伝道者5章8節〜6章12節「満ち足りた生活とは」

2008年12月6日

伝道者の書5章8節〜6章12節 翻訳

もし、貧しい者が虐げられ、さばきと正義が奪い取られているのを、
ある地域に見たとしても、そのことに驚いてはならない。
それは、より身分の高い者が、その身分の高い者を見張っており、また彼らより、さらに身分の高い者たちもいるのだから。
何よりも地に益となるのは、耕されるべき土地のための王である。
金銭を愛する者は、金銭に満足することがない。
豊かさを愛する者もその収益に……。
これもまた空しい。
財産が増えると、それを消費する人も増える。
持ち主はそれを目で見る以外、何の得もない。
働く者の眠りは、少し食べても多く食べても、心地良い。
しかし、富む者は満腹しても、眠りを妨げられる。
痛ましい悪が日の下にあるのを私は見た。
蓄えられた富が、その所有者に害をもたらす。
その富は不幸な仕事によって失われ、息子が生まれても、その手に何もない。
人は、母の胎から出てきたように、裸で来て、裸で去って行く。
自分の労苦の実を、何ひとつ、手に携えて行くことはできない。
そしてこれも痛ましい悪だ。
来たときとまったく同じように去って行く。
風のために労苦して、それが何の益になろうか。
しかも、一生の間、闇の中で食べる。
苛立ち、病い、怒りは尽きない。
それゆえ私は見た。
善いこと、美しいこととは、神が与えた短いいのちの日々を、食べたり飲んだり、日の下で労するその労苦の中に幸せを見出すこと。
それが人の受ける分だから。
さらに、人がすべて、神から富と財宝が与えられ、それを享受し、受ける分を受け、労苦の中で楽しむことができるように許されているとき、それこそが神の賜物。
その人は、自分のいのちの日々のことをあまり思い返すこともない。
それは神が、その心を喜びで満たされるから。

私は日の下に悪があるのを見た。それは人の上に重くのしかかっている。
神が富と財宝と誉れを与え、心の望むものに何ひとつ欠けたものがない人がいる。
しかし、神は彼にそれを享受できるように許されなかったので、よそ者がそれを享受した。
これもまた空しく、痛ましい悪だ。
もし、人が百人の子供を持ち、多くの年月を生きたとしても、その年がどれほど多くなっても、その幸せに満足することもなく、葬られることもなかったなら、死産の子の方が彼より幸せだと言おう。
その子は、空しく生まれて、闇の中に去り、その名は闇の中に隠されている。
日を見ることもなく、何も知らないが、その子の方が彼よりも安らかである。
彼が千年の倍も生きても、幸せを見ることがないなら……
すべてのものはひとつの所に行くのではないか。
人のすべての労苦は、その口のためにある。
しかし、その心は、決して満ち足りることがない。
知恵ある者が、愚か者に、何がまさっているというのだろうか。
貧しい者が、人々の前での振る舞い方を知っていることが、何になろうか。
目で見ることは、心がさまようよりは善い。
これもまた空しく、風を追うようなものだ。
存在するものはすべて、すでに名がつけられ、人がどうなるかも知られている。
自分より力ある方と争うことはできない。
多く語れば、それだけ空しさが増す。
それが人に何の益となろう。
空しく短いいのちの日々を影のように過ごす人間にとって、何がしあわせなのかを、誰が知っているだろう。
その一生の後で、日の下で何が起こるかを、誰が人に告げられるのだろう。

今から33年前、私は一年近い米国オレゴン州での留学中にイエスを救い主として信じるようになりましたが、帰国直前、米国横断の一人旅をし、ニューヨークを訪れました。そこでふたつの大きな思い出があります。たまたまマディソン・スクエアー・ガーデンでローリング・ストーンズのコンサートがあり、それを「見る」ことができました。何ともワイルドというか下品な演出もありましたが、魂の奥底を揺り動かすような演奏でした。ただ、その後、ひとりで地下鉄に乗りながらとても怖い思いをしました。その翌日の日曜日の朝、ウォールストリートに近い古い聖公会の礼拝に出席しました。礼拝の最初から最後まで、伝統的な礼拝式の音楽と聖書のことばを、ひとりで静かに味わうことができました。イエスの愛が個人的に迫ってくる何ともいえない感動を味わい、涙が止まらないほどでした。

ところでローリング・ストーンズの Satisfaction を、VH1 という米国のメディア機関は今年、過去百曲のロックンロール中のナンバーワンにリストしています。I can’t get no satisfaction……I try and I try……but, I can’t get no……(これじゃ何の満足も得られやしない)と繰り返される1965年に生まれた曲が、今も多くの人の共感を得ています。そこではこの世のコマーシャルが提供するものの空しさが訴えられています。私たちはこの世界のどこに心の満足、satisfaction を味わうことができるでしょう。彼らのコンサートは高価である上に危険も伴うことがあり、その興奮も一時的です。しかし、こころの満足をイエス・キリストとの交わりに求めることは、お金もかからず安全で、しかも、今、ここで体験できることです。しかも、その交わりは霊的な訓練によってますます深めることもできます。そして、その結果は、今、ここでの日常生活や仕事を、イエスの視点から見ることができるようにと変えられることなのです。

1.「貧しい者が虐げられ……ているのを……見たとしても、そのことに驚いてはならない」

「もし、貧しい者が虐げられ、さばきと正義が奪い取られているのを、ある地域に見たとしても、そのことに驚いてはならない」(5:8) とは、社会の不正を冷静な目で見ることの勧めだと思われます。日本で水戸黄門の物語が今でも流行るのは、悪代官のような私腹を肥やす権力者が常にいることの証しでもありましょう。ただし、「それは、より身分の高い者が、その身分の高い者を見張っており、また彼らより、さらに身分の高い者たちもいるのだから」(5:8) という地域に密着した権力を監視する上の権力があって初めて国としての統一が保たれるというシステム全体の中で考えるべき課題です。国全体が腐敗していたとしても、強盗や殺人を放置する国は存続できなくなります。ですから国の秩序の要として、「何よりも地に益となるのは、耕されるべき土地のための王である」(5:9) と記されます。当時は王政が現実的でした。現在は三権分立による法の支配です。権力機構の安定がなければ農民は安心して土地を耕すことはできません。ルターは、「本当に、悪い暴君は、悪い戦争よりは、なお忍びやすい」(Stand des Soldaten: Luther Taschenaufgabe5: Evangelischer Verlag 1982、P166) と言っていますが、独裁国家を打倒して無政府状態を作り出すことはより大きな害悪をもたらします。実際、世界中の飢餓のほとんどは、天候の問題ではなく政治が不安定であることから生まれているのではないでしょうか。

使徒パウロは、「人は、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです」(ローマ13:1) と語っていますが、これが記されたのは、暴君ネロの時代だったと思われます。神によって立てられた権力者なら良い政治を行うはずだと誤解するかもしれませんが、人はすべて罪人であり、理想的な王でさえとんでもない過ちを犯すというのはダビデの例を見ても明らかです。しばしば、歴史は、悪い王を廃そうとしてより悪い暴君を招くことになったということの繰り返しです。政治は様々な利害を調整するシステムであり、微妙なバランスの上に成り立っています。ただし、それを治めているのは天地万物の創造主ご自身です。自分の価値観を絶対化してシステムを機能不全に陥れてしまっては、かえってより大きな悪を招くことになります。私たちに何よりも求められていることは、自分に与えられた責任を、人の目ではなく神の目を意識して誠実に行うことです。ただし、現在の民主主義システムにおいては、政治に関わることも神からの召命であることも忘れてはなりません。

この世の不条理は、神のご支配が存在しないことのしるしではありません。それは旧約のイスラエル王国の歴史を読めばすぐにわかることです。神は、全世界の王として、今ここで生きて働いておられます。それこそ聖書の核心で、それを前提として、「そのことに驚いてはならない」と命じられているのです。

2.人は、母の胎から出てきたように、裸で来て、裸で去って行く。

「金銭を愛する者は、金銭に満足することがない。豊かさを愛する者もその収益に……これもまた空しい」(5:10) とは多くの人の葛藤の原因を指摘した名言です。聖書は、お金や富を決して軽蔑はしていません。それどころか、神から祝福されることは、財産が増えることとして描かれます。ただし、お金は大切だからこそ、偶像になってしまう危険があります。確かにお金さえあれば、日頃の憧れの多くを実行に移すことができますが、何かの事業に着手したとたん夢はどんどん膨らみます。しかも、お金の威力を体験すればするほど、お金が足りないように思えてきます。しかし、「I can‘t get no satisfaction」(それじゃまったく満足を得られない!)と言わざるを得ません。

「財産が増えると、それを消費する人も増える。持ち主はそれを目で見る以外、何の得もない」(5:11) とありますが、財産が増えると、それに応じてそれに群がってくる人も多くなります。所有者はその様子を見て、一時的な優越感に浸ることもできますが、目の前には常に、自分より勝った人がいます。最高の地位に立ったとしても、いつ追い落とされるかわかりません。そこにはいつも不安が同居せざるを得ず、たましいの平安がありません。

それをもとに、「働く者の眠りは、少し食べても多く食べても、心地良い。しかし、富む者は満腹しても、眠りを妨げられる」(5:12) と記されます。人は労働で身体を動かすことによって、満腹感がなくても安眠できます。しかし、富む者は、日々の労働を人に任せた結果、身体を動かさないため、満腹しても、眠りが浅くなります。

その上で著者は、「痛ましい悪が日の下にあるのを私は見た。蓄えられた富が、その所有者に害をもたらす。その富は不幸な仕事によって失われ、息子が生まれても、その手に何もない」(5:13、14) と記しますが、昔から何かの事業や投資の失敗によって破産する人が後を絶ちません。最初からお金がなければ大きなリスクを犯しようもないのですが、「蓄えられた富」自体が投資先を求めるように所有者を動かし、破産するのです。すると、せっかく「息子が生まれても」、その子に何も残せないどころか、ときには絶望感ばかりを受け継がせることになります。

そればかりか、たとい事業の失敗がないとしても、「人は、母の胎から出てきたように、裸で来て、裸で去って行く。自分の労苦の実を、何ひとつ、手に携えて行くことはできない」(5:15) ということが、すべての人に共通して起きます。私たちはまったく無力な者として、裸で母の胎から出てきます。その後、いろんな能力や知識や富を身につけ、多くの友や家族を手にします。しかし、死ぬときは、それらを何も携えて行くことはできません。どんなに派手な葬儀をしても、人々の前にひとり裸をさらしながら、この世で何の働きもしなかった人と同じ姿で葬られるだけです。その現実を直視するとき、「そしてこれも痛ましい悪だ。来たときとまったく同じように去って行く。風のために労苦して、それが何の益になろうか」(5:16) と言わざるを得ません。死ぬときの姿が、何の働きもない赤ちゃんと同じであるなら、人の一生の苦労は何のためなのでしょう。そればかりか、「しかも、一生の間、闇の中で食べる。苛立ち、病い、怒りは尽きない」(5:17) とあるように、人の一生は苦しみに満ちています。これはエデンの園から追い出されたすべての人に共通します。神は、ご自身に背いたアダムに向かって、「土地はあなたのためにのろわれてしまった。あなたは、一生苦しんで食を得なければならない……あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついにあなたは土に帰る」(創世記3:17、19) と言われましたが、それ以来、私たちの仕事には苦しみが付き物になってしまいました。気楽に仕事をして収益を上げるということは無理だというのです。それはまるで、「闇の中で食べる」ような生活とも言えます。多くの人は、「もっと違った仕事についたら……」「もっと違った家庭だったら……」などと思いますが、私たちがこの世で生きる限り、「苛立ち、病い、怒りは尽きない」という現実から自由になることはできません。

3.「それは神が、その心を喜びで満たされるから」

そして、「それゆえ私は見た」(5:18) という悟りが、「善いこと、美しいこととは、神が与えた短いいのちの日々を、食べたり飲んだり、日の下で労するその労苦の中に幸せを見出すこと。それが人の受ける分だから」と記されます。それは「労苦のなかに幸せを見出すこと」、それこそが人生にとっての「善いこと」「美しいこと」であるという真理でした (3:13参照)。そして、それを言い換えるようにして、「さらに、人がすべて、神から富と財宝が与えられ、それを享受し、受ける分を受け、労苦の中で楽しむことができるように許されているとき、それこそが神の賜物」(5:19) と述べられます。ここで興味深いのは、「神の賜物」とは、「富と財産」である以前に、「幸せを自分のものとして味わうことができる」という機会が与えられていることであるというのです。

よく言われるように、幸せは、持つものではなく、感じるものです。パウロは、イエスを救い主と信じた人に向かって、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5:17) と言いましたが、クリスチャンになったからといって、急に頭の回転がよくなったり、気質や性格が変わるわけではありません。神経質な人は神経質なまま、浮き沈みのある人は同じような浮き沈みがあり、内向的な人は内向的なままでしょう。しかし、キリストにある者は、それをまったく違った視点から見ることができます。たとえば、私は、「僕は偉い!」と自分を誇る一方で、「僕は何て駄目なんだろう……」と自己嫌悪に陥るということがありました。しかし、徐々に、自分自身を欠点を含めた全体として見るように示され、神によってユニークに創造された者と見ることができるようになってきました。すると世界が変わって見え始めました。

「その人は、自分のいのちの日々のことをあまり思い返すこともない。それは神が、その心を喜びで満たされるから」(5:20) とありますが、これこそが、信仰の喜びです。17世紀に という貧しい修道士の書き残したものが、多くの人の慰めになっています。彼は中年になって、黙想を大切にするカルメル修道会に入り、一番苦手な台所の仕事を与えられましたが、そこですべてを神への愛のために行うことを学び、皿洗いの時間も祈りの時間も、同じように神との交わりを喜ぶ機会とされるようになったとのことです。彼は、次のように書いています。「私はこの世に神と私以外の誰もいないかのように生き始めました。すると時に自分を神のさばきの前に立つ哀れな罪人のように感じました。しかし、やがて、自分の心で神を、『私の父、私の神』と見ることができました。私はできる限り、私の心を神の聖なる臨在に向け、心がさ迷ってもいつもそこに戻るようにしました」と記しています (the Practice of the presence of God by Brother Lawrence of the Resurrection Trs. John J. Dellaney. Doubleday 1977, P87)。これは教会の伝統に流れている黙想の生活の核心でもあります。キリスト教会がこの世でも力を持つようになるに連れ、信仰の堕落も見られるようになりましたが、そのような中で敢えて荒野に逃れて神との交わりを大切にする修道生活が生まれましたが、その指導者のひとりのアロニオスという人は、人は、心のうちで、『この世にはわたしひとりと神だけがいる』と言わなければ、安らぎを得ることはできないないだろう」と語ったと言われます(水垣渉『初期キリスト教とその霊性』日本キリスト改革派教会西部中会文書委員会2008年P114)。私たちは、仕事も家庭も教会も友人関係も、目の前の不条理や苦難をも、神によって与えられたものと見ることができるのです。すると、問題が満ち満ちていると思われる現実の中に、愛に満ちた神の臨在を発見し希望を持つことができます。

4.死産の子の方が彼よりしあわせだ

「私は日の下に悪があるのを見た。それは人の上に重くのしかかっている。神が富と財宝と誉れを与え、心の望むものに何ひとつ欠けたものがない人がいる。しかし、神は彼にそれを享受できるように許されなかったので、よそ者がそれを享受した。これもまた空しく、痛ましい悪だ」(6:1、2) とありますが、これは5章19節との対比で記されているものです。多くの人は、「富と財宝と誉れ」自体の中に『幸せ』や「心の満足」が得られると誤解しますが、そこでも人は、「I can’t get no satisfaction(それじゃまったく満足を得られない)ということが起こりえるというのです。それはイエスの愚かな金持ちのたとえにもあったとおり、富を手にしたとたん、命が尽きて、それが他人のものになるという苦しみがあり得るということですが、そればかりか、望むものを全部手に入れると、人はしばしば途方もない倦怠感を味わうというたましいの現実もあります。それは19世紀はじめのドイツの哲学者 が、「すべての欲望の根底は……不足、欠乏、そして苦痛である……欲望の対象がなくなってしまうと、今度は恐るべき空虚さとたいくつに襲われる……このように生は、まるで振り子のように……苦痛とたいくつの間を行き来するのだ」(『存在と苦悩』白水社1995年、金森誠也訳P39)と言っている通りでもあります。すなわち、「それこそが神の賜物」と言われるものは、富でも財宝でも誉れでもなく、「それを享受し……楽しむことができるように許される」ことの中にあるのです。実際、この世の基準からすると非常に貧しいと思われる生活の中でも、驚くべき満足を味わうことができます。私たちは、「満ち足りる心を伴う敬虔」(Ⅰテモテ6:6) をこそ常に求めるべきでしょう。

そのことが引き続き、「もし、人が百人の子供を持ち、多くの年月を生きたとしても、その年がどれほど多くなっても、その幸せに満足することもなく、葬られることもなかったなら、死産の子の方が彼よりしあわせだと言おう」(6:3) と記されます。多くの子供を持ち、長寿を全うできるというのは、当時は「祝福に満ちた人生」の代名詞のようなものでしたが、それでも「死産の子」よりも不幸であり得るというのです。そして、「その子は、空しく生まれて、闇の中に去り、その名は闇の中に隠されている。日を見ることもなく、何も知らないが、その子の方が彼よりも安らかである」(6:4、5) と記されます。これは、たとえば、森のような庭を持つ豪邸に住み、宴会場のようなところで豪華な食事を大家族でしながら、誰とも心が通じていないばかりか、死んでも葬儀をしてもらえないほどに皆から嫌われているということもあり得るのです。富と権力を持ちながら、誰からも愛されなければ、「彼が千年の倍も生きても、幸せを見ることがないなら……すべてのものはひとつの所に行くのではないか」(6:6) という空しさに圧倒されます。これは、「すべてはひとつの所に行く。すべては塵から成った。すべては塵に帰る」(3:20) ということばを思い起こさせる表現です。つまり、私たちは「幸せを見る」ために生かされているはずなのに、それが体験できないとしたら、生まれてこない方が良かったということになるのです。

後にイエスは、イスカリオテのユダがご自分のことを裏切る覚悟を決めたのを知って、「人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかった方がよかったのです」(マタイ26:24) と言われました。ユダはイエスを目の前にしながら、自分の願望に縛られていたため、イエスにすべての幸いがあることに気づくことができませんでした。幸せは、今、目の前にあるものです。それを見られない人は生きている甲斐がないというのです。

5.「空しく短いいのちの日々を影のように過ごす人間にとって、何がしあわせなのか……」

「人のすべての労苦は、その口のためにある。しかし、その心は、決して満ち足りることがない」(6:7) とは、神がアダムに、「あなたは、一生苦しんで食を得なければならない」と言われたことばを思い起こさせるものです。そして、「知恵ある者が、愚か者に、何がまさっているというのだろうか」(6:8) というのも、「すべては塵に帰る」という現実を前にしてのことです。また、「貧しい者が、人々の前での振る舞い方を知っていることが、何になろうか」とは、たとえば、豪華な祝宴に招かれる当てもないのに、テーブル・マナーを習っても空しいだけというような意味かと思われます。つまり、「知恵ある者」がその知恵を自分の人生に生かすことができないならすべてが空しいということなのです。「目で見ることは、心がさまようよりは善い」(6:9) とは、私たちの心が過剰な不安に駆られたり、不可能な幻想に憧れたりすることを思いながら、それよりは「目で見る」ことに心が向かっている方が善いという現実を指します。しかし、「これもまた空しく、風を追うようなものだ」と言われるのは、それでも私たちの心が、「目で見る」ことの範囲にとどまっているなら、目に見えない祝福を体験することもできなくなるからです。

「存在するものはすべて、すでに名がつけられ、人がどうなるかも知られている」(6:10) とありますが、「名をつける」とは、それに対する支配権を表すことですから、これは神がすべてのことを支配し、知っておられるということを意味します。そして、「自分より力ある方と争うことはできない。多く語れば、それだけ空しさが増す。それが人に何の益となろう」(6:10、11) とは、自分の出生や、今のまわりの環境に対する不平不満を神に訴えることの空しさを指すのだと思われます。私たちは、変えようもないことを変えようとして、もがき苦しみますが、それは受け入れるしかないものです。しかも、それがすべて自分を愛しておられる神の御手の中にあるということが分かるとき、受け入れることができるようになります。一方、私たちが目を向けるべきなのは、「変えられること」を見極めて、そのことに誠実に向かってゆくということです。神は、私たちに与えられた能力を生かす機会を残してくださっています。

「空しく短いいのちの日々を影のように過ごす人間にとって、何がしあわせなのかを、誰が知っているだろう。その一生の後で、日の下で何が起こるかを、誰が人に告げられるのだろう」(6:12) というのも、創造主である神を忘れて、今ここでの幸せを味わったり、また、死後の希望のことを語ることができないという真実に私たちの思いを向けさせることばです。私たちはある意味で、今、『影の国』に生かされているということを受け止める必要があります。百年ほどまえの英国の作家 は自分が、この世界を、神が備えておられる永遠の喜びの世界から見ることができるようになった感動を、「現代の思想家が耳にタコができるほど繰り返しているところでは、私はまさにいるべき場所にいるという話であったが、しかし、その話を鵜呑みにしても、私はやっぱり心が少しも晴れやかにはならないでいた。ところが、今や私は、お前はいるべきでない場所にいるのだと聞かされた。すると私の魂は、春の小鳥のように嬉々として歌いだしたのである」(「正統とは何か」安西徹雄訳 チェスタトン著作集Ⅰ1973年春秋社p140)と記しています。この世界でのいのちを「影」のようなものとして見ることは、厭世的になることではなく、今ここでの生活を、春の小鳥のように嬉々として歌いながら生きることと表裏一体なのです。

今年の3月21日、当教会の内装工事を企画してくださったT兄の胃に驚くほど大きな癌細胞が発見されました。その日は、イエスが十字架にかかったことを記念する金曜日でしたが、彼は癌の宣告を受けた後、たまたま当教会の受苦日礼拝に参加されました。その礼拝の中で、「イエス様は私ひとりを生かすために十字架で苦しんでくださった」という不思議な感動に満たされました。その後の検査で、それは進行性の胃がんでリンパ節にも転移しているということがわかりました。これまで企業戦士として様々な修羅場を潜り抜けてきた彼も、「もうお任せするしかない」と観念せざるを得ませんでした。でもそのとたん、「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」(詩篇46:10) というみことばが迫ってきて、不思議な平安に満たされました。自分の病が神の御手の中にあるということが本当によくわかったのというのです。胃の全摘手術の前に抗がん剤治療を受けることになりましたが、なかなかベットが空かない中で、「今は、胃の癌を治療する前に、心の癌を癒すことだと気付きました」と書いておられます。

彼は徹夜も厭わずに仕事に没入し、ご自分の所属する教会でも積極的に奉仕を続けて来られました。彼は、何かを達成することに喜びを求めていましたが、今、ここでの生活の中に、幸いを見出すということが足りなかったと気づかされたのです。そして、今の療養期間を、「仕事をせずに給与がもらえる贅沢を味わう時期」と見ることができました。その頃、彼は、『悩む者には毎日が不吉の日であるが、心に楽しみのある人には毎日が宴会である』(箴言15:15) とのみことばが示されたと書いてくださいました。そして、そのような平安に包まれていた結果だと思われますが、抗がん剤治療が驚くほどの効果を挙げることができました。そして、この10月から仕事に復帰することができました。彼は今、「これからは Doing よりも Being、達成感よりも存在感を大切にしたい。自分ひとりで突っ走るのではなく、周りの人がどのようにしたら仕事がし易くなるかを考えるようになった……」と言っておられます。

私たちはこの世界において、様々な困難に直面します。しかし、それが全能の神の愛の御手の中にあるということを受けとめるなら、今、ここでの生活の中に、満足 (satisfaction) を見出すことができます。私たちの幸せは、環境の変化以前に、イエス・キリストとの交わりから生まれます。今から四百年前近く前に作られ、三百年ほど前に J. S. バッハによって編曲された『主よ、人の望みの喜びよ』という曲が、今も驚くほど多くの人に親しまれています。そこには、以下のような歌詞がついています。私たちの心の満足がどこから来るかを常に覚えましょう。

  1. イエスを持つこの私は何と幸せか!何と固く彼を抱きしめることでしょう。
    彼は私の心を活かしてくださる。
    病のときも、悲しみのときにも、イエスご自身が私のうちにおられる!
    いのちを賭けてこの私を愛された方が。
    ああ、だから私にイエスを忘れさせないでください。
    たといこの心が破れることがあっても
  2. イエスはどんなときにも私の喜び、この心の慰め、生命のみなもと。
    イエスは全ての苦しみの中での守り手。
    彼こそが私に生きる力を与える。彼は私の目の太陽、また楽しみ、
    このたましいの宝、無上の喜び。
    ああ、だから私に、いつもイエスを、こころの目の前から離れさせないでください。