2008年12月28日
僕が17歳のとき、宇多田ヒカルの母、藤圭子が歌って大ヒットした曲があります。それは、「十五、十六、十七と、あたしの人生暗かった。過去はどんなに暗くても、夢は夜ひらく」という危ない内容です。夢は、日の光のもとで開かさなければなりません。もし、クリスチャンの「新生の証し」が、自分の過去を必要以上に暗く描きながら、自分ではない自分になろうとするものであるなら、同じように危ない生き方になることでしょう。この歌の始まりは、「赤く咲くのはケシの花、白く咲くのはユリの花、どう咲きゃいいのさ、この私・・」という問いかけから始まっています。人は、みな自分がどのような花を咲かせることができるのかわからずに迷うことがありますが、誰も自分が造られたようにしか生きることはできません。その可能性は多くの人が思うよりはるかに広いものであったにしても、自分の出生や生い立ちを否定して美しく咲くことは無理です。まず、神からすでに与えられている恵みの数々を見直すのでなければあなたらしい咲き方はできないのではないでしょうか。エデンの園での罪の始まりは、神が与えてくださった祝福を軽蔑して、神が与えようとしなかったものに手を伸ばすことにありました。神から与えられた個性を軽蔑して、別の自分になろうともがくことは危険です。僕はかつて、自分の田舎も自分の性格も嫌いでした。明日を夢見ながらも、「今、ここで」の恵みを感謝するのが下手でした。あの頃は、自分で自分の人生を勝手に暗くしていたような気がします。あなたは過去をどのように見ているでしょう。過去を軽蔑も美化することもなく、苦しみとセットに与えられていた数々の恵みを発見できるとき、あなた固有の人生の輝かせ方が発見できるのではないでしょうか。
1.「律法の下にある者」となられた救い主
イエスは、誕生の八日後に割礼を受けられ、そのとき正式に命名されました。それから三十三日後、マリヤの出産に伴う血の汚れからのきよめの期間が満ちたとき、つまり誕生から四十日後のことですが、ベツレヘムからエルサレム神殿に上りました。ここには律法が命じるふたつの儀式があります。第一は、「男子の初子を・・主(ヤハウェ)に聖別する」(23節)ためです(出エジ13:12,13)。家の跡継ぎは、何よりも神の祝福を受け継ぐために神から与えられた者であることを覚えるためです。なお現在は、これに習って多くの教会では献児式が守られています。
また第二は、それまで「血のきよめのために、こもっていた」(レビ12:4)状態から、礼拝の交わりに復帰するため、「主へのいけにえ」をささげるためです。女性が出産後四十日間は汚れた状態にあると見られていました。それは母体と幼児を守るためであるとともに、すべてを神との交わりの中で行うことを覚えるためでもありました。
なおその際、彼らが鳩二羽をささげたと記されていることは、マリヤとヨセフには、羊を買う余裕がなかったことを示しています。その一羽は全焼のいけにえ、もう一羽は、罪のため(きよめ)のいけにえでした(レビ12:8)。壮麗なエルサレム神殿の中での、救い主の誕生に伴ういけにえは、何と貧しいことでしょう!しかし、マリヤとヨセフは、それを意に介せず、ただ黙々と、律法が命じること実行していたのでした。
このような描写があるのは、この福音書が、律法の知識の乏しい異邦人に向けて記されたからでもあります。彼らは余りに安易に旧約聖書を飛び越えて、新しい知らせの部分ばかりに目を向ける傾向があります。パウロは、「律法は私たちをキリストに導くための私たちの養育係となりました」(ガラテヤ3:24)と言いましたが、養育係を軽蔑する者は真の意味で大人になることはできません。救い主は、生粋のユダヤ人として生まれ、律法に基づく生活習慣の中で育ったのです。それは、主が21世紀に住む生粋の日本人の仲間となられたということに結びつきます。共通するのは、生まれ育った環境や文化を神の賜物として受け止めるという姿勢です。救い主は、抽象的な人類となったのではなく、私たちひとりひとりが様々な制約と限界を抱えながら必死に一日一日を生きるのと同じ具体的な個人となられたのです。聖書には、主が、「私たちの大祭司」として、「すべての点で、私たちと同じように、試みに会われた」(ヘブル4:15)と記しています。主は敢えて、貧しく、制約に満ちた人生を選び取られました。
聖書は、このことの意味を、「しかし定めのときが来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生れた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです」(ガラテヤ4:4,5)と記します。律法は、神からの愛の贈り物でしたが、私たちは「罪の奴隷」であるため、「いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くもの」(ローマ7:10)となりました。それは、良い教えを聞けば聞くほど、それを守れない自分も、また人も、赦すことができなくなり、絶望せざるを得ないという矛盾です。しかしイエスは、すべての律法を守り、神に喜ばれる子として生涯を全うされました。
現在、私たちは律法を守ることができなくても、信仰によってイエスに結びつくことで、イエスの義を私たちの義として受け取ることができます。すべての律法を守られたイエスと一体化されるからです。これは貧しい奴隷女が王子に見初められて妻とされ、王子とまったく同じ富と力を与えられることに似ています。バプテスマはこの王なるイエスとの結婚式です。そして、そのイエスが今、あなたのうちに御霊によって住んで、内側から造り変えていてくださいます。あなたは今や、「律法の下にある・・罪の奴隷」状態から解放され「神の子」とされたのです。
2.「待ち望む」ということ
マリヤとヨセフが神殿に上ってきたとき、シメオンという人が現れます。その特徴は、「正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた」(25節)と記されます。この「待ち望む」ということばの元の意味は「歓迎する」で、現状への不満と嘆きより、桜のつぼみを見ながら桜の咲くのを期待しているような心の姿勢を表します。彼は神が歴史を支配しておられることを信じ、それが目に見える形で実現するときを「待ち望んでいた」のです。そればかりか、聖霊によって「主のキリストを見るまでは、決して死なない」と告げられていました。そして、「御霊に感じて」(27節)宮に入る中で、幼子イエスが両親によって抱かれながら宮に入ってくるのを見て、すぐにこの子こそ救い主キリストであると分かりました。しばしば、自分の利己的な願望に縛られ、現状に不満ばかりを抱いている人は、見るべきものを見ることができません。しかし、「イスラエルの慰められること」という神の救いのご計画に焦点を合わせ、それを心から歓迎するように待ち望んでいたシメオンは、無力で貧しい幼子を見て、「私の目があなたの御救いを見た」(30節)と言うことができました。しかも、「御救い」とは、目に見えるイスラエル王国の再興という当時の人々の期待を超えて、「万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光」だというのです。
しかも、この「啓示の光」とは、「多くの人の心の思いが現われる(「啓示」と同じことば)」(35節)ようになるためのものです。後にイエスに出会った人は、宗教指導者のようにかえって頑なになって「倒れる」か、悔い改めた取税人や遊女のように「立ち上がる」かに二分されました(34節)。それは、表面的な行いの良さではなく、心の中にあるものが「現された」結果でした。それによってイエスは権力者を敵に回してしまいます。それでシメオンは、マリヤに「剣があなたの心さえ刺し貫く」(35節)と預言しました。これは、彼女が将来、苦しみに会った際、そこで神のご支配を認め、慰めを体験できる支えとなったでしょう。
シメオンは、神からの光によって、目の前の貧しい幼子が救い主であることを認めることができました。そればかりか、マリヤに将来訪れる悲劇を、神の光によって見られるように預言しました。私たちも聖霊によって神の光を受けて、目の前の現実をこの世の人々の目と違った視点から見ることができるようになります。福音の核心、それは、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:169ということです。私たちはこの世の不条理を憎み、早く天国に行きたいと願うことがあるかもしれません。しかし、神は、この罪に満ちた世界を「愛された」というのです。それは放蕩息子を見る父の眼差しです。福音の光に照らされたものは、この世界を、軽蔑するのではなく、神の慈しみの眼差しで見ることができます。それが救い主によって「立ち上がる」ということです。
そこにまた、「女預言者のアンナ」(ギリシャ語ではHという子音を入れ「ハンナ」と発音)が登場します(36節)。彼女は短い結婚生活の後「やもめ」となり、当時としては高齢の84歳になって、「宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えて」いました。彼女も、預言者サムエルを生んだハンナのように、祈りの人でした。神殿の祭司たちが偽善と謀略の中に生きているのを見ながらも、ただ神に望みを抱き、神殿に留まっていました。自分の人生が期待通りにならなければ、人は、「宮を離れ」たくなりますが、彼女は留まり続けました。また人によっては、神殿の腐敗を厳しく批判しながら争いを生み出すかもしれませんが、彼女はただ静かに、「神に仕えて」いました。彼女の周りには、いつも平和があり、彼女は人々から尊敬されていたことでしょう。それゆえ、幼子に神の救いの計画を見出し、「エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に」、この救いを語ることができました。
「待ち望む」とは、不条理のただなかに留まり、神のみわざの現れを期待することです。そこには人と人との平和が見られます。しばしば、大きな理想ばかりを掲げる人は、目の前に争いを引き起こし、かえって問題をこじらせてしまいます。エデンの園の外の世界では、ひとつの矛盾の解決は、次の矛盾を生み出すということを決して忘れてはなりません。大切なのは、神の時を待つという受身の姿勢です。もちろん、積極的に改革のために立つべきときがありますが、それは、静かに「神に仕える」という日常生活を基本として起こるべきことです。
しばしば、人は、「こうだったら良かったのに・・・」と、「今ここで」(here and now)の神の恵みを見過ごして、将来に夢ばかりを見ようとします。しかし、シメオンは人知を超えた神の救いのご計画を、目の前のひ弱な幼子の中に認めることができました。また、アンナは日々自分の目の前に神を認め「神に仕えて」いました。
3.「神と人とに愛された」
「彼らは主の律法による定めをすべて果たしたので・・ナザレに帰った・・イエスの両親は、過越の祭りには毎年エルサレムに行った」(39-41節)とは、ヨセフとマリヤが律法を忠実に守る両親であり、まさにイエスが「律法の下にある者」として成長したことを意味します。そして、「イエスが十二歳になられたとき」とは、律法を特別に熱心に学ぶ年齢を意味します。なぜなら、当時の男子は13歳で成人式を迎え、礼拝で律法を朗読するなどの務めを果たすようになったからです(日本の元服も12歳から14歳でした)。なお、過越の祭りは一週間も続き、一族郎党が揃って都に上るので、マリヤとヨセフは帰りの道を一日進むまでイエスが一緒にいないのに気づきませんでした。彼らが、ようやくの思いでイエスを見つけると、「宮で教師たちの真中にすわって、話しを聞いたり質問したりして」(46節)おられたというのです。そして、母のマリヤがイエスを心配していた旨を訴えると、イエスは、「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることをご存じなかったのですか」と答えられました。これは微笑ましいと同時に驚きでもあります。イエスは、後にエルサレムの宗教指導者と対立し、神殿の崩壊をも預言しますが、このときは、エルサレム神殿を「わたしの父の家」と呼んで喜び、律法の教師たちとの会話を喜んでおられました。少年イエスは、時間を忘れるほどに、神殿で律法を語り合うことを喜んでおられたのです。
そしてその後、「イエスは・・ナザレに帰って、両親に仕えられた」と描かれています。一方、「母はこれらのことをみな、心に留めておいた」というのです(51節)。そこに互いの人格を尊敬しあう真の親子関係が見られます。そして、「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された」(52節)と記されます。「知恵が進み、背たけも大きくなり」とは、不完全なものが完全になるというニュアンスではありません。ルカ以外の誰もイエスの幼児期を描いた人はいませんが、これはイエスが「今ここで」(here and now)の父なる神のご支配を認め、ご自身の幼児期を楽しんでいたという雰囲気を伝えようとする表現に思えます。また、イエスが「神に愛された」というのは当然であるにしても、「人に愛された」というのは興味深いこととも言えましょう。早熟すぎる子は疎んじられることもあるからです。イエスは、赤ちゃんであるときから、神であられました。そのように考えると、イエスは同年代の子供と遊び、大人からも可愛がられるような子供らしさを持っていたということは想像し難いことかもしれません。しかし、「人に愛された」ということは、イエスはそれぞれに年に応じた「幼さ」と、「成長」が見られたということを示しています。これは、子供を知性と能力に欠けた存在と見る文化に対する警告とも言えましょう。子供にはそれぞれの年齢に応じた生き方と課題があります。イエスがそれらひとつひとつを通られたということは感動的です。イエスが、それぞれの年齢のときに、どのような遊びをしておられたかを考えても良いのではないでしょうか。
私たちは、自分がアダムの子孫として受け継ぐ様々な心の傷や闇を正直に認めることなしに、救いの意味もわかりませんし、自分の衝動で人を振り回すという現実にも気づくことができません。ただし、私はそれを思うばかり、自分の幼児期を過度に暗くとらえ、そこにあった神の恵みを見過ごしていた面がありました。そして幼児期にあった喜びが封印されていたとき、今の自分をも不自由にし、自由な子供の喜びを味わえなくさせていました。子供の喜びにはいのちの力があふれています。そこには創造性があり、ひとつひとつの喜びが極めてユニークです。
ところが、私は、シメオンのように健全に「待ち望む」のではなく、いつも何かに駆り立てられるように生き、将来の夢ばかりを追い求め、社会や教会への批判ばかりをしていたという面がありました。しかし、幼児期の喜びを再発見できたとき、「今ここで」(here and now)、神のご支配を喜ぶことができるようになったように思えます。
私が田舎を嫌い、自分の性格を嫌ったのは、それなりの理由があります。忘れたい悲しみや苦しみがあったのです。しかし、それにも関わらず、それなりに生きてくることができました。それは、神が、苦しみとともに、それに押しつぶされないだけの生きる力を与えていてくださったからです。そして、それこそが、私に与えられたユニークな力、人の役に立てることができる力でもあります。自分の性格や生き方を歪めている過去の痛みを優しく見直すことも大切ですが、それ以上に、痛みとセットに与えられたいのちの力に私たちは目を留める必要があります。
12歳のイエスが、やがて滅び行くエルサレム神殿を「自分の父の家」と呼び、そこで将来敵となる律法学者たちとの会話を、時間を忘れるほどに喜んでおられ、彼らからも「愛されていた」というのは驚くべき発見です。しばしば、急進的な改革者は、今ある恵みを見過ごして批判精神ばかりを鋭くして、争いを引き起こします。しかしイエスは、律法の下に生きることを喜びながら、それを私たちに押し付けず、その実だけを分けてくださったのです。私たちも、人生のそれぞれの段階において、苦しみとセットで与えられている神の数々の恵みを喜ぶべきでしょう。