マルコ1章21〜45節「この世に神の国をもたらす」

2011年3月6日

大学時代の友人が、「今になってみると、お前が輝いて見える・・・。お前が元勤めていた会社の勧めで買収したアメリカの子会社が倒産しそうだ。身辺を整理できたら、お前のところに教えを請いに行こうか・・」などと言っていました。残念なのは、教会はこの世のしがらみから自由になってから行くところと思われていると誤解されていることです。

しかし、プロテスタントの原点は、修道士であったマルティン・ルターが修道院を出てこの世の仕事に励む人々の仲間になったことから始まっています。真の意味で信仰を生かす場は、この教会の交わり以前にそれぞれが遣わされている職場や家庭なのです。私たちは礼拝の場から日々の生活の場へと遣わされるのです。

1.「イエスは・・・権威ある者のように教えられた」―神の国の福音―

「それから、一行はカペナウムに入った」(1:21)とは、イエスが先にご自身の弟子として召した四人の男たちを引き連れてガリラヤ湖の北西岸にある町に入ったということを描いたものです。カペナウムにはローマ軍の駐屯地があり、商業が栄えていました。そしてイエスはこの町をご自身の活動の拠点にされました。

当時のユダヤ人はみな、「神の国」の到来を待ち望んでいましたが、それはほとんどの人にとって、ローマ帝国から独立したダビデ王国の再興を意味しました。そして、そのためにはまず信仰復興が必要と思われていました。その観点からしたら、本来イエスはエルサレムを活動拠点とすべきと思われます。

しかし、イエスはエルサレムの宗教指導者たちと神学議論をする前に、この世の矛盾が渦巻いているただ中に生きている人々に神の国の福音をもたらそうとしたのです。

イエスの神の国の福音は、漁をしている最中に、まだ税金を集めているその場で、ローマの兵隊が目の前にいる矛盾のただ中で、生きるだけで精一杯になっている人々に向けて語られました。しかもイエスは、聖書教育を受けた人の代わりに、四人の漁師を最初の弟子としました。

日本の教会でもマーケット・プレイス・ミニストリーということばが受け入れられるようになっていますが、神の国の福音はこの世の生活のただ中でこそ味わうものでなければなりません。私たちの教会では毎月のバイブルクラスで、それぞれの方々の仕事の分かち合いをしてもらっています。それは、イエスの宣教が、エルサレムではなく、カペナウムから始まったということを前提としています。

「そしてすぐに、イエスは安息日に会堂に入って教えられた」(1:21)とありますが、この会堂の遺跡は発掘され、現在も見ることができます。礼拝堂の中心部分は長さ20m幅10m程度であったかと思います。そこに何人の人々が集まったかはわかりませんが、百名に満たなかったと考えても間違ってはいないと思います。そこでイエスは福音を語られました。その際の反応が、「人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである」(1:22)と記されています。

イエスのメッセージの例は、たとえばマタイの山上の説教などのようなところに書いてあります。イエスはたとえば、「『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬をも向けなさい」と当時の一般的な解釈を覆すような大胆なことをご自分の権威で語られました。イエスのように語ることができるのは彼が神の御子であるからです。

現代の牧師も基本的に、当時の律法学者のように聖書の解説はできても、イエスのように語ることは許されてはいません。なぜなら、権威をもって大胆に語るのは、神からの直接啓示を受けた預言者か、偽預言者だからです。そして、その権威が本物か偽者かの区別は、その人の実際の行動によってしか判断できません。

今も昔も、口ばかりが達者で、やたら断言口調で語るのは偽預言者です。そして、イエスの権威が本物であることは、誰よりも、神に敵対する勢力がすぐに理解できました。そのことが、「すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。『ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。』」(1:23、24)と描かれます。

悪霊はこの人の中に隠れ住んでいましたが、イエスを目の前に、自分を現し、この人の言語能力を用いて語りだしたのでしょう。悪霊はイエスがどのような方かを理解して、恐れ惑ったのです。

ただし、「私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です」ということばは、悪霊がイエスを自分のことばで名づけるという誤った権威の行使を表しています。たとえば、自分の子供に名をつけるというのは親の権威であり、他の人には許されていません。しかし、悪霊は、父なる神の権威を侵害し、「神の聖者」というある意味であいまいな表現によって、イエスに対する解釈をそこにいる人々に印象づけたと言えましょう。

それに対して、「イエスは彼をしかって、『黙れ。この人から出て行け』と言われた」(1:25)とあるのは、イエスはご自分がどのような方であるかの説明を悪霊には決してさせず、ご自身を明かしする機会はご自分の権威で決めるというという意思を表したものです。悪霊はこの人への支配権を失ったとたんにことばを発することができなくなります。

そして、「すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った」(1:26)とは、イエスが悪霊をさえ従える権威があるということが証明されたということを意味します。

それに対し、「人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。『これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ』」(1:27)という反応が起こったというのは、イエスが権威をもって話されたことの、「権威」が本物であることが認められたことを意味します。ことばの権威は、行動の権威によって裏付けられるからです。

イエスは「神の国」、つまり、神のご支配をもたらす救い主として来られました。イエスが「汚れた霊」からこの人を解放したということは、この人が「サタンの国」から「神の国」に移されたことを意味します。それは人間ではなく、サタンよりも権威のある方によって始めて可能になります。

たとえば、当時のガリラヤ地方の支配者はヘロデ・アンテパスというヘロデ大王の息子でした。このカペナウムも彼の支配地域でしたが、彼はローマ皇帝から許された範囲でしか支配権を行使できませんでした。ユダヤ人はヘロデの命令どおりに動く必要がありましたが、もし彼がローマ皇帝からその横暴な支配に関して叱責を受けたらパニックに陥ったことでしょう。

イエスがこの男を悪霊の支配から解放したということは、イエスの権威が当時のローマ皇帝と同じように、その地の目に見える支配者に勝ることを証明したことになります。イエスは悪霊に支配されていた人を解放し、神の国に入れてくださったのです。

そして、「こうして、イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まった」(1:28)と描かれているのは、このようにイエスの権威が人間的なものではないということが知れ渡ったということを意味します。

2.「イエスは・・・福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された」-神の国の実現―

「イエスは会堂を出るとすぐに、ヤコブとヨハネを連れて、シモンとアンデレの家に入られた」(1:29)とありますが、現在、カペナウムのシナゴーグに近いところに、ペテロの家と思われるところが発掘されています。

安息日の礼拝の後の午後は家族がともにゆっくりと前日に用意してあった食事を食べ、静かに過ごすというのが当時のパターンでした。しかし、そこに行ってみると、安息日の平和をともに楽しむはずの家庭が、「シモンのしゅうとめが熱病で床に着いていた」(1:30)という混乱状態にありました。

その中で、「イエスは、彼女に近寄り、その手を取って起こされ」ますが、「すると」、不思議にも、「熱がひいた」ばかりか、「彼女は彼らをもてなした」というのです(1:31)。これは病み上がりですぐ働かなければならなかったというような意味ではありません。彼女は家の女性たちのリーダーでしたから、客を迎えて何もできないということは恥ずべきことであり、彼女がもてなしの主導権を持つことができることは特権に満ちた喜びでした

これはペテロの家に安息日の平和が実現したことを意味します。

「夕方になった。日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた人をみな、イエスのもとに連れて来た」(1:32)とは、日没とともに安息日が終わったので人を運ぶとか人を癒すという労働行為が自由にできるようになったという意味です。

すると、「町中の者が戸口に集まって来た」のですが、「イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をいやし、また多くの悪霊を追い出された。そして悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスをよく知っていたからである」(1:33、34)という劇的な変化が起きました。

これは、ヘロデ・アンテパスがローマ皇帝の権威を肌で実感しているのと同じように、悪霊がイエスの権威を認めざるを得なくなったという意味です。

イエスは夜遅くまで、人々の必要に答えておられ、どのくらいお休みになることができたかもわかりませんでしたが、翌朝のことが、「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた」(1:35)と記されています。

この世では、自分で判断し自分の力で行動できる人が尊敬されますが、イエスは父なる神との交わりなしには何もできないかのように、祈りの時間を大切にしておられました。私たちも忙しければ忙しいほど、祈りの時間を大切にする必要があります。

そのような中で、「シモンとその仲間は、イエスを追って来て、彼を見つけ、「みんながあなたを捜しております」と言った」(1:36、37)と記されています。ペテロはまだイエスにとってどれだけ祈りの時間が大切であったのかがわかっていなかったのかもしれません。

ところが、イエスは弟子たちに、「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから」(1:38)と言われます。イエスはまさに睡眠時間を削ることによって祈りの時間を確保しながら、より多くの人々の必要に答えようとしていたのです。

そして、その様子が、「こうしてイエスは、ガリラヤ全地にわたり、その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された」(1:39)と記されます。

これはイエスが神の御子としての権威によって神のみこころを知らせ、人々をサタンの支配から解放し、神の国の中に招き入れられたことを意味します。イエスの働きで悪霊追い出しが強調されているのは、それこそが、神のご支配が広がりをあらわすことだからです。

マタイ12章28節で、イエスは、「わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」と語っておられます。つまり、悪霊を追い出すことは神の国の実現を何よりも証しすることだったのです。

「神の国」とは、「主(ヤハウェ)こそが王なる支配者である」ということが認められている領域です。サタンとその手下の悪霊はこの神のご支配に反抗する勢力で、私たちの心をまことの神から引き離そうとします。

彼らの働きの目的は、災いをもたらしたり、心を錯乱させるという以前に、神を礼拝したり神に向かって祈ることをやめさせることにあります。わざわいに会いながら、その中で必死に神に向かって祈るとき、そこでサタンは敗北をし、神の国は実現しています

しかし、「神様に祈っても何の意味もなかった・・・礼拝に行くのは時間の無駄だった・・・」などと思うとき、その横でサタンは自分の勝利を喜んでいます。

3.「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、かれにさわって」-神の国の民とされるー

1章40節では、「ツァラアトに冒された人がイエスのみもとにお願いに来て」と記されますが、「ツァラアト」とはどのような病かは明らかではありません。ギリシャ語原文は「レプロス」と記されており、それを「らい病」と訳すことは可能ですが、一方でこれはレビ記13,14章の病を指しており、そこには「らい病」とは明らかに異なった症状が見られるので、ギリシャ語の訳ではなくヘブル語そのままを新改訳第三版では音訳します。

詳しくは拙著「主があなたがたを恋い慕って」のレビ記13,14章の解説をお読みください。少なくともその解説は、長らく「らい病」と呼ばれてきた病の方に深く関わって来られた牧師も評価してくださいました。

この病の悲しみは何よりも、社会から厳しく隔離されことでした。それで、施しを受けるため人に近づく際にも、「自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって『汚れている、汚れている』と叫ばなければならない」(レビ13:45)と命じられていたほどです。

ところが、ここでその病に冒されている人が、自分を「汚れている」と呼びながらイエスに近づく代わりに、イエスの前にひざまずきながら、「お心一つで、私をきよくしていただけます」と語ったというのです。ここにこの人の驚くべき信仰が見られます。

それに対し、イエスは、「深くあわれみ」(1:41)ます。これは、「人の痛みに共感してはらわたを震わす」という意味のことばで、しばしば、イエスのこのお気持ちが奇跡的なみわざの前に記されています

イエスの同情には目の前のことを変える力があります。そればかりか、イエスは「手をのばして、彼にさわった」というのですが、これは、当時の宗教指導者にとってのタブーでした。なぜなら、汚れた者に触れるものは自分自身も汚れてしまい、本来の宗教活動ができなくなるからです。しかし、イエスがこの人に直接さわったということは、イエスはこの人をすでにきよくされた人として見たということを意味します。

イエスはその上で、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われ、「すると、すぐに、そのツァラアトが消えて、その人はきよくなった」(1:42)という驚くべきことが記されています。ここでは、このツァラアトの人は、「あなたが望んでくださるなら・・」と言い、イエスは、「わたしは望む」と応答されたのです。つまり、イエスの意志ひとつで、絶対的な隔離を必要とする不治の伝染病でさえも、たちどころに癒されるというのです。

そして、この病の癒しは何よりも、この人が、社会の中に戻ってくることができることを意味しました。人はすべて、関係の中に生きるように創造されています。隔離を命じられるということは、本来の人間として見られないという恐ろしいことでした。しかし、イエスはこの人の人間性を回復してくださったのです。

ところで、「そこでイエスは、彼をきびしく戒めて、すぐに彼を立ち去らせた。そのとき彼にこう言われた。『気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々へのあかしのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめの供え物をしなさい』」(1:43、44)という記述は、イエスがこの人にレビ記の規定に従って静かに社会復帰の手続きを踏むようにという勧めです。

イエスはこの人をご自分の広告塔にしようとも思いませんでしたし、この人が昔の病から完全に自由にされて、日常生活に戻ることができることを願っておられました。

このレビ記の規定には、この重い皮膚病のような病が誤診であった場合や、癒される可能性を前提に、社会復帰の手続きが記されています。これをよく読むと、今から三千数百年前にこれほど配慮に満ちた規定が記されていることに感動を覚えざるを得ません。

なお、そこではその病が癒されたしるしとしてのきよめの儀式として、全身に水を浴びるということがありました。これは現在のバプテスマに結びつくものでもあります。バプテスマというのは、神の家族、神の民として受け入れられるという意味があります。旧約聖書の規定に従えば、異邦人であることは、このツァラアトに冒された人と同じように神の民の外にいた存在です。今から三千年前の時代には、日本人であることは、ツァラアトに冒されているよりもさらに望みのない状態であったのです。

ところが、その後の彼の行動が、「彼は出て行って、この出来事をふれ回り、言い広め始めた。そのためイエスは表立って町の中に入ることができず、町はずれの寂しい所におられた。しかし、人々は、あらゆる所からイエスのもとにやって来た」(1:45)と記されます。

この人はまさに喜びに満ちた善意で、イエスのみわざを宣伝したことでしょう。しかし、それによって、イエスのことを興味本位で見たいという人々が増えてしまい、本当にイエスの救いを求める人が、イエスに近づくことができなくなりました

そればかりか、当時の人々は、自分たちをローマ帝国の支配から解放してくれるような独立運動の指導者を求めていました。イエスのまわりに多くの群衆が集まれば集まるほど、イエスがそのような指導者として誤解されることになります。

私たちも、しばしば、善意に満ちすぎて、人の気持ちに無頓着になり、自分の行動の影響を見誤ってしまい、人の心を傷つけてしまうことがあります。

イエスの働きの目的は、人々を神の国に招きいれることでした。ひとりでも多くの人が、真心からイエスの父なる神を自分の人生の主と認めるようになって、彼らが神を真心から礼拝するようになることでした。多くの人々が誤解していますが、いわゆる天国とは、安楽に満ちた場所というよりは、神の御顔を直接に仰ぎ見て、神を喜び、神を賛美するところです。それは礼拝が完成するところです。

このツァラアトに冒されていた人がイエスによって与えられた最も大きな救いとは、神の民に再び受け入れられるということだったのです。しかし、この人は、礼拝の民として静かに復帰できるための聖書の規定のプロセスを無視してしまいました。

世の人々は身体の癒しとか、豊かになることとかの目に見える救いを求めますが、身体が癒され、豊かな食事にありつけたところで、人は必ず死を迎えなければなりません。この世で豊かに暮らせても、終わりの日に神のさばきを受けてしまっては、すべては無意味なのです。本当の救いとは、神の民とされ、神を礼拝する者に変えられることにあります。

多くの人々は、悪霊を追い出すことや絶望的な病のいやしという超自然的な現象に憧れますが、それらはすべて「神の国」が広げられるということの手段やしるしに過ぎません。救いのゴールとは神の国の完成です。この地においては、私たちは神の国を不完全にしか見ることができません。

私たちはいつも目の前の問題の解決を望みますが、この世においてはひとつの問題の解決は必ず新しい問題の芽生えでもあります。ただそれでも私たちは神ご自身が神の国を完成に導いてくださることを信じて、一歩一歩、神から与えられた生活を生きてゆくのです。

その際、この世界を神の視点から見ることができるように、常に心の方向性を変える必要があります。礼拝の場は、私たちが神の視点からこの世の生活を見ることができるようになるためにあります。

超自然的なことに憧れるよりも、この地の矛盾と問題と争いに満ちた生活を、イエスの視点から見るように心がけ、この世に愛が枯れているように見えても、枯れ木と思える中に春の花のつぼみを見るようなあたたかい眼差しを持たせていただきましょう。