人は、その子孫に経済的な損害ばかりか、人間不信の種を蒔いていることになります。そして、人間不信で凝り固まった人は、決して幸せな生涯を送ることはできません。

「さばきの座に着く王は、自分の目ですべての悪をふるい分ける。だれが、『私は自分の心をきよめた。私は罪からきよめられた』と言うことができよう」(20:8、9) と記されていますが、これは中心的には、私たちが最終的に全世界の王である神のさばきの御座の前に立たされることを指します。そのとき、私たちは誰も、自分が完全無欠で、誠実と親切に満ちた愛の行いをし続けてきたなどと言うことができません。

私たちをさばくのは、主ご自身です。私たちはただ、「こんな罪人の私をあわれんでください」と祈るしかできません。そして、そのように自分の不誠実さや罪深さを正直に認め、神のあわれみにすがる者こそが、神に喜ばれるのです(ルカ18:13、14)。

「聞く耳と、見る目とは、二つとも主 (ヤハウェ) が造られたもの」(20:12) とは、私たちが自分の心に隠された動機を聞くことができる耳や、見たりできる目が与えられているので、自分も人も、表面ではなく、その内面に隠されている思いをしっかりと見るようにとの勧めです。

ただ、これは決して、人にだまされないように、人の行動の裏を見るようにという勧めではありません。そうではなく、かえって、人や自分の内側にある矛盾した思いをやさしく受け止めることが大切だという意味ではないでしょうか。

人を悪く見すぎることは、人を良く見すぎるのと同様に危険なことです。しばしば、人を理想化してみる人は、同時に、ある人を徹底的に悪く見る傾向があります。完璧な悪人も完璧な善人もいません。All or nothing、白か黒かに二分するような見方ほど危ないものはありません。

2.「主の時を待つ」

「『悪に報いてやろう』と言ってはならない。主 (ヤハウェ) を待ち望め。主があなたを救われる」(20:22) とは、中心的には、復讐を戒めるための勧めです。私たち自身や大切な家族がひどい目に合わされたとき、復讐をしたいと思うのは当然の人情です。それは正義への渇きでもあります。

そのとき、「主を待ち望め。主が救ってくださる」とは、主があなたの心の痛みを理解して、あなたに変わってさばきを下してくださるという意味です。

多くの人々は、「主のさばき」と、「主の救い」を同じ次元で考えることができません。そのため、復讐したい気持ちを必死で押さえ込もうとして「恨みみ」を心の奥底に溜め込みます。「恨み」は恐ろしい力で、しばしば、自分の心も人の心も窒息させます。

なお、多くの人は「神の救い」を、「死んでも天国に行ける……」などとこの世離れした次元で考えますが、「神の救い」は、しばしば、あなたの敵を主が代わって裁いてくださることとして現されます。

私たちが自分で手を下そうとすると、多くの場合はかえって自滅せざるを得なくなります。それこそサタンの思う壺です。私たちはただ、「神の時を待つ」という忍耐が求められているのです。

しかも、「主を待ち望め。主が救ってくださる」とは、生活のあらゆる面に適用することができます。すべてにおいて、性急な解決を求めることほど危ないことはありません。

救いには、主の時があるということを心に刻みましょう。詩篇の作者は、「あなたこそ私の神です。私の時は、御手の中にあります」と告白しています (詩篇31:14、15)。

「人の歩みは主 (ヤハウェ) によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか」(20:24) とありますが、厳密には原文で、「人(勇士)の歩みは主 (ヤハウェ) から……、人はその道をどうして見分けられよう」(A man’s steps are from the LORD; how then can man understand his way?) と記されています。

人は自分の人生を本当の意味で理解しているでしょうか。しばしば、人は、自分の人生を勝ち負けの基準や、成功者に対する憧れや、親の期待に縛られて、自分らしい人生を生きることができていません。だいたい、自分の出生や体形や気質や能力を人と比べて卑下している時点で、人は自分らしさを失っています。それらに関して、人に選択の余地はありません。ただ、それらをすべて神の賜物として受け止めることができるときに、その人は、真にその人らしい歩みをすることができるのです。

しかも、そのように自分らしい人生に気づくまで、多くの人は様々な試行錯誤を続ける必要があります。誰も最初から自分の人生の意味を悟ることなどできません。それに気づくまで、多くのつまずきがあって当然です。そして、それはあなた自身の創造主との絶えることのない交わりの中から見出されるものです。

「軽々しく、聖なるささげ物をすると言い、誓願を立てて後に、それを考え直す者は、わなにかかっている人だ」(20:25) とは、善意から出ていても、自分の限界をわきまえずに神に約束することは危険だという意味です。

約束を簡単にやぶる人は、人間関係を壊しますが、同じように神との約束を破ることは神との関係を壊します。

たとえば、現在、東北地方には未曾有の危機的状況が生じています。これを見ながら、何かをしたいという気持ちになることは当然でしょう。しかし、そこで自分ができもしない約束をしてしまい、後で、「あれはつい口から出てしまいましたが、やはり、できません」などと言うことは許されません。すでに深い失望感に圧倒されている人に、できもしない約束をすることは、その方を更なる絶望に追いやるだけです。

援助には、何よりも相手への継続的な配慮が求められます。たとえば、先日の支援物資のことでも、浦和教会では関東の福音自由教会からすでに仕分けして集められた物資の再度の仕分けに六時間もかけられたという報告を聞いて感動しました。仙台の教会の立場に立って、援助の名の下に彼らに負担をかけることがないようにとの深い配慮が見られるからです。

3. 何にあこがれ、何を愛して生きるのか……

「悪者のたましいは悪事にあこがれ、隣人をあわれもうとはしない」(21:10) とは、「悪者」はその人の行動以前にその心自身が悪事をあこがれるという心の方向の問題が描かれています。そして、悪者の目は、隣人の痛みに共感するという方向には向かわないということを示しています。「悪者」とは、心の方向の問題なのです。

「あざける者が罰を受けるとき、わきまえのない者が知恵を得る。知恵のある者が学ぶとき、その人は知識を得る」(21:11) とありますが、「知恵」とは箴言の鍵の言葉ですが、その本来の意味は「熟練によって悪を避ける」ことで、この世で成功するためというより、「正義と公義と公正」(1:3) を「体得する」ためのものでした。

つまり、「あざける者」が罰を受けるのを見ると、わきまえのない者」でさえ、「悪を避ける」方向に心が動くという意味で「知恵を得る」というのです。

そして、そのように自分の人生をわきまえる「知恵」をベースに学ぶとき、その人はますます知識を得ることができます。つまり、何かを学ぶという「熱心さ」の前に、その人の「動機」が問われているのです。

「寄るべのない者の叫びに耳を閉じる者は、自分が呼ぶときに答えられない」(21:13) というのは非常に印象的な表現です。たとえば、年老いた親が何かを訴えているときに、「どうせ、老いぼれの言うことばだから……」などと耳を傾けようとしない人は、そのうちに、「あんな、ろくでなしの訴えなんか、取り合うことはない……」と無視されるようになると日本でも言われてきました。

なお、ここでは、「耳を閉じる」ということが強調されていることを忘れてはなりません。困っている人の叫びに耳を傾けながら、「自分は何もできない・・自分には愛がないのかな……」と悩む人は神に愛されるのではないでしょうか。

問題なのは、悩むことを避けようとして、「耳を閉じてしまう」ことです。「聞かなかった……」ということにしたら、自分を正当化できるからです。

ただし、罪の根本は、自分を正当化することにあります。自分の愛の足りなさを嘆く人は、神の愛を知っている人です。その人の訴えに神は、耳を傾けてくださいます。イエスも、「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから」(マタイ5:6) と言われました。

「公義が行われることは、正しい者には喜びであり、不法を行う者には滅びである」(21:15) とありますが、「公義」は、厳密には、「さばき」と訳すべきかと思われます。これは神がこの世界を公平におさめておられるという意味での「さばき」です。そこでは、「正しい者」には「喜び」が、「不法を行う者」には「滅び」がもたらされます。

私たちの人生に途中で判断を下すのは危険です。飛ぶ鳥を落とすような勢いで傍若無人に振舞っていた人が、破滅してしまったとき、その人の絶望感はどれほど大きくなることでしょう。

目に見える結果を出せなくても、誠実に生きている人に神は豊かに報いてくださいます。それは、「主 (ヤハウェ) に信頼して善を行え。地に住み、誠実を養え。主 (ヤハウェ) をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」(詩篇37:3、4) と記されている通りです。

私たちは自分を吹けば飛ぶようなちっぽけな存在に見ているかもしれませんが、主が与えてくださった人生を、誠実に、地道に歩み人は、神にとってのかけがえのない宝物なのです。目先の損得勘定で自分のたましいを売ってしまうような生き方は、必ず、深い後悔に至ります。

使徒パウロはコリントを初めとする異邦人中心の教会が健全に成長できるようにと、まさに命がけで労苦していましたが、コリント教会の一部の人から不当な批判を受け、それが自分の伝えた福音への不信につながることを恐れ、自分ではなく福音を弁護するために熱い手紙を書きました。

そこで彼は、「私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません」(Ⅰコリント4:3-5) と不思議な書き方をしています。

私たちはしばしば、余りにも内省的になりすぎて、自分の心が神と人とに向かわなくなるということがあります。神と隣人の思いにあなたの心を開き、その訴えに耳を傾け、それに自由に応答するという心の動きが大切ではないでしょうか。

たしかに私たちの心には様々な矛盾した思いが隠されています。しかし、パウロは、「主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます」と怖いことを言いながら、すぐに、「そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです」とそれを前向きな方向へと導いています。

人を貶めるつもりでやった偽善に満ちた行為は明らかにさばかれます。しかし、心の矛盾を抱えながらも、神と人のために何かをしたということ自体を神は称賛してくださるのです。

この世界は、根本的に、「愛」に飢え渇いています。今回の大震災が心の変革の契機にされるように祈りましょう。