恐れるな。わたしは、あなたとともにいる

立川チャペル便り「ぶどうぱん」2011年冬号より

「紅白歌合戦でAKB48の「Beginner」を聞いて、これを書いた秋元康さんは本当にこの時代をよく見ていると感心しました。「昨日までの経験とか、知識なんか荷物なだけ……新しい道を探せ!他人(ひと)の地図を広げるな!……今 僕らは夢見てるか、子どものようにまっさらに……支配された鎖は引きちぎろう Change your mind 何も知らなくていい Beginner!失敗して、恥をかいて、傷ついたことトラウマになって あんな思い二度と嫌だと 賢くなった大人たちよ チャレンジは馬鹿げたこと?リスク回避するように愚かな計算して何を守るの?何もできない、すぐにできない だから僕らに可能性があるんだ、今が時だ、君は生まれ変わった Beginner!」

私たちは今、過去の体験がなかなか生かされない前人未到の世界に向かっています。過去の成功や人の成功に学ぶのではなく、すべてを支配しておられる神が道を開いてくださることに信頼して歩みたいものです。それは、神が私たちひとりひとりに、「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから」(イザヤ41:10) と語っておられるからです。

そして、主は、「わたしは主(ヤハウェ)、あなたの神。あなたの右の手を堅く握り、そして言う、『恐れるな。わたしが、あなたを助ける。恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々よ。わたしが、あなたを助ける』」(イザヤ41:13、14) と言われます。イスラエルは当時の世界から見たら「虫けら」のようにちっぽけな存在でしたが、主が彼らを選び彼らの味方となってくださいました。

また、主は、「あなたは、わたしのもの」と語りかけつつ、「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」と約束してくださいました (43:2)。海も山も川も火山も創造された全能の神が、「わたしは」と強調しつつ、「あなたとともにいる」と保障してくださっています。

主は、それを前提に、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしは、あなたを愛している」(イザヤ43:4) と言われます。「高価」とは、かけがえのない価値とか希少価値を意味します。また、「尊い」とは、「重くされている」という意味で、「栄光」と同じ語源のことばが用いられています。これは、神が私たちひとりひとりを救うためにご自身の御子を犠牲にされたほどに、私たちの存在を重いものとして見ておられるということを表します。

その上で、主は、「わたしは」ということばを強調しながら、「あなたを愛している」と言っておられます。全宇宙の創造主である方が、イスラエルに向かってそのようにパーソナルに語りかけてくださるのです。そして、その具体的な意味を、主は、「だから、人をあなたの代わりにし、民をあなたのいのちの代わりにする」と言われます。これは、イスラエルに繁栄をもたらすために、あの大国エジプトを犠牲にするのも厭わないという神の断固とした意思の現われです。このように、人との比較で自分の価値が計られるのは、あまり上品な表現には聞こえないかも知れませんが、当時の政治状況を考えれば、神の意図は明確です。当時のイスラエルは、北からの脅威に南のエジプトの助けを得て対抗するという政策を伝統的にとってきました。これはたとえば、会社の上司の間に対立関係がある場合、そのふたりの陰に身を隠しながら、その対立を利用して自分の立場を守ろうとするような生き方です。それに対して、主は、人と人との信頼関係を軽蔑するような、姑息で卑怯な生き方ではなく、堂々と自分の立場を明確にするように命じられたのです。

あなたが頼りにしようとしている権力者はすぐに消えてしまうはかない存在であるばかりか、神の目には、その権力者よりもあなたの方がはるかに重い存在とされているのです。それを覚えて、人の奴隷にならずに、自分がかけがえのない存在であることを意識しながら生きたいものです。

その上で、主は、逆説的な意味で「先の事を思い出すな。昔の事を思い巡らすな」(43:18) と言われます。神はイスラエルの民に、繰り返し、出エジプトの事を始めとする過去の偉大な救いのみわざを思い起こすように命じておられましたから、この命令はまったく意外なものです。「柳の下に二匹目のどじょうを探す」というような笑い話だったら良いのですが、彼らは過去の成功に奢り高ぶって国を滅ぼそうとしていました。たとえば、エルサレムがアッシリヤに包囲されたときに、神が包囲軍を混乱させ、奇跡的に撤退させてくださいましたが、彼らは同じことがまた起きると期待して、神のさばきという現実を見ようとしなくなっていました。これは、日本の神風神話と同じです。

しばしば、過去の成功談は偶像化されて、人を失敗に導きます。「失敗は成功のもと」と言われる以上に、「成功は失敗のもと」になることをいつも注意深く現実を見る必要があります。私たちは、常に、神の救いのみわざは、毎回、ユニークなもので、パターンが違うということを覚えなければなりません。それどころか、神がこれからもたらしてくださる救いは、それまでの成功も苦しみも色あせて見えるほどに奇想天外な偉大なものだというのです。

そのことを、主は、「見よ。新しい事をわたしは行う。今、もうそれが芽生えている。それをあなたがたは知らないのか」(43:19) と言われました。私たちは過去の体験に基づく自分の期待から心が自由にされるとき、日々の生活の中に、何か、新しいことの芽生えを見つけることができます。しかし、彼らは南の大国エジプトの政治情勢にばかり目が向かっていました。イスラエルの民は、エジプトから解放されるときは、海が真っ二つに分かれましたが、このとき彼らはバビロンに捕囚とされており、彼らの帰還を妨げたのは、起伏の激しい、水のない荒野でした。

それを前提に、主は、「確かに、荒野に道を、荒地に川をわたしは設ける。野の獣がわたしをあがめる。ジャッカルや、だちょうさえも。荒野に水を、荒地に川をわたしが与え、わたしの民、選んだ者に飲ませるからだ」(43:19、20) と、荒野や荒地の中に、約束の地への帰還の道を開くことを保障してくださいました。なお、「ジャッカル」も「ダチョウ」も忌み嫌われた動物の代名詞のような存在で両者とも廃墟を住処としていました。つまり、そんなのろわれた動物さえも神の救いにあずかるのですから、神に選ばれた民であるイスラエルが救いにあずかるのはなおさらのことです。

福山雅治作「道標」に次のような歌詞がありました。「愛に出逢い 愛を信じ 愛に破れて、愛を憎み 愛で赦し また愛を知る 風に吹かれ 迷いゆれて 生きるこの道、あなたの笑顔 それは道標……傷もためらわず 痛みもかまわず「勝つこと」ただそれだけが正義と 壊れてもまだ走り続けるわたしにも、あなたはやさしく……」この一年、勝つことばかりを考えて人を押しのけて生きるのではなく、神の愛に信頼し、互いに愛し合いながら、何度裏切られても人を愛し続け、自分の笑顔を人の道しるべのようにできたら幸いです。私たちはそのように生きることができます。天地万物の創造主が、「恐れるな。わたしは、あなたとともにいる」と言ってくださるからです。