エレミヤ50章〜52章「エルサレムを心に思い浮かべよ」

2009年7月5日

私は証券会社にいたせいか、「市場経済」を軽蔑するような最近の世論に反発を感じます。つい、この前までは、家庭の主婦までが株や外国為替でお金儲けができると喜んでいたのですから、人の心の変わりやすさを思うばかりです。私たちは、切れ味のよい包丁は、同時に、恐ろしい武器にもなるということを忘れてはなりません。

人は、便利な道具に心を奪われすぎると自分と人を害することになります。エレミヤ書の面白さは、この世の富と権力の象徴であるバビロンと戦う代わりに、心から仕えることを勧めるとともに、時が来たら、そのバビロンから速やかに逃れることを勧めていることにあります。現代的に言うと、たとえば、今勤めている会社に、誠心誠意仕えると同時に、心を会社に売り渡すことなく、いつでも去ることができる心備えをしておくということです。この世の富や力を軽蔑することもなく、同時に、それにたましいを奪われない生き方、それこそが信仰生活の醍醐味です。

この書で、主は、「わたしがあなたがたを引いて行ったその町(バビロンの中)の繁栄を求め、そのため主(ヤハウェ)に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから」(29:7)と言いながら、最終的には「バビロンの中から逃げ、カルデヤ人の国から出よ・・・遠くから主(ヤハウェ)を思い出せ。エルサレムを心に思い浮かべよ」(50:8、51:50)と言っておられます。パウロも、「私たちの国籍は天にあります」(ピリピ3:20)と言っていますが、それはこの世の生活を軽蔑することではなく、思いを地上だけに向けて自分の欲望を神とするような生き方をすることなく、やがて実現する「新しいエルサレム」を待ち望みながら、今ここで課せられている責任を地道に果たすことの勧めでした。

1.「わたしが残す者の罪を、わたしが赦す」

エレミヤは、当時の偽預言者たちが「主はバビロンの王のくびきを打ち砕く」(28:4)などと預言していた中にあって、ひとり、「あなたがたはバビロン王のくびきを首に差し出し、彼とその民に仕えて生きよ」(27:12)と言いながら、バビロンへの服従を勧めていました。人々は、エレミヤをバビロン王の手先かのように誤解していましたが、50、51章では、彼は、バビロンに対する主のさばきを驚くほど詳しく、また、多くのことばをもって語ります。この預言は、バビロン帝国がエルサレムを陥落させて間のなくの頃、向かうところ敵なしの絶頂期になされたものだと思われます。そこではまだ、ペルシャ帝国がバビロンの脅威になるなどと誰も想像はしておらず、これらの箇所にも後にペルシャに吸収される「メディヤ人の王たち」(51:11,28)という固有名詞が出てくる程度です。これは、今から五年前に、米国の証券会社や投資銀行の破滅を予言すること以上に、はるかに奇想天外なことだったでしょう。

「諸国の民の間に告げ、旗を掲げて知らせよ」(50:2)とあるのは、バビロンの滅亡が、圧制に耐えているすべての国々の希望になるからです。「ベルははずかしめられ、メロダクは砕かれた。その像ははずかしめられ、その偶像は砕かれた」とありますが、「ベル」とはバアルとも訳される神々のタイトル、「メロダク」とは。「マルドゥーク」とも訳される固有名詞であり、それが「バビロンは捕らえられた」という象徴とされます。国と偶像は一体だからです。

「なぜなら、北から一つの国がここに攻め上り、この地を荒れ果てさせたから」(50:3)とは、エルサレム陥落の約50年後の紀元前539年に、バビロンがその西に生まれたペルシャ帝国によって滅ぼされることが既に起こったかのように描くもので、「北」からとあるのは、イスラエルからの通商路の地理感覚のことばで、バビロンの向こうにある国からの攻撃を示しているからです。当時、それがペルシャを指すとはエレミヤにも知らされてはいませんでした。それは、具体的な国名よりも、それを動かしておられる主(ヤハウェ)のみわざを覚えさせるためでもあります。

「その日、その時・・イスラエルの民もユダの民も共に来て、泣きながら歩み、その神、主(ヤハウェ)を、尋ね求める。彼らはシオンを求め、その道に顔を向けて、『来たれ。忘れられることのないとこしえの契約によって、主(ヤハウェ)に連なろう』と言う」(50:4、5)とは、イスラエルの民が約束の地に帰還し、神殿を再建することを示唆するものです。それはモーセの時代から預言されていました。モーセは、かつて、主に背く民に「のろい」が下されると語るとともに、その後、「あなたの神、主(ヤハウェ)は、あなたの繁栄を元どおりにし、あなたをあわれみ、あなたの神、主(ヤハウェ)がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める」と預言していました(申命記30:3)。

その上で、「バビロンの中から逃げ、カルデヤ人の国から出よ」(50:8)と勧められているのは、それが預言の成就だからです。聖書は、出エジプトとともに、出バビロンを描いています。また、「群れの先頭に立つやぎのようになれ」とあるのは、やぎは囲いの門を開くとすぐにそこから走り出るからですが、このように勧められているのは、イスラエルの民は、そのときバビロンで安定した生活をし、移住を望まなくなっている可能性があるからでしょう。

そして、当時の歴史を振り返るように、「イスラエルは雄獅子に散らされた羊。先にはアッシリヤの王がこれを食らったが、今度はついに、バビロンの王ネブカデレザルがその骨まで食らった。それゆえ、イスラエルの神、万軍の主(ヤハウェ)は、こう仰せられる。『見よ。わたしはアッシリヤの王を罰したように、バビロンの王とその国を罰する』」(50:17、18)と記されます。これは、北王国イスラエルを滅ぼしたアッシリヤを滅亡させたのは、バビロンである以前に主ご自身であり、主は同じように、神の民の骨までしゃぶりつくした残虐なバビロンを罰するという意味です。王国の興亡の歴史を支配するのは主ご自身であり、主は何よりも、その王国の傲慢さにさばきを下します。

しかも、イスラエルの滅亡が、神のみわざであるならば、その回復も神のみわざになるという意味で、「わたしはイスラエルをその牧場に帰らせる。彼はカルメルとバシャンで草を食べ、エフライムの山とギルアデで、その願いは満たされる」(50:19)と彼らの繁栄が約束されます。興味深いのは、「バシャン」とか「ギルアデ」のようにヨルダン川の東側にある肥沃な地までが回復されるという約束です。神の祝福は、人々の期待を超えたものになります。

そして、「その日、その時、─主(ヤハウェ)の御告げ─イスラエルの咎は見つけようとしても、それはなく、ユダの罪も見つけることはできない。わたしが残す者の罪を、わたしが赦すからだ」(50:20)とあるのは、神がご自身の主導で神の民の残りの者のすべての罪を赦してくださるという途方もない約束ですが、これは私たちの主イエス・キリストにおいて実現したことです。神がご自身の民を苦しめるのは、目に見える力や偶像の神々により頼むことの愚かさを教え、私たちが真心から神に救いを求めるようになるためです。多くの人々は「罪」という言葉の意味を誤解しています。それは人を害するような悪事を働くという以前に、「神を神としてあがめず、感謝もせず・・・不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまう」(ローマ1:21,23)ことです。そして、「罪の赦し」とは、罪人が、創造主に真心から信頼できるようになるという関係の変化への第一歩です。

2.「バビロンは主(ヤハウェ)の御手にある金の杯」

バビロンの滅亡の理由が、「万国を打った鉄槌は、どうして折られ、砕かれたのか」(50:23)と問われますが、最終的にひとことで、「おまえが主(ヤハウェ)に争いをしかけたからだ」(50:24)と答えられます。彼らはイスラエルの神を侮り、その宮を廃墟にしました。それによって、彼らは、天地万物の創造主と戦ってしまったということを知りませんでした。そして、「聞け。バビロンの国からのがれて来た者が、シオンで、私たちの神、主(ヤハウェ)の、復讐のこと、その宮の復讐のことを告げ知らせている」(50:28)と、エルサレム神殿を破壊したことへの復讐の知らせが、バビロンから逃れて来た者たちによって告げ知らされているというのです。そして、そのような厳しいさばきを受ける理由が、「主(ヤハウェ)に向かい、イスラエルの聖なる方に向かって高ぶったからだ」(50:29)と描かれます。

そして、「高ぶる者よ。見よ。わたしはあなたを攻める。─万軍の神、主の御告げ─あなたの日、わたしがあなたを罰する時が来たからだ」(50:31)とは、私たちにとってサタンとそれに従う者たちへの宣告としても理解できます。イザヤは、バビロンの王に対して、「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか・・」(14:12)とその高ぶりに対するさばきが宣告されていましたが、それは、しばしば、サタンに対するさばきとしても解釈されることがあります。そして、これはすべて、自分を神として高ぶる者たちへのさばきとして適用できます。

なお、「見よ。ひとつの民が北から来る・・残忍であわれみがない・・彼らのうわさを聞いて気力を失い、産婦のような苦痛に捕らえられる」(50:41-43)とは、6章22-24節でのエルサレムに対するさばきの表現と同じです。また、「見よ。獅子がヨルダンの密林から水の絶えず流れる牧場に上って来るように、わたしは一瞬にして彼らをそこから追い出そう・・・だれかわたしの前に立つことのできる牧者があろうか」(50:44)とは、エドムへのさばきとほとんど同じです(49:19)。それは、神のさばきの理由も、また方法にも、共通した原則が見られるということでしょう。

「バビロンは主(ヤハウェ)の御手にある金の杯。すべての国々はこれに酔い、国々はそのぶどう酒を飲んで、酔いしれた」(51:7)とありますが、「金の杯」は、バビロンの豊かさを現すとともに、それは同時に「主の憤りの杯」で、エルサレムの滅亡は、この杯を飲んですっかり酔ってしまい、同士討ちで滅んでしまったことでした(13:13,14)。

聖書の最後の黙示録では、サタンの惑わしとそれに負ける者たちの姿が、「すべての淫婦と憎むべきものとの母、大バビロン」と呼ばれる「大淫婦」が、「自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持って」それを人々に飲ませ、「地上の商人たちは、彼女の極度の好色によって富を得た」と描かれます(17:4,5,18:3)。そして、この金の杯の中身が、「激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒」(同14:8)と記されています。

明らかに、黙示録での「大バビロン」は、旧約の「バビロン」の延長として描かれています。つまり、私たちが聖書の神の代わりに、この世の富と権力に頼ろうとすることは、「主の憤りの杯」を飲むことに他ならないことであり、それは自滅への道であるというのです。ウォール街での富と権力のぶどう酒に酔いしれた人々は、次から次と自滅してしまいました。まだ神から与えられた良心の機能が働いていた人々は、それを少し飲んだだけで、これは「主の憤りの杯」でもあるということに気づいたでしょうが、良心の麻痺した人は、酔いつぶれてしまったと言えましょう。

そして今、神のさばきを現す器であったバビロン自身のことが、「たちまち、バビロンは倒れて砕かれた」(51:8)と宣言されます。黙示録でも、それに呼応するように、「倒れた。大バビロンが倒れた」(18:2)と御使いが宣言する様子が記されています。そして、私たちも栄華を極めた会社の破綻に、富と力のむなしさを思います。

そして、「その痛みのために乳香を取れ。あるいはいやされるかもしれない」(51:8)とあるのは、ギルアデの乳香がイスラエルの民のいやしのために用いられる可能性があったこととの比較で用いられています(8:22)。そして、「私たちは、バビロンをいやそうとしたのに、それはいやされなかった」(51:9)とは、すでに神のさばきを体験したイスラエルの民のことばかと思われます。もしバビロンが、イスラエルの苦しみから学ぶことができていたとしたら、彼らはいやされたはずでしょう。しかし、罪人は、他の人の痛みや苦しみを軽蔑することしかできません。

そして、主はバビロンに向かって、「大水のほとりに住む財宝豊かな者よ。あなたの最期、あなたの断ち滅ぼされる時が来た」(51:13)と言われ、彼らの富が何の役にも立たないと示されます。彼らの神々が偶像に過ぎないのに対して、「主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く建て、英知をもって天を張られた。主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される」(51:15、16)という主の全能の力が強調されます。そして、再びバビロンの偶像は「むなしいもの、物笑いの種だ。刑罰の時に、それらは滅びる」と言いながら、「ヤコブの分け前はこんなものではない。主は万物を造る方。イスラエルは主ご自身の部族。その御名は万軍の主(ヤハウェ)である」と描かれます(51:18、19)。私たちはこの世でどれほど貧しく見えても、世界のすべての富の源である方を、「私の父」と呼べるのですから心配ありません。

その上で主は、「あなたはわたしの鉄槌、戦いの道具だ。わたしはあなたを使って国々を砕き、あなたを使って諸王国を滅ぼす。あなたを使って馬も騎手も砕き・・・あなたを使って総督や長官たちも砕く」(51:20-23)と言われますが、これはバビロンを指すとともに、将来にバビロンを滅ぼす当時まだ名の知られていなかったペルシャ帝国を指す表現だとも思われます。それによって、主は「わたしはバビロンとカルデヤの全住民に、彼らがシオンで行ったすべての悪のために、あなたがたの目の前で報復する」(51:24)と語ったのだと思われます。道具に過ぎない者が、その主人を忘れて、自分を王とするとき、力強い道具であるほど、さばきも厳しいものになります。

3.「わたしの民よ。その中から出よ。主(ヤハウェ)の燃える怒りを免れて、おのおの自分のいのちを救え」

「この地に旗を掲げ、国々の中に角笛を鳴らせ。国々を整えてこれを攻めよ。アララテ、ミニ、アシュケナズの王国を召集してこれを攻めよ」(51:27)とありますが、これらの国々はチグリス川北方の山岳地帯アルメニア地方にあり、「ひとりの長を立ててこれを攻めよ」とは、後に、ペルシャ王クロスの下でこれらの辺境にある国々もバビロン帝国を滅ぼすために一致することを指すと思われます。「国々を整え」と繰り返されることばは(51:27,28)、厳密には、「聖別せよ」という言葉で、主は、バビロンへの復讐のために、周辺の国々のすべてを「聖別する」というのです。

その上で、主はイスラエルの民に、「わたしの民よ。その中から出よ。主(ヤハウェ)の燃える怒りを免れて、おのおの自分のいのちを救え」(51:45)と言われます。これは、黙示録で、御使いが、「わが民よ。この女(大バビロン)から離れなさい。その罪にあずからないため、またその災害を受けないためです」(18:4)と言うことと同じです。私たちは、この世の組織の中で誠心誠意、与えられた務めを果たすことが求められているのですが、それと心中するようなことになってはいけません。組織が滅亡に向かうとき、人々はその中で、最後の富と権力にすがり、ますます自己中心的になります。私たちは、そのような富と権力の奴隷になる人々から一線を画す必要があります。

51章46節の始まりは、「あなたがたの心を弱らせず、この国に聞こえるうわさに恐れるな」と訳すことができます。それは、「うわさは今年も来、その後の年にも、うわさは来る。この国には暴虐があり、支配者はほかの支配者を攻める」とあるように、バビロンの政権の中での混乱が起きることになる中で、冷静さを保つことの勧めです。なぜなら、そのような自滅に向かう混乱も、神の御手の中で起こっていることだからです。バビロン帝国は短命でしたが、それは内部の権力争いが激化したためです。イエスも、弟子たちに、「惑わされないように気をつけなさい・・・戦争や暴動のことを聞いても、こわがってはいけません。それは、初めに必ず起こることです」(ルカ21:8,9)と言われました。目の前に混乱が広がるとき、大切なのは、主の救いのご計画の全体像に目を向けることです。

そのことが、「バビロンは、イスラエルの刺し殺された者たちのために、倒れなければならない。バビロンによって、全地の刺し殺された者たちが倒れたように」と描かれながら、「剣からのがれた者よ。行け。立ち止まるな。遠くから主(ヤハウェ)を思い出せ。エルサレムを心に思い浮かべよ」と命じられます(51:49、50)。彼らは、神の住まいから遠く離れているように感じていますが、そこから「主(ヤハウェ)を思い出し」また、神の神殿の立っていた「エルサレムを心に思い浮かべ」続けることが命じられています。彼らはバビロンやペルシャ帝国の生活に同化してはならないのです。私たちの場合も、神が「新しいエルサレム」をもたらしてくださることを期待しながら(黙示21:2)、「はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白する」(ヘブル11:13)ように召されています。

そして、最後にエレミヤは、「バビロンに下るわざわいのすべてを一つの巻き物にしるし」、セラヤにそれをバビロンで読み上げるように命じます(51:60-62)。そればかりか、「この書物を読み終わったら、それに石を結びつけて、ユーフラテス川の中に投げ入れ、『このように、バビロンは沈み、浮かび上がれない。わたしがもたらすわざわいのためだ。彼らは疲れ果てる』と言いなさい」と命じられます(51:60-64)。エルサレムの人々にバビロンへの服従を勧めていた預言者は、同時に、バビロンに行った人々に対して、バビロンの滅亡を告げました。

これは、彼らの目を、この地上の王国から、神の支配に向けさせるためでした。地上の王国は、次から次と変わります。しかし、神のご支配は永遠に続きます。私たちは常に、その神のご支配に目を向ける必要があるのです。そして、51章の終わりでは、「ここまでが、エレミヤのことばである」で閉じられます。

4.「エホヤキンは・・一生の間、いつも王の前で食事をした」

52章の記事は、すでに、エレミヤ39章とⅡ列王記24,25章に記されていることがほとんどです。これが追加されている目的は、その後の歴史がすべて、エレミヤの預言のとおりであったことを示すためです。紀元前586年8月のことだと思われますが、バビロン軍は、「エルサレムに来て、主(ヤハウェ)の宮と王宮とエルサレムのすべての家を焼き、そのおもだった建物をことごとく火で焼」(52:12、13)きました。ユダヤ人は、この日を断食の日としています。

そして、カルデヤ人は、「これらすべての器具の青銅の重さは、量りきれなかった」(52:20)というほどの神殿の器具を運び去ります。そして、バビロンに最後まで抵抗した者たちを殺します(52:24-27)。

そして、52章28~30節にはバビロンに捕囚とされた人数が記されますが、これはこの書独自の情報です。「ネブカデレザルが捕らえ移した民の数は次のとおり。第7年には、3023人のユダヤ人」とあるのは、紀元前597年ユダの王エホヤキンが捕囚とされゼデキヤ王が即位した年です。列王記では、10,000人、8,000人という数が記されていますが、それとの整合性は不明です。「ネブカデレザルの第18年には、エルサレムから832人」とは、紀元前586年のエルサレム陥落のときです。このときには大部分の人が、飢え死にか戦死したのではないでしょうか。そして「ネブカデレザルの第23年には、侍従長ネブザルアダンが、745人のユダヤ人を捕らえ移し」とは、紀元前582年で、これは最後の総督ゲダルヤが暗殺された後のことだと思われます。そして、最後に、「その合計は4600人であった」とバビロン捕囚の人数が述べられます(52:27-30)。少なくともここには紀元前605年にダニエルたちが連行されたときのことは記されていません。この人数はあまりにも少なすぎるようにも思えますが、何よりも強調されているのは、このようにごく少数の残りの民から、神は次の新しいイスラエルの歴史を始めたということでしょう。

そして最後に、「ユダの王エホヤキンが捕らえ移されて37年目・・・バビロンの王エビル・メロダクは・・・エホヤキンを釈放し、獄屋から出し・・彼は・・一生の間、いつも王の前で食事をした。彼の生活費は、・・・一生の間・・バビロンの王から支給されていた」(52:31-34)と記されますが、これはダビデ王家が捕囚とされたエホヤキンを通して続いたことを示します。彼の名は「エコニヤ」としてマタイによる福音書の最初の系図に登場します(1:11,12)。

主は、かつて、「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる・・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(29:10、11)と言われました。主のさばきは、救いのご計画の一部です。

バビロンに捕囚とされたごく少数のユダヤ人たちは、そこにおいて生活しながらも、いつも、「エルサレムを心に思い浮かべ」ていたのではないでしょうか。彼らはバビロンの偶像礼拝とは一線を画しながら、そこで増え広がります。その際、彼らは、モーセの時代から残されている様々な文書を、聖書としてまとめる作業をしたのだと思われます。そして、彼らはやがて約束の地に帰還し、神殿を再建し、神の民としてのアイデンティティーを回復します。そして、イエス・キリストはユダヤ人の王として生まれ、彼らの神、主を世界中のすべての民の王としてくださいました。私たち異邦人はすべて、バビロンで神の民として生き抜いたユダヤ人に負債があります。

主は、残されたたった4,600人から世界の歴史を変えました。私たちも、この日本においては驚くほどちっぽけな存在に見えるかもしれません。しかし、ローマ帝国の中でイエス・キリストの福音が宣べ伝えられて最初の二百年間、キリスト者の数は帝国の全人口の1%に満たなかったという調査もあります。しかし、その少数者の信仰がその後の50年間の大迫害の時代に爆発的に広がり、その後のローマ帝国の文化を変えました。

日本では、聖書が翻訳されて人々に読まれるようになったことを記念する、プロテスタント宣教150周年を迎えます。私たちにも文化を変える力が与えられています。人数や豊かさで影響力を測るのは、バビロンの文化です。神は、富と権力を誇るバビロンを裁かれました。そして、終わりの日には、この世の経済力や軍事力を誇る「大バビロン」をさばかれます。私たちも、この地で生きながら、この地の文化に妥協することなく、やがて実現する「新しいエルサレムを心に思い浮かべ」て生きるべきでしょう。