2010年5月16日
私たちの周りには、確かに、平気で嘘をついたり、平気で人を裏切ったりする人がいます。しかし、そのような人の歴史をみると、しばしば、彼ら自身が、あまりにも軽く扱われてきたということがわかることでしょう。キリスト教は、罪を指摘し、罪からの救いを教える宗教と言われますが、旧約の流れから見ると、神がどのようなことに最も厳しく怒っておられるかが見えてきます。それは、ちょうど、「こんなに私はお前を大切に思っているのに、どうして、この気持ちをわかってくれないのか・・」と言うような、親が子供に対して抱く感情に似ています。ひとりひとりが自分の尊厳に気づいた結果として、自分の罪が見えてくるという心理的なプロセスを私たちは知るべきでしょう。多くの人が自分の罪を本当の意味で認めることができないのは、神の愛を実感していないからではないでしょうか。もっと私たちは、自分に対し、また周りの人に対し、「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしは、あなたを愛している」という神の語りかけを繰り返すべきではないでしょうか。これを心の底から味わうとき、人は成長できます。
1.「だれが・・・主(ヤハウェ)のしもべほどに盲目であろうか」
42章10節は、「主(ヤハウェ)に歌え」から始まり、歌う内容が、「新しい歌を」、「その栄誉を」と勧められます。それは、先の42章1-9節の「主のしもべの歌」にあったような「救い」がもたらされたからです。主はご自身が遣わす救い主に関して、「わたし、主(ヤハウェ)は義をもって、あなたを呼び、その手を握り、あなたを見守り、民の契約とし、国々の光とする」(42:6)と言われました。イエスご自身が、新しい契約をもたらし、イスラエルばかりか全世界にとっての「光」となってくださいました。そして、主は、同じようにイエスの弟子たちを召し、彼らを「国々の光」として遣わしてくださいました。その結果、地の果てのまだ向こうの日本にまで福音が届けられました。そのことを覚えて、「地の果てから。海に下る者、それを満たすもの、島々とそこに住む者」のすべてが、主の救いの「新しい歌」と「主の栄誉」を、みなそろって、「主に歌う」べきなのです。今から2700年前の預言者に、「新しい歌」と勧められてもピンと来ないかもしれません。聖徳太子よりも二倍も古い時代の歌など、人の想像を超えています。しかし、神がご自身の救い主イエスによってもたらされた「救い」ほどに、私たちにとって新しいものはありません。そして今、たとえば、42章6節の主のみことばは、ここにいるひとりひとりを「新しく」動かす主からの語りかけとなっています。
そして、その賛美への訴えが、「声を上げよ」 (42:11)、また、「主(ヤハウェ)に栄光を帰せよ」(42:12)と繰り返されます。しかし、イスラエルの民は、主をたたえようにも、主のみわざが見えなくなっていたのです。それで、主はイスラエルの現実を、驚くほど生々しく責めながら、「耳の聞こえない者たちよ、聴け。目の見えない者たちよ、目をこらして見よ。だれがわたしのしもべほどに盲目であろうか。わたしの送る使者ほどに耳が聞こえないだろうか。だれがわたしに買い取られた者ほどに盲目であろうか、主(ヤハウェ)のしもべほどに盲目であろうか。多くを見ながら、注目してはいない。耳を開きながら、聴いてはいない」(42:18-20)と言われます。ここでは、「だれが・・ほどに盲目であろうか」と繰り返されます。そして、本来、最も主のみわざを見ているべき「主のしもべ」や「主に買い取られた者」が、誰よりも主のみわざを見ていないという現実、また、誰よりも主のみことばを聞いているべき「主の使者」が、聴いていないという現実に、主は心を痛めておられます。彼らは、主のすばらしいみわざを見ながら、まるでそれを見飽きているかのようになり、また主のみことばを聞きながら、「また、あの話か・・・」などと聞き飽きたような姿勢でいました。私は昔、礼拝中、居眠りばかりしていたような自分の姿勢を、今頃になって深く恥じています。
一方、今は、主のメッセージを取り次がせていただきながら、会衆の皆さんに対し、ときに、「どうして、この神のみわざに感動してくれないのか・・・目の前の問題にどのように対処するかなどという表面的な知恵ばかりを求め、心の目も心の耳も閉じたままにしているのだろうか・・・」と苛立ちを覚えることがないわけではありません。私たちが本当に、心から反省すべきことは、自分の愚かな行動や愛のない態度のこと以前に、主のみわざに対して、心の目や耳があまりにも鈍感になっているということではないでしょうか。子供が親の愛情に鈍感になっているように、イスラエルの民は主のみわざに鈍感になっていました。主は、何よりもそれに対して怒っておられたのです。
イエスは、盲目に生まれついた人の目をあけましたが、パリサイ人たちは癒された盲人の証には決して耳を傾けようとせず、イエスを偽預言者と断定し続けていました。それでイエスは彼らに向かって、「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです」(ヨハネ9:41)と言われました。見えていると思う人こそ、危ないのです。
2.「この方に、私たちは罪を犯し・・・そのおしえを聞かなかった」
「だれが、お前たちのうち、これに耳を傾け、後々のために注意して聴くだろうか」(42:23)という問いかけは不思議な響きを持っています。イスラエルは主の偉大さを証しする民であったはずなのに、現実の彼らはあまりにも惨めな状態に置かれています(21,22節)。そのような中で彼らがますます自分の耳を閉ざすようになっているのは極めて自然なことと思えるからです。多くの人々は、自分の人生が願ったとおりにならないことに失望し、「神を信じたって何も良いことはなかった・・・もう主のみ教えを聞くことはやめた・・・」とあきらめます。しかし、そのような人に向かって、預言者イザヤはなおも、「だれが」ということばを用いながら、「だれが、ヤコブを略奪者に渡したのか、イスラエルを、かすめ奪う者に。それは、主(ヤハウェ)ではないか」(42:24)と言われます。イスラエルの民の悲惨の背後に、彼らの心の目と耳を開かせようとする主の熱い思いが隠されているというのです。それは、聞く耳のない者に、苦しみを与えることによって、彼らの目や耳を開かせるという主のご計画です。たとえば、大地震を経験した人は、私たちの人生の土台がいかに不安定なものかを肌で感じることができるかもしれません。病気にあった人は、この身体のバランスが保たれていること自体の不思議に目が開かれるかもしれません。
そのようなことを前提に、預言者イザヤは、苦難にあった人々に期待される悔い改めの告白を、「この方に、私たちは罪を犯し、主の道に歩むことを望まず、そのおしえに聴かなかった」(42:24)とあらかじめ記しています。つまり、イスラエルの悲惨は、主の無力さの現われではなく、彼らが、主の「おしえに聴かなかった」ことの結果であるというのです。多くは、「聞き従わなかった」と訳しますが、厳密には「聴かなかった」とのみ記されています。
私たちの場合も、最も身近な人が、自分の話を聞いているようで聴いていないということに何よりも腹が立ちます。そんなとき、「もっとよく聞いていてくれたら、私の望んでいることが何なのかがわかって、別の行動が取れたはずなのに・・・」と言いたくなります。今も昔も、「俺は家族を養うために身を削って働いているのに・・・」という夫に対して、「私が望んでいるのは、そんなのじゃない・・・」と悲しんでいる妻が多くいます。同じようなことが神との関係で起きます。「私はこんなすばらしいことができた」と誇る人に、神は、「動き出す前に、わたしの話に耳を傾けてほしい・・・見当違いの方向に熱くなってもらっては困る・・・」と言われることがあります。たとえば、ナチス・ドイツでユダヤ人虐殺の実務的な責任者だったアドルフ・アヒマンは、極めて平凡で神経質で家庭的な官僚であったと言われます。彼は、与えられた職務をただ誠実にこなすことによって、何百万人ものユダヤ人をガス室で殺すことに貢献しました。彼は、裁判の席で、「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」と言ったとのことです。彼には生きた人間が見えていませんでした。同じように、神ご自身との生きた対話がない人が多くいます。
そして、ご自身のみことばを聞こうとしない人に対して、「そこで主は、燃える怒りをこれに注ぎ、激しい戦いをこれに向けた」(42:25)というのです。しかし、「それがあたりを焼き尽くしても、彼は悟らず、自分に燃えついても、心に留めなかった」という悲劇が続きます。怒りを発したことが逆効果になったとき、主は不思議なことをなさいます。
3.「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ」
主は、燃える怒りを向けていたイスラエルの民に向かって一転して、「だが、今、主(ヤハウェ)はこう仰せられる。ヤコブよ。あなたを創造された方が、イスラエルよ。あなたを形造った方が」(43:1)と優しく呼びかけつつ、「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ」と言われます。「贖う」とは、たとえば、借金が返せなくなって、自分の身を奴隷に売らざるを得なくなってしまった場合に、兄弟が彼を「買い戻」し、再び自由人に復帰できるというような救いを意味します(レビ25:48)。イスラエルの民は、自業自得で神の「のろい」の下に置かれました。そこでは働いた労苦の実を自分で享受できないばかりか、ありとあらゆる災いに襲われ、怯えながら生きていました。それは奴隷以下の悲惨でした。そのことを主は、「燃える怒りをこれに注ぎ、激しい戦いをこれに向けた」(42:25)と言っておられましたが、そのような状態から、生きることを喜ぶことができる自由人の状態へ回復されるという約束のことを、主は、「わたしがあなたを贖った」と預言されます。それは、「のろい」から「祝福」へという百八十度の立場の変化です。
それがなされたのは、イスラエルの民が悔い改めたからという以前に、父祖ヤコブに由来する民が、神ご自身によって「創造され」「形造られた」という神の選びに基づきます。ヤコブはそれに値する人間ではなく、父や兄を騙すようなことをしたにも関わらず、主ご自身が、彼の生まれる前から、彼を兄のエサウの上に立つ者と一方的に計画されたのです。また、神は、ヤコブの母の故郷への旅行を守り、豊かな財産を与え、約束の地カナンに戻る途中のヤボクの渡しで、彼にご自身を現し、イスラエルという新しい名前を与えてくださいました。
そして、主がイスラエルを贖ったということが「わたしはあなたの名を呼んだ」と言い換えられます。そして、主は彼らに優しく、また断固として、「あなたは、わたしのもの」と語りかけられます。そして、主に贖われた結果の祝福に満ちた歩みのことが、「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」(43:2)と描かれます。海も山も川も火山も創造された全能の神が、「わたしは」と強調しつつ、「あなたとともにいる」と保障してくださっています。
そして、この選びによる創造は、ダビデが「生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいたときから、あなたは私の神です」(詩篇22:10)と告白したように、私たちすべてにとっての霊的な現実です。そして、私たちキリスト者はすべて、キリストの十字架の血潮によってサタンの奴隷状態から贖い出されました。ですから、この「ヤコブよ、イスラエルよ」という部分を自分の名前に置き換えて朗読しながら、神の絶対的な守りを私たちは味わうことができます。確かに、私たちはこの地で様々な災いに会います。しかし、その災いは決して、私たちに与えられた「永遠のいのち」を損なう力にはなりません。そのことをパウロは、「あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます」(コロサイ3:3,4)と断言しました。与えられた「永遠のいのち」のすばらしさは、時とともに明らかにされてゆきます。信仰生活はその恵みの豊かさをより深く味わうプロセスです。
そして、主はイスラエルに対する保障を、「わたしは、主(ヤハウェ)、あなたの神、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主だから」(43:3)と言われます。これも一言一言、心の底で味わうべき全能の神からの語りかけです。「イスラエルの聖なる者」とは、イスラエルにとって主は、いかなる比較も超えた、人のいかなる想像も及ばない圧倒的な神であるということを表します。ですから、彼らは、地上のいかなる権力をも恐れる必要がありません。そのことが、「エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする」と言われます。「クシュとセバ」はナイル川上流のエジプトの南の地域を指します。これは、ペルシャ帝国がナイル川全域を支配するために、その前線基地としてのイスラエルに特別な恩恵を施すという政治状況を示唆したものと思われます。エルサレム神殿の建設が許されたのは、ペルシャがイスラエルの民の好意を得て、エジプト支配を容易にするためでした。これは、エジプトの犠牲の上にイスラエルの繁栄が築かれるという意味です。しかし、この背後に、神のあわれみのご計画がありました。人の目にはちっぽけなイスラエルが、神の目にはあの大国エジプトよりも重い存在だったからです。
主は、それを前提に、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしは、あなたを愛している」(43:4)と言われます。「高価」とは、かけがえのない価値とか希少価値を意味します。たとえばアブラハムにとってイサクは、かけがえのないひとり子であり、イエスは、神にとってかけがえのないひとり子でした。また、「尊い」とは、「重くされている」という意味で、「栄光」と同じ語源のことばが用いられています。これは、神が私たちひとりひとりを救うためにご自身の御子を犠牲にされたほどに、私たちの存在を重いものとして見ておられるということを表します。その上で、主は、「わたしは」ということばを強調しながら、「あなたを愛している」と言っておられます。全宇宙の創造主である方が、イスラエルに向かってそのようにパーソナルに語りかけてくださるのです。そして、その具体的な意味を、主は、「だから、人をあなたの代わりにし、民をあなたのいのちの代わりにする」と言われます。これは、イスラエルに繁栄をもたらすために、あの大国エジプトを犠牲にするのも厭わないという神の断固とした意思の現われです。
このように、人との比較で自分の価値が計られるのは、あまり上品な表現には聞こえないかも知れませんが、当時の政治状況を考えれば、神の意図は明確です。当時のイスラエルは、北からの脅威に南のエジプトの助けを得て対抗するという政策を伝統的にとってきました。これはたとえば、会社の上司の間に対立関係がある場合、そのふたりの陰に身を隠しながら、その対立を利用して自分の立場を守ろうとするような生き方です。それに対して、主は、人と人との信頼関係を軽蔑するような、姑息で卑怯な生き方ではなく、堂々と自分の立場を明確にするように命じられたのです。あなたが頼りにしようとしている権力者はすぐに消えてしまうはかない存在であるばかりか、神の目には、その権力者よりもあなたの方が重く、「尊い」と見られているのです。それを覚えて、人の奴隷にならずに、自分が神にとってどれほど「高価」で、かけがえのない存在かを意識して生きるように勧められています。
ところで、多くの人は、自分が人と異なった感性を持っていることを恥じてしまいがちですが、私たちが他の人とまったく同じなら、あなたの代わりはいくらでもいることになります。あなたが他の人と違った感性を持っているからこそ、あなたは神にとって「高価」でかけがえのない、「尊い」、重い存在となるということを忘れてはなりません。
4.「あなたがたは、わたしの証人」
そして、この世の大帝国や権力者たちを恐れる人々に対し、「恐れるな。わたしは、あなたとともにいる」(43:5)と言われました。そこでは、「わたし」と言われる方の存在の大きさを味わうような語りかけがなされています。そして主は、「東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。北に向かっては、引き渡せ、と、南に向かっては、引き止めるな、と言う」(43:5、6)と言われます。これは、主が四方の国に散らされたイスラエルの民を、もう一度約束の地に集めてくださるという約束です。そして、主は、43章1節のことばを繰り返しながら、「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、これを創造し、形造った」(43:7)と言われ、すべてをまとめるように、「確かに、わたしがこれを成した」と、すべてが主ご自身のみわざであることが強調されます。
そして、主は再び、イスラエルの民を、「目があっても盲目の民を、耳があっても聞こえない者たちを」と呼びながら、国々に向かって、「連れ出せ」と命じられます(43:8)。そればかりか、「すべての国々をつどわせ、諸国の民を集めよ」と、世界中の人々を集めさせ、「だれが、彼らの中でこれを告げ、先の事を私たちに聞かせられようか。証人を立てて、正義を示し、聞く者に、それは真実だ、と言わせられようか」と問いかけられます(43:9)。それは、イスラエルの民がいかに盲目で、耳が聞こえないものであっても、彼ら以外に主のみわざの意味を証できる者たちはいないからです。神は、イスラエルの歴史を通して、ご自身の「正義」と「真実」を証ししようとしておられます。そして、今は、主は、私たちキリスト者を通してご自身の「正義」と「真実」を証しされようとしています。
それを前提に、主は、「あなたがた」ということばを強調しながら、「あなたがたは、わたしの証人、─主(ヤハウェ)の御告げ─わたしが選んだわたしのしもべ」(43:10)と言われます。文語訳聖書によれば、私たちこそ、神がどのような方かを証するために立てられている「エホバの証人」、原文に忠実に言えば「ヤハウェの証人」なのです。
ただ、私たちはその責任の大きさの割には神を知っていないと卑下するかもしれませんが、そのような懸念を払うように、「これは、あなたがたが知って、わたしを信頼し、わたしがその者であることを悟るためだ」と言われます。私たちは自分たちの人生の体験を通して、主を深く知り、より深く信頼し、主がどのような方であるかを悟るのです。なお、ここでは、「その者」というあいまいな表現があえて用いられながら、それを説明するように、「わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない」と、ご自身が他の神々と比べようのない方、ただひとりの創造主であることを証しています。そして、主は、あえて「わたし」ということばを二回重ねながら、「わたし、わたしが主(ヤハウェ)」(43:11)とご自身の名を紹介しておられます。そして、「あなたがたのうちに、他はいなかった。あなたがたは、わたしの証人」(43:12)と、10節のことばを繰り返しながら、「主(ヤハウェ)の御告げ─わたしは神だ」と断言されます。そして、未来に目を向けさせながら、「これから後もわたしがそれだ。わたしの手から救い出せる者はなく、わたしが事を行えば、だれがそれを戻しえよう」(43:13)と、ただ主だけに信頼するように訴えておられます。
私たちはひとりひとりが、神の目に「高価で尊い」存在です。それは、同時に、主(ヤハウェ)の証人としての使命を果たすためでもあります。そのことをペテロは、「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」(Ⅰペテロ2:9)と言っています。私たちはそれぞれ、キリストにある光の中に招き入れられた存在です。私たちがこのままの姿で、イエスの招きに応じるとき、主は、私達の弱さや葛藤をさえ用いて、ご自身の栄光を現してくださいます。人から尊敬されるクリスチャンになろうとする前に、この世的には取るに足りない人を生かし用いてくださる神のみわざを私たちは常に覚えるべきです。そのとき、私達がそれぞれ小さければ小さいほど、弱ければ弱いほど、主にある逆転の大きさが証されるという神秘が生まれます。大切なのは、人の目に見える自分を意識する代わりに、ただイエスだけを見ながら生きることです。そして、イエスにあって私達に注がれている神の愛を心から味わうことです。いつでもどこでも、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしは、あなたを愛している」という神の語りかけを、心の底で味わいながら生きて行きましょう。