ルカ16章1〜13節「小さいことに忠実であること」

2008年1月27日

私は十年間証券会社に勤め、主に営業畑を歩み、退職して牧師になりました。証券会社のことをよく知っている人は、しばしば、「あんなあこぎな商売から早く足を洗って良かったね・・・」とか、「あんな恐ろしい会社をやめて良かったね・・・」はなどと言ってくれます。それを聞くたびに、何か複雑な気持ちになります。私は、証券市場は大切だと思っていますし、あの会社にいた多くの人々を今も好きだからです。それでふと思いました。取税人をやっていたマタイも、同じような複雑な思いを味わっていたかもしれないと・・・。

そんな彼の気持ちになると、今日の記事の意味がわかるのではないでしょうか。マタイは、「取税所にすわっている」ときにイエスから声をかけられ、すぐに弟子となりました(5:27)。彼は、税金を取り立てる仕事の最中に声をかけられたのです。イエスはその仕事を軽蔑したというよりは、その働き振りを評価して、ご自分のメッセージを書き留めさせるための弟子として選ばれたと考えることもできるかもしれません。

当時の宗教指導者は取税人の仕事を軽蔑していました。しかし、イエスはそうではありませんでした。イエスは今日のところで、主人の財産を抜け目なく利用して、自分の将来の就職先を確保したような人を賞賛しているかのように思えるからです。イエスは、「不正の富で、自分のために友をつくりなさい」(16:9)と驚くべきことを言われました。つまり、イエスはこの商才に長けた人を、「小さい事に忠実な人」と見てくださったのです。ここには、この世の商売で頭を使って儲ける人への励ましか記されているように思えます。実際、イエスは、弟子たちを伝道の働きに使わす際にも、「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」(マタイ10:16)と言われました。

1.切羽詰った中で生まれた合法的な知恵

1節の「乱費」ということばは、15章13節の放蕩息子が「財産を使ってしまった」というときと同じことばです。この「不正な管理人」は、主人の財産を自分の遊興のために使ったのでしょう。その姿は、ルカ12章41-48節の「不忠実な管理人」と同じです。彼は、主人から「もう管理を任せておくことはできない」(16:2)と、解雇を言い渡され、今までの「会計の報告を出す」ように命じられました。彼は切羽詰った状況に立たされました。彼はこの仕事を取り上げられたら生活の目処が立ちません。彼はその絶望的な状況を、心の中で、「土を掘るには力がないし、物乞いをするのは恥ずかしいし」(16:3)と表現します。つまり、彼が自分の生計を立てるためには、この管理人の仕事以外の選択肢は考えられなかったのです。私たちもこのような切羽詰った状況に立たされることがあるでしょう。

彼は、ここで自分の置かれている現実を冷静に見ています。そして、今の自分に何ができるかを真剣に考えました。彼は、奴隷ではなく、大きな裁量権がゆだねられていました。しかも、報告書を出すまで、なおしばらくは職務上の権利を行使することが許されていました。ついに、彼は、主人の債務者の債務を合法的に大幅に減らしてあげることを思いつきました。ここでは二人の債務者が描かれ、それぞれ油百バテと小麦百コルの借財があったとのことです。これはかなりの金額に相当します。「油百バテ」とは、注にあるように3,700リットルに相当します。これは、一斗樽では二百樽あまり、146本のオリーブの木を必要とするほどの大きな分量だと言われます。また「小麦百コル」というのも3万7千リットル、米俵にすると五百俵あまりです。これは明らかに商業取引の規模です。

ところで当時、律法によれば、彼らは同胞に貸すとき、利息をとってはならないことになっていましたが、現実には、利息という名前を避けながら、借りた者の商売の果実のある部分を受け取ることを条件に貸していたのが当たり前でした。そして、この管理人には、主人の財産をどのような条件で貸すのかの裁量権が与えられていたのです。油の債務を半額にするのはやりすぎと思われるかもしれませんが、当時の世界では油の貸し借りに関する限り年率百パーセントなどは法外な利息ではなかったことでしょう。なぜなら、液体の純粋さを保つことは容易ではなかったからです。また小麦の場合は保存が容易ですから、二割程度の利息ということもあったことでしょう。つまり、彼は、利息に相当する部分の債務を帳消しにし、債務を元本と同額にまで減らしたとも考えられます。

そして、ここには建前と本音の違いがあるのだと思われます。主人は、律法の解釈を超えた商取引の常識にしたがって利息を取って貸すことを期待していました。そしてこの不正な管理人はある意味で主人の暗黙の意を汲むのと引き換えに、この財産管理から得た利益を自分のために用いていたことでしょう。これは当時の取税人の生計の立て方と同じです。取税人は、ローマ帝国から決まった賃金を受け取っていたわけではなく、集めた税金と政府に収めた税金の差額を合法的に自分の財産としていました。つまり、この管理人も取税人も驚くほどの自由裁量が与えられ、厳密な報告などは求められなかったのが普通だったと思います。

ただ、この管理人はそれをあまりにも無節操にやったことが問われたのです。ですから、この管理人が、突然、会計の報告を求められたとき、「私は今までのやり方を反省し、律法に従って、利息を取ることをやめました。油五十パテ、小麦八十コルが、それぞれ彼らに貸した量です」と言うなら、主人は管理人を責めることができなくなります。もちろん、この管理人が油の証文を半分にしたことには、主人も気を悪くすることは明らかです。しかし、この管理人は自分の生活がかかっていますから、主人の不興を買うことを十分承知の上で、大胆な行動に出ました。そして、彼がやったことは法律的な見地からは、まったく非難されようがなかったことでした。

2.「賢さ」の肯定―「主人は、不正な管理人がこうも抜けめなく(賢く)やったことをほめた」

「主人は、不正な管理人がこうも抜けなくやったことをほめた」(16:8)とありますが、「抜け目なく」とは原文では「賢さ」を表す良いことばでもあります。そして原文では、その後に、イエスはそれを一般化して、「この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子よりも賢いのだから」と付け加えたのです。つまり主は、「光の子」であるご自分の弟子たちに、この世における財産管理を「賢く」行うことを命じておられるのです。そして、イエスはこの話の結論として、「不正の富で、自分のために友を作りなさい」と言われましたが、この「不正の富」とは当時のパリサイ人たちの言葉遣いであって、「この世の富」と言い換えることができると思われます。たとえば日本でも、昔は、生産活動自体ではなく、商業的な取引や金融業から生まれた富を軽蔑した時代があり、それらが「不正な富」とみられることもありましたが、その感覚と似ていることでしょう。それは経済を知らない人が勝手につけたことばです。

残念ながら、今も昔も、キリスト教会には「賢さ」を軽蔑する風潮があるように思われます。牧師の息子として生まれ五歳で父を亡くしたニーチェは、その風潮に強く反発しました。そして、キリスト教道徳においては、「善」と「愚かさ」を互いに近づけようとする傾向があり、人に恐れを感じさせるような「強さ」は「悪」と見なされがちであると分析し(「善悪の彼岸」261節)、それは、人間の生きる力を失わせ、成長を阻む教えであると強く非難しました。確かにイエスは「貧しい者は幸いです・・・富む者はあわれです」(6:20,24)と不思議なことを言われ、特にルカはイエスが社会的弱者や軽蔑された取税人にいかに優しく、金持ちや権力者に厳しかったかという面を強調しています。それにしても、暑い最中のぶどう園で一日中働いた人と一時間しか働かなかった人に同じ賃金が支払われるなど、そう簡単に納得できる教えではありません(マタイ20章1-16節)。ですから、新約の教えには人の向上心や賢さ、情熱などをくじき、弱さや怠慢への居直りを助長する恐れがあるという解釈が生まれるのも無理はありません。

一方、ニーチェは、「神は死んだ」などと言いながらも、「旧約聖書には・・・ギリシャやインドの文書に比肩すべきものがないほど大規模な人間、事物および言説が存在する」と評価していました(「善悪の彼岸」52節)。そこでは、神が人の知恵、勇気、誠実さ、忍耐心などに豊かに報いてくださることが強調されており、善悪の枠を超えるような人の情熱や生きる知恵が肯定され、驚くほどの人間的なドラマが描かれているからです。そのことに目を向けながら、ニーチェは、「新約聖書を、旧約聖書とともに糊づけしてしまった」ことを「最大の破廉恥」だと罵りました。もちろんニーチェに同意することなどできませんが、旧約聖書と新約聖書の関係を理解しない者は、信仰の破船に会うという反面教師として彼のことばに耳を傾ける必要もあるかもしれません。その点から考えると、「新約聖書は分かるけれど、旧約聖書にはつまずきを覚えるばかり・・・」などという人は、「生きる」ことの現実を冷静に見てはいないのかも知れません。この「不正な管理人」のたとえは、新約聖書しか知らない人にとっては、「道徳」に反するつまずきなように見えるかもしれませんが、旧約聖書の流れからすれば、極めて自然な教えだと思われます。たとえばエリコの遊女ラハブは敵将ヨシュアの二人のスパイを匿い逃がすことで神の民に受け入れられましたが、エリコから見たら国を売った悪女の代表となりかねません。この世の善悪の判断を超えた視点が提示されています。

イエスが「貧しい者は幸いです」と言われたのは、当時の価値観を逆転させる逆説であり、宗教指導者たちが、社会的弱者や社会の枠からはずれた人たちを神にのろわれた存在とみなしていたことへの反撃でした。福音は人の知恵や力を軽蔑するものではありません。使徒パウロも、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ4:13)と語りました。あなたには、神にあって無限の可能性が開けているのです。

3.「不正の富で、自分のために友をつくりなさい」とは?

ところでイエスは、「不正の富で友をつくる」ことで、「富がなくなったとき、彼らはあなたがたを永遠の住まいに迎えるのです」(16:9)と不思議なことを言われました。「富がなくなったとき」とは、厳密には「終わったとき」と記され、この地上の命がなくなるときを指すと思われます。この「不正な管理人」は、解雇された後で、債務を免じられた「人がその家に私を迎えてくれるだろう」(16:4)と期待していたのですが、イエスはそれを「永遠の住まいに迎える」という視点に置き換えて話しました。たとえば、イエスは、「これらのわたしの兄弟たち、しかも、最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ25:40)と、隣人を助けることと神に仕えることが切り離せない関係にあることを語っておられますが、ここでもその同じ原則が適用されます。確かに、この不正な管理人は、自分が解雇されたときの就職先という意味でしか考えていなかったかもしれませんが、イエスはその行為を、任された権威を有効に用いて隣人を助けることとして理解してくださったのです。

このたとえは16章19節から31節に続く「金持ちとラザロ」のたとえと対照的です。それはこの「不正な管理人」のたとえを聞いた、「金の好きなパリサイ人たちが・・あざ笑っていた」(16:14)ことに対してのたとえでしたが、パリサイ人が「金が好き」と記されているのは猛烈な皮肉です。彼らは、「不正の富」を軽蔑すると公言しながら、内心はお金が大好きでした。しかも、その富を隣人のために用いようとは考えていないということを、金持ちとその門の前に座っている物乞いのラザロとの関係から語りました。物乞いのラザロは天国に行き、金持ちはハデス(よみ)の苦しみに落とされたというのです。これは、「不正の富で、自分のために友をつくろうとしなかった人」の悲劇です。

そしてイエスは、「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です」(16:10)と言われました。このみことばは、私たちの生活のあらゆる部分に適用できる教えで、「小事は大事」ということわざにも通じますが、ここでは、「小さい事」とは、まず第一に、「不正の富」(16:11)の管理を指しています。昔から、聖俗二元論という考え方があります。それは、この世の仕事は俗なもの、低級なもので、教会での働きは聖なるものであるという考え方です。イエスはご自身の弟子たちの中核に、エルサレムで聖書をよく学んでいる人ではなく、ガリラヤ湖で魚をとっている人を置きました。イエスの目には、彼ら漁師こそ、「小さい事に忠実な人」と見えたのです。また、イエスは取税所に座るという「小さい事」に忠実だったマタイに、とてつもなく「大きいこと」つまり、ご自身の五つの長い説教を書き留めさせることを任されました。それはまさに、「まことの富を任せる」(16:11)ということを意味しました。取税人に神のことばの管理を委ねるなど、当時の誰が想像できたでしょう。

4.「他人のものに忠実」とは?

そして、「小さい事」とは、第二に、「他人のもの」(16:12)の管理を指しています。この「不正な管理人」は、主人の財産に対しては極めて「不忠実」であったというのが常識的な見方です。しかし、この主人は、この不正な管理人が賢くふるまったこと自体を「ほめた」のです。主人がほめたのは、彼が自分の頭を使ってよく考えたことです。

ニーチェは、自分が神を否定する理由を、「神はとどのつまり、『あなたがたは考えてはならない!』とわれわれに向け発せられたひとつの大きな禁止令にすぎないと言えよう」(「この人を見よ」(第二部1節)と述べていますが、それこそとんでもない誤解です。神は私たちが与えられた能力を生かしてよく考えることを喜んでおられます

なお、ここで「他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう」というのは、矛盾のように思えます。なぜなら、人は誰でも自分のものを持っており、自分のものを管理できて初めて他人のものまで任せてもらえると思うからです。しかし、私たちの「富」は、実は、自分のものではなく、神から預けられているものに過ぎません。パウロも自分の能力を誇るコリントの人に、「あなたがたには、何かもらったものでないものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜもらっていないかのように誇るのですか」(Ⅰコリント4:7)と戒めました。これは、すべてのものを、神から任されているもの、いわば「他人のもの」と見る勧めです。

お金や能力は、罠となります。それは、自分を世界の中心にし、自分を誇らせ、自分が神と人の助けなしには生きることができないひ弱な存在であることを忘れさせるからです。それで、イエスは、「しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません・・・神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」(16:13)と言われました。

私たちがこの世界で生きていることは、神のしもべとして、神からあずけられたものを管理する働きをすることと言い換えることができます。ペテロはそれを、「それぞれが賜物を受けているのですから、神の恵みの良い管理者として、互いに仕えあいなさい」(Ⅰペテロ4:10)と励ましました。お金は非常に大切なものですが、それはあくまでも神と人に仕える「手段」に過ぎません。ところがしばしば、「手段」に過ぎないはずのものが「目的」となり、お金を賢く使うことよりも、お金儲けのために神と人とを利用するということになりかねません。そのとき、人は、お金の奴隷になっているのです。そして、そのようになった人は、お金を持っているようでいながら、欲望に駆り立てられ、お金が与える豊かさを真の意味では味わってはいないのかもしれません。つまり、自分のものを持っているようで、それを真に自分のものにはできていないのです。しかし、神のしもべとして生きる人には、最高の自分のものとしての、「永遠のいのち」、すなわち、「神との生きた交わり」を自分のものとして持たせていただくことができます。

イエスは、タラントのたとえの結論として、「だれでも持っている者は、与えらて豊かになり、持たない者は、持っているものまで取り上げられる」(マタイ25:29)と言われました。あなたが自分に預けられた能力や富を、神のために用いるなら、神は、「あなたがたのもの」としての「いのち」の喜びをさらに豊かに増し加えてくださるのです。

私たちの信仰の目的は決してこの世的な成功ではありません。しかし、だからといって、この世的に成功することを軽蔑するようなことがあってはなりません。「成功すること」も「神の恵み」のひとつです。問われているのは、あなたの真の主人は、富でも名声でもなく神であるのかということです。決して「負け犬の遠吠え」のようなこの世を軽蔑した信仰にならないようにしたいものです。この世に誠実に仕えることは、「小さい事に忠実」であるという証しです。この世の成功は「小さい事」ではありますが、神の栄光のために大きく用いられる宝でもあります。

あなたにもこの世で任されている権威があることでしょう。それを利用して、この地上の主人の意に反して伝道に使うというようなことを勧めるという小さな発想ではなく、「地上の主人」の上におられる「天の主人」の観点から自分の仕事を見直し、自分の仕事を、神の国の管理者の立場から見直すという広い視点が求められているのです。

パウロは、「堅くたって、揺るがされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだではないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58)と励ましましたが、これは、いわゆる人々が思うところの霊的な働きに限定されることではありません。あなたの日々の仕事すべてが、主にあっての働きになるのです。いのちを窒息させる生き方ではなく、失敗を恐れず、大胆に、任された富と能力を賢く用いましょう。日陰のもやしのような信仰生活ではなく、光の創造主である方に向かって力強く生かさせていただきましょう。