2008年7月6日
私たちプロテスタントの教会では、私たちが義と認められるのは、行いによってではなく信仰によるという「信仰義認」の教えが受け入れられています。しかし、それが、「信仰深い者は救われる」という教えにすりかわってしまうことがあるのではないでしょうか。そして、無意識のうちに、ある特定の枠にはまる人だけが救われるというように解釈し、人を排除するばかりか、自分自身のうちにある醜い不信仰な思いにも蓋をして、それを排除してはいないでしょうか。しかし、神は、私たちが救いようもない不信仰な者だからこそ、人となられたのです。
1.「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」
56章は、主ご自身による、「公正を守り、正義を行なえ。わたしの救いが来るのは近く、わたしの義が現われるのも近いからだ」という命令から始まります。「神の義」が、「神のさばき」ではなく「神の救い」の言いかえになっているのが慰めであり、その希望が、「公正を守り、正義を行う」という善行の動機になります。その上で、「幸いなことよ。安息日を守ってこれを汚さず・・」(2節)という安息日の教えが突然述べられますが、そこでは不思議にも、「主に連なる外国人」とともに、「ああ、私は枯れ木だ」と嘆く「宦官」に対する慰めの招きが記されます(3節)。当時、主(ヤハウェ)はイスラエルの民だけの神であると理解されていました。まして、後宮に仕えるために男性器を切り取った宦官などが神の民に加えられるなどということは信じられないことでした。
たとえば「使徒の働き」に、エチオピアの女王の財産全部を管理していた「宦官」が、エルサレムに礼拝に来たことが記されていますが(8:27)、当時の規定では、彼は、多大な時間と労力をかけても、神殿の中庭に入れてもらえないばかりか、自分で祭壇にいけにえを献げることも許されず、異邦人の庭から神殿の中心を仰ぎ見ることが許されるだけでした。ただ、そこには、鳩を売る者、牛や羊を売る者たちが座り(ヨハネ2:14)、両替人もおり、大声で客を呼び寄せていたことでしょう。彼らは、「宦官」を軽蔑しながら、その謙遜な心を見もせずに、お金を取ることばかりを考えていました。イエスが神殿から商売人を追い出したという宮清めは、そのような神殿の仕組みへの抗議行動でした。主が神殿の中を歩まれた時、敬虔な心を持った外国人や身体障害者、子供たちが、礼拝の場から排除されているのをご覧になり、彼らがこのような喧騒の中でしか神を礼拝できないことに、心を痛められたに違いありません。イエスは、このときこのイザヤのみことばを思い巡らしていたことでしょう。そこには、神の民から排除されていた人々も、「わたしの安息日を守り・・契約を堅く保つ」ことで、「わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる」(7節)と記されていました。それでイエスは、「宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛を倒す」という実力行使をし、この7節を引用し、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」と言われました(マルコ11:15-17)。
当時としては宮での売買を認めることには合理的な面がありました。一般の硬貨はローマ皇帝の肖像が描かれていたため人々は両替して献金しましたし、神殿内部で売られた動物は保証つきで、いけにえとして不適格にされる心配はありませんでした。しかし、主を求める異邦人の礼拝者は、この利便性の追及の影で、静かな礼拝の場を奪われていたのです。一方、祭司たちは、この商売の許認可権によって特別収入も得られました。しばしば、イエスの宮清めの意味を誤解し、教会でバザーや信仰書の販売をしてはいけないという人がいますが、イエスの頭にあったのは何よりもイザヤ56章を成就させることでした。問題は、宮での商取引ではなく、自分たちのカルチャーに会わない人に静かな礼拝の場を提供することにあります。人を見かけで判断せずに、この教会が「すべての民の祈りの家」と呼ばれるようになることこそが、主のみこころです。使徒ペテロは後に、救いの広がりを、「主(ヤハウェ)の名を呼ぶ者はみな救われる」(ヨエル2:32)というみことばで表現しました(使徒2:21)。
ところでマタイ福音書では、イエスの宮清めの直後、「また(すると)、宮の中で、盲人や足なえがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた」(21:14)という新しい展開が起こったことが記されています。主が世的な利便性の論理を排除した時、世で軽蔑されていた人々が前面に出て来ることができました。盲人や足なえは、神にのろわれた者と見られ、神殿に居場所がありませんでした。しかし、商売人が追い出されたとき、彼らはイエスのみもとに近づくことができ、癒されました。神殿は弱者を排除する場から、いやす場へと変えられたのです。これに続いてもう一つの大きな変化が起きました。それは、宮の中に子どもたちの、「ダビデの子にホサナ」という賛美が響き渡ったことです(21:15)。子どもは伝統や慣習から自由で、みわざを素直に感動しました。この地上のキリスト教会も、世的な利便性を追求しながら、様々な障害者の方や子どもたちを礼拝の場から締め出してきたということがないでしょうか?これは心の宮の問題でもあります。いけにえの動物が動き回っている所に盲人は安心して入ってこられません。同じように大きな理想を追及するあまり、自分の弱さを締め出してはいないでしょうか。精神的な弱さを覚える人を受けとめることは、自分の弱さを受け入れることでもあります。両替人の台に、子どもは邪魔者です。同じように、心が忙しすぎるなら、自分の中に住む子どもの声を窒息させ、喜びがなくなります。目の前の子どもを受け入れることは、自分の中にいる子どもの気持ちを受けとめることでもあります。「あなたがたのからだは・・神から受けた聖霊の宮である」(Ⅰコリント6:19)とありますが、神の前で沈黙によって心の宮清めをも行なう必要があります。その時、あなたの内側に、真心からの神への賛美と、自由な喜びが生まれます。
2. 「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。」
57章 3節から13節には、姦淫と偶像礼拝にふける人の姿が描かれています。特に10節では、彼らは偶像礼拝のための「長い旅に疲れても、『あきらめた』とは言わなかった・・・元気を回復し、弱らなかった」と記されます。これは、しばしば現代の元気に満ち溢れた偶像礼拝者に適用できることです。そして、このように偶像礼拝の習慣を混ぜ合わせて主を礼拝する人に対し、「わたしが久しく、黙っていたので、わたしを恐れないのではないか」(11節)と警告を発しておられます。そこには主のさばきが迫っていることが示唆されています。
その上で、私たちすべてに対する主のみ教えの核心として、「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かす」(15節)と語られます。なお、ここで「へりくだった人」とは、自分から謙遜になったというより、結果的に「低くされた人」を指します。福音が広まった結果、謙遜が美徳とされ、謙遜なふりをする人が多くなっていますが、神が目を留めてくださるのは、本当に自分の惨めさや弱さに打ちひしがれている人であり、自他共に認める尊敬されている人格者のことではありません。この世では、しばしば、10節にあったように、偶像礼拝者のほうが元気に見えるという現実があります。しかし、イエスはこのみことばを前提に、「こころ(霊)の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(マタイ5:3)と言われました。人の目には低いところに「高く聖なる神」がいてくださるという神秘がイエス・キリストにおいて明らかにされました。それはまさにイザヤ53章に描かれていた「主(ヤハウェ)のしもべ」の姿です。
そして、主は「わたしはいつまでも争わず、いつも怒ってはいない。わたしから出る霊と、わたしが造ったたましいが衰え果てるから・・わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。しかし、彼はなおそむいて、自分の思う道を行った。わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう」(16-18節)と言われます。ここでは不思議にも、主の怒りを受けながら、自分の道を改めようとしない頑なな者をも主が癒してくださると約束されています。
その上で主は、「平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう」(19節)と言われます。これは、「心砕かれて、へりくだった人」への語りかけです。それと正反対なのが「悪者ども」です。それはこの世的には有能な善人と見られるかもしれません。しかし、彼らは自分の力で生きようとして神を求めないという意味で「悪者ども」と呼ばれるのです。そして、「悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水が海草と泥を吐き出すからである。『悪者どもには平安がない』と私の神は仰せられる」と記されます(21節)。
私は信仰に導かれても、長い間、主の御前に静まることができませんでした。静まろうとすると、心の奥底に押し込めようとしていた不安や孤独、怒りやねたみなどのマイナスの感情が沸きあがって来るばかりでした。その頃の私は、「この世で成功することがクリスチャンとしての証になる・・」などと強がっていました。自分が善意で行動しながら人を傷つけてしまうような者であるということは分かっていませんでした。しかし、自分の中には神に喜ばれる信仰すらもないということが思い知らされ、静まることができない自分を、イエスにあって受け入れることができたとき、静まることが苦痛ではなくなりました。神の目からは、自分の気持ちに蓋をしていることができるようなこの世の善人こそが「悪者」なのです。その隠された正体は、静まろうとするときに明らかになります。しかし、そこで自分の心の貧しさを主のみ前で受けとめ、主にすがる者に、神の「平安」と「いやし」が訪れてきます。
3. 「わたしの好む断食はこれではないか・・・」
58章では偽善に満ちた礼拝の問題が指摘されています。3節では、当時のイスラエルの民の神に対する不満が、「なぜ、私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか・・」という訴えとして描かれます。それに対して主は、「見よ。あなたがたが断食をするのは、争いとけんかをするため・・・わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか」(3-7節)と仰せられます。ここで非難されている偽善者の礼拝とは、まさにイエスの時代のパリサイ人の姿そのものです。彼らは、主を全身全霊で愛しているように見せかけていますが、身近な人の苦しみを見て、「あれは自業自得だ・・神にのろわれているのだ・・」と軽蔑するばかりでした。しかし、主のあわれみを知ることこそが、主を愛することの核心ですから、主を愛することと隣人を愛することは、本来必ず並行して進むはずなのです。隣人愛の見られない信仰は、偽善に過ぎないということは、イエスが言われる前に、既に、イザヤ書のテーマであったのです。
そして、隣人愛の伴った礼拝をするときの希望が、「そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる・・・そのとき、あなたが呼ぶと、主は・・『わたしはここにいる。』と仰せられる」という主との親密な交わりが回復されます(8、9節)。また、これらのことが、「もし・・・飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる」と言い換えられます(10節)。マザー・テレサなどは、このみことばをもとに「神の愛の宣教者会」を始めました。
しかも、「真昼のようになる」ことが、灼熱の太陽をイメージさせることがないように、「主(ヤハウェ)は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる」とも言われます(11節)。なお、ここで「思いを満たす」とは、原文で、「たましいを満足させる」と記されています。これは、どのような厳しい状況に置かれていても、神ご自身がたましいの奥底に喜びと潤いを与えてくださることを意味します。イエスはサマリヤを通り抜けられたとき、スカルの井戸で休みを取り、孤独なひとりの女性に、「この水を飲む者は、だれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ4:13,14)と言われました。私たちはいつでもどこでもイエスの御名を呼ぶときにいのちの喜びを体験することができます。いのちのみなもとである聖霊ご自身が宿ってくださっているからです。
そして、最後に、主は安息日律法を回復するようにと勧め、「もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を『喜びの日』と呼び、主の聖日を『はえある日』と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、そのとき、あなたは主(ヤハウェ)をあなたの喜びとしよう・・・」と述べられます(13,14節)。これは、安息日を守ることによって、ダビデ王国が回復されると解釈できます。そのため、バビロン捕囚から帰還したユダヤ人たちは、安息日を守ることに必至になり、たとえば、敵の攻撃を受けるような中でも礼拝をし続けて剣で殺されたということが美談になるほどでした。そのような中で、安息日に歩いて良い距離を規定したりと、禁止規定ばかりを一杯に作るようになりました。そのような中で、先の断食の場合と同じように、貧しい人々がかえって苦しむということが起こっていました。しかし、このイザヤの記述では、「喜びの日」「はえある日」という祝祭の面が強調されています。イエスが安息日に敢えて人々を癒されたのは、そのような安息日の喜びを回復するためでした。イエスは神が好まれる安息日を教えてくださったのです。
4.見よ。主の御手が短くて救えないのではない・・・あなたがたの咎が・・・神との仕切りとなり
59章の初めでは、「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」と、「救い」が何よりも、「咎」と「罪」の問題が解決され、神との交わりが回復されることにかかっていると説明されます。絶望的な状況になったとき目の前の問題を解決することばかりに夢中になることがありますが、何よりも大切なのは、すべてを支配しておられる創造主との関係をきよく保つことにあります。神にとって不可能なことはありません。問われているのは、その方が味方になっておられるかという神との関係です。そして、イエス・キリストが十字架で成し遂げてくださった神との和解こそ、この問いに対する答えでした。
その上で、3-8節ではイスラエルの民の罪の現実が生々しく描かれています。特に、「正しい訴えをする者はなく、真実をもって弁護する者もなく・・・」(4節)というのは、人々が自分の身を守ることばかりに夢中になり、人の権利が踏みにじられているのを見過ごすようになっている現代の日本にそのまま適用でします。使徒ヤコブも、「なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です」(4:17)と語っています。積極的に人を傷つけはしない人でも、この点では自分の正義を主張できなくなる人が多いのではないでしょうか。しかし、そのような中でも、「むなしいこと(茫漠)にたより、うそを言い」(4節)とあるように、自分を正当化するための議論ならいくらでも出てきます。しかし、それは所詮、茫漠であって、何の正義も生み出しません。そして、「彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速い。彼らの思いは不義の思い。破壊と破滅が彼らの大路にある。彼らは平和の道を知らず・・・」(7,8節)というみことばは、ローマ人への手紙3章15-17節で引用されます。そして、その結論として、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」(ローマ3:23,24)と述べられます。
9-13節には、先の自己弁護とは正反対の、イスラエルの民のまっすぐな悔い改めが表現されます。そこでは、まず自分たちの悲惨が自業自得であるとの告白が、「私たちの罪が、私たちに不利な証言をするからです。私たちのそむきの罪は、私たちとともにあり、私たちは自分の咎を知っている」(12節)と記されます。
そして、「私たちは、そむいて、主(ヤハウェ)を否み、私たちの神に従うことをやめ・・・心に偽りのことばを抱いてつぶやいている」(13節)とは、私たちにも起こりえることで、これこそが罪の根本です。しかし、このように自分の罪を認めることができることこそ、神による救いの始まりです。最初の人間アダムは、明白に神に背きながら、自分の罪を認めることができませんでした。イエスの時代のパリサイ人も、自分を正当化することに長けているばかりで、自分の罪を認めることができませんでした。主の御手を妨げる最大の罪とは、自己義認です。パウロは、同時代のユダヤ人について、「私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします」と言いながら、「彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかった」と嘆いています(ローマ10:2,3)。彼らは、自分の正義を主張することによって、キリストの十字架によって罪人を義とする神の義を拒絶してしまいました。つまり、自分の罪と咎を認めることができないことこそが、最大の救いの障害になるのです。
イエスは救われ難い私たちを招くために世に来てくださったという原点を、決して忘れてはなりません。私たちは無意識のうちに、「立派なクリスチャンになろう!」などと思いながら、自分の中に住む醜い思いに蓋をしていることがないでしょうか。自分の中に住む子どもの心を、傷ついた心を押し殺してはいないでしょうか。それは、静まりの中で表面に噴出してきます。しかし、恐れる必要はありません。イエスはサマリヤの女の乱れた生活を知っていながら、声をかけ、彼女に永遠のいのちへの水がわき出る泉を与えてくださいました。イエスは安息日の喜びを回復してくださいました。一方、イエスは当時の宗教指導者を驚くほど厳しく断罪されました。それは彼らが自分たちの罪を認めようとしなかったからです。自分が癒される必要のある人間だということを認めない人は神の救いを求めません。しかし、私たちが自分に神の救いが必要であることを認め、主(ヤハウェ)の御名を呼び求めるなら、私たちはどんな人でも救っていただけるのです。イエスこそ人となってくださったヤハウェです。
ただし、目に見える神の救いは余りにも遅く感じられることがあります。イザヤの預言の意味が真に理解されるようになったのは、それから七百年後に現れたイエス・キリストにおいてでした。神のご計画は私たちの想像を超える気の長いものです。たとえば、私は立川独立前の頃、今から十数年前の様々な出来事の中で、自分自身の問題に嫌というほど直面させられたことがあります。そのような中で出会ったひとりの宣教師が、「イエス、あなたのもとへ」というドイツで流行っている曲を紹介してくれました。私はそれに深く慰められ、それを日本語で歌えるように以下のように訳しました。そこには、福音の核心が分かりやすく歌われています。今になって、あのとき様々な傷を受けながら、主が不思議な慰めを与えてくださったことを懐かしく思い出すことができます。そして、今もいろんなことがありますが、ひとつひとつのできごとの中に、主のみわざを認めることができます。
1.イエス、あなたのもとへ 私は このままの姿で 来よう もう 愛されようと つとめなくても あなたは十字架で すべてを赦して とまどう私に その手を差し伸べ 「そのままおいで」と、招く。 2.イエス、あなたのあとを 私は このままの姿で 歩もう もう醜い思い 隠さなくとも あなたは私の すべてを知りつつ この身を用いて みわざを成そうと 「そのままおいで」と招く 3.イエス、あなたのもとで 私は 造り変えられて 行こう もう 古い自分に 縛られなくとも あなたは私に 御霊を遣わし ※ 暗い世を照らす 愛の光に 「必ず変えよう」と、招く。 ※ 繰り返し