ルカ21章10〜36節「夜はふけて、昼が近づきました」

2009年7月12日

私たちはときに、イエスを信じても、かえって問題が増えるばかりと失望したり、自分を見ても何も成長していないどころか退歩しているようにしか思えないことがあります。また、「この峠を越えたら、見晴らしのよい風景が待っている・・」と一生懸命に歩いてきたのに、「かえって見通しが悪くなるばかり・・・」と思えるようなことがあるかもしれません。そのようなとき、「夜はふけて、昼が近づきました」(ローマ13:12)というみことばが大きな慰めになります。そこには、暗闇が深くなればなるほど、夜明けに近づいているという希望が込められているからです。初代教会の時代のエルサレムは信仰の中心地であり、現代のカトリック教会におけるローマのような存在でした。しかし、イエスを拒絶したユダヤ人たちがローマ帝国に反抗し、エルサレムが壊滅したとき、クリスチャンたちはすでにその町を後にして、世界中に広がっていました。エルサレムの苦しみが、福音の広がりの契機となったのです。私たちの前にも、目を覆いたくなるような悲劇が起こるかもしれません。しかし、私たちの成長はそこから始まるのです。

1.「どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい」

イエスは、当時のエルサレム神殿の崩壊を預言されました。それはヘロデ大王が多くの年月と財を費やして拡張したもので、その規模と美しさは世界の七不思議を上回ると言われ、敷地面積は有名なアテネのアクロポリス神殿の二倍もありましたから、それが破壊されるということは、当時の人々にとって、世界の終わりを意味しました。

それを聞いた人々は、イエスに、「先生。それでは、これらのことは、いつ起こるのでしょう。これらのことが起こるときは、どんな前兆があるのでしょう」(21:7)と質問しました。それに対し、イエスは、「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私がそれだ』とか『時は近づいた』とか言います。そんな人々のあとについて行ってはなりません。戦争や暴動のことを聞いても、こわがってはいけません。それは、初めに必ず起こることです。だが、終わりは、すぐには来ません」(21:8、9)と言われました。

興味深いのは、偽預言者たちは、「時は近づいた」というのに対して、イエスは、「終わりは、すぐには来ません」と語っているということです。つまり、偽預言者の特徴は、「私がそれだ」と自分の権威を主張しながら、世の混乱がすぐに収束するようかのように語ることにあるというのです。いつの世でも、人々はインスタントな解決を求め、偽預言者はそれに答えようとしますが、イエスは、「戦争や暴動」は、神のご支配の中で起こることだと語られたのです。私たちは、目の前の混乱を見て、「神がこの世界の王なら、なぜこのような悲惨が許されるのか・・・」と疑問に思いますが、イエスは、それは驚くべきことではなく、起こるべきして起きていることとして語っているのです。

それから、イエスはご自身の弟子たちに、「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現れます」(21:10、11)と言われました。つまり、戦争や飢饉や疫病、天変地異などは、世界の終わりではなく、また前兆でもなく、それらとは別に、「天からの前兆」があるというのです。つまり、地上の混乱を見ても、あわてる必要はまったくないというのです。

イエスは、それ以上に、「しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕らえて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう」(21:12)と、これらの世界の悲劇が起きる前に、弟子たちの悲劇が起きると言われました。たとえば、回心前のパウロは、「主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて・・・この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いてゆく」という権限を受けて次々とキリスト者を捕縛していましたが、それはイエスの預言が成就したことの一部でした。私たちは、そのようなパウロの過ちが、後に、パウロの命をかけた伝道につながっていることを知っています。私たちは、どのようなわざわいに出会っても、それを主の救いのご計画の一部と捉えることができます。

ですからイエスは、「それはあなたがたのあかしをする機会となります」(21:13)とさえ言われました。たとえば、ユダヤ人たちがステパノを石打ちで殺したとき、回心前のパウロはその様子を身近なところで見ていました(使徒7:58-60)。彼は、石を投げつける人々の着物の番をしていたからです。ステパノは、石を投げつけられながら、「主イエスよ。私の霊をお受けください」と、「主を呼び」ました。そして、ひざまずいて、「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫びながら、眠りにつきました。パウロにとってそれは何より衝撃的な出来事だったことでしょう。ステパノの殉教の場に立ち会ったことが、彼の回心の最大の準備になったことは間違いありません。

「それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい」(21:14)と記されているのは、ステパノの例を見ると明らかです。彼の言葉が、とっさに心の底から出たものだったからこそ、それが人々にとって衝撃的なものになったのです。またこれは同時に、私たちが、将来起こるかもしれない迫害の心配を先取りする必要がないようにという意味でもあります。そんなことを考えるだけで、人は萎縮してしまうからです。私たちが遭遇するすべての危機的な状況は、神の御手の中にあります。ですから私たちにとっての危機は、神のみわざが現される機会となるのです。そのことを主は、「どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます」(21:15)と言われました。イエスは、以前、弟子たちに向かって、「人々があなたがたを、会堂や役人や権力者などのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。言うべきことは、そのとき聖霊が教えてくださるからです」(ルカ12:11,12)と言われました。

なお、これはメッセージや証しの準備をする必要がないという意味ではありません。ペテロは、同じ「弁明」ということばを用いながら、「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人々には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい」(Ⅰペテロ3:15)と勧めました。私たちは日頃から、いろんな機会またはいろんな人との出会いに備えて、いろんな証しのパターンを用意しておくことは極めて有益なことであることは間違いありません。

ただ、イエスはここで、来るかもしれない迫害を事前に想像し過ぎることの危険を語っているのだと思われます。たとえば、私は、信仰に導かれる前に、遠藤周作の「沈黙」を読み、とっても暗い気持ちになりました。しかし、まだ自分の身近に起きてもいない迫害を想定し過ぎては信仰の決心もできないばかりか、今ここでの幸せを味わうこともできなくなることでしょう。ですから、「迫害にあったら、私はそれに耐える自信がないのですが・・・」という問いかけに対しては、「あらかじめ考えないことに、心を定めなさい」というイエスのことばをもって答えるべきでしょう。

2.「あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます」

なお、それでもイエスは更に悪いことが起こるかもしれないことを、「しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もありわたしの名のために、みなの者に憎まれます」(21:16、17)と言われました。これは何とも不思議なことです。普通の宗教指導者なら、「私についてきたら、あなたの周りには幸せが広がります」と保障することでしょうが、イエスはまったくの逆を言われました。それは、そのように人間の目にはわざわいとしか見えないことも、人々に、この世の命を超えた希望を示す契機になるからです。

イエスはそのことを、「しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません」(21:18)と言われました。これはもちろん、イエスに忠実に従う者は、毛が薄くなる心配がないという意味ではありません。実際、先日のプロテスタント宣教150周年記念大会の音楽を指揮しておられた心から尊敬する友の頭を見てそれを実感しました。これは、かつてイエスが、「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」(マタイ10:29,30)と言われたことに通じます。しかも、この少し前では、「中には殺される者もある」と言われているのですから、この意味は、マタイの場合と同様に、「あなたがたの父のお許しなしに・・・」という前提から理解するべきことばです。ですから、「髪の毛一筋も失われない」とは、私たちに与えられた「永遠のいのち」は、決して失われることがないという意味と理解すべきでしょう。

そして、そのことが、「あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます」(21:19)と言われています。これも、「私は忍耐心がないから、だめかも・・・」と思わせるために記されていることではありません。私たちの信仰とは、「神が私たちを守り、ご自身のみもとにまで導いてくださる」という将来を信じることです。信仰が自分の意思によるものであるなら、迫害の中で信仰を捨てるということもありえましょうが、信仰は、神が生み出してくださったものであり、神が全うしてくださるものであるのですから、私たちは「忍耐する」ことが神によって可能にされるのであり、また、神によって、「自分のいのちを勝ち取ることができる」のです。失われるかもしれない「いのち」を「永遠のいのち」などとは言えないのですから、自分の不安定さを見て一喜一憂する必要などありません。

そればかりか、イエスは、「しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都に入ってはいけません。これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです」(21:20-22)と言われました。これは、極めて具体的に当時の人々を救った預言となりました。

このときから約四十年後、エルサレムはローマ軍に包囲されました。そのときは、多くのユダヤ人たちが、天然の要塞といわれるエルサレムの中に逃げ込みました。そのため、町の中では食料がすぐになくなり、軍人は武力を用いて同胞の女性や老人、子供から食料を奪い、多くの人々が飢え死にしました。しかし、キリスト者は、このイエスのおことばに従い、ローマ軍が迫ってきたときに、すぐにエルサレムから逃げ出しました。しかし、イエスのことばを信じなかった人々は、後に逃げ出そうと思っても、城門が堅く閉じられ、逃げることができなくなりました。

イエスは、その悲劇のことを、「その日、哀れなのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わる(満ちる)まで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます」(21:23、24)と言われました。イエスは、私たちの罪の身代わりに、罪に対する神の御怒りをご自身で引き受けてくださいました。しかし、イエスの救いを拒絶したものは、罪に対する神の御怒りを自分で引き受けなければならないのです。これは、バビロン捕囚と重なります。なお、この最後の文章は、厳密には、「異邦人の時が満ちるまで・・」と訳すべきでしょうが、これは、かつて主がエレミヤを通して、「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる」(29:10)と言われたことに通じます。神のさばきの裏には、常に、神の民を悔い改めに導くための神のあわれみが隠されていることを決して忘れてはなりません。また「エルサレムは異邦人に踏み荒らされる」という「時」も、神が定めた「時が満ちる」というご計画の中で起きたことです。

パウロは、それを前提に、「イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなるときまでであり、こうして、イスラエル人はみな救われる、ということです」(ローマ11:25,26)と言ったのではないでしょうか。つまり、「異邦人の完成」と「イスラエルはみな救われる」ということが、世界のゴールとして描かれているのです。それは、全地球に対する神の救いのご計画が成就するときを意味します。この世界の歴史を完成に導くのは神のみわざです。私たちに必要なのは、神のご計画が完成するのを待ち続けるという「忍耐」です。そして、私たちは、この聖書に記された神のさばきと救いのストーリを読むことによって、忍耐を養っていただくことができます。

3.「からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです」

「そして、日と月と星には、前兆が現れ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです」(21:25、26)とは、明らかにエルサレムの滅亡というよりは目に見える世界の終わりを示す表現です。それは、後にペテロが、「その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます」(Ⅱペテロ3:10)と語っているとおりの世界の終わりの前兆です。

ただ、それは未信者にとっては恐怖の時でも、逆に、私たちにとっては希望の時です。そのことが、「そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです」(21:27、28)と記されています。「贖い」とは、奴隷であった者が代価を支払われて自由にされることですが、ここでは、私たちの朽ちるべき身体が、死の束縛から解放されて、栄光の復活の身体に造り変えられるときをさします。それは、「人の子」が栄光のうちに現れることによって実現するというのですが、「雲に乗って来る」という表現は、ダニエル書で、「見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ・・・この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく彼に仕えることになった」(7:13,14)と預言されていたキリストの支配の完成の時をさします。

イエスがユダヤ人議会から死刑判決を受けたのは、イエスが大祭司に向かって、ご自分は神の子キリストであることを認めるとともに、「今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります」と、ご自分がダニエル書に預言された救い主であることを断言したからでした(マタイ26:64)。そして、私たちにとって、それは喜びに満ちた希望であり、だからこそ私たちは、世の終わりの兆候を見ながら、怯えることなく、「からだをまっすぐにし、頭を上に上げる」ということができるのです。

「世の終わり」と言われる「時」は、キリストに信頼する者にとっては、世界の完成の時、この世の苦しみから解放される喜びの時を指します。ですから私たちは、目に見える世界に混乱が増し加わっても、現実を超えた希望を抱き続けることができます。その結果、状況に関わりなく、「今ここで」、喜びながら生きることができるのです。

なお、イエスはたとえを用いながら、「いちじくの木や、すべての木を見なさい。木の芽が出ると、それを見て夏の近いことがわかります。そのように、これらのことが起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい」(21:29-31)と言われました。イエスは、自然の営みから夏の到来を見定めるのと同じように、「時のしるし」(マタイ16:3)を見分けるように勧めました。不思議なのは、エルサレムの滅亡から天の万象が揺り動かされるという、悪いことばかりが続くのを見て、「これらのことが起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい」と言われていることです。それは、目には見えない神のご支配が、目に見える形で現されるとき、つまり、「神の国の完成の時」を意味します。

そして、イエスは、「まことに、あなたがたに告げます。すべてのことが起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません」(21:32)と言われましたが、「この時代」とは、闇と光が共存する時代、この世の悪が力を持っているように思える不条理が支配する時代を指します。そして、続くことばは、「この天地は過ぎ去ります。しかし、わたしのことばは決して過ぎ去ることがありません」(21:33)と訳すべきかと思われます。なぜなら、「過ぎ去る」という言葉が三度用いられながら、「この(闇と光)の時代」、この目に見える「天地」が「過ぎ去る」ことと、イエスの「ことばが過ぎ去る」ことがなく永遠に残るということが対比されて記されているからです。今の時代は、「初めに、神が天と地を創造された」から始まりましたが、この世界は、「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する」(イザヤ65:17)という時代に向かっているからです。神のみことばが、この世界の歴史を動かしています。ですから、私たちは、この世の流れに惑わされず、いつでもどこでも、神のみことばによって、世の流れを見定める必要があるのです。

そして最後にイエスは、「あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです」(21:34、35)と言われました。キリストの再臨が近づくに連れて、世の混乱が増し加わるということは、私たちの努力が目に見える形では報われないと思える状況が続くことを意味します。そのようなとき、私たちはやる気を失い、「心」が「沈み込んで」しまっている可能性があります。それは、自暴自棄に陥って「放蕩や深酒」に走ったり、「この世の煩いのため」に、「心が沈み込んで」しまうことがあるからです。

しかし、イエスは不思議にも、この世が悪くなればなるほど、「からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい」と勧められたのです。それは、キリストの弟子たちが、「やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っている」(21:36)ことができるためです。私たちはいつでも「目を覚まして」祈っている必要があります。肉体や心の休息は大切ですが、私たちの「霊」は、いつでもどこでも、「人の子の前に立つ」ことを意識しながら、キリストのまなざしを意識して生きている必要があります。

イエスの預言については黙示録で詳しく展開されます。20章には「千年の間」、サタンが縛られてこの地に平和が実現することが書いてありますが、その前の11章から13章には、サタンの勢力による三年半の大迫害のことが、「42ヶ月」、「1,260日」、「ひと時とふた時と半時」という異なった表現で繰り返し記されています。それは将来的な大患難期とも、歴史上に現れた様々な大迫害の時を指すとも解釈できますが、そこで共通して確認できるのは、大迫害の時代は、いつも意外に短い期間であったということです。それは、「神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません」(Ⅰコリント10:13)とあるように、苦しみの時代を常に短くしてくださるからです。苦しみは束の間で、祝福は永遠に続くという神の支配を覚えたいと思います。

たとえば、ローマ皇帝コンスタンチヌスは、紀元313年キリスト教を公認しました。しかし、その直前、皇帝ディオクレチアヌスは最大の信仰迫害者でした。彼の時代の末期の303年から304年、帝国のあらゆる牢獄は、教会の指導者で一杯になっていました。教会堂は破壊され、聖書は焼かれたばかりか、キリスト教徒を保護しようとしただけで、そのような人は厳しい刑罰が下されました。しかし、その後、数年の間に状況は180度変わりました。コンスタンチヌスは、紀元312年に、十字架の旗を掲げて内戦に勝利したからです。まさに、最も暗い時代は、キリスト教会の勝利の前触れでした。ただし、それは国家権力が教会の問題に介入する始まりともなりました。ローマ皇帝までもがキリスト教徒となったとき、キリスト信仰を持つことは、権力を握る上で有利にさえなりました。そして、そこから信仰の堕落が始まりました。ローマ帝国が、4世紀末にキリスト教を国の宗教にしたとき、教会の堕落は決定的なものになっていったのではないでしょうか。神を真実に求める人々は、敢えて荒野に出て隠遁生活の中で神との交わりを深めました。その当時始まったのが修道院制度です。その始まりはきわめて純粋なもので、神との生きた交わりや正統的な信仰は、この荒野の修道院で守られ、高められたといわれます。これを見るとき、世界の終わりと思える時代は、栄光の時代の始まりであり、また、栄光の時代の始まりと思えたときは、堕落の始まりであったということがわかります。まさに、真実の信仰は逆境の中でこそ育まれるものだったのです。しかし、それは、私たちは常に自分から苦しみを選び取らなければならないという意味ではありません。所詮、この世界では、喜びよりも苦しみの方が多いというのが現実です。しかし、私たち信仰者は、すべてが順調な中で、神の恵みを心から喜ぶことができるばかりか、周りが真っ暗と思えるような中でも、なお喜ぶことができるのです。キリストを待ち望むものにとっては、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい」(Ⅰテサロニケ5:16-18)という勧めは、周りの状況如何にかかわらず実行可能なことなのです。それはキリストの支配を信じているからです。