エレミヤ7章〜9章「悟りを得て主 (ヤハウェ) を知るとは?」

2008年9月21日

19世紀ドイツの哲学者 は、「人生というものは、通例、裏切られた希望、挫折させられた目論見、それと気づいたときにはもう遅すぎる過ち、の連続に他ならない……幸福な人生などというものは不可能である。人間の到達しうる最高のものは、英雄的な生涯である。そのような英雄的生涯を送る人というのは……酬いられるところが少なく……後世に……英雄として崇められる」(Parerga und Paralipomena 172節補遺)、また、「本質的には、すべての生は苦しみである……このように生は、まるで振り子のように、実際は生の本来の構成部分である苦痛と退屈の間を行き来するのだ……人間は……何千もの欲望のかたまりでもある……おのれの欲望と苦しみを除いてはいっさいが不確かなまま……毎日毎日出現する難題を抱えこみながらなんとかしておのれを保ってゆこうと憂慮することが、一般に人間の生活を成り立たせて行くものなのである」(「存在と苦悩」苦悩の生についてー生は苦しみである)と、悲観的なことを書いています。ただ、これは肉なる人間の現実を冷徹に描いたことばかもしれません。

私も、「これをやり遂げたら、またこの霊的訓練をやり遂げたら、平安と喜びの人生が開ける……」と期待しながら、様々な勉強をして来ましたが、何の成長もしていないような気がして、愕然とすることがあります。しかも、「ここを乗り越えたら楽になれる……」と必死に頑張っても、その問題が解決されたとたん、取るに足りないと思われたことに心を悩まされてしまいます。要するに、大きな苦しみを抱えているときには、小さな苦しみに無感覚になることができていただけだったのです……。人は、案外、大きな苦しみを抱えているときの方が、余計な欲望や悩みに気をとられずに済んでいるのかもしれません。人は、しばしば、生活が便利になればなるほど、心の中には何とも言えないむなしさが生まれ、心の奥底に眠っていた欲望を目覚めさせるようになります。しかも、人は、一度手にしたものを失うことを極度に恐れます。その結果、苦しみに立ち向かう勇気が萎え、目覚めた欲望に足を掬われます。

神はイスラエルの民に対して、約束の地に入って生活が満たされるようになったときこそ、「気をつけて、あなたをエジプトの家、奴隷の家から連れ出された主 (ヤハウェ) を忘れないようにしなさい」(申命記6:12) と警告しておられました。ところが、生活が満たされると、彼らは自分たちを奴隷状態から解放してくださった神に聴くということを忘れ、この世の幸せという幻想を約束する偶像の神々を拝んでしまいました。ですから私たちも、苦しみから逃げようとするのではなく、苦しみの中で、悟りを得て、主を知ることこそが何よりも大切ではないでしょうか。

1.主 (ヤハウェ) の宮を強盗の巣にした者たちへのさばき

イスラエルの民は、バビロン帝国による攻撃が迫ってくる中で、エルサレム神殿を指しながら、「これは主 (ヤハウェ) の住まいだから、主ご自身がこの町を守ってくださる!」という幻想を掲げて励ましあっていました。日本でも少し前、「神国日本は敵の攻撃から守られる。いざとなったら神風が吹く!」と言われていましたが、それと似ています。それに対し、主は、「あなたがたは『これは主 (ヤハウェ) の宮、主 (ヤハウェ) の宮、主 (ヤハウェ) の宮だ』と言っている偽りのことばを信頼してはならない」と言われました (7:4)。主 (ヤハウェ) は、主を恐れ、主を愛する人々の中に住んでくださるのであって、主の宮は人々の心の目を、主ご自身に向けさせるためのシンボルに過ぎません。主の宮自体に特別な力があるのではなく、主の宮で礼拝する民の心が神に喜ばれるかが問題だったのです。そのことを主は、「あなたがたの間で公義を行い、在留異国人、みなしご、やもめをしいたげず、罪のない者の血をこの所で流さず、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、わたしはこの所、わたしがあなたがたの先祖に与えたこの地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住ませよう」(7:5–7) と言われます。つまり、彼らがイスラエルの神ヤウェを愛し、隣人を自分自身のように愛するかどうかが、彼らの将来を決めるというのです。

その上で、主 (ヤハウェ) は、「わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目には強盗の巣と見えたのか。そうだ。わたしにも、そう見えていた」(7:11) と驚くべき事を言われます。当時のエルサレム神殿はもはや「主 (ヤハウェ) の家」ではなく、「強盗の巣」になってしまったというのです。これはイエスの宮清めの際に引用されたみことばです。イエスは、当時のエルサレム神殿の異邦人の庭が、「両替人」や「鳩を売る者たち」によって騒々しくなり、遠方から来た異邦人が静かに祈ることができなくなっている様子に心を痛め、これらの商売人を追い出しました。その際、主は、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」(イザヤ56:7) と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです」(マルコ11:17) と、人々の目をエレミヤ預言に向けさせました。

主は、引き続き、「主 (ヤハウェ) の宮」の幻想に浸っている人に、「それなら、さあ、シロにあったわたしの住まい、先にわたしの名を住ませた所へ行って、わたしの民イスラエルの悪のために、そこでわたしがしたことを見よ」(7:12) と言われます。これはサムエル記の最初にある記事を指します。祭司エリの息子たちは当時、シロにあった幕屋で人々が主にいけにえをささげて礼拝するシステムを、私腹を肥やす手段と変えてしまいました。それに対し、主は、何と、ご自身の契約の箱がペリシテ人に奪われることを許すことまでして、当時の礼拝システムをご自分で壊してしまわれたのです。契約の箱を中心とした幕屋礼拝こそ、律法の中心と思われていましたし、またそれを命じられたのは、主ご自身であられましたから、これは私たちの理解をはるかに超えるできごとです。

そして今、主は、「今、あなたがたは、これらの事をみな行っている……わたしがあなたがたに絶えず、しきりに語りかけたのに、あなたがたは聞こうともせず、わたしが呼んだのに、答えもしなかった。それで、あなたがたの頼みとするこの家、わたしの名がつけられているこの家、また、わたしが、あなたがたと、あなたがたの先祖に与えたこの場所に、わたしはシロにしたのと同様なことを行おう」(7:13、14) というさばきを宣告されました。エルサレム神殿を建てられたのは、ソロモンである前に、主ご自身であられましたが、そのシステムが機能しなくなり、社会的弱者を虐げるようになったとき、主はこの大切なものを捨てることを自ら決められたのです。神殿で何よりも問われているのは、私たちが神に対してどれだけのいけにえをささげることができるかではなく、主ご自身の語りかけを、恐れをもって聞き、それに応答するということでした。神殿の心臓部に納められていたのは、主ご自身がご自分の手で書いてくださった「十のことば」でした。しかし、「主 (ヤハウェ) のことば」に耳を傾けなくなってしまった者は、神の民であることを自分で捨てた者です。そのとき、神殿は、無用なものどころか、有害なものになったのです。

ところで、主は、「わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの国から連れ出したとき、全焼のいけにえや、ほかのいけにえについては何も語らず、命じもしなかった」(7:22) と、「いけにえ」は律法の中心ではなかったと言われました。これは新約の福音につながる驚くべきことばです。その上で、主ご自身がモーセ五書の核心をひとことで要約し、「わたしの声に聞き従え(聴きなさい)。そうすれば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となる。あなたがたをしあわせにするために、わたしが命じるすべての道を歩め」(7:23) と表現してくださいました。しかし、彼らは主のみことばに耳を傾けようとせず、自分の肉の欲望を満足させるようなことばかりを行いました。そればかりか、「自分の息子、娘を火で焼く」(7:31) という忌まわしいモレク礼拝をさえ行ってしまいました。

イスラエルの民は、いけにえをささげる礼拝を、神の恵みへの応答ではなく、神を動かす手段、また祭司の特権を維持するシステムに変えてしまいました。人間のわざが前面に立つとき、目に見えない神のご支配の現実が忘れられ、強い者や賢い者による、力の支配が正当化されます。人が、宗教やイデオロギーによって人の心を支配することの悲劇は、たとえば、20世紀の共産主義国において起こったことから明らかです。貧しい者の味方となるはずの共産党がどれほど、人々を虐げてきたことでしょう。指導者たちは、万人が平等になる国を作るという宗教的な理想をかかげたあげく、結局は生産力の増強の必要を感じ、人を奴隷のように動かそうとしました。残念ながら、現実から遊離した理想を掲げることは、必ずと言ってよいほど人間を抑圧するシステムに変わります。

律法の中心は、いけにえではなく、神の教えをへりくだって聞き続け、神のみことばを思い巡らすことです。みことばを心から味わうということを素通りした教会の働きは、時が来ると必ず、ひずみを生み出します。忙しすぎる教会活動によって、また様々なことを単純化して断定する教会の教えによって、傷ついてしまうキリスト者が残念ながらいつの時代にもいます。主は、しばしば、そのように原点を忘れた教会を閉じてしまわれることがあります。

2.「知恵ある者たちは恥を見、驚きあわてて、捕らえられる」

主は、イスラエルに対するご自身の厳しいさばきを宣告しつつ、エレミヤになおもご自身のメッセージを託します。それは、「倒れたら、起き上がらないのだろうか。背信者となったら、悔い改めないのだろうか。なぜ、この民エルサレムは、背信者となり、背信を続けているのか……彼らは正しくないことを語り、『私はなんということをしたのか』と言って、自分の悪行を悔いる者は、ひとりもいない」(8:4–6)と、彼らが自分の悪行を反省しなくなっていることを嘆いておられます。私たちもしばしば、とんでもない過ちを犯すものですが、「私はなんということをしたのか」と反省しているうちは望みがあります。ところが、「彼らはみな、戦いに突入する馬のように、自分の走路に走り去る。空のこうのとりも、自分の季節を知っており、山鳩、つばめ、つるも、自分の帰る時を守るのに、わたしの民は主 (ヤハウェ) の定めを知らない」(8:6、7) という頑なさの中にいました。しばしば、自分の置かれている状況が不利になればなるほど、かえって力ずくで正面突破を計ろうとする人がいます。そのような人は多くの場合、問題をこじらせるばかりです。空の鳥でさえ自分の季節やときを知っているのですから、私たちも、静まって、「主 (ヤハウェ) の定め(おきて、摂理)」を思い巡らすことです。日本的には、「引き際が肝心だ」ということにも似ていることでしょう。

その上で、彼らが、「私たちは知恵ある者だ。私たちには主 (ヤハウェ) の律法がある」(8:8) と言っていることを引き合いにだしながら、「確かにそうだが、書記たちの偽りの筆が、これを偽りにしてしまっている」と、彼らが主の教えを捻じ曲げている現実を指摘しています。主の律法を持っていることに安心するのではなく、それを正しく理解する必要があります。そしてエレミヤは、「知恵ある者たちは恥を見、驚きあわてて、捕らえられる」(8:9) という知識階級への神のさばきを宣告し、10–12節で彼らの問題を指摘しますが、これは6章12から15節にあったみことばとほとんど同じです。それほどに、エレミヤはこのみことばを敢えて強調したかったのだと思われます。

「彼らは、わたしの民の娘の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ。平安だ』と言っている」(8:11) という状況は、すべての組織が滅びて行くときの原則です。つい数年前まで、だれが米国の大手証券会社や大手保険会社の倒産の危険を知っていたことでしょう。今から二十数年前、私は野村證券の十年次研修というのを受けていました。そのとき、安泰な会社などどこにも存在しないということを徹底的に教わりました。皮肉にも、人々に楽観的な見通しを語って株式投資を勧めていながら、自分の会社に関しては冷徹にリスクを回避する手段を講じている……何ともしたたかです。すべての組織は内側から壊れます。今回、倒産している会社も同じです。そして、当時のイスラエルもそうでした。エレミヤの百年前に、ヒゼキヤ王のもとでエルサレムは奇跡的にアッシリヤの攻撃を撃退することができました。当時の宗教指導者は、足元の問題を直視することをせずに、「神が、ま中にいまし、都は揺るがない。神は、夜明け前に、これを助けられる」(詩篇46:5私訳) のような勇ましいみことばを、空念仏のように繰り返していました。残念ながら、誤った信仰理解は、悲観論を力で押さえつける方向に働きます。

そして、18、19節はエレミヤ自身の嘆きのことばですが、主 (ヤハウェ) はシオンにおられないのか。シオンの王はその中におられないのか」(19節) という叫びこそは、エルサレム陥落の本質を言い表しています。アッシリヤ帝国の大軍事力に包囲されながらエルサレムが奇跡的に守られてきたのは、実際に、主がシオンの中におられたからです。ところが、バビロンが攻めてきたとき、主はすでにシオンを離れ、神殿はあるじのいない空き家となっていました。だからこそ、神殿は敵の攻撃で崩れ去ったのです。しかし、主が真ん中におられるとは、イエスが、「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17:21) と言われたように、私たちの心の中で、「ヤハウェは私の主です」と告白されていることが前提です。神は私たちの賛美を住まいとしておられるのですから (詩篇22篇3節)。

その上でエレミヤの嘆きが、「私の民の娘の傷のために、私も傷つき、私は憂え、恐怖が、私を捕らえた。乳香はギルアデにないのか……なぜ、私の民の娘の傷はいやされなかったのか」(8:21、22) と描かれます。ギルアデの乳香には癒しの効果があることで有名でしたが、神の民の傷は、外面的なものではなく、彼らの信仰に関わることだったので、主のみことば以外の癒しは期待できないのです。私たちのまわりにも様々な癒しの手段があります。しかし、たましいの癒しは、私たちの創造主である方からの愛の語りかけを聴き続けること以外にはあり得ません。

3.「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟り得て、わたしを知っていることを」

9章では、主ご自身の嘆きが、「まことに彼らは、悪から悪へ進み、わたしを知らない」(9:3) と記されます。パウロは、この表現を意識しながら、「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、主の栄光を鏡に映すように見ながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(Ⅱコリント3:18別訳) と言ったのではないでしょうか。これこそ、御霊を受けた私たちの特権です。

その上で、「おのおの互いに警戒せよ。どの兄弟も信用するな。どの兄弟も人を押しのけ、どの友も中傷して歩き回るからだ」(9:4) という、私たちを不安に駆るような表現があります。「押しのけ」とは、原文で、「アコーブ・ヤコブ」と記され、かつてエサウが「彼の名がヤコブというのもこのためか。二度までも私を押しのけて(ヤクブニー)」(創世記12:36) と言ったように、民族の父ヤコブの名を思い起こさせる表現です。イスラエルとは、主がヤコブに与えてくださった「新しい名」です。聖書はイスラエル民族の始まりを、兄エサウを二度も騙し、長子の権利と祝福を騙し取った狡賢い人間として描いています。ヤコブが正直な生き方ができるようになったのは、彼が兄の攻撃をおそれてひとり母の実家に向かって旅をする中で、主ご自身が彼に現れ、「わたしは、あなたとともにあり、あなたがどこに行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう」と約束してくださり (創世記28:15)、彼が母の兄ラバンによって何度も騙されながらも、主によって豊かにしていただいたからです。ところが、イスラエルの民は、自分たちの父が持っていた罪の性質を克服するどころか、ますます加速させてしまっているというのです。

その上で主は、彼らの堕落した状態を、「彼らは……口先では友人に平和を語るが、腹の中では待ち伏せを計る」(9:8) と描いておられます。ここには、主がイスラエルの民にこれほど目をかけ、育み育ててきたことが無駄になったという深い嘆きがあります。私たちの周りにも、「恩を仇で返す」ような人がたまにいるかもしれません。こちらが優しくすればするほど、こちらを「恐れる必要のない人間」と甘く見て、図々しい態度を取る人がいるかもしれません。しかし、神が育てようとした民は、そのような性質をもった人間でした。それを知ることは慰めになります。あなたが味わっている悔しさを、主ご自身が味わい続けて来られたということが分かるからです。

9章13–16節には、神の恵みを軽蔑したイスラエルの歴史と、それに対する神のさばきが簡潔に記されています。そこで特に、主が、「見よ。わたしは、この民に、苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる」(15節) と語っていることに私たちは恐怖を感じます。多くの人々は、わざわいをもたらすのは悪魔の力、またこの世の権力者であると誤解し、彼らを恐れます。昔、アフリカの奥地の住民が、ある宣教師に、「あなたがたの神は、どのようなわざわいをもたらすのか?」と聞いたとき、その宣教師が、「聖書の神は、あなたにわざわいをもたらすような方ではなく、あらゆる祝福で満たしてくださる方です」と答えたところ、その原住民は、「わざわいをもたらさない神をなぜ恐れ、礼拝をささげる必要があるのか……」と答えたとのことです。それこそが、人間の現実ではないでしょうか。イエスは、この宣教師とは異なり、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28) と言われました。

9章23、24節はエレミヤ書の中でも最も愛されている聖句のひとつです。「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな」とありますが、私たちは自分の「知恵」、「強さ」、「富」を誇りがちです。なお、「誇る」とは、「ハレルヤ!」の「ハルル」(賛美する)と同じことば、そこには「喜ぶ」の気持ちが込められています。私たちが何よりも誇り、喜ぶべきこと、それは福音を信じることができているということです。そのことを主は、「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟り得て、わたしを知っていることを」と言っておられます。私たちはこの世の人生において知るべきもっとも大切な知識を得させていただいています。その特権を、私たちは余りにも軽く考えすぎてはいないでしょうか。なお、その「悟り」は、自分で得たものではなく、神によって与えられたものです。しかも、「知る」ということばは、単なる知識ではありません。このことばは、性的な交わりにも使われることばで、個人的(パーソナル)な親密な関係が築かれることを意味します。律法の中心は、神の自己紹介の記録です。神が知らせてくださったように神を知ることが大切です。それは常に、「聴く」ことから始まります。

そして、主を知ることの内容がなお、「わたしは主 (ヤハウェ) であって」と記されます。それはこの方がすべてに先立って存在し、すべてのものがこの方によって成り立っていることを意味します。そしてこの方は、「地に恵みと公義と正義を行う者」であるとご自身を紹介しておられます。「恵み」とはヘセッド、神がご自身の契約を守り通される真実の愛を意味し、「公義」とは、公平な裁判におけるように、悪人がこの世でやりたい放題の事をやるというような状態がさばかれること、また「正義」とは、弱者の訴えが聞き届けられることを意味し、これはしばしば「救い」と同じ意味を持っています。確かに主はわざわいをも創造される神です。ただ、その究極の目的は、この地に公義と正義を行い、この地を神の平和で満たすことです。それが、「わたしがこれらのことを喜ぶ」からだと表現されます。主はこの地をさばくとき、ご自身で苦しんでおられます。それは何よりも、御子の十字架に現されています。神は私たちの罪をさばく代わりに、ご自身の御子を私たちの罪の身代わりとして、心を痛めながらさばかれたのです。

その上で、主は、「見よ。その日が来る……わたしは、すべて包皮に割礼を受けている者を罰する。エジプト、ユダ、エドム、アモン人、モアブ……すべての者を罰する。すべての国々は無割礼であり、イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ」(9:26) と言われます。イスラエルの民は、自分が神の民とされた肉のしるしである割礼を誇っていましたが、大切なのは「心の割礼」です (ローマ2:29)。それは、主との心の結びつきです。私たちの誇りはこの世のものとは異なります。それは、私たちが神に選ばれ、神からの知恵が与えられ、創造主である神を礼拝できるようになったこと、そればかりか、今は、その創造主である神の子供とされたという特権にあります。

ショーペンハウエルは、「人間がすべての苦しみと悩みを地獄に追放したあとでは、天国にはただ退屈しか残らない」という皮肉を言いましたが、それは誤りです。神のご計画は、「肉体の苦しみから解放された、たましいの楽園」を創造する事ではなく、「新しい天と新しい地」を創造することです。それは神にある愛と平和が満ちた世界です。私たちの心も身体も造り変えられた上で、そこに入れていただけます。「人生は苦しみと退屈の繰り返し」ということから自由にされた、喜びが永続する世界です。イエスは父なる神への祈りの中で、「永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17:3) と言われました。私たちが今、イエス・キリストの十字架の贖いによってすべての罪が赦され、イエスの父なる神に向かって、「アバ、父」と呼びかけることができる交わり自体が、既に「永遠のいのち」なのです。神とキリストを、より深く「知る」こと、体験すること、それこそ生きる意味です。神との愛の交わりの成長のためには苦しみも益とされます。

主が、イスラエルを傷つけ、苦しめたのは、彼らが悟りを得て、主 (ヤハウェ) を知ることができるようになるためでした。彼らはバビロンに国が滅ぼされたとき、バビロンの神々を拝むのではなく、イスラエルの神ヤハウェに立ち返りました。異教徒たちから不当に苦しめられ、自分の知恵、富、力を誇ることができなくなって初めて、真に主を知ることができたのです。そればかりか、主こそがこの地に「恵みと公義と正義を行う」方であると分かったのです。私たちはもちろん、苦しみを避けたいと思います。しかし、少なくとも、苦しみを避けようとすることの中にある罠を、常に意識しているべきでしょう。人生の目的は、苦しみのない状態ではなく、主を知ることにあるのですから。