箴言10章〜11章「主の祝福の中を大胆に生きる」

2008年9月24日

先週はエレミヤ書から、現実から遊離した理想や根拠のない楽観主義の危険を話しました。ただ、それが人生を悲観的に見ることにつながっては本末転倒です。今から百年ほど前のボーア戦争のとき、南アフリカのひとりの兵士が、「落胆させる罪」という罪名で起訴されたことがあるそうです。彼はある小さな町がイギリスの攻撃を受けていたとき、町を守る兵士たちの間に、あらゆる否定的な情報や不平不満を吹聴しました。彼はイギリス軍の強さばかりを一面的に語り、町が陥落するしかない理由をまくしたてて歩き、そのことばは、銃よりも強い武器となり、町を防衛する兵士たちの戦意を挫いてしまいました。否定的な言葉と落胆は、人を滅ぼす武器になります。しかし、肯定的な言葉と希望は、人を生かす武器になります(Durano Japan リビングライフ 9月号 p101、ただし事実関係の詳細は不明)。聖書の箴言には、真理を簡潔に言い表す言葉に満ちています。ただ、一見、脈絡のないと思われる表現が並び、互いに相矛盾すると思われる言葉もありますので、聖書全体から理解する必要があります。

今回は10、11章から、特に、富と人間関係に焦点を合わせてみます。多くの人にとっての悩みは、お金のことか人間関係に関わることではないでしょうか。その際、様々に入り組んだ問題の本質を見極めることが大切です。

1.「不義によって得た財宝は役に立たない」「無精者の手は人を貧乏にし……」

「知恵のある子は父を喜ばせ、愚かな子は母の悲しみである」(10:1) とありますが、それはこの世の「知恵」とは異なり、「主 (ヤハウェ) を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである」(9:10) とあるように、創造主との関係で言われることです。この世の知恵があっても、神の前に愚かな者になってはなりません。反対に、この世においては「愚か」と見られながら、神の前に「知恵ある者」とされているのが、キリスト者のあるべき姿でしょう。たとえばロシアの文豪ドストエフスキーは、カラマーゾフの兄弟のアリョーシャの生き方にそれを描こうとしました。まったくジャンルは違いますがアルプスの少女ハイジなどもそうです。この人たちは、人に騙され、振り回されているようでありながら、神と人を信頼することができています。不思議に、悪人と思われる人でさえ、この人たちの前ではしだいに優しくなってしまいます。そのため、お金に驚くほど無頓着でありながら、すべての必要が満たされます。

「不義によって得た財宝は役に立たない」(10:2) とは、経済活動で何よりも心に留めるべきことです。「財宝」自体は決して悪くはなく、大切なものです。それだけに「目的のためには手段を選ばない」ということが起きがちです。しかし、「財宝」は私たちの幸せを保証するものではなく、それ自体が手段に過ぎません。実際、多くの財宝を手にしていながら、不安と孤独に苛まれている人も多くいます。「いのち」は主 (ヤハウェ) の御手の中にあります。神に逆らって豊かになっても、あなたのいのちの保障はありません。これとセットで、「しかし正義は人を死から救い出す」と言われます。「正義」とは、英語で righteousness と記されますが、これは right relatedness(正しい関係)と言いかえることもできます。「私は正しい!」と言い張る人ではなく、イエスの十字架なしには救われないということを自覚する罪人こそが、「正しい者」です。自分の心の貧しさを悲しむ人を、主 (ヤハウェ) は守り通してくださいます。

「主 (ヤハウェ) は正しい者を飢えさせない。しかし悪者の願いを突き放す」(10:3) とは、来るべき世までをも含めて理解すべきことです。イエスは、終わりの日に、「主の名によって預言し、悪霊を追い出し、奇蹟をたくさん行った人」が、主から、「わたしは、あなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れ去れ」と退けられることがあり得ると警告しておられます (マタイ7:22、23)。この世の成功の尺度で人生を計ることはできません。

ただし、「不義によって得た財産」ということばを、狭く解釈してはなりません。しばしば、直接の生産に関わらない金融業や商業は軽蔑される傾向があります。しかし、市場経済のもとで得る利益は基本的に、その働きが消費者の必要を満たすことができたこと、つまり、人の役に立ったことの証しであると言うこともできます。この世の経済活動を斜に構えて見ながら、自分は汗も流さず、リスクも取らない人を、聖書は、「無精者」と呼びます。

「無精者の手は人を貧乏にし、勤勉な者の手は人を富ます。夏のうちに集める者は思慮深い子であり、刈り入れ時に眠る者は恥知らずの子である」(10:4、5) とは勤労の大切さを語ったものですが、これは、主にあって勤勉に働いて富を得ることを前面肯定したことばと言えましょう。この世の仕事を軽蔑してはなりません。主は、ひとりひとりに、仕事を与えておられます。それを誠実に成し遂げて、結果的に富を得ることができるのは良いことです。すべての仕事は、主に対する奉仕になり得るものです。その報酬を堂々と楽しんでよいのです。

そのことが、15節では、「富む者の財産はその堅固な城。貧民の滅びは彼らの貧困」と言われます。財産は、この世では「堅固な城」として機能しえるものです。貧困は、貧しい人を追い詰め、滅びに至らせることがあります。しかし、財産は、それほどすばらしいもので、役立つからこそ、神の代りに尊ばれる危険があります。

「財産」は私たちの人生を守り、豊かにできる神からの賜物です。それを否定することは、旧約聖書を否定することになります。しかし、だからと言って、「貧しさ」を神のさばきと見るのは誤りです。それを背景に、イエスは、「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから」(ルカ6:20) という逆説を述べられました。「貧しさ」はひとつの悲劇です。しかし、神は、それさえも祝福の原因に変えることができます。たしかに、神を忘れずに豊かさを享受できるのが最も良いことかもしれませんが、財産は、手段に過ぎないということは、決して忘れてはなりません。

2.「主 (ヤハウェ) の祝福そのものが人を富ませ……」

一方で、22節の「主 (ヤハウェ) の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない」というみことばは、人の労苦をあざ笑い、先のことばと矛盾するように感じられます。しかし、これはこの世的な富を既に得た人に向けてのことばです。イスラエルの民は、約束の地での祝福を味わうときに、「あなたは心のうちで、『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主 (ヤハウェ) を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためだ」(申命記8:17、18) というみことばを心に刻むように命じられていました。

私たちの働く環境は、基本的に、獲得したものではなく、与えられたものです。しかも、「富を築き上げる力」や「苦労する力」を与えてくださったのも、主ご自身です。たとえば私は自分の忍耐心を誇っていたことがあります。しかし、それは私の要領の悪さやバランスの悪さをカバーするために神によって与えられた恵みだと分かりました。要領の悪さと忍耐心は、セットとなっていることが分かったとき、自分の弱さを卑下する必要も、また自分の強さを誇る必要もなくなりました。長所と短所を併せ持った私自身に神の祝福があると分かり嬉しくなりました。私たちは自分が生まれた環境も、基本的な気質も体型も、選ぶことができませんでした。そこには疎ましく思えるような様々な様子がありますが、それらすべてを神から与えられた祝福と受け止めるとき、世界が変わって見えます。

ただし、富自体を主の祝福の現れとして喜ぶことの危険も改めて記されます。それが、11章4節の「財産は激しい怒りの日には役に立たない」です。パリサイ人は、豊かさ自体を神の祝福のしるしとして受け止め、自分の罪深さを忘れていました。「激しい怒りの日」とは、神が私たちの罪をさばかれるときです。そのとき、財産は何の役にも立ちません。頼りになるのはイエス・キリストの十字架の血潮だけです。それと並行する、「正義は人を死から救い出す」とは10章2節と同じ表現です。私の正義ではなく、イエスの正義が私たちの救いです。パウロは、「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに……すべてのものを……ちりあくたと思っています」(ピリピ3:8) と言いました。この世で誇ることができるすべての宝が、キリストを知っていることに比べたらすべてがむなしく見えるというのです。私たちの救い主は、この世界を創造し、すべての富も力をも保有しておられる方です。

私たちの目が、富よりも、創造主に向けられるべきことが11章24–28節で再び繰り返されます。24節の、「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある」とは、けち臭い生き方への警告です。ドイツで仕事をしていたとき、資産運用の専門家が、「お金は、水のように、流れ行く場所を求めている」という名言を言っていました。お金は、最終的に、お金の使い方を知っている人のもとに流れて来ます。ですから、お金を貯めることばかり考えている人は、自分で自分の首を絞めることになるのです。パウロはこのみことばをもとに、「少しだけ蒔くものは、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります」(Ⅱコリント9:6) と語りました。パウロはこれを献金の勧めに用いましたが、本来はこの箴言にあるようなこの世の経済活動の話でした。つまり、この世での投資と神の国の献金の原則には共通項があります。何にしても、けちる者は豊かになれません。

26、27節の「おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。穀物を売り惜しむ者は民にのろわれる。しかしそれを売る者の頭には祝福がある」とは、すべての商取引の基本は、人と人との信頼関係によって成り立っているという原則を示します。取引相手を後で後悔させるような取引を続けていると、結局は人の信頼を失い、相手にされなくなります。しかも、私たち信仰者は、人が私たちの善意を誤解したり、感謝してくれなかったりしても、神がすべてを支配しておられることに信頼することができます。そのことが最後に、「熱心に善を捜し求める者は恵みを見つけるが、悪を求める者には悪が来る。自分の富に拠り頼む者は倒れる。しかし正しい者は若葉のように芽を出す」(11:27、28) と記されます。この世の経済活動の背後に、神がおられるということを決して忘れてはなりません。富を軽蔑するのでもなく、富に望みをかけるのでもなく、富を支配しておられる神に信頼することこそが私たちの信仰です。「正しい者」、つまり、父なる神との正しい関係をキリストにあって持っている者は、一時的にしおれるように見えることがあっても、必ず、「若葉のように芽を出す」ことができるのです。

3.「正しい者の口はいのちの泉。……愛はすべてのそむきの罪をおおう」

人間関係の基本は、口から出ることばによります。そのことが、「正しい者の口はいのちの泉。悪者の口は暴虐を隠す」(10:11) と述べられます。詩篇作者は神に向かって、「彼らはあなたの家の豊かさを心ゆくまで飲むでしょう。あなたの楽しみの流れを、あなたは彼らに飲ませなさいます。いのちの泉はあなたにあり……」(詩篇36:8、9) と描きますが、ここでは神ではなく、「正しい者の口」が、「いのちの泉」であると言われます。それは私たちの口から神の愛が取り次がれることによります。私たちの口から出ることばが、人に生きる力と喜びを生み出すものであるためには、どのようにしたら良いでしょうか。ある方は、人に会う前に必ず主に向かって祈ると言っておられました。それは、神ご自身が私たちに、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ43:4) と語ってくださるのと同じ思いで、その人を見ることができるように祈ることです。多くの日本人は、人の欠点を指摘して正してやることが親切だと思っています。しかし、私が相談に乗ってきたほとんどすべての人は、自分の欠点が分かりながら、変えられない自分に悩んでいるというのが現実でした。問題を指摘するよりは、問題に直面する「いのちの泉」が必要です。

「憎しみは争いをひき起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう」(10:12) とありますが、この「愛は・・罪をおおう」という表現は新約聖書で三回も引用されます(Ⅰペテロ4:8、Ⅰコリント13:7別訳、ヤコブ5:20)。

ここで、「愛」とは、「そむきの罪」を露にするものではなく、「おおう」と記されています。これはセットになっている「争いを引き起こす(目覚めさせる)」方向に働く「憎しみ」との対比でより意味が明確になります。たとえば、私たちが人を憎んでいるとき、その人を憎むことを正当化できるあらゆる欠点が目につきます。そして、それを指摘することによって、自分の側に正義があるという優位を確認したくなります。しかし、それは必ず相手の反撃を招き、反対に相手が自分の欠点を指摘して争いが激化する方向に働きます。ところが、「そむきの罪」の基本は「反抗」ですが、私たちが人を、「愛はすべてをおおう」というⅠコリント13:7(別訳)の原則で「愛するとき」は、「そむきの罪」を無力化できます。それは何よりもまず、その人が指摘されることを恐れている「そむきの罪」を、敢えて気づかないふりをするということです。これは、親にひとつひとつ反抗を見せる子供に対し、そのひとつひとつの反抗の愚かさを指摘する代わりに、何も言わずに、「抱擁する」ことに似ています。無条件の愛は、「そむく」理由を無くさせます。しかも、ここで、「愛」は、部分的にではなく、「すべて」の「そむきの罪」を、「おおう」力があると言われます。

聖書の「愛」(アガペー)に最も近いことばは「尊敬」です。神は、尊敬に値しない罪人を、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」と言って、ご自身の御子を罪の身代わりとしてくださいました。目の前の人を見て、「これさえ改めてくれれば、好きになることができるのに……」などというのは、聖書の「愛」に反します。多くの人は心の内側で自分を軽蔑しています。あなたの愛の語りかけは、その人に生きる力を与える「いのちの泉」になり得るのです。愛は、「あなたがいてくれて嬉しい」というような、その人の存在自体を喜ぶことばから始まります。

4.「憎しみを隠す者は偽りのくちびるを持ち……ことば数が多いところには、そむきの罪がつきもの」

10章18節では、「憎しみを隠す(おおう)者は偽りのくちびるを持ち」と言われますが、これは、たとえば、心の底でその人を憎んでいながら、「私はあなたを愛しています」という「偽り」を言うことです。しかし、先には、「愛」は、愛するに価しない人を尊敬しようとする意思であると言いましたが、それと矛盾するかのようです。ただ、それは、決して、偽善的になることではありません。あくまでも問われているのは、私たちの心の底にある動機です。世の中には、自分の立場を守るだけのために、心の内側の憎しみを隠しながら、その人の好意を得ることができるような耳障りの良いことばを発し続ける人がいますが、そのような態度を戒めたものです。ただ、同時に、ここではそれを補うかのように、「そしりを口に出す者は愚かな者である」と記されています。自分の思いを正直にことばにすることが良いわけではありません。たとえば、自分の思ったままを口に出し、「私はあなたが嫌いです」などと言うことは、相手の敵意を買うだけです。それは愚かなばかりか、愛の原則に真っ向から反することです。

そして、「ことば数が多いところには、そむきの罪がつきもの。自分のくちびるを制する者は思慮がある」(10:19) とは、ことばのもととなる、心を神に取り扱っていただく必要を示すものです。しばしば、「ことば数が多い」人は、先のように「憎しみを隠す」という思いがあるとか、「自分の正当性ばかりを主張する」とか、「人を自分の期待通りに動かす」という思いを隠している場合があります。それが、「そむきの罪がつきもの」という説明の理由ではないでしょうか。それにしても、「自分のくちびるを制する」ために、特に、嫌な人の前に出る前には、祈りが必要です。嘘をいうのではなく、神の目からみたその人の価値を発見し、それを簡潔に口にできるようにと祈る必要があります。

詩篇19篇では、「天は神の栄光を語り、大空は御手のわざを告げる……主 (ヤハウェ) のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ」と、歌った後に、最後に、「この口のことばと心の思いとが御前に喜ばれますように」という祈りが記されています。神のみわざ、神のみことばを賛美するその同じ「口のことばと心の思い」とが、偽善や口先ではなく、あなたの隣人の徳を高めることばとなるように、日々祈り続ける必要があります。

11章9節では、「神を敬わない者はその口によって隣人を滅ぼそうとするが、正しい者は知識によって彼らを救おうとする」とありますが、それは何よりも私たちのこころの奥底の動機を問うものです。私たちの心が、隣人の滅びを願っているのか、救いを願っているのかは、神の前に明らかになっています。箴言のことばは、こころの動機から見てゆくとき、互いに矛盾しあっているように見えることばが、互いに補い合っていることが分かります。

「町は、正しい者が栄えると、こおどりし、悪者が滅びると、喜びの声をあげる」(11:10) で描かれる、「悪者の滅びを喜ぶ」とは、弱者を虐げている権力者がいなくなることを喜ぶという自然な感情です。それとセットに記されているのが、「直ぐな人の祝福によって、町は高くあげられ、悪者の口によって、滅ぼされる」(11:11) です。「悪者の口」は、町全体を滅ぼす力がある一方、神にまっすぐな人の「祝福」のことばは、町の繁栄のもとになります。

そして、「隣人をさげすむ者は思慮に欠けている。しかし英知のある者は沈黙を守る」(11:12) とは、「隣人をさげすむ」ことによって、人は優越感を感じ、自分の存在を喜ぶことができますが、それは「思慮に欠けた」発想です。しかし、「英知のある者」は、人を蔑んだり、自分の自慢をしたりするようなことばを発しないという意味です。

「沈黙は金」と、沈黙自体を美化する風潮がありますが、「正しい者の口はいのちの泉」ということもあるのですから、私たちには沈黙してはいけないときがあるのです。しかし、人の批判や、自分の自慢を語るのは、自分の前に神を置いていないことの証しに過ぎません。そのことが再び、「歩き回って人を中傷する者は秘密を漏らす。しかし真実な心の人は事を秘める」(11:13) と言われます。これは、先の、「愛はすべてのそむきの罪をおおう」とのことばと並行して理解すべきでしょう。人の過ちを「秘める」ことは、「そむきの罪をおおう」ことと同じです。

ヤコブは、「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗しない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱにできる完全な人です……しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています」(ヤコブ3:2、8) と言っています。私たちは、必ずどこかで、ことばで失敗をします。そのとき大切なのは、それは誰にも制御できない罪の根本であることを謙虚に認め、自己弁明をせずにすなおに謝罪することです。しかも、その後、自己嫌悪に浸っていずに、過ちを覆ってあまりある愛を実践することです。それはペテロが、「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです」(Ⅰペテロ4:8) と言ったとおりです。「罪をおおう」力は、自己弁護や自己正当化ではなく、「愛」にあります。また、ヤコブは「罪人を迷いの道から引き戻す者は……多くの罪をおおうのだということを・・知っていなさい」と、人に関わり続けることを勧めています (ヤコブ5:20)。「また、失敗をするのでは……」と、自分にブレーキをかけるのは本末転倒です。

イエスがあるパリサイ人の家に入ったとき、足を洗う水ももらえませんでした。そのとき、ひとりの罪深い女が、香油の入った石膏のつぼを持ってきて、泣きながら、涙でイエスの足をぬらし、髪の毛でぬぐい、御足に口づけをして、香油を塗ってくれました。これは、遊女の姿丸出しの品のない行為とも言えますが、パリサイ人のけち臭さに比べ、この女は、自分の涙と髪の毛でイエスの足を洗い、大切な香油を、イエスの足のために惜しげなく使いました。彼女こそ、箴言11:25の「人を潤す者」、またパウロの言う「豊かに蒔く者」でした。しかもこのとき、イエスは彼女の心を見られ、「この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです」(ルカ7:47) と言われました。これこそ、「愛はすべてのそむきの罪をおおう」というみことばを劇的に表したものと言えましょう。

失敗を恐れて、小さく生きる人生ではなく、より豊かに蒔いて、より豊かに刈り取る……自分の口の失敗を後悔し、縮んだ生き方をするのではなく、より多く愛することで、罪の赦しを確信してゆく生き方を目指すべきでしょう。人は、あなたのことばの品のなさやお金の使い方の愚かさを非難するかもしれません。しかし、神はあなたのすべてを見ておられます。自分の小さな世界を見るのではなく、あなたの心の目を、いつも神の偉大な創造のみわざと変わることのないみことばに向け、「この口のことばと 心の思いとが 御前に喜ばれますように」と祈ってゆきましょう。