マタイ6章5〜15節「三位一体の神の愛に包まれた祈り」 

2011年1月16日

祈りにはその人の性格が明確に現れます。たとえば、感情の激しい表出が自然な人もいれば、静かにポツリポツリと思いを語るほうが自然な人もいます。また、そのときの気持ちによっても祈りのかたちは変わることでしょう。イエスはここで、祈りに関してふたつのことを避けるように命じています。第一は、人に見せるための祈りです。当時は、みんなの前で、美しい言葉で、長々と祈るということが、その人の日頃の敬虔さをあらわすこととして大変な尊敬を受けました。それに対してイエスは、「隠れたところで見ておられるあなたの父」(6:6)を意識して祈るように命じました。第二は、祈りの熱心さによって神を動かそうとするような態度です。それはかつて、バアルの預言者たちが、自分の身体に鞭を打ち、感情的なことばを繰り返し、必死に踊りながら嘆願したような姿です。

これに対し、イエスは、「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたの必要を知っておられるからです」(6:8)と言われました。祈りは、神ご自身だけとの親密な交わりの時です。それは最愛の人との出会いの時です。最愛の人に向かって、その人の心の声を聞こうともせずに、自分の願望ばかり一方的に語るということがあるでしょうか?

ルカ11:1では、この祈りの別の背景が、「さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子たちのひとりが・・・『私たちにも祈りを教えてください』」と言った」と記されていますが、それはヨハネが弟子たちに教えたのと同じように、イエスが私たちと同じ人間として天の父に祈られた一端を見せてくださるものでした。そこでイエスは、私たちの「兄」として、「祈るときには、こう言いなさい」(11:2)と教えてくださいました。そこでは、最初に、「パテール(お父様)」という呼びかけが記されています。それは、「アバ」のギリシャ語訳です。

神は、この世界を美しく創造してくださったのに、アダムの罪によって、この世界は矛盾と混乱に満ちたものとなりました。しかし、イエスは、第二のアダムとして、私たちと同じ葛藤を味わう人間となって、私たちの救いのために祈ってくださいました。本来、罪のないイエスが「負い目を赦してください」と祈る必要はありませんが、彼は私たちのすべての罪を負い「私たちの負い目」と言ってくださったのです。私たちは、この祈りを自分の祈りとすることによって、イエスの弟子として、このままの姿で「地の塩、世の光」とされ、この世界の再創造に関わる名誉ある働きに加えていただけます。主の祈りこそこの世の奇跡であり、奇跡を生み出す祈りです。

1.アダムの祈りと主の祈り

主の祈りは、私たちの心の底から生まれる願いではありません。私たちの肉の祖先であるアダムは、たとえば、次のような祈りを望んではいないでしょうか。それは私たちの心のある自己中心の願望です。

この世の幸せを私に与える神様!
  (永遠の世界の話より目の前のことが……)
私の名前が大切にされますように。
  (私は誤解され、傷ついています……)
私の権威が認められますように。 
  (私の立場がないのです……)
私の意志が行なわれますように。 
  (思い通りにならないことばかりだから……)
私の一生涯の経済的必要が保障されますように。 
  (一切の経済的不安から自由になれたら……)
私は悪くないと理解されますように。彼らは仕返しをされて当然ですが……。
  (私は特別です……)
私が誘惑などを恐れずに、悪魔のことなど気にしないでいられますように。
  (恐れがなくなれば……)
私の影響力、私の能力、私の誉れこそが、人々の幸せの鍵ではないでしょうか 
  (私が王なら……)

このような思いは私たちの心の中にいつもあるのではないでしょうか。その思いをヘンリ・ナウエンも自分の日記の中で次のように告白しています(大塚野百合著「あなたは愛されています」より抜粋)

私は神と語るよりは、神について語っていたのではないか。
私は祈っているとき、誰に祈っているのでしょうか?
私が、『主よ』と言うとき、私はどういうつもりで言っているのでしょうか?
私は主イエスを愛している。
 しかし、私は自分自身の友人たちにすがりついている。
 彼らが自分を主イエスにより近く導かないと分かっていても。
私は主イエスを愛している。
 しかし、自分が自主的にことを運ぶことを欲している。
 その自主性は私に自由をもたらさないのだが。
私は主イエスを愛している。
 しかし、自分の同僚たちの尊敬を失いたくないのだ。
 彼らに尊敬されても、霊的にはなんの価値もないと分かっているのだが。
私は主イエスを愛している。
 しかし、自分の著述や、旅行や、講演の計画を止めようとは思わない。
 これらの計画は、神の栄光のためというよりは、
 私の名誉のためのものである場合が多いのだ。

しかし、第二のアダム、私たちの救い主イエスの祈りは、それとは全く反対のものです。それは以下のように訳すことができます(原文からの私訳)。ただし、これは肉の思いに反しますから、この祈りを心から祈るためには、御霊の導きがどうしても必要です。ゆっくりと、こころを御霊に明け渡して、意味をかみしめて祈りましょう!

(複数)におられる私たちのお父様!
あなたのお名前が聖くされますように。  
  (私の心の中で、人々の間で
あなたのご支配が現われますように。    
  (私の内に、人々の間に)
あなたのご意志が行なわれますように。  
  (私の心の中に、人々の間に)
天のように地の上にも。        
  (上の三つすべてにかかるとも考えられる) 
パンを、私たちに必要なものを今日もください。 
  (一日一日の糧のため)
赦してください!私たちの負い目を。        
  (人の罪のこと以前に自分の赦しを願う)
私たちが自分に負い目ある人を赦すように。  
  (人を赦すことができるこで、神の赦しを確信できる)
陥らせないでください!私たちを誘惑に。     
  (「試み」も「誘惑」も同じ原文、負けないようにとの祈り)
救ってください!私たちを悪い者から。      
  (「父よ」で始まる祈りが「サタン」の存在認識で終わる
永遠までも、ご支配と御力と御栄えは、あなたのものだからです。アーメン
  (父なる神こそが真の王)

2.父なる神のための祈り

人は神に向けて造られました。ですから、私たちの「幸い」は、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛する」ことにあります。祈りの前半の焦点はそこにあります。

★「天にいます私たちの父よ。

イエスがゲッセマネの園で「アバ。父よ。」と祈られたように、今、私たちは、この混乱に満ちた世界の中から、目に見えない創造主の子とされた特権を味わいつつ祈ります。

シモーヌ・ヴェイユという20世紀初頭に生きたユダヤ系フランス人の哲学者は、キリストとの深い出会いを体験した後、「樹木は、地中に根を張っているのではありません。空(天)にです。」と言ったそうです。彼女はギリシャ語で「主の祈り」の初めのことばを暗唱している中で不思議な感動に包まれました。その類まれな美しさに胸を打たれ、数日の間、それを繰り返さずにはいられませんでした。それは「お父様!」という呼びかけから始まり、その方が「私たちのお父様」であり、また「天(複数)におられる」と続きます。彼女はそれを繰り返しながら、自分がこの目に見える世界を超えた天の不思議な静寂と平安に包まれているという感動、またその支配者である方が自分を愛する子どもとして引き受け、その愛で包んでくださるという感動を味わうことができました。

私は大地に根ざした生き方を大切に思ってきましたが、それ以上に大切なのは、この私自身が諸々の天の主であられる神のご支配によって守られ、支えられているということをいつも覚えることです。この私は天に根を張って、この地に一時的に置かれ、荒野に咲く花のように、短いいのちをこの地で輝かせるように召されています。そして、樹木が天から引っ張られるようにして地中から水を吸いながら、そのために大地に根ざすように、天を出発点とした考え方は大地に根ざす生き方と矛盾するものではありません。つまり、神の創造のみわざを喜ぶことと、この地に置かれた自分の存在を喜ぶことは切り離せない関係にあるのです。

★「御(あなたの)名が あがめられますように

最初のエデンの園で、人は善悪の知識の木のもとで神を礼拝するべきだったのに、その代わりにみことばを分析し、命令を軽蔑し、この地にのろいを招きました。ですから、世界の救いはその反対に、神の御名が、私の心の中で、私たちの間で、聖く、栄光に満ちたものと認められるようになる中で初めて、実現されるのです。

そして、私たちの心の中で、主の御名が聖なるものとされ、御名があがめられるとき初めて、私たち自身も、いのちの喜びに満たされます。この心が、主の創造のみわざをたたえる賛美に導かれるとき、そこに真の自由が生まれます。私たちはしばしば、「主の御名をあがめる」ということの意味を抽象的に考えてしまいがちかもしれません。しかし、そうする前に、ただ詩篇8篇、19篇、96篇、136篇などの創造賛歌を、心から味わい、それを口に出して、主を賛美すべきではないでしょうか。

「御(あなたの)国(ご支配)が来ます(実現します)ように」

神は、「見よ。それは非常によかった。」(創世記1:31)と呼ばれる美しい世界を創造され、人を祝福に満ちたエデンの園に住まわせてくださいました。ところが今、それが失われ、この地はアダムの子孫の罪によって混乱しています。ですから、神のご支配の現実が、教会にとどまらず世界に、目に見える形で実現されるよう祈るのです。それは、私たち自身が神の支配に服する忠実なしもべとなることができるように祈ることでもあります。

様々な試練に会い、深い孤独を感じるようなとき、それは、私たちにとっての祈りの学校ではないでしょうか。敢えて言えば、孤独から逃げ出すことを考えるのではなく、「孤独を深める」ことが必要なのかもしれません。それは神との交わりを深めるという意味においてですが・・・。私自身、孤独を味わう中で詩篇69篇や詩篇22篇の意味が深く心に迫ってきました。そこにおいてイエスが私の悲しみや孤独感を軽蔑なさらないばかりか、それをはるかに深く味わってくださった方であるということがわかりました。イエスはその孤独と悲しみのただ中で、父なる神のご支配の真実を体験して行かれたのです。試練や孤独を通して、神のご支配の真実が私たちのうちに根付きます。その上で、神はご自身のご支配をこの地に広げるために私たちを用いてくださいます。

「み(あなたの)こころ(意思)が行なわれますように、天のように地の上にも」

神に背いたアダムは、自分の裸を恥じて、主の御顔を避けて身を隠しました。何と、「土の器」(Ⅱコリント4:7)に過ぎない者に「いのちの息」を吹き込んでくださった方に背を向けたのです。

しかし、私たちは、自分の弱さを恥じることなく、マリヤのように、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:38)とこの身を差し出しつつ、自分自身が小さなイエスとされ、天の平和が、この地にも実現するようにと祈るように招かれています。

なお、私たちはしばしば、絶望と思える状況を通り過ぎるただ中で、私たちの肉の意思が砕かれ、私たちのうちに神の意思が生きるようにされます。そして、神の意思とは何よりも、私たちが自分の惨めさを認め、イエスにすがり、イエスとの交わりを第一にして生きることです。私はあるとき自分の働きを振り返りながら、「神の働きを阻害しているのは、私自身だ・・」と感じました。そのような中で導かれたのが、ただ主の御前に静まるという祈りです。それは「掴(つかみ)み取る」という生き方から、「既に与えらている恵みを感謝する」ことへの転換、また、自分の必要をただ訴えることから、「主の願い」を「私の願い」とすることを目指すという発想の転換でした。

3.私たちの地上の生活の必要のための祈り

主の祈りの後半は、私たちの日々の必要を祈るものです。私たちは毎日、神のあわれみに より頼むこと、また自分ばかりではなく兄弟姉妹のために祈ることが求められています。

★「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

主の祈りは、突然、「パンをください。」という現実的な祈りへと展開されます。神はそのような現実的な叫びをも聞きたいと願っておられます。ただ、エデンの園の外では、「あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない」(創世記3:17)という現実が私たちを支配しています。ですから、私たちは、地上の生活に必要な衣食住のすべてを、あり余るようにではなく、「日毎に必要な分だけ、今日もお与えください」と謙遜に祈ります。それは、箴言で微笑ましいレトリックとともに、「貧しさも富みも私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、『主(ヤハウェ)とはだれだ』と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために」(30:8、9)と祈られているのと同じです。

しかも、これは、自分たちの生活のことばかりではなく、この世界にある飢えと渇きの現実を覚えながら、イエスの御前に五つのパンと二匹の魚を差し出した少年のように(ヨハネ6:9)されるように願うことでもあります。

「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目ある人を赦します。」

善悪の知識の木の実を取って食べたアダムは、「あなたは・・食べたのか?」と聞かれた時、「この女が・・」と答え、神の御前で、「赦してください!」とは言えませんでした。しかし、今、私たちはキリストの十字架のゆえに、大胆に神の御前に赦しを願うことができます。そして、その祈りの真実は、私と私に負い目ある人との関係ではかられます。神が私たちの負債を赦し、新しい人とされたのは、この私が「キリストの使節」とされ(Ⅱコリント5:20)、この私を通して、神の赦しが、私に負い目ある人に伝えられるためでもあることを覚える必要があります。

なお、14,15節では、「人の罪を赦す」ということと、「天の父の赦し」を受けることがセットして記されています。

多くの人はこの警告に怯え、「どうか、人の罪を赦すことができますように・・・」と祈りだしますが、それは本末転倒どころか、自分を神とする傲慢な祈りにもなりえます。罪を裁いたり赦したりするのは、神の権威です。あなたが赦そうと赦すまいと、それに関係なく、神はその人を赦したり、裁いたりしておられるという面もあるのです。

また、それ以上に、「赦させてください・・」などと祈れば祈るほど、いつまでたっても、人の罪を赦せない「自分のこと」ばかりが見えてきて、赦すことが必要以上に難しくなります。自意識過剰はあらゆる空回りの原点です。イエスは、「私たちの負い目をお赦しください」と祈るように教えてくださったのですから、まず自分の罪深さに思いを馳せながら、心からそのように祈る必要があります。その上で、「私たちも私たちに負い目にある人を赦します」とただ告白するのです。すると不思議に、心がその人の方向に向かいます。これは私たち自身が、恨みから解放されるための祈りでもあります。人を恨んでいる人は、顔が暗くなります。喜びが消えます。そして、やることなすことがうまく行かなくなります。人を赦すのは、何よりも自分の精神の健康のために必要なことです。

昔から、罪の赦しを与えるための様々な儀式があります。水子供養などもそのひとつです。またカトリックでは罪の赦しを確信させるための免罪符などという悪習もありました。しかし主は、私たちが人と関わり人を赦すという行為を通して、神からの罪の赦しを確信するようにと私たちを導いてくださったのです。私たちは、赦せない人を赦したという体験の中で、14節のみことばに基づき、自分の罪が赦されていることを確信できるのです。

「私たちを試み(誘惑)に合わせない(陥らせない)で、悪(悪い者)からお救いください。」

人類の母であるエバは、蛇の語りかけの背後にサタンがいることが見えず、得意げに質問に答えながら、自分の欲望に身を任せてしまいました。また、ペテロは、自分の力を過信して、三度も主を否みました。ですから、私たちは、悪の源であるサタンの手から守られるように、日々祈る必要があるのです。

ただし、神の救いの計画は、キリストの十字架と復活によってその最終段階にあります。この世界にある痛みには、母親の産みの苦しみ(ローマ8:22)のような希望があります。確かに、世の終わりに臨んで、多くの誘惑が私たちを取り囲んでいますが、キリストの勝利が私たちの勝利とされるように大胆に祈ることができます。

私たちは、主の祈りの前半で心からの賛美へと導かれ、後半では、自分と兄弟姉妹の貧しさを覚えて、主の御前に謙遜に導かれます。そして最後に、「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。」と賛美します。これは、この祈りを要約したようなものです。私たちは、やがて目に目える形で実現する「神の国」の完成を先取りして、「地の塩、世の光」として、イエスの父なる神こそが全世界の真の支配者であることを、身をもって証しするのです。主の祈りを心から祈る者は、三位一体の神の愛に包まれた喜びを味わっています。それは、私たちが他の聖徒と共に、人となられたイエスと父なる神の愛の交わりとの中に、御霊によって招き入れられている喜びです。その時私たちは、神の創造の目的に添った形で、自分らしく生きているのです。