イザヤ40章〜48章「まことに、あなたはご自身を隠す神」

2011年2月6日

先日、ある教会の礼拝でご奉仕させていただいたとき、その後で、ある方が、「どうしても先生に、一言、お尋ねしたい・・・」と言って来られました。その方は、「以前、私は、神様のことをとっても身近に感じ、疑いなどを持つことがなかった。教会奉仕も楽しくてたまらなかった。ところが、今は、心が渇き、苦しくてたまらない。それで必死に、以前のように戻りたいと様々な努力を重ねているのですが、かえって苦しくなるばかりです。どうしたら良いのでしょう・・・」という趣旨のことを尋ねてくださいました。

私は、「それは、あのマザー・テレサも、働きが軌道に乗り出したときに悩み苦しんだことで、決して、異常なことではありませんよ。僕は、疑いのない信仰が健全だとは思いません。だって、詩篇の中には、神を遠く感じ、神への疑いを訴える祈りが満ちているではないですか・・・」とお答えさせていただきました。

そして、つい余計な営業活動をして、「あなたのような悩みを持つ方のために『心を生かす祈り』という詩篇の解説書を書いていますので、よろしかったらどうぞ・・」と言ってしまいました。もちろん、その方は、喜んでこの本を買ってゆかれました。神への不満とか疑問を表現できるところから健全な信仰が始まるからです。

多くの人が誤解しますが、信仰は外国語の学びのようなものとは異なります。語学の場合は、一時期、必死に努力すれば使えるようになり、一度身についたことは、そう簡単には忘れません。そこからどんどん新しい世界が広がってゆきます。

それに対して、妙なたとえで恐縮ですが、信仰は深蒸し茶のようなものに似た面があるのかもしれません。休暇中にテレビを見て妙に納得したのですが、深蒸し茶には、コレステロールを下げ、癌を予防し、身体をスリムにする効果があるとのことです。ただ、これは一日に何杯も飲み続ける必要があり、その効果もわからないまま継続する必要があります。しかも、それをやめたとたん、すぐに効果が消えてゆくということです。

私たちは日々、神の恵みによって養われる必要があります。ただ、その際、自分の知性で聖書の内容を把握するという学び方は、自分の力で神を把握するという方向に流れ、あまり良い結果を生まない場合があります。実際、昔から、「下手な神学校で下手に学ぶと、純粋な信仰を失うことがある・・・」などと言われます。

人間的な努力で神を把握しようとする人に対しては、しばしば、「まことに、あなたはご自身を隠す神。イスラエルの神、救い主よ」(イザヤ45:15)というみことばが語られる必要があります。

信仰は、神の恵みにを徹底的な受身で味わうことから養われるものです。それは、たとえば、聖書のみことばの朗読を、ただ静かに聴くこと、また、神の創造のみわざの中に身をおいてその豊かさをただ味わうこと、また、神が自分の人生の中に一方的に現してくださった数々の恵みのみわざを思い起こすことです。

そして、この三つのことがイザヤ書40章から48章にかけて記されています。つまり、神のみことばの啓示を味わい、神の創造のみわざを味わい、また、人間の歴史を神の視点から見直すということです。

第一のみことばの啓示ですが、イザヤが記した二千七百年前のヘブル語の言語体系と現在の私たちの言語体系は大きく異なります。イザヤのことばを現代人に理解してもらうためにはずっと変わらないまま残されている当時の言語と、日々変化を繰り返す現代の言語を比較しながら、翻訳を何度も見直して行く必要があります。その膨大な作業を、現在、この新改訳聖書の全面改訂をする委員会から、そのごく一部を小生が委託されて作業に取り組んでおります。ことばが通じるかどうか、皆さんが実験台としてご協力いただければ幸いです。

それにしても、この詩文は、左脳の理性で把握しようとする代わりに、どちらかというと右脳で、感覚的にとらえることが大切かもしれません。その意味で、ただ静かに心を開いてお聞きください。それにしても、これが記された当時の歴史を予備知識として知らなければ、味わいようがない部分があります。

まず、第一に、預言者イザヤのことばは、語られた当時は、人々にまったく受け入れられないものであったことを覚える必要があります。当時の人々は、まだ自分たちの将来に少なからぬ希望を抱いていました。イザヤは、それは幻想であり、神はご自身を忘れた民に厳しい報復をされると言い続けました。

そして、イスラエルがそれから百数十年後に、バビロン帝国によって滅ぼされ、すべてが自業自得であったことを悟り、自分たちの将来に何の希望も見出せないという状況になって初めて、このみことばが人々の心をとらえ、彼らが神に立ち返ることができました。そして、このみことばはその後の世界の歴史を導く知恵となってゆきました。人間の歴史は、このイザヤが語ったとおりに動いています。

まず、自分が自業自得の苦しみに会い、途方に暮れ、自分の無力さに圧倒されているというイメージを抱きながら、イザヤ40:1-8の朗読に耳を傾けて見ましょう。

以下、まだ翻訳試案は公開できないことになっていますが、メッセージの中で小生が朗読していますので、お聞きいただければ幸いです。当教会のホームページから音声を聞いていただくことができます。

http://www.k3.dion.ne.jp/~efctachi/newpage4.html

「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(40:8)というみことばは、新改訳聖書全体の翻訳理念の基礎になっています。永遠に変わることなく、かえって、人間の歴史を導くのが聖書のことばです。

引き続き40:18-31の朗読に耳を傾けてみましょう・・・・・私は何をやってもうまく行かないと思って元気を失っていたとき、ドイツの友人から、「目を高く上げ、だれがこれらを創造したかを見よ」というみことばを贈っていただき、それは自分の中に不思議な力を与えてくれました。

41章8-14節は、神を知らない民が元気に堂々と生きている一方で、自分は恐れに圧倒されながらびくびくと生きているというような前提で聴くと、よくわかります。朗読に耳を傾けてみましょう。

14節に、「あなたを贖うのはイスラエルの聖なる者」という表現がありますが、これが、42章1-9節のキリスト預言に結びつきます。

そこには、意外な救い主の姿、傷つき元気を失っている者に徹底的に寄り添う神のしもべの姿が描かれています。そして、このみことばは、私たち自身を神のしもべとして招こうとする神のことばです。静かに耳を傾けて見ましょう。

42章23節から43章7節は、神がなぜイスラエルを滅ぼしたのかということと、国が滅ぼされた後に見える希望のことが記されています。私たちはひとりひとりが、神によって創造されたかけがえのない宝物のような存在です。これは新改訳聖書の名訳があり、それはそのまま残しています。お聞きください。

43章16節から44章5節には、神ご自身が私たちの前に新しい道を開き、私たちを造り変えてくださる様子が描かれています。「ジャッカルやだちょう」は最も忌み嫌われた動物でしたが、それらも神をたたえるようになるというのです。まして、神のみことばを慕い求める人々にはどれほどの希望があることでしょう。ここには私たちの信仰が人間の努力を超えたものであることが描かれています。力を抜いてお聞きください。

45章1節にはイザヤの150年後に現れるペルシャ王クロスのことが、具体的な名前とともに記されています。多くの人は、150年後の具体的な歴史の動きを預言者が語るなどということは不可能であると言います。

しかし、もしこのようなイザヤの預言があらかじめなかったとしたら、当時の人々は、自分たちを解放してくれたクロスの信じる神を求めるようになっていたことでしょう。当時のペルシャはゾロアスター教が爆発的に広がっていました。

神はご自身の民を救うために、異教徒の王を用いました。あなたにもたらされる助けも、奇想天外な奇跡でというよりは、あなたのまわりの元気の良い異教徒である場合があります。そのとき、神はご自身のことを知らない異教徒を支配しておられる神であることを思い起こしてください。私たちの神こそは全世界の王なのですから。

45章1-8節、45章13-46章4節朗読  なお、46章1-4節は多くの人々に愛されているみことばで、あのフットプリントという有名な詩のもととなっています。偶像は人間に運ばれる必要がありますが、私たちの神は、私たちを母の胎内にあるときから、背負い、運んでくださる創造主であられます。

最後に、48章1-11節、17-22節をお聞きください。ここでは、神が人間の歴史を導いていることが改めて描かれ、また最後に、私たちが神の平安に包まれて生きるためには、どのように生きればよいのかが記されています。

これも、ただ静かに味わって見ましょう。最後に、『悪者どもには平安がない』と記されます。「悪者」とはこの世的な意味での言葉ではなりません。これは神を神としてあがめないすべての人を指したことばです。

神を忘れて自分を神として生きている者は、一見、元気に、勢いよく生きているようでも、いつも不安に駆り立てられて生きています。それは自分が自分のまわりに起こることを把握して、自分が自分の人生を治めなければいけないと思うからです。

しかし、私たちは、自分で自分の人生を治めている必要はありません。もともと、それは不可能です。だれも自分の親を選ぶことができなかったのと同じです。祝福された人生の秘訣は、いつでもどこでも、神を神としてあがめ、じぶんの人生すべてが、神の愛の御手の中に包まれていることを覚えることです。

私たちはこの霊的な現実を、日々、繰り返して味わう必要があります。なぜなら、私たちはこの世の文化にどっぷりとつかりながら、あなたは自分の仕事を、体型を、健康を、家庭を、管理していなければならないと繰り返し語られているからです。

それは、確かに、自分がそれらすべてに責任を負う必要があるという意味ではそのとおりなのですが、神のまもりと私たちの人間的な努力は相反するわけではありません。私たちは日々、自分を制し、努力する必要がありますが、私たちはそれを神の愛の御手に包まれているという安心感で行うのです。