2010年4月18日
私たちは基本的に自分の力を、他の人との比較で計ります。そのため人の心の中には、以下の詩にあるような醜い思いがあるのではないでしょうか。「もし私の隣人が 私より強いならば、私はその人を怖れる。/ もしその人が 私より弱ければ、私はその人を軽蔑する。/ もし私とその人とが 同じであれば、私は詭計に訴える。/ 私がどのような動機をもっていたら、その人に服従することができ、/ 私にどのような理由があったら、その人を愛することができるのだろうか」(ジャン・ド・ルージュモン) しかし、私たちの基準をキリストにおくとき、徹底的に自分の弱さを受け入れると共に、必要ならばどんな苦しみをも引き受ける勇気をいただくことができるのではないでしょうか。
1.「そのすべての罪に代わり、二倍のものを主(ヤハウェ)の手から受けた」
イザヤ39章はバビロン捕囚の預言で終わり、それを前提として、「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」と、「あなたがたの神が仰せられる」(1節)と記されます。これからヘンデル作「メサイア」の冒頭の歌が生まれますが、自業自得の罪で神のさばきを受けている人々を、神は「わたしの民」と呼ばれ、またご自身のことが「あなたがたの神」と紹介され、「慰めよ。慰めよ」というメッセージが告げられます。これこそイザヤ40章以降の中心テーマです。
「慰める」には本来、「深く呼吸する」という意味があり、それは「哀しみ」「あわれみ」とも訳され、「同情」というより「励まし」の意味が込められています。神の「深い息」から生まれる「慰め」には、人の呼吸を助け、新たな活力を生み出す力が込められています。しかも、続けて「エルサレムの心に語り、彼女に呼びかけよ」(2節)という不思議な表現があります。神の「慰め」は、打ちひしがれた心の奥底に届き、生きる力を生み出すことができるのです。
「その苦役は終わり」とは、戦争捕虜としての「苦役」の期間が満了したという意味があり、そのことが「咎は償われた」とも言い換えられます。バビロン捕囚は、申命記28章などで、主ご自身が警告しておられた「のろい」が成就したもので、そのような「咎が償われて」初めて、神の「慰め」の計画がスタートされると預言されていました。そして、「そのすべての罪に代わり、二倍のものを主(ヤハウェ)の手から受けた」(2節)とは、借金証書が返済完了の印に二つ折りに壁に鋲で留められると同時に、借金と同額が贈り物として与えられるという奇想天外な恵みです。
私たちにも、はるか前の祖先の世代から受け継がれた「のろい」の連鎖のようなものがあります。たとえば、虐待されて育った子供は、その辛さを分かっていながらも、親になると子供を虐待します。様々な依存症の問題も、形を変えながら親から子へと受け継がれます。残念ながら、頭でどれだけ知識を得ても、何千年前からも受け継がれている罪の性質が私たちの身体に深く染み込み、ひとりひとりをそのような「のろい」の連鎖に閉じ込められています。この世のすべての人はその意味でバビロン捕囚の「苦役」の中に未だなお置かれていると言えましょう。
しかし、私たちキリストにつながる者は、この「のろい」の連鎖から救い出されました。それは、「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖いだしてくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです」(ガラテヤ3:13)と記されているとおりです。ただし、現実には、自分が先祖の世代から受け継いできた悪い習慣は、クリスチャンになったからといってすぐに断ち切られることはありません。何百世代も積み上げられてきた罪の性質は、クリスチャンホームが何代も続く中で初めて「きよめられてゆく」ものであるとも言えましょう。ところが、その途中で、「教会に熱心に通ったけど、何も変わらなかった」と絶望してしまう方々が後を絶ちません。私たちの「救い」には常に、「すでに実現している」alreadyという部分と、「まだ実現していない」not yet という両面があります。私たちは何よりも、「望みによって救われている」(8:24)ということを忘れてはなりません。決定的なのは、「歩む方向」の問題なのです。キリストから離れている者は、知らないうちに『やみ』に向かって歩んでいる一方、キリストにある者は『光』に向かって歩んでいるのです。私たち自身が罪の性質から完全に解放されるのは、「新しいエルサレム」に入れられるときです。そして、この「慰めよ。慰めよ」という語りかけは、歩みの途中で疲れ失望しているすべての信仰者に対するメッセージなのです。
長い間、借金の返済に追い立てられていた方が、ゼロになるということがどれだけ希望に満ちているかということを語っておられました。「すべての罪に代わり、二倍のものを受けた」とは、先祖から受け継いだ不の遺産がなくなったばかりか、新しい事業を立ち上げるための資金が無条件に与えられるようなものです。しかし、現実には不の遺産が強く残っているように見えます。では、どのような意味で新しい「慰め」がもたらされたのでしょう。
2.三重の福音
それで、「二倍のものを主(ヤハウェ)から受けた」という、すでに現された「慰め」のことが、「呼ばわる者の声」(3節)、「呼ばわれと言う者の声」(6節)、「シオンに良い知らせを伝える者」(9節)という三重の福音として語られます。
第一の「呼ばわる者の声」は、「荒野に主(ヤハウェ)の道を整えよ。荒地で私たちの神のために大路を平らにせよ・・」(3節)と語りかけます。これは本来、長く不在だった王の帰還に先立ち、馬車が通る道路を整備することです。そのことが具体的に、「すべての谷は高くされ、すべての山や丘は低くなれ。起伏のある地は平地に、険しい地は平野とされよ」(4節)と描かれます。そして、新約ではバプテスマのヨハネが、「荒野で叫ぶ者の声」(マタイ3:3)としてその預言を成就したと紹介されます。なお、イザヤの原文では、整えられるべき道の状態が、「荒野・・荒地」と強調されています。ヨハネの働きは、王であるキリストを迎える道の状態を平らにすることにありました。
私たちの心は荒野の状態で、主が入ってこられるのを妨げる様々な障害があります。預言者たちはまず、それを整えるようにと呼びかけています。あなたの心には、主をお迎えする道が備えられているでしょうか?自己満足にひたり、心の渇きの声に耳をふさいでいるなら、どんなに福音が分かりやすく語られても理解することはできません。ですからイエスは山上の説教の初めで、「心(霊)の貧しい者は幸いです」と言われました。そして、バプテスマのヨハネは私たちの高慢や自己義認を指摘する者として遣わされました(ルカ3:4-8)。私たちの周りにもいつも心の貧しさを思い知らせてくれる預言者のような人々がいます。それは身近な家族であったり、職場の同僚であったり仕事仲間であったりします。その人々は、様々な欠点を指摘し、私たちが神のあわれみと慰めなしには生きてゆけない存在であることを思い知らせてくれます。しかし、そこに主を迎える「大路」が開かれているのです。
「そして、主(ヤハウェ)の栄光が現され、すべての肉なる者が共に見る」(5節)と言われますが、イエス・キリストこそ約束された「主(ヤハウェ)の栄光」の現れでした。それは、「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ1:14)と記されているとおりです。そして、イエスは、まず誰よりも、社会の最下層にいる「心の貧しい者」「悲しむ者」に、ご自身による「主(ヤハウェ)の栄光」を「現して」くださいました。そして、イエスこそ「そのように、主(ヤハウェ)の御口が語られた」ことの成就でした。
第二の、「呼ばわれ」という者の声に対し、イザヤは「何と呼ばわりましょう」と答えます。これはイザヤ6章のイザヤの召命につながる表現であり、続くメッセージこそ、荒野のような世界に住む私たちへの最大のメッセージです。そこではまず、「すべての肉なる者は草、その誠実(ヘセド)は、みな野の花のようだ」(6節)と語られます。「その栄光」と新改訳第三版で訳されていることばの原文は「ヘセッド」で、脚注にある「誠実」の方がふさわしい訳だと思われます。私たちは様々な場面で人の「不誠実」に怒りを覚えますが、私たち自身の内側にも同じような醜い心が巣食っています。心に余裕があるとき「私は結構、誠実な人間だ」と思っていても、それらは「野の花」のようにはかないものです。そのことが、「草は枯れ、花はしぼむ。主(ヤハウェ)のいぶきがその上に吹くから」(7節)と記されます。主はご自身のいぶき「霊」によって愚かな誇りを砕かれ、私たちがちりにすぎないことを悟らせてくださいます。それは非常に辛い現実ですが、詩篇などには、人と自分に失望する赤裸々な告白が満ちています。
しかし、人の「誠実」のはかなさを語った後ですぐに、「まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(8節)と記されています。明日何が起こるかを予想することは、株価予想のように当てになりませんが、この世界が「神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地」(Ⅱペテロ3:13)に向かっていることを確信できるなら、自分の労苦が無に帰するように見える中でも、堅く立ち続けることができます。その新しい世界では、私たちの愛の交わりが完成すると約束されています。今は、つぶやかざるを得ないことがあったとしても、新しい世界においては、すべての誤解が解け、互いを心から喜ぶことができるようになります。私たちはそれぞれ、キリストにつながっている限り、そのような愛の完成の世界に入れられることが約束されているのです。
第三に、「良い知らせ」の声は、「高い山に登れ。シオンに良い知らせを伝える者よ。力の限り声をあげよ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ」(9節)と繰り返され、その上で、「声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え」と言われながら、「見よ」ということばが三回繰り返されます。その第一は。「見よ。あなたがたの神を」という呼びかけです。イエスは、「私たちに父を見せてください。そうすれば満足します」というピリポに対して、「わたしを見た者は、父を見たのです」と言われました(ヨハネ14:8,9)。そして、イザヤはここで引き続き、「見よ。主、ヤハウェは力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは御もとにあり、その報酬は御前にある」(10節)と告げられます。「のろい」の世界では、労苦が実を結びませんでしたが、キリストを信じる私たちはすでに「祝福」の時代に入れられています。そのことを使徒パウロは、「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58)と記しています。
それと同時に、「主は羊飼いのように群れを飼い」と表現されつつ、「主の御腕」は、力強さとともに優しさの象徴とされ、「御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませている雌羊を優しく導く」(11節)と描かれます。それこそが新約で強調される「主(ヤハウェ)の栄光」で、罪人、取税人、遊女の仲間と呼ばれたイエスの姿に現されています。旧約の民は、外国の軍隊を打ち破ることができるような力に満ちた「御腕」ばかりを求めていました。しかし、主がもたらされた「二倍のもの」とは、まさに、主の御前に立つことがとうていできないような者を、あわれみをもって招き、内側から作り変えてくださるというあわれみに満ちた「愛」の「御腕」のことでした。
私たちはすでに、旧約の民が恋い慕っていた憧れの救い主キリスト・イエスに出会うことができました。そして、私たちの「いのち」はすでにキリストによって守られ、すべての労苦が無駄にならないという祝福の時代に移されています。ですから、私たちはもう、目の前の問題を恐れる必要はありません。すべての問題は、時が来たらキリストにあって解決することが保障されています。その確信を抱くとき、私たちはどんな中でも勇気に満たされます。
3.「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ」
12節からは「だれ・・」という問いが繰り返されますが(12,13,14,18,25,26節)、ここでは、「水」と「天」、「地のちり」と「山」という対比に目を向けさせながら、「だれが、手のひらで水を量り、手の幅で天を推し量り、地のちりを枡に盛り、山をてんびんで、丘をはかりで量ったのか」と、量りえないものが精巧に設計され創造されている様子が描かれています。そして、13,14節では、主は人間とは異なり、誰からも教えられることなく「悟りを得」、また「知識」と「英知」を持っておられるということが、「だれが、主(ヤハウェ)の霊を推し量り、主の顧問として教えたのか。主はだれと相談して悟りを得られたのか。さばきの道筋を、だれが主に教え、知識を授け、英知の道を知らせたのか」と描かれます。たとえば、「神が愛なら、なぜこのような悲惨が起こっているのか?」という問いがしばしばあります。しかし、そのように問うとき、人は、自分が思い描く「愛」の基準で神を査定しているのです。しかし、愛への渇きを起こしているのは主ご自身であられることを忘れています。また、たとえば、「こんな神など、信じるに値しない」というとき、人は自分の理性の枠組みで神を査定してはいないでしょうか。しかし、その理性は誰によって与えられたものでしょう。人は無意識のうちに、神よりも自分の理想を絶対化して、その枠で神を計ってしまいます。
15節では、「見よ」との繰り返しの中で、主の目には、「国々」も「島々」もちっぽけなものでしかないことが、「国々は、手おけの一しずく、はかりの上のごみのようにみなされる。見よ。主は島々を細かいちりのように取り上げる」と描かれます。そして、16節では、豊富なレバノンの木が、主の目には、たきぎにも不十分であるということが、「レバノンも、たきぎにするには、足りない」、また、その地に生きる数多くの獣も、「全焼のいけにえにするには、足りない」と描かれます。私たちは主のお役に立ちたいと願いますが、主の必要を満たすことは誰にもできません。自分が主のあわれみによって生かされているという自覚を欠いたすべての「良い行い」はむなしいものです。
17節では、どんなに強い国々も「主の前では無いに等しく、主には、むなしく茫漠とみなされる」と描かれます。当時のユダヤはアッシリヤ帝国とエジプトの狭間でかろうじて生き残っていましたが、「主にとっては」それらの巨大な帝国も「むなしく茫漠」に見えるというのです。これは、現代のアメリカ合衆国のコンピューターを駆使した大軍事力が、主の目には、太平洋に浮かぶ小島トンガ王国の王宮警備隊にまさりはしないというようなものです。
18-20節では、偶像礼拝のむなしさが描かれます。まず、「お前たちは、神をだれになぞらえ、神をどんな似姿に比べようとするのか」と記されますが、人は、神に「なぞらえ(似せて)」(18節)、「神のかたち」として、「高価で尊い」者として創造されました。しかし、人は、傲慢にも、自分の創造主を、「人のかたち」におとしめて刻んでしまったのです。その上で、「偶像」に焦点が当てられ、それが作られる様子が、「鋳物師が鋳て造り、細工人は金をかぶせ、銀の鎖を作る。貧しい者は、奉納物として朽ちない木を選び、巧みな細工人を捜し、動かない偶像を据える」と描かれます。どんなに美しい仏像も、人の作品であることは誰の目にも明らかです。それは、人の心の中から生まれた理想を表してはいますが、宇宙の創造主は、人の知性では決して推し量ることのできない方です。
「お前たちは、知らないのか。聞かないのか。初めから、告げられなかったのか。地の始まりのことを悟らなかったのか」(21節)とは、人間的な知恵を横に置き、「創世記」の原点に立ち返る勧めです。多くの人々は、この世界は永遠に存在するかのような誤解をしていますが、「地」には「始まり」があるということは明らかです。それは自然に始まったのでしょうか?たとえば、人々は、「宇宙のはじまり」に思いを向けますが、いかなる科学も、それに関して仮説は立てられても、実証することは不可能です。しばしば、人がアミーバーからの自然淘汰による進化の歴史の頂点に立つという大胆な仮説が、科学的事実であるかのように教えられますが、それが事実なら、優秀な遺伝子を持つ者が支配権を握ってより多くの子孫を残す社会システムが正当化されはしないでしょうか。
しかし、「主は地をおおう天蓋の上に住まわれ」(22節)とあるように、神は全宇宙を超越しておられる方です。「地の住民はいなごのようだ」とありますが、創造主の目には、人が知性や美貌で優劣を競い合っている姿は、「いなご」の競争のようなものにすぎません。しかし、「主は、天を薄絹のように延べ、住まう天幕のように広げ、君主たちを無に帰し、地のさばきつかさを茫漠のようにされる」(23節)とあるように、神の偉大さは、人の想像をはるかに超えています。17,23節で「茫漠」ということばが用いられますが、これは神がこの世界に光を創造し、動植物を生まれさせる前の原初のこの地の状態を指す表現です。ひとことで世界を創造された方は、国々の栄華やこの世の権力者を一瞬のうちに消し去ることができるという意味で、それは主の前に「茫漠」と見られているのです。
今、ここで、イエス・キリストこそが、「王たちの王。主たちの主」(黙示17:14)として全地を支配しておられます。そして、その方はご自身を無力さの象徴の「小羊」として紹介しながら、人が自分の力を誇る姿を笑っておられます。そして、神の前における人の力の頼りなさが、「やっと植えられ、やっと蒔かれ、やっと地に根を張ろうとするとき、主が風を吹きつけ、彼らは枯れる。暴風がそれを、わらのように散らす」(24節)と描かれます。主のあわれみがなければ、私たちの労苦の果実は一瞬のうちに消え去ってしまいます。
また25節で、主は「だれに、わたしをなぞらえ、比べようとするのか」と問われ、その方が「聖なる方」と紹介されますが、それは神の超越性を表すことばです。私たちの信仰は、その方がご自身を啓示してくださらない限り生まれ得ないものでした。そして、それを前提に、「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ」(26節)と呼びかけられます。これは大宇宙に目を向けることの勧めです。しかも、宇宙の創造主は、「万象を呼び出して数え、一つ一つその名をもって呼ばれる方」と描かれます。人は誰も天に輝く星の数を計算することはできませんが、神はすべてを数え、一つ一つの星を区別してそれに名をつけておられます。それと同時に、神はどんなにちっぽけなものをも区別しておられるということが、「精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない」と描かれます。ですから神は「いなご」に等しい私たち一人一人をも「その名をもって、呼ばれる方」であられます。私は何をしても良い結果が出ないと落ち込んでいたとき、このみことばを友人から贈られて深い感動を覚えたことがあります。
4.「鷲のように翼をかって」
「なぜ、ヤコブよ、言うのか。イスラエルよ。言い張るのか」(27節)とは、「神の民」がこの地であまりにも惨めで、「私の道は主(ヤハウェ)に隠れ、さばきの訴えは私の神に見過ごしにされている」と嘆かざるを得ない現実が目の前にあるからです。敬虔な信仰者にとっても、肝心のときに神を遠く感じざるをえないというのは、避けがたい現実でもあります。私たちはそんなとき、心が萎え気力を失います。しかし、私たちの主イエスもそのような神の不在を体験されました。しかし、その主の御苦しみによって全世界の罪が贖われました。その不思議に思いをめぐらすことの大切さが、私たちへの問いかけとして、「知ってはいないのか。聞いてはいないのか。主(ヤハウェ)は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない」(28節)と描かれています
ここでイザヤは、人の目を創造の原点に導き戻しますが、新約の時代に生きる私たちは、神を遠く感じるたびに、神がイエスを死者の中からよみがえらせてくださったという復活の力の原点に立ち帰ることができます。なお、「主は・・疲れることなく、弱ることなく」という表現は、「若者も疲れ、弱り」(30節)と対比されるとともに、主を待ち望む者は「走っても弱らず、歩いても疲れない」(31節)というクライマックスに結びつきます。「弱る(たゆむ)」とは、気力が湧かなくなる状態です。それは肉体の自然な反応ですが、主は「疲れた者には力を与える」と同時に、心が弱った者、「精力のない者には活気をつける」ことのできる方です。私たちに求められていることは、外からの刺激に反応しながら時間を惜しむように動き回る代わりに、「主(ヤハウェ)を待ち望む」ことです。それは、すべての働きを、主のみ前で静まるということから始め、まず何よりも、主からの力を受け、その上で動き出すということです。
しかも、「主(ヤハウェ)を待ち望む者は新しく力を得る」とは、食べて寝て元気を回復するという生物学的な力ではなく、鷲の翼が生え変わってより高く舞い上がるような、内側からの変化です。これは英語で、Changeではなく、Transformationとして表現される「新しさ」です。それが肉体の現実を超えた変化だからこそ、「鷲のように翼をかって上って行く」(31節)と表現されているのです。なお原文では、「できる」ということばは入っていません。それは、主を待ち望む者に起こる必然的な変化だからです。これは主の約束です。私たちは常に、何かをできている自分の方に目が向かいますが、「待ち望む」ことの中心は、自分の徹底的な無力さを認めながら、ただ主の救いを必死に待ち望むことです。「できる」とか「できない」とかの人間的な枠を超えて、神のみわざに期待することです。それは一瞬一瞬問われている心の状態です。私たちはいつでもどこでも「疲れて、弱り」ます。しかし、そこで主を待ち望むやいなや、主の御霊の働きが私たちのうちに始まり、「走っても弱らず、歩いても疲れない」という超自然的な変化が生まれるのです。私たちがこの主のみわざを体験できないのは、自分が強すぎるからかもしれません。
今、「主を待ち望む者」の心のうちに、「主(ヤハウェ)」ご自身が入って来てくださいました。私たちのうちにはすでに、死に打ち勝った「キリストの力」が働いています。そして、キリストこそ私たちにとっての「栄光の望み」です(コロサイ1:27,29)。私たちは自分を「いなご」のようにちっぽけに感じることがあるかもしれませんが、主は「地をおおう天蓋の上に住んで」おられると同時に私たちの内に住んでおられます。ですから私たちは、今、天におられる主のみもとに向かって、「鷲のように翼をかって上ってゆく」その途上にあるのです。そして私たちは、「主を待ち望む」ことによって、疲れることも、弱ることもない栄光の主の姿に似せられてゆく途上にあるというのです。
私たちは自分の弱さに直面させられる中で初めて、主が私に目を留めてくださったことの恵みが分かります。「地をおおう天蓋の上に住まわれる主」が、「いなご」のような私たちひとりひとりに「力を与え、活気をつけ」てくださいます。それは何よりも、「目を高くあげて、だれがこれらを創造したかを見よ」という呼びかけに応答することから始まります。私たちは知らないうちに、人間的な常識の枠の中に神のみわざを閉じ込めてはいないでしょうか。そして、このように私たちが自分の弱さと同時に、主にある強さを体験できるとき、私たちは傲慢になることも自分を卑下することもなく、主から与えられたそれぞれの固有の使命のために生きることができるのです。