2010年6月13日
アメリカ北部でのことですが、高速道路を走っているある家族の車に鹿が飛び込んできて、車が大破しました。その車に乗っていた7歳の男の子は、「どうして神様は守ってくれなかったの?」と言ったそうです。それに対して、13歳の次女は、「神様が守ってくれたから、誰も怪我をせず、大事故にならずに済んだんだよ!」と答えたとのことです。今日の箇所では、「まことに、あなたは、ご自身を隠す神」(45:15)というイザヤの告白があります。聖書にご自身を啓示しておられる神は、同時に「ご自身を隠す神」でもあります。その結果、同じ出来事が、7歳の男の子には、神がご自身を隠しているように見え、13歳の少女には、ご自身を啓示しておられるしるしと見えました。
同時に、この違いは、私たちの気分によっても反映されます。宗教改革者マルティン・ルターは躁うつ病とともにパニック障害のような発作に何度も見舞われたそうです。彼はそれを『悪魔の風呂』と呼んでいました。心臓が震えおののき、異常な発汗があり、発作的に叫び、死が近いと確信し、その恐ろしい瞬間には、信仰も義認も感じなかったと言われます。彼はそれまで千数百年続いたカトリック教会の権威を否定しましたが、彼はうつ状態に陥ると、繰り返し、「お前だけが何でも知っているというのか。しかし、お前が間違っているとしたら、そして、人々を誤らせ永遠の呪いへと導いたとしたら、どうするのか・・・」という心の囁きが聞こえたと記しています。
しかし、そのような不安が、彼をますます聖書に向き合わせました。彼は確かに三ヶ月間で新約聖書をギリシャ語からドイツ語に翻訳し、旧約聖書も驚くべき速さでヘブル語からドイツ語に翻訳しましたが、それから二十数年間かけて改訳を続けています。当教会の講壇には、1545年の彼の最終訳のコピーが置かれていますが、千数百年間の伝統を崩す根拠は聖書にしかありませんから、原文をどのように正確に、また、人々が理解できることばで翻訳するかということは、原文と聴衆の反応の中で、何度も何度も見直す必要がありました。まして、神経症の傾向のある彼にとって、中途半端は自分が許せません。そして、結果的に、ルター訳の聖書が、共通ドイツ語を生み出しました。ルターに批判的な人でさえも、ルター訳聖書が現代のドイツ語を作ったと認めざるを得ません。
しかし、すべての始まりは、ルターがうつ状態とパニック発作の中で、真剣に神のみことばを慕い求めたことから始まります。ルターは聖書の教えを理性によって体系化することを極度に嫌いましたが、多くの学者は、彼の神学の中心に、「まことに、あなたは、ご自身を隠す神。イスラエルの神、救い主よ」(45:15)というみことばがあると言います。ルターは、目に見える悲惨な中で、神がご自身を隠しておられるという現実に絶望しながら、みことばをとおして救い主キリストに出会い、慰めを受けました。そのような体験を踏まえて、彼は、「信仰がとらえているキリストは、くらやみの中に座しておいでになる」と言いました。そして、実際、イエスが十字架にかかったとき、多くの人々は、「今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから・・」と嘲りましたが、ローマの百人隊長とその仲間は、「この方は、まことに神の子であった」と告白しました(マタイ27:42,54)。目に見える現実に神の救いを求める人は、十字架にかかるキリストに躓きます。しかし、自分の惨めさに嘆く人は、十字架のキリストによって罪の赦しの確信を受け、「鷲のように翼をかって上って行く」(40:31)という歩みに入れていただけるのです。
1.「主がヤコブを贖い、イスラエルのうちに、その栄光を現わされる」
「天よ。歓喜せよ。主(ヤハウェ)は行われた。地の底よ。叫べ。山々よ。歓喜の声をあげよ。林とそのすべての木も。主がヤコブを贖い、イスラエルのうちにその栄光を現わされるからだ」(44:23)とは、主の救いのみわざを、天も地も山々も林も、全被造物が喜び歌う姿です。私たちは神の救いのご計画をあまりにも小さくとらえてはいないでしょうか。J.S.バッハはクリマスオラトリオの最初で神の御子の驚くほど貧しい誕生を告げる福音書の朗読の前に、この箇所のみことばを、テインパニ、トランペットなどとともに壮麗な喜びの歌として表現しています。神の御子の貧しさ、地上の私たちの貧しさ、そのすべては、天上に響く喜びの歌声の下で一時的に起こっていることに過ぎません。全世界の創造主の驚くべき偉大な創造とあがないのみわざの中で、このつかの間の私たちの地上の人生を見るということこそが福音の核心です。神の救いは、やがて、誰の目にも明らかなものとされるからです。
44章24節は、「主(ヤハウェ)は、こう仰せられる」という書き出しとともに、「その方は、あなたを贖い、母の胎内にいる時から形造られた」と紹介され、その方のことばが、「わたしは、主(ヤハウェ)。万物を造った者。わたしはひとりで天を張り延ばし、ただ、わたしだけで、地を押し広げた」と記されています。
そして、主は、「空しく語る者のしるしを破り、占い師をあざけり、知恵ある者を立ち返らせ、その知識を愚かにする」(44:25)と言われます。「空しく語る者」とは偽預言者を指していると思われます。神は彼らと占い師を同列に扱います。彼らは過去のできごとを調べ、そのときに平行して起こった様々な自然現象などを調べ、同じことが自然の中に見えたら、それを予兆のしるしとして宣伝します。しかし、「先の事を思い出すな。昔の事を思い巡らすな。見よ。わたしは新しいことを行う」(43:18,19)と言われる主は、それらの体験に基づく「しるしを破り、占い師をあざけ」られるというのです。それと同時に、「知識ある者を立ち返らせ、その知識を愚かにする」という表現は、神がこの世の知者の高慢を砕くことによって彼らを創造主のもとに導くという神の招きとも理解することができます。このみことばをもとに、後にパウロは、「神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです」(Ⅰコリント1:27)と言ったのではないでしょうか。
それと同時に、主は、「主のしもべのことばを立たせ、使者たちの計画を全うさせる」(44:26)と、ご自身が預言者にことばを授け、それをご自身が成就するという原則を強調されます。主ご自身が、ユダの町々の再建、廃墟の復興を導き、帰還を妨げる「淵」や「川々」を支配しておられるのです(26,27節)。その上で、この約150年後に現れることになるペルシャの王「クロス」が、第一には、「わたしの牧者、わたしの望みをみな全うする」(44:28)者として紹介されます。そして、ここで、「エルサレムに向かっては、『再建される。神殿は、その基が据えられる。』と言う」とは、主のしもべとしての預言者のことばであると同時に、主が語らせたクロスのことばとしても解釈できます。事実、エズラ記の初めには、エルサレム神殿の再建は、エレミヤ預言の成就であるとともに、ペルシャの王クロスが主(ヤハウェ)のことばでもあることが次のように記されています。「ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた【主】のことばを実現するために、【主】はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。『ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、【主】は、地のすべての王国を私に賜った。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた・・・』」(1:1、2)
イザヤは、北王国イスラエルがアッシリヤ帝国に滅ぼされた直後、ユダとエルサレムも国を失う苦しみを通して回復されるという希望を告げますが、不思議にもここに、百五十年後に登場するペルシャ帝国の王の具体的な名が記されます。多くの学者は、これを記したのはイザヤよりずっと後の人物であると言い切りますが、そのような一見合理的な解釈は、この預言を無意味なものにします。しかも、ここには「クロス」という王の名の他は、具体的な救いのプロセスは何も記されていません。後の時代の人なら、もっと別の書き方ができたのではないでしょうか。しかも、現実には、ユダヤ人はエルサレム神殿を失いバビロンに捕囚とされるという絶望を通して神の民として整えられました。それは、彼らが、自分たちを具体的に救ってくれたクロス大王の背後にイスラエルの神、主(ヤハウェ)を認めることができたからです。それは、イザヤの預言があったからこそ可能になったとはいえないでしょうか。
2.「あなたにわたしは力を帯びさせる。あなたはわたしを知りはしないが」
45章1節では、「主(ヤハウェ)は、油そそがれた者クロスにこう仰せられた」と記されます。そして、クロスについての説明が、「彼の右手をわたしは握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの武装ベルトをほどき、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする」と描かれます。彼はペルシャの王であり、異教徒であり、偶像礼拝者です。その彼を、主ご自身が世界の王としての任職の油を注ぎ、彼を通して世界を支配するというのです。
2節から7節は、主(ヤハウェ)ご自身からクロスへの語りかけのことばです。その第一は、「わたしが、あなたの前を進む。険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る」と、クロスの進軍の道を開くということです。そして、第二は、「秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える」というものです。そうされるのは、「それは、あなたが知るためだ。『わたしは、主(ヤハウェ)。あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神である』と」とあるように、主ご自身がクロスの名を呼んで召し出したこと、また主がイスラエルの神であるということを、クロス自身が認識できるようになるためだというのです。つまり、主は、イスラエルを救い出すという目的のために、クロスの名を呼ぶのです。しかも興味深いことに、「あなたはわたしを知りはしないが」と4,5節で繰り返しながら、「あなたに肩書きを与え・・力を帯びさせる」と言われます。つまり、クロスは、最初、自分が誰によって立てられ、誰によって力を与えられているかをまったく知らないままに、主の働きのために用いられているというのです。
たとえば、自分の生涯を振り返るとき、私が主を知る前から、主が私の名を呼び、私を導き、私を通してご自身のみわざを進めておられたと思うことがあります。つまり、不信仰な者をさえ、主は用いることができるのです。私たちの信仰とは、その事実に気づくということに他なりません。そこに主のみわざの目的があるということを、主は、「それは、日の上るところから沈むところまで人々が知るためだ。わたしのほかには、だれもいないことを。わたしは、主(ヤハウェ)。ほかにはいない」(45:6)と言っておられます。歴史は、主のご計画通りに進んでいます。やがて、全世界が主を認めるようになります。そのとき、私たちは知らずに主のみわざに参画させられていたのか、それとも、主のご計画を心から喜びながら自分自身の心と体を主体的にささげながら主のみわざにあずかっていたのか、それが問われます。大きな主のご計画の中に、自分から主体的に身をあずけることができるのは幸いです。
多くの信仰者は、「私は信仰が弱いから、主は私を用いることができないのでは・・・」と自分を卑下しますが、信仰の出発点とは、バプテスマのヨハネが言ったように、「神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになる」ということを信じることです(マタイ3:9)。自分の信仰に頼るのではなく、力を抜いて主の真実にゆだねること、自分を忘れることこそが出発点です。
また、自分の信仰如何に関わらず、主のみわざが進むということを知るとは、この世界が自分の期待通りには進まないことを受け入れることでもあります。そのことを、主ご自身が、「光をわたしは造り出し、やみを創造し、平和をもたらし、わざわいを創造する。わたしは、主(ヤハウェ)、これらすべてを成す者」(45:7)と言われます。
興味深いのは、「やみ」と「わざわい」に関して、同じく「創造する」ということばが用いられていることです。つまり、私たちの人生が期待通りに進まないのは、私たちの拝む神が無力だからでも、また、私たちの祈りが弱すぎるせいでもないのです。しかし、この神のご支配の現実を受け止めるとき、私たちは、明日の自分に何が起こるかを知らなくても、明日を支配しておられる主ご自身が、この私を高価で尊いものと見てくださるということに信頼することができるので、目の前の「やみ」や「わざわい」の中でも、誠実な生き方を全うする勇気を持つことができます。
また、これは同時に、これは私たち自身がイスラエルのように罪深く、自業自得で苦しみに会っているとしても、主は、クロスのような異教徒を用いてさえ、私たちを救い出すことができるということを信じることでもあります。
信仰の有無に関わらず、病気や事故に会う確立は変わらないかもしれません。違いが現れるのは、わざわいに会った後のことです。全能の神に信頼している者は、そのわざわいも神の御手の中にあって起こったことと受け止め、神がすべてを益に変えてくださることに信頼して、そこで自分のなすべきことを、黙々と行うことができます。
3.「まことに、あなたは、ご自身を隠す神。イスラエルの神、救い主よ」
「天よ。上からしたたらせよ。雲よ、正義を降らせよ。地よ、開け、救いを実らせよ。正義も共に芽生えさせよ。わたしは、主(ヤハウェ)、これを創造した」(45:8)とは、主ご自身が、天と地に語りかけて、イスラエルのために救いを、そして正義を実現してくださるということです。主ご自身が、この地に正義と平和を実現してくださいます。ですから私はこの世の様々な不条理にいきり立って、不条理を引き起こす人々に怒りを燃やす必要はありません。
ところで、イスラエルの民が期待した「救い」は、ダビデのような王が再び現れ、自由と繁栄を実現してくれることでしたから、主が異教の王を用いてエルサレム神殿を復興するという解釈は受け入れ難いことです。それは、イスラエルがなおも外国の支配に屈するままに置かれることを意味するからです。しかし、そのような不満が起こり得ることを前提として、「わざわいだ。自分を造った方に抗議する者よ」(45:9)と記されます。私たちは陶器師である神の作品としての「陶器」、「土の器のひとつ」に過ぎません。創造主の計画に抗議することは、「粘土」が「形造る者に」、「何を作るのか・・・あなたの作った物には、手がない」と言うのと同じように愚かなこと、また、子供が父や母に、「どうして私を産んだのか・・・」と抗議することと同じく無意味な疑問です(9,10節)。
私たちも自分の体型や性格を、神の失敗作と見ることがあるかもしれません。しかし、レーナ・マリヤさんは、両手と片足がないまま生まれてきたのに、詩篇139篇14節をもとに、「私は感謝します。恐ろしいほどに、私は不思議に造られました(I praise you, because I am fearfully and wonderfully made」と心の底から創造主を賛美しています。そして、そのような彼女の信仰は、障害児の誕生を神のみわざとして喜んだ母から受け継いだものです。
この世では、必ず、期待外れのことが起きます。自分だけが無事安泰で、何のわざわいにも会わないことを神に一方的に期待するということ自身が、「わざわいだ!」と非難されることかもしれません。もちろん、ヨブのように激しい苦しみの中で神に向かって、「なぜ、あなたは私を母の胎から出されたのですか」(ヨブ10:18)と訴えることも神に受け入れられます。しかし、「こんな不条理を許す神など信じてやるものか・・」というのは傲慢に他なりません。
45章11節では、「主(ヤハウェ)は、こう仰せられる。―この方は、イスラエルの聖なる方、これを形造った方―」と説明されながら、主がイスラエルに向かって、「わたしの子らについてこれから起こる事を、わたしに尋ねようとするのか。わたしの手で造ったものについて、わたしに命じるのか」と非難しておられます。これは、自分たちの将来のことをあれこれ詮索して、占い師に尋ねるように神の答えを必死に求めることの愚かさを指しています。
神戸ルーテル神学大学の鍋谷教授は、イザヤ書の核心は、6章の「心をかたくなにするメッセージ」にあると言われます。イザヤは、「だれを遣わそう」という主の招きの声に、「ここに、私がおります。私を遣わしてください!」と応答しますが、そこで命じられたのは、民に向かって、「聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな」という不思議なことばを語り続けることでした。そのことばの意味は、イスラエル王国とエルサレム神殿が滅びて始めて理解できるというものでした。私たちも、キリストの十字架の意味が本当の意味で心に響いてくるのは、自分の惨めさと真正面から向き合ってはじめてと言えましょう。福音は、明瞭な言語で語られる必要があるのですが、しばしば、理性には、「言語明瞭、意味不明」としか響きません。それでその人は、ますますみことばに反するように、自分の従来の生き方を貫こうとするのですが、それが行き詰まったときに、ふと、みことばが心の底に響いて来ます。私たちにはそれがいつ起こるかなどわかりませんから、時が良くても悪くてもみことばを宣べ伝え続けるのです。
私たちは、時が来るまでは、神のみこころを知ることができませんが、主はすべてを支配しておられます。そのことを主は、「このわたしが、地を造り、その上に人間を創造した。わたしは、この手で天を引き延べ、その万象に命じた。このわたしが、義によって彼を奮い立たせ、彼の道をみな、平らにする。彼はわたしの町を建て、わたしの捕囚の民を解放する。代価を払ってでもなく、わいろによってでもない」と言われ、最後に、「そのように、万軍の主(ヤハウェ)は仰せられる」と、そのような告げられた神の力を強調されます(45:12、13)。イスラエルは、ただ、主が異教の王のクロスを用いて「捕囚の民を解放する」という期待はずれの救いを受け入れるしかありません。しかも、そこに何らかの裏取引があるわけもなく、すべては主のみこころのままに進んでいるというのです。
45章14節では、エジプトやその南のクシュとセバがイスラエルに服従する様子が語られます。これはイスラエルが北からのアッシリヤやバビロンの攻撃に対して、常に、南のエジプトの力に頼ろうとしていたことの愚かさを指摘する意味があります。彼らはそのときエジプトを自分たちの救い主かのように求めたのですが、エジプトの方から反対に、「神はただあなたのところだけにおられ・・・ほかに神々はいない」と告白するようになるというのです。
その上で、「まことに、あなたは、ご自身を隠す神。イスラエルの神、救い主よ」(45:15)という不思議な記述がなされます。エルサレムの再建は、人間の目には、ペルシャ王クロスの働きであって、主の救いとは見られないからです。同じようなことが私たちの日常生活に起きています。主は、ご自身をこの世で起こる様々な出来事の背後に隠しておられます。ですから、人々が「神がおられるなら、なぜこのようなことが起こるのか・・・」と思うのは当然です。そのような中で、人々は偶像礼拝に走りますが、彼らは恥を見ることになります。
なお、「神はただあなたのところだけにおられ」とは、神の存在は、神の民を通してしか認められないという不思議を現すものでもあります。たとえば、ハワイのモロカイ島には、今から百三十年余り前、ハンセン氏病の方が隔離されていましたが、そこにダミアン神父がひとりで入り込み、彼らの世話を始めました。彼はやがて自分自身が感染しますが、それによってかえって、この働きに献身する人々が次から次と起こされました。その島を後にアメリカの小説家スティーブンソンがこの島を訪ねたとき、このような詩を残しました。
「ライの惨ましさを一目見れば、愚かな人々は神の存在を否定しよう。
しかし、これを看護するシスターの姿を見れば、愚かな人さえ、沈黙のうちに神を拝むであろう」
つまり、「ご自身を隠す神」は、カトリックのシスターを通してご自身を現しておられたのです。このとき、神の栄光は、世界から不条理な病や悲惨がなくなるということよりは、自分の利害を超えて人に尽くすことができるという心に現されていました。世界が自分にとって都合良く動いて欲しいと願う中から、際限のない自己主張と争いが生まれますが、まわりの状況に左右されない心の平安からは、この地の平和が始まります。
「まことに、あなたはご自身を隠す神。イスラエルの神、救い主よ」というみことばは、旧約と新約をつなぐ鍵です。イエスを十字架にかけた人々は、ローマ帝国の支配に不満を覚え、目に見えるダビデ王国の実現を待ち望んでいた人々でした。イエスを支持していたユダヤ人の群集も、イエスが無抵抗にローマ総督のもとに引き出されたこと自体に失望し、それが怒りに代わって、「十字架につけろ!」と大合唱をしました。イエスがダビデの子なら、ローマ帝国からの独立運動を導く勝利者になるはずだと思われたからです。当時の人々が、神は異教徒の国、ペルシャ帝国の大王クロスを用いてエルサレムを復興したということを心から理解していたなら、その後、ローマ帝国に逆らう独立戦争を起こしはしなかったでしょうし、ユダヤ人が二千年間の流浪の民になる必要もありませんでした。人の心の中に生まれる理想は、しばしば、絶え間のない争いの原因になります。宗教戦争も、そこから生まれます。私たちも、今、ここで、期待はずれのままの現実に中に、神の救いを見出すことができるなら、この世界にさらなる争いが起きるのを防ぎ、私たちのまわりに神の平和が広がるのを見ることができるのではないでしょうか。