幸福は、「健康、良き配偶者、悔いのない生涯の仕事、確固たる人生観を持つこと」にあるとスイスの哲学者 が言っています。しかし、この四つを全て手に入れることができるのは、非常にまれではないでしょうか。それこそが、まさに神の恵みです。それは自力でつかみとるものではなく、与えられるものです。だれもそれを誇ることはできません。それは、人間的にいえば、何らかの偶発的“ハプニング”であり、それこそ、“ハッピー”といえるものでしょう。この“ハッピー”、“ハプニング”は、古英語 “hap”(ハップ)に由来し、「偶然の出来事」を意味します。そして、それは、聖書的にいえば、偶然ではなくて、神からの必然的な賜物です。それにしても、人生は不公平です。ある人は、この四つの幸福をすべて手にしている一方、ある人は、「私には何もない……」と思える時期があるかもしれません。ただ、そこで、「諦め、現状を受け入れる」というのは仏教的な価値観ではないでしょうか。聖書には、神に「食い下がる」ような祈りが満ちています。確かに、現実を受け入れるのは大切なのですが、それは全知全能の神との関係の中で起こるべきことです。本日の箇所に出てくるエレミヤの祈りは、モーセのように大胆で、ダビデのようにパーソナルです。主に信頼するとは、そのような祈りをささげることではないでしょうか。一方、多くの信仰者は、主の前でかっこをつけた祈りをささげようとしながら、身近な人の前でとんでもない悪態をついてしまうということがないでしょうか。主に信頼することと、人に信頼することの対比を私たちは心に刻むべきでしょう。
1.「私たちはあなたの御名をもって呼ばれている……契約を覚えて、それを破らないでください」
14章最初には、「日照りのこと」について、エレミヤに主 (ヤハウェ) のことばがありました。それは、「ユダは喪に服し……エルサレムは哀れな叫び声をあげる」というものですが、日照りの激しさが、「その貴人たちは、召使いを、水を汲みにやるが、彼らが水ためのほとりに来ても、水は見つからず、からの器のままで帰る……国に秋の大雨が降らず、地面が割れ……若草がないために、野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てる」(14:3、5) と描かれます。申命記では、「主 (ヤハウェ) を愛し……主に仕えるなら」、「先の雨と後の雨とを与えよう」と約束される一方で、「ほかの神々に仕え、それを拝む」なら、「主が天を閉ざされ……雨は降らず、地はその産物を出さず……あなたがたは……その良い地から、すぐに滅び去ってしまおう」(11:13–17) と預言されていましたが、それが今、実現するというのです。
それを聞いたエレミヤは、「私たちの咎が、私たちに不利な証言をしても、主 (ヤハウェ) よ、あなたの御名のために事をなしてください」(14:7) と願いながら、「なぜあなたは……一夜を過ごすため立ち寄った旅人のように、すげなくされるのですか」(14:8) と訴えます。「すげなくされる」とは原文にない解説ですが、旅人が目的地に急いでいるとき、宿を取ることは必要に迫られて仕方なくやっていることで、関心はそこにはないという姿を示したもので、彼はここでこのたとえを用いながら、主の関心がイスラエルの民に十分に向けられていないのではないかという疑いを訴えています。これは、妻が夫に、「あなたは仕事のことばかり考えて、家庭を何だと思っているの!」と非難することに似ています。主に対して何とも失礼なことばですが、そこに自分の民の痛みを思うエレミヤの必死さが現れています。その上で彼は、「主 (ヤハウェ) よ。あなたは私たちの真ん中におられ、私たちはあなたの御名をもって、呼ばれているのです。私たちを、置き去りにしないでください」(14:9) と不思議な訴えをします。それは、イスラエルが主 (ヤハウェ) の民として呼ばれているのであれば、彼らを捨てることは主 (ヤハウェ) の御名が国々の間で汚されることになるという論理で、主に向かって、「イスラエルを捨てるのは、あなたのためになりません」と説得するかのようです。
この祈りは、出エジプトから間もないとき、モーセが40日間もシナイ山に登って留守の間、金の子牛を造って拝んだイスラエルの民を主が滅ぼすと言われたときに、モーセが必死に執り成した祈りに似ています。そのとき彼は、イスラエルを滅ぼすなら、エジプト人は、「神は彼ら(イスラエル)を山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意を持って彼らを連れ出した」と言うようになり、主の御名を汚すことになると説得しました (出エジプト32:12)。
ところが、主は、エレミヤが主を「旅人のように」と言ったことに対し、イスラエルの民こそが、「さすらうことを愛し、その足を制することもしない」と非難しました。そればかりか、「この民のために幸いを祈ってはならない」(14:11) とまで言われ、ご自身のさばきはもう避けがたいことを知らされます。
ところがエレミヤはなおもあきらめず、「あなたはユダを全く退けたのですか……なぜ、あなたは、私たちを打って、いやされないのですか。私たちが……いやしの時を待ち望んでも、なんと、恐怖しかありません」(14:19) と訴えます。そして、民を代表しながら、「主 (ヤハウェ) よ。私たちは自分たちの悪と、先祖の咎とを知っています。ほんとうに私たちは、あなたに罪を犯しています」と主の前にへりくだって祈っています (14:20)。そして今度は、「あなたが私たちに立てられた契約を覚えて、それを破らないでください」(14:21) と祈り、「異国のむなしい神々」との比較で、イスラエルの神だけが、雨を降らせることができる方であるということを強調しながら、なお、「私たちはあなたを待ち望みます」(14:22) と告白します。これもモーセの祈りに似ています。彼は、アブラハム、イサク、ヤコブへの契約を引用しながら、主が、「わたしはあなたがたの子孫を空の星のようにふやし、わたしが約束したこの地をすべて、あなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれを相続地とするようになる」と約束されたことを思い起こして欲しいと訴えました。そのとき、「すると、主 (ヤハウェ) はその民に下すと仰せられたわざわいを思い直された」のでした (出エジ32:13、14)。つまり、主はこのとき被造物に過ぎないモーセの訴えを真剣に受け止めてくださったのです。
エレミヤの祈りとモーセの祈りも、主の御名の栄光のためと、主の契約を思い起こすということで共通点があります。主が私たちの罪を赦し、かたくなな私たちを守り通してくださるのはこの二つの動機の故です。ヒルティの言う「確固たる人生観」を持つとは、この主のみこころをいつも覚えながら生きるということではないでしょうか。私たちも自分が神の子とされていることを世に証しするなら、主ご自身が御名の栄光のために私たちを守り通してくださいます。それと同時に、私たちは特に聖餐式において、主の契約を思い起こさせていただくことができます。主の栄光は私たちの人生の方向を示し、主の契約は矛盾に満ちた世で生きる安心感を与えるものと言えましょう。
ところがこのとき、主 (ヤハウェ) はエレミヤに、「たといモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしはこの民を顧みない」と言われ、彼らに、「死に定められた者は死に、剣に定められた者は剣に、ききんに定められた者はききんに、とりこに定められた者はとりこに」(15:2) という四つのわざわいを宣告されます (15:1、2)。そして主は、ご自身の厳しいさばきを行う理由を、「ユダの王ヒゼキヤの子マナセがエルサレムで行ったことのためである」と語っています (15:4)。ヒゼキヤはアッシリヤの攻撃に対して必死に主に嘆願して、主の奇跡的な救いを見ることができましたが、マナセは反対に、アッシリヤに媚びへつらい、エルサレムを偶像で満たしました。列王記の記者は、「マナセは彼らを迷わせて、主 (ヤハウェ) がイスラエル人の前で根絶やしにされた異邦人よりも、さらに悪いことを行わせた」(Ⅱ列王21:9) と記していますが、彼は55年間も王座に留まってしまいました。残念ながら、指導者が悪ければ、民全体が腐敗してしまうというのが王政の何よりの矛盾です。
そして、このとき主は、「エルサレムよ……おまえがわたしを捨てたのだ……おまえはわたしに背を向けた。わたしはおまえに手を伸ばし、おまえを滅ぼす。わたしはあわれむのに飽いた」(15:5、6) と仰せられます。ここに、主の悲しみと怒りが生々しく描かれています。主は、何度もご自身の民から捨てられながら、忍耐を重ねて来られました。しかし、このときは、なんと、「わたしはあわれむのに飽いた」と言われたのです。
2.「あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました」
ところでエレミヤは、今度は、自分の使命を嘆き、「私の母が私を産んだので……私は貸したことも、借りたこともないのに、みな、私をのろっている」(15:10) と、「生まれてこなければよかった……」という絶望感を表現しています。それに対し主は、「必ずわたしはあなたを解き放って、しあわせにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする」(15:11) と主に従い続ける者への祝福と名誉を保障します。
エレミヤは引き続き、主のご計画を聞かせていただきながら、14章に記されていたような民の代表としての崇高な祈りとは対照的と言えるほどの、個人的な、自分の心の痛みを正直に訴えながら、「私を思い出し、私を顧み、私を追う者たちに復讐してください。あなたの御怒りをおそくして、私を取り去らないでください。わたしがあなたのためにそしりを受けているのを、知ってください」(15:15) と祈ります。エレミヤを追い詰めているのは同胞の宗教指導者たちですが、彼はここで彼らの上に神の怒りがすみやかに下されることを願っています。これは先の民全体の救いを願う祈りと矛盾しているように思えますが、それこそ感情の現実でしょう。そして、そのような祈りはダビデの詩篇にもたびたび出てきます。その代表はイエスの苦しみを預言的に描いている詩篇69篇です。人の多くの苦しみは最も身近な人間関係から生まれます。イエスを十字架にかけたのはローマ軍である前に、ユダヤ人たちでした。そして、私たちは自分の「怒り」を詩篇によって表現することが許されています。
その上でエレミヤは、「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主 (ヤハウェ) よ。私にはあなたの名がつけられているからです」と告白しています (15:16)。エレミヤは、差し迫る神のさばきのみことばを聞いて、深く悲しんでいました。しかし、彼は同時に、神がそれをイスラエルの益とされることを知り、同時に、人々から決して理解されないような働きのために自分が召されたということに、大きな誇りを感じることができたのではないでしょうか。そこにまさに、ヒルティがいう「悔いのない生涯の仕事」を与えられた感動があります。私たちが心のそこで求めているのは、自分の苦しみが無駄にはならず、神のご計画の中で用いられているという誇りではないでしょうか。そして、わたしたちひとりひとりにも、「主の名」がつけられ、「主からの使命」が与えられています。
一方、16章で主は、先とは別に、この世的な幸せを諦めさすような具体的な命令をエレミヤに授け、「妻をめとるな。またこの所で、息子や娘を持つな」(16:2) と言われます。これは当時の人々にとっては極めて異例の命令です。それは、「この所で生まれる息子や娘」ばかりか、その父も母も、「ひどい病気で死ぬ」ばかりか、「彼らはいたみ悲しまれることなく、葬られることもなく、地面の肥やしとなる。また、剣とききんで滅ぼされ、しかばねは空の鳥や地の獣のえじきとなる」(16:4) という想像を絶する悲劇が目前に迫っているからです。そのようなときは、家族を持たないほうが幸せとも言えましょう。神はエレミヤにとっての最善を知っておられるのです。
3.「彼らは、わたしの名が主 (ヤハウェ) であることを知る」
ところで、主はエレミヤに、「あなたがこのすべてのことばを告げるとき、彼らがあなたに、『なぜ、主 (ヤハウェ) は私たちに、この大きなわざわいを語られたのか。私たちの咎とは何か。私たちの神、主 (ヤハウェ) に犯したという、私たちの罪とは何か』と尋ねた」(16:10) ならと言いながら、彼にそのときの答えを授けていますが、それは主がモーセの時代から何度も語っておられたことです。イスラエルの民はこの期に及んでも、自分たちがどれだけ主を悲しませ、怒らせてきたかということが分かっていませんでした。人はみな、自分を正当化する名人だということがこの応答に表れています。彼らはまるで主は自分たちを守るためにおられると思っていました。そのような中で、エレミヤの使命は、彼らがこの苦しみに会うのは、主 (ヤハウェ) が無力だからではなく、主の裁きであると伝えることでした。
ただ、これによってイスラエルの民が滅びてしまうわけではありませんでした。主は、この苦しみの後の希望を、「それゆえ、見よ、その日が来る。——主 (ヤハウェ) の御告げ——その日にはもはや、『イスラエルの子らをエジプトの国から上らせた主 (ヤハウェ) は生きておられる』とは言わないで、ただ『イスラエルの子らを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた主 (ヤハウェ) は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる」(16:14、15) と仰せられました。つまり、出エジプトに匹敵する主の救いのみわざが、捕囚とされ散らされたイスラエルの民の上に表されるというのです。これは、約束の地に入る前のモーセの時代、申命記30章1–5節ですでに預言されていたことでした。旧約の前半のテーマは出エジプトですが、後半のテーマは「出バビロン」ということができます。そして約束の地への帰還こそ、多くの預言書のテーマになっています。これは私たちにとっては、黙示録21章に描かれている「新しい天と新しい地」「新しいエルサレム」に招き入れられることを指します。どちらにしても強調されているのは、主の一方的なあわれみのみわざです。私たちの責任は、一時的な幸せを約束するサタンの甘い誘いに耳を貸さず、苦しみの中でも主 (ヤハウェ) の救いを待ち続けることです。
その上で、再び、民の回心という希望が歌われます。エレミヤは、「主 (ヤハウェ) よ、私の力、私のとりで、苦難の日の私の逃げ場よ」(16:19) と告白しますが、それがイスラエルの民ばかりか世界中の民の告白となるというのです。そのとき、偶像を拝んでいた諸国の民は地の果てから来て、「私たちの先祖が受け継いだものは、ただ偽るもの、何の役にも立たないむなしいものばかりだった。人間は、自分のために神々を造れようか。そんなものは神ではない」と言うことになります (16:19、20)。これは、今まさに、日本であなたの上に起こっていることと言えましょう。そして、主ご自身も、「だから、見よ、わたしは彼らに知らせる。今度こそ彼らに、わたしの手と、わたしの力を知らせる。彼らは、わたしの名が主 (ヤハウェ) であることを知る」(16:21) と言われます。イスラエルの神の御名、「ヤハウェ」には、ご自身が天地万物の創造主であり、世界のすべてを支配しておられるという意味がこめられています。
4.「主 (ヤハウェ) に信頼し、主 (ヤハウェ) を頼みとする者に祝福があるように。」
17章4–8節で、人間に信頼する者と、主に信頼する者との対比が美しく描かれます。「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主 (ヤハウェ) から離れる者はのろわれよ。そのような者は荒地のむろの木のように、しあわせが訪れても会うことはなく、荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む」と言われます。ここでは「のろわれる」(祈りではなく、断定形)ということばが強調されていますが、人に信頼すること自体が悪いのではなく、それによって「心が主 (ヤハウェ) から離れる」ことが問題とされているのです。これは当時のエルサレムの指導者が、主に信頼することを忘れて、エジプトとバビロンを両天秤にかけて、国際政治の力学で自分の国の独立を保とうとしていたことを非難したものです。しかも、「荒地のむろの木のように、しあわせが訪れても会うことはなく」というのは興味深い表現です。これは、「荒地のむろの木」とは不恰好な役に立たない状態を示す言葉でしょうが、私たちも神を忘れて生きると、人生で出会う様々な機会を生かすことができず不毛の人生のままに留まるというのです。“ハッピー”の反対は、“ミスハップ (mishap)”とも言えましょう。それは、神ある“hap”(ハップ)を生かせない悲劇です。
それに対し、「主 (ヤハウェ) に信頼し、主 (ヤハウェ) を頼みとする者に祝福があるように。その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる」と対照的な平安と祝福が述べられます。この文章は「祝福される」という断定形、約束のことばとして訳すべきで、そのような「祝福」が強調されています。これは詩篇1篇を思い起こさせることばです。そこでは暑さや日照りがなくなるというのではなく、根がいつも豊かな水に届いているという幸いです。それこそが、ヒルティが言う「健康」ではないでしょうか。健康さとはこの矛盾に満ちた世界に向かう力を意味します。私たちの人生にも様々な苦しみがありますが、その中で、不思議な主のみことばによる慰めとか不思議な助けが与えられ、苦しみの中にさえ喜びを発見できるようになるというのです。永遠に比べればこの地上の苦しみは、ほんの一瞬の“ミスハップ (mishap)” に過ぎません。この永遠の幸いの約束こそ、私たちが毎日の生活の中で繰り返すべきみことばです。ここに記されている対比こそ、エレミヤ書の核心、私たちの信仰の核心と言えましょう。
一方、その後すぐに、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう」(17:9) と記されているのは衝撃的です。ただ、「陰険」と訳されていることばは、「欺くもの」とも訳すことができ、イスラエルの始まりである「ヤコブ」の名の由来です。エサウは弟のヤコブから祝福を横取りされたとき、「彼の名がヤコブというのもこのためか。二度までも私を押しのけ(欺いて)しまって……」(創世記27:36) と言った通りです。しかし、「ヤコブと同じ心が人に宿っている……」と言われるなら希望を持つこともできます。また「それは直らない」というのも「癒すことができないほどに病んでいる」状態を表すに過ぎません。人にできないことを神がなしてくださいます。
どちらにしても、多くの日本人は、生き難さを抱えた人の問題を指摘してあげて、その人が健全な社会生活を送ることができるように教えてあげるのが愛の行為だと思っていますが、それは無駄な努力だというのです。私たちはそのような人間の現実を知る必要があります。人は、常に自分を正当化してしまい、自分の心の闇を見ようとはしません。しかし、主は、「わたし、主 (ヤハウェ) が心を探り、思い(腎臓)を調べ、それぞれその生き方により、行いの結ぶ実によって報いる」(17:10) と主ご自身が人の「心を探り」、「思いを調べ」、それぞれの生き方に従い公平にさばき、また報いてくださるというのです。なお、「思い」の原文は「腎臓」、人の最も奥深い器官であり、そこに人間を動かす理解しがたい感情が宿っていると考えられていました。たとえば、「あなたには闇も光のようです。それは、あなたが、私の奥深い部分を作り」(詩篇139:13)(拙著「心を生かす祈り」P47–50解説)とあるように神の作品でもあり、すべて神に知られていることです。それを思うとき、私たち自身が他の人の悪を指摘し、それを正してあげようという余計なおせっかいをする誘惑から自由にされます。しかも、主のさばきが、「しゃこが自分で産まなかった卵を抱くように、公義によらないで富を得る者がある。彼の一生の半ばで、富が彼を置き去りにし、そのすえはしれ者となる」(17:11) と描かれ、主がご自身のときに、けじめをつけてくださると保障されています。
一方、「私たちの聖所のある所は、初めから高く上げられた栄光の王座である。イスラエルの望みである主 (ヤハウェ) よ。あなたを捨てる者は、みな恥を見ます」という告白がなされる一方、主の警告が、「わたしから離れ去る者は、地にその名がしるされる。いのちの水の泉、主 (ヤハウェ) を捨てたからだ」と述べられます(17:12、13)。これこそ、私たちがこの地上の生活の中で、主を忘れそうになったときに繰り返すべき御言葉でしょう。イエスは「あなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」(ルカ10:20) と言われ、また、「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ4:14) と言ってくださいました。私たちはイスラエルの歴史を見るとき、人の心がいかに頑なで、救いがたいものであるかを知ることができます。しかし、私たちの主イエス・キリストは、そんな救いがたい人を救うために十字架にかかられ、死んで葬られ、三日目に死人の中からよみがえって、私たちひとりひとりにご自身の「霊」、神の子とする御霊を与えてくださったのです。
「人の心は何よりも陰険で、それは直らない……」とは私たちが覚えるべき現実です。しかし、聖霊は、人にはできないことを可能にしてくださいます。旧約のストーリーは救いがたいほどの人の罪深さを描きますが、新約のストーリーは、そのような罪人をイエスが愛し、立ち直らせてくださったことにあります。そして、今、創造主であられる聖霊ご自身が私たちのうちがわに宿っておられます。その結果、私たちの心の中に主への正直な祈りが起こされ、自己中心のかたまりのような人が、他人のためにとりなしの祈りをすることができるように変えられているのです。