エゼキエル12章〜15章「平安がないのに『平安』と言う者へのさばき」

2009年9月27日

フィリピンを初めて訪問して、正直なところ、その騒音と汚さと治安の悪さに閉口しました。私は決して、あの国には住めない人間だと思い、妙に、ドイツの生活をなつかしく感じました。でも、その地に住むクリスチャンの姿、教会のあり方には深い感動を覚えました。本当に彼らが好きになりました。主の平安が彼らの交わりの中に見られたからです。一方、日本は静かで清潔でとっても住みよい国です。しかし、何かに怯えているような人が何と多いことでしょう。一見したところ、日本は平安な国です。しかし、その内側は、あの物騒なフィリピンよりもずっと病んでいる面があるかもしれません。しばしば、主は、見せかけの平安を壊すことによって、人の心を主に向けさせようとされます

1.「わたしが言ったことはすべてもう延びることはなく、必ず成就する」

主はエゼキエルに、捕囚の民が、「反逆の家」であり、「見る目があるのに見ず、聞く耳があるのに聞こうとしない」という状態にあることを指摘しながら、「あなたは捕囚のための荷物を整え、彼らの見ている前で、昼のうちに移れ・・・あなたは壁に穴をあけ、そこから出て行け。彼らの見ている前で、あなたは荷物を肩に負い、暗いうちに出て行き、顔をおおって地を見るな。わたしがあなたをイスラエルの家のためにしるしとしたから」と、敢えて夜陰にまみれ、壁に穴をあけながらこそこそと慌てて抜け出す姿を見させせるように命じます(12:2、5,6)。

その上で主は、「彼らのうちにいる君主は、暗いうちに荷物を背負って出て行く。出て行けるように壁に穴があけられる。彼は顔をおおうであろう。彼は自分の目でその地をもう見ないからである」と描きます。実際、最後の王ゼデキヤは、そのように夜陰にまみれて町から逃げ出し、エルサレムに戻ることができなくなります(12:10-12)。そればかりか、主は彼について、「わたしはまた、彼の上にわたしの網をかけ、彼はわたしのわなにかかる。わたしは彼をカルデヤ人の地のバビロンへ連れて行く。しかし、彼はその地を見ないで、そこで死のう」(12:13)と言われます。これは彼が目をつぶされ、青銅の足かせにつながれてバビロンに連行されることを預言したものです(Ⅱ列王記25:7)。また、主はゼデキヤを守っていた軍隊に関しても、「わたしはまた、彼の回りにいて彼を助ける者たちや、彼の軍隊をみな、四方に追い散らし、剣を抜いて彼らのあとを追う」(12:14)と言われます。つまり、王国はバビロンによって滅ぼされたのではなく、主ご自身によって滅ぼされたというのです。そのことが、「わたしが彼らを諸国の民の中に散らし、国々に追い散らすとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう」と説明されます(12:15)。

また、同時に、「彼らが行く先の諸国の民の中で、自分たちの、忌みきらうべきわざをことごとく知らせるために、わたしが彼らのうちのわずかな者を、剣やききんや疫病から免れさせるとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう」(12:16)と、主は、残された民が反省すること通して、ご自身を知らせようともしておられるというのです。

そして、主はエルサレムを指し、「彼らは自分たちのパンをこわごわ食べ、自分たちの水をおびえながら飲むようになる。その地が、そこに住むすべての者の暴虐のために、やせ衰えるからである。人の住んでいた町々が廃墟となり、その地が荒れ果てるそのとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう」(12:19、20)と言われます。

これらの箇所で、主はご自身のさばきの目的を、三度にわたって、「わたしが主(ヤハウェ)であることを知ろう」と語っておられます(12:15,16,20)。私たちは、歴史が自分たちにとって都合のよいようにではなく、主(ヤハウェ)の栄光を現すために展開しているということを忘れてはなりません。私たちの目には、「なぜ・・」と思えるような悲惨を通して、主はご自身の力を現しておられるのです。マニラ近郊の想像を絶する悲惨な地域で最貧の人々の牧会に励んでおられる牧師が、「主よ、なぜこうなのですか・・」といつも嘆きながら祈っていると言っておられました。そのひとつの家庭集会を開いている家は、台風が来るとすぐに崩れそうな海の上に竹で部屋が組み立てられ、八畳ぐらいの場所に三家族15人が住んでいる、寝るときには交代で寝ています。しかし、その彼の働きの姿を垣間見せていただいた私たちは、彼の中にイエス・キリストの姿を見ることができました。薬物依存のリハビリ施設の中の教会、スラムで家庭集会を展開している教会、虐待された子供のシェルターとなっている教会、貧しい人々への教育に力を入れる教会、スラムの子供への幼児教育を展開している教会、どれもが、初代教会を思わせるように輝いていました。そして、私は、「主よ。どうして、彼らはこれほどに困難な働きに献身できるのでしょう・・・」と問いたくなりました。

一方、エルサレム滅亡のとき、民が飢えていることに何の関心も示さず、自分の身の安全ばかりを考え、民を見捨てて逃げたゼデキヤは、目の前で息子を殺されたあげく、目をつぶされ、バビロンに連行されて死にました。パウロは、罪の赦しを当然のことにように思い込む人に対し、「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります」(ガラテヤ6:7-9)と警告し、また励ましました。

2.「彼らは、平安がないのに『平安。』と言って、わたしの民を惑わし・・・」

そして、主は、エゼキエルに、「人の子よ。あなたがたがイスラエルの地について、『日は延ばされ、すべての幻は消えうせる。』と言っているあのことわざは、どういうことなのか」(12:22)と問われます。これは、イスラエルの民が、国の滅亡を説くエレミヤやエゼキエルの預言は成就しないと言っていることを非難したものです。それに対して、主は、「わたしは、あのことわざをやめさせる。それで、彼らはイスラエルでは、もうくり返してそれを言わなくなる。かえって、その日は近づき、すべての幻は実現する」とエゼキエルに言うように命じます(12:23)。

今も、「キリストの来臨の約束はどこにあるのか、父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造のままではないか」(Ⅱペテロ3:4)と言う人がいます。それに対しペテロは、「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主はある人が遅いと思っているように、その約束のことを遅らせているのではありません。かえって、あなた方に対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むのを望んでおられるのです」(同3:8,9)と語っています。キリストは再び来られます。その時、この目に見える天も地も焼き尽くされます。それはキリストの救いを軽蔑する者たちへの恐ろしい裁きの日になることを忘れてはなりません。

そして主は、「もう、むなしい幻も、へつらいの占いもことごとく、イスラエルの家からなくなるからだ。それは、主であるわたしが語り、わたしが語ったことを実現し、決して延ばさないからだ。反逆の家よ。あなたがたが生きているうちに、わたしは言ったことを成就する」(12:24、25)と言われます。つまり、主はご自身が預言者を通して語られたことを文字通りに成就することによってご自身の栄光を表されるというのです。このエゼキエルの預言の約30年前、ヨシヤ王のもとで神殿の中から律法の書が発見され、エルサレムでは徹底的な悔い改めの祈りがささげられたと記されています。それは申命記28章などに記されている神の「のろい」の預言を見たからだと思われます。ところが、彼らはすぐにそれを忘れ、他の神々を拝むようになってしまいました。悔い改めがあまりにも一時的なものにとどまったことに主は心を痛め、今、ご自身のことばが必ず実現するということを示そうとしておられるのです。

そのような中で、主は、「イスラエルよ。あなたの預言者どもは、廃墟にいる狐のようだ」(13:4)と言われます。「狐」は「ジャッカル」と訳されることもありますが、それは狐やジャッカルが廃墟を住まいとするように、預言者自身がエルサレムの廃墟とされることを望んでいるという皮肉です。そして主は、彼らの姿勢について、「あなたがたは、主の日に、戦いに耐えるために、破れ口を修理もせず、イスラエルの家の石垣も築かなかった。彼らはむなしい幻を見、まやかしの占いをして、『主の御告げ。』と言っている。主が彼らを遣わされないのに。しかも、彼らはそのことが成就するのを待ち望んでいる」(13:5、6)と非難しておられます。「むなしい幻」「まやかしの占い」とは、エルサレムは滅ぼされることはないという人々に耳障りのよいことばですが、彼らはそのような楽観論を言い広めることによって、民の悔い改めを妨害し、主のさばきの預言が成就することを待ち望む形になっているというのです。

そして主は、「わたしは、むなしい幻を見、まやかしの占いをしている預言者どもに手を下す」と言われながら、それを通して、「このとき、あなたがたは、わたしが神、主であることを知ろう」と、さばきを通してご自身の栄光を現されると宣言されます(13:9)。そして、彼らの過ちを、「実に、彼らは、平安がないのに『平安。』と言って、わたしの民を惑わし、壁を建てると、すぐ、それをしっくいで上塗りしてしまう」(13:10)と指摘します。これは現代にも通じることでしょう。自分の属する会社や組織に危機が迫っているときに、「平安」を言いふらし、目に見える裂け目をしっくいで上塗りするように、目先の対処療法しか考えない者こそ、最も忌まわしい指導者です。

それに対して主は、「しっくいで上塗りする者どもに言え。『それは、すぐはげ落ちる』」(13:11)と言われます。そればかりか主は、「わたしは、憤って激しい風を吹きつけ、怒って大雨を降り注がせ、憤って雹を降らせて、こわしてしまう。あなたがたがしっくいで上塗りした壁を、わたしが打ちこわし、地に倒してしまうので、その土台までもあばかれてしまう」(13:13、14)と言われます。そして、このさばきを通して再び、「それが倒れ落ちて、あなたがたがその中で滅びるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう」と説明されます(13:14)。

その上で主は、「平安がないのに平安の幻を見ていたイスラエルの預言者どもよ」(13:16)と呼びかけながら、彼らを、「自分の心のままに預言するあなたの民の娘たち」とも言い換えながら、彼女たちの働きを、「あなたがたは、ひとつかみの大麦のため、少しばかりのパンのために、まやかしに聞き従うわたしの民にまやかしを行ない、死んではならない者たちを死なせ、生きてはならない者たちを生かして、わたしの民のうちでわたしを汚した」と非難しました(13:17、19)。人は、自分の願望を肯定してくれることばを真実と受け止めたいという心理がありますから、偽預言者たちは、自分の生活の糧を得るという目的のために、耳障りのよい言葉を伝え、それによって真実を述べ伝える預言者を死なせ、また、民を滅亡に導く指導者を生かしてしまうのでした。

そして、主は、偽預言者の行いを、「あなたがたは、わたしが悲しませなかったのに、正しい人の心を偽りで悲しませ、悪者を力づけ、彼が悪の道から立ち返って生きるようにしなかった」(13:22)と非難しながら、彼らの対するさばきを、「それゆえ、あなたがたは、もう、むなしい幻も見ることができず、占いもできなくなる。わたしは、わたしの民をあなたがたの手から救い出す。このとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう」(13:23)というさばきを宣言されます。神は誰よりも、神のみことばを変えるものを憎まれるのです。

日本の国にも様々なうめきがあります。そのような中に主の教会が置かれています。私たちが自分たちの都合や心地よさばかりを優先し、この社会のうめきから耳を閉ざし、平安がないのに平安の幻を見ているようであるなら,主に責任を問われます。教会が数的に成長し、大きな会堂が建てられるのは決して悪いことではありません。しかし、教会が自己増殖を目的にするときにメッセージは歪められます。世の人々に受け入れられやすいことを語るようになるからです。しかし、そのとき、その教会は、主の大使館としての使命を捨てていることになります。

私たちは、託された主のみことばをまっすぐに伝えるのでなければ、主の大使としての地位を失うことになるということを決して忘れてはなりません。使徒パウロは、「もし、だれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです」(ガラテヤ1:9)と警告しています。日本の教会は、牧師に様々なことを期待しすぎると言われます。私たちが訪ねたセブ市のスラムに接する元気のいい教会は数年前から無牧です。それでも毎週20箇所の貧しい家で家庭集会を開き、学校に行けない子供の世話をし、五人の少年に住まいを提供していました。でも、日曜ごとに、みことばをとりつぐ牧師は与えられています。つまり、礼拝説教以外はすべて、信徒が行っているのです。もちろん、教会には様々な成長段階がありますから安易な比較は避けるべきでしょう。しかし、みことばの宣教という土台があれば、教会の働きは信徒によって無限に広がり得るのです。

3.「彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけ」

「イスラエルの長老たちの幾人かが来て」(14:1)、エゼキエルに主のみこころを尋ねに来ました。その際、主は彼に、「人の子よ。これらの者たちは、自分たちの偶像を心の中に秘め、自分たちを不義に引き込むものを、顔の前に置いている。わたしは、どうして彼らの願いを聞いてやれようか・・・主であるわたしが、その多くの偶像に応じて答えよう」(14:3、4)と言われます。これは、長老たちが、ひそかに異教の偶像を拝みながら、どちらの神々が自分たちに幸いをもたらしてくれるかを比較するような心の姿勢を持っていたからです。それはまるで、「どっちの神々が力があるかを見比べよう・・・」という傲慢な姿勢です。それに対して主は、ご自分が偶像の神々に勝るということを示す代わりに、彼らの心が偶像の神々に傾いているということ自体をさばきの理由とすると言っておられます。

そして、主はそのさばきの目的を、「偶像のために、みなわたしから離されてしまったイスラエルの家の心をわたしがとらえるためである」(14:5)と言われます。神は、モーセの時代、エジプトのパロを圧倒することによって、また、サムエルの時代、契約の箱の前でダゴンの偶像を地にうつぶせに倒すことによってご自身が世界の支配者であることを示してこられました(Ⅰサムエル5章)。それに応答して、イスラエルの民は何度も、もう決して偶像を拝むことはしないと約束してきました。それなのに彼らはなおも、「どっちの神がご利益をもたらしてくれるか・・・」いう態度をとっています。それに対し、主は、彼らを徹底的に懲らしめることによってご自身こそが天地万物の創造主であることを示そうとしておられます。「主を試みてはならない」(申命記6:16、マタイ4:7)とあるように、心の中で主をあがめようとしない者は、主のさばきを受けることによって、イスラエルの神、主(ヤハウェ)の栄光を見ることになるというのです。

「人の子よ。国が、不信に不信を重ねてわたしに罪を犯し、そのためわたしがその国に手を伸ばし、そこのパンのたくわえをなくし、その国にききんを送り、人間や獣をそこから断ち滅ぼすなら、たとい、そこに、ノアとダニエルとヨブの、これら三人の者がいても、彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけだ」(14:13、14)と記されますが、ノアとヨブはイスラエルという国ができる前の信仰の勇者です。なおダニエルがエゼキエルと同時代にバビロンの王宮で生きていた者と同一人物なのかは不明です。多くの学者は、ヘブル語の綴りの違いやヨブなどとの比較から、ウガリット神話に名が出てくる伝説的な義人ダニエルであろうと解釈します。どちらにしても、ここの趣旨は、どのような立派な人間が町にいても、主のさばきは差し止められることがなく、彼らは自分のいのちを救うのがやっとであるという意味です。そのことが再び、「もし、その地にわたしが悪い獣を行き巡らせ、その地を不毛にし、荒れ果てさせ、獣のために通り過ぎる者もなくなるとき、たとい、その地にこれら三人の者がいても・・・彼らは決して自分の息子も娘も救い出すことができない。ただ彼ら自身だけが救い出され、その地は荒れ果てる」(14:15、16)と描かれます。そして、それと基本的に同じ表現が、剣と疫病によるさばきにおいても記され、三人の義人がいても、彼らは自分以外の者を誰も救うことができないということが三度繰り返されます(14:17-20)。

日本の仏教では、死者のためにお経を唱えることで死者が成仏できるかのように理解されていますが、浄土真宗の開祖、親鸞は、「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏まうしたること、いまださふらわず」と、自分の念仏という善行によって死んだ親を救うなどということはできないと言い放ちました。それこそ、人間の善行の限界を見通した知恵でしょう。まして私たち真の福音を知る者は、救いはすべて神の一方的なあわれみによるということを知っているのですから、まず、何よりも、各人が神の前に心からへりくだる必要があります。私たちはみな、ひとりで神の前に立たされます。そのとき、あなたの親や兄弟、友人が、どれほど敬虔な信仰者であり、あなたのために祈っていても、あなたが神の前にへりくだっていないなら、最終的なさばきから逃れることはできません。

4.「このとき、あなたがたは、わたしがそこでしたすべての事はゆえもなくしたのではないことを知ろう」

そして、「見よ、そこに、のがれた者が残っていて、息子や娘たちを連れ出し、あなたがたのところにやって来よう。あなたがたは彼らの行ないとわざとを見るとき、わたしがエルサレムにもたらしたわざわいと、わたしがそこにもたらしたすべての事について、慰められよう。あなたがたは、彼らの行ないとわざとを見て慰められる。このとき、あなたがたは、わたしがそこでしたすべての事はゆえもなくしたのではないことを知ろう」(14:22、23)と不思議な記述があります。「慰められる」とは、「哀しみ」「哀れみ」とも訳されることばで、もともと「深く呼吸をする」という意味があります。彼らは、生き残った者たちの悲惨さを見て、深く哀しみ、同時に、すべてが神のみわざであることを心から悟るようになるというのです。当時は、ある民の敗北は、その民が礼拝している神の敗北と同一視されました。しかし、イスラエルの場合は、自分たちの敗北を通して、自分たちを打ち破ったバビロンの神々を拝む代わりに、このさばきをもたらしたイスラエルの神を拝むようになったのです。

15章ではイスラエルの民が「ぶどうの木」にたとえられます。ぶどうの木は、豊かなぶどうの実をならせることができますが、それ以外では何の役にも立ちません。それで家を建てることもできないばかりか、小さな器具を作ることさえできません。せいぜい、たきぎとして用いられることもありますが、イスラエルは「その中ほども焦げてしまえば、それは何の役に立つだろうか」(15:4)と言われるような状態になっています。それは彼らがすでに、二度にわたるバビロン捕囚によって、その中心を失っていることを示しています。それで、主は、「わたしはエルサレムの住民を・・・森の木立ちの間のぶどうの木のように、火に投げ入れてしまう・・・彼らが火からのがれても、火は彼らを焼き尽くしてしまう」(15:6、7)と言われます。そして、その結論として、「わたしが彼らから顔をそむけるそのとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう」(15:7)と再び記されます。イエスも、「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くのみを結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」と言いつつ、同時に、「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます」と警告しています(ヨハネ15:5,6)。

イスラエルは神の栄光を現すために召された民です。しかし、バビロンによって滅ぼされたとき、イスラエルは自分たちがさばかれることによって、主の栄光を現してしまいました。主は、さばきを通して、「彼らは、わたしが主(ヤハウェ)であることを知ろう」と繰り返しておられます。私たちは、主のさばきを受けることによってではなく、主のあわれみを受けることによって、主の栄光を現すものでありたいものです。そのために何よりも大切なことは、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(ヘブル12:2)とあるように、いつでもどこでも、どんな状況の中でも、「心の中でキリストを主としてあがめる」(Ⅰペテロ3:15)ことが求められています。そのとき、私たちは何もしていないようでも、「地の塩」「世界の光」とされています。力を抜いて、イエスにつながり続けましょう。