イザヤ7章1節〜9章7節「御顔を隠しておられる方への信頼」

2008年1月20日

「神が私たちとともにおられる」というなら、なぜこんな不条理が放置されているのでしょう。なぜ神はすみやかに私たちの祈りに答えてくださらないのでしょう。そのような気持ちの中で、神を礼拝しに来るのが苦痛になっている人がいます。「何も変わりはしない……こんな人生に何の意味があるのか……」と思って失望する信仰者がいます。しかし、ユージン・ピーターソンはベストセラーとなった信仰の旅路に関する詩篇の解説書のタイトルを「a long obedience in the same direction」としましたが、これは無神論者 のことば、「この天と地において本質的なことは、同じ方向への長い忠実さが必要だということ、それを通してこそ結果が生まれ、それは常に長い期間を通して実現されることである。それこそ、人生を生きるに値するものにするのである」から引用したものです。

牧師の息子として生まれたニーチェは、そのように人生を豊かにする「生きる力」を、キリスト教会の中に見ることができませんでした。教会は幻想を教え、弱さに妥協する傾向を助長しているとしか思えなかったのです。私たちの教会もそのようなつまずきを与えないように注意深くありたいものです。しかし、イザヤのメッセージは、当時の人々の幻想を破り、あらゆる妥協を退ける強さに満ちていました。ニーチェもこれを理解していたら、あれほど聖書の教えを、怨念を誤魔化すための弱者の道徳などと非難することはなかったことでしょう。そのことばは恐ろしいほどに悲観的に見えながら、希望に満ちています。破壊的なようでありながら建設的です。争いを助長するようで、平和をもたらします。その逆説を味わってみましょう。

1.「気をつけて、静かにしていなさい……」

イザヤ7章の時代は、紀元前735年頃、北方からアッシリヤ帝国が勢力を増し加え、今まさに、北王国イスラエル(首都サマリヤ)とアラム(その北東の国、首都はダマスコ)を滅ぼそうとする時でした(紀元前732年ダマスコ陥落、紀元前723年サマリヤ陥落)。この危機に、イスラエルの王ペカとアラムの王レツィンは、南王国ユダ(首都エルサレム)を同盟に誘いましたが、ユダの王アハズはそれを拒絶したのだと思われます。それで、ペカとレツィンはユダに傀儡政権を樹立し、服従させようと攻撃しかけてきました (7:1)。エルサレムはその攻撃を退けることができましたが、「エフライム(サマリヤが中心)にはアラムがとどまり」二国連合の攻撃はなお続くことが明らかになりました。そのような政治状況の中で、アハズ王と民の心は、「林の木々が風で揺らぐように」、激しく動揺しました (7:2)。そしてその時、主はイザヤを通してアハズに語ります。

7章4節には、「気をつけて静かにしていなさい。恐れてはなりません。心を弱らせてはなりません」という三つの命令が続けられています。それはこの危機的な状況を人間的な知恵で解決しようとせず、静かにすることを心がけて動き回らず、また、恐れを祈りに変え、そして、心を弱らせずに神の救いを待ち続けるようにとの勧めです。

このときアハズは、目先の恐怖に圧倒され、何とアッシリヤに助けを求めていました。それは、近隣のチンピラにおびえて、広域暴力団に助けを求めるのと同じことでした。一瞬の息をつけるようでも、逃げ場のない恐ろしい支配が待っています。現実を良く見るなら、エルサレムに攻めかかってくるふたりの王の燃える怒りなど、「木切れの煙る燃えさし」のようなもので、真の脅威こそ、ユダが助けを求めたアッシリヤ帝国でした。アハズは真の脅威を見ることができませんでしたが、恐怖が迫っているときこそ、より大きな問題を引き起こさないよう、静まり、冷静に状況を見る必要があったのです。

ふたりの王はエルサレムに傀儡政権を立てようとして攻めてきていますが、それに対し、「神である主(原文「アドナイ(主人)であるヤハウェ」)」(7章7節) は、「そのことは起こらないし、ありえない」と断言されました。そればかりか、「65年のうちに、エフライムは粉砕されて、もう民でなくなる」(7:8) と、北王国イスラエルの中心の民が消えうせると預言されました。これはアッシリヤ王が、サマリヤを滅びして、その住民を遠くに移したばかりか、紀元前671年には別の民族をこの地に移住させ、イスラエルの帰還を不可能にしたことを指します。つまり、ふたりの王の計略など、アッシリヤの脅威に比べれば無視して良いほどのものだというのです。実際、その後、北の十部族は歴史の中から消え去ってしまわざるを得なくなりました。私たちの問題は、恐れるべきことを恐れず、恐れなくて良いことを恐れることにあります。恐れの見分けこそ鍵です。

というスイスの神学者は、「勇気とは、祈りの中で述べられた恐れである」(Courage is fear that has said its prayers) という逆説を述べました。つまり、「恐れ」は恥ずべきことではなく、祈りを通して真の「勇気」の源泉となるというのです。私たちの生活にも、激しく動揺せざるを得ない危機がおとずれることがあります。そのとき、全能の神に祈り求めることさえ忘れてしまうかも知れません。しかし、それこそ、神が私たちに祈りを教えるための学校です。なぜなら、私たちが、「もう自分の力では解決できない……」と思ったときこそ、祈りが真実になるからです。そこでは、幼子が親に訴えるように、自分の葛藤や不安や怒りを、正直に神に訴えることが許されています。そしてそのとき、「神があなたがたのことを心配してくださる」とさえ約束されています (Ⅰペテロ5:7)。私たちはお祈りの後は、ぐっすりと眠って、明日の新しい展開を待つだけでよいのです。詩篇46篇10節では、「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」(文語訳は、「なんじらしづまりて、われの神たるを知れ。」)と記されています。パニックに陥ったとき、動き回るのを「やめる」ことが、しばしば何よりも大切だからです。

2.「あなたの神、主からしるしを求めよ。」

このとき、主はアハズに、「もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない」(7:9) と言われました。これは、「信じるか滅びるか、ふたつにひとつだ」という信仰の決断への招きです。ただし、同時に主は、信じることができないアハズに驚くべきあわれみを示されました。それは、ご自身を、「あなたの神、主 (ヤハウェ) である」と紹介されながら、「しるしを求めよ。」と招かれたことでした (7:11)。しかも、そのしるしは、「よみの深み、あるいは、上の高いところから」の、超自然的なものだというのです。その目的は、不信仰な彼に信仰を生み出させることにあります。それは、アハズの子ヒゼキヤが日時計におりた時計の影を十度あとに戻してもらったような奇跡 (イザヤ38:3)によって約束が保証されることを指します。

ところが、アハズは、神ご自身からの信仰への招きに、「私は求めません。主 (ヤハウェ) を試みません」(7:12) と答えました。これは、一見、敬虔なようでありながら、文脈を無視してみことば引用するサタンの態度です(サタンは、イエスの荒野の誘惑に見られるように、みことばを用いて人を信仰の破船に合わせます)。しかし、「主を試みる罪」とは、「しるしを見せてくれなければ信じない」という態度を指します。それに対してここでは、主ご自身が、「しるしを見せてあげるから、信じる者になりなさい」と招かれたのです。ところがアハズの心の声は、「主を信じたら、今までの生き方を変えなければならない。しかし、それは嫌だ。もうすでに手がけていることがあるのだから……」と語っていたのではないでしょうか。彼は、何よりも、「信じたくない!」という思いで一杯だったのです。これは、私たちの場合も同様です。「信じます。」とは、「私は自分の生き方を変えます。」と同じ意味を持つからです。多くの人の問題は、「信じられない!」ではなく、「信じたくない!」ということではないでしょうか。もし、「私は信じたい!」と心から願うなら、神は、不思議なかたちで、信仰を与えてくださることでしょう。

アハズが、神の招きを拒絶したとき、イザヤは、「あなたがたは……私の神まで煩わすのか」(7:13) という表現で彼を非難しました。ここには、神は、イザヤの神ではあっても、もはやアハズの神ではないという意味が込められています。それは、アハズが、預言者たちの忍耐を軽蔑するばかりか、神の忍耐までも軽蔑したからです。そしてここでの、「それゆえ……」(7:14) とは、神の慈愛に満ちた申し出を拒絶したのだからという意味です。そして、「あなたがたにひとつのしるしを与えられる」とは、ダビデの家(アハズの子孫たちを含む)に見せられるものですが、それは、もはや信仰を生み出すしるしではありません。「見よ。処女がみごもっている……」と言われても、妊娠した人が処女であるなどと誰が信じることができましょうか。これは反対に、世の人々をつまずかせるためのしるしです。今も、「処女懐胎などと言わなければ信じられるのに……」という人が後を断ちません。ところが、これこそ、自分の惨めさを知る人にとっては、神が悩む者の仲間となってくださったというしるしになります。なぜなら、救い主は、人々から誤解され中傷される誕生の方法を敢えて選びとられた理解できるからです。実際、たとえばイエスの誕生物語を思い巡らす人は、人々の嘲りに耐えたマリヤやヨセフの姿に慰めを受けることでしょう。

その意味で、生まれた子は、「インマヌエル」の名づけられますが、それは「神は私たちとともにおられる。」という意味です。ここには神が悩む者、不安に耐える者の友であるという思いが込められています。実際、これから七百年後に処女マリヤから生まれたイエスを救い主として信じたのは、知恵と力を誇る王侯貴族ではなく、社会の底辺の羊飼いたちでした。彼らは現代のワーキングプアーと呼ばれるような人々で、神の真実により頼む以外に救いがないと思われる人でした。

なお、7章15-17節は、インマヌエルと呼ばれる方が、「ふたりの王が滅ぼされる前に、アッシリヤの王が攻めてくる前に、すぐに生まれる……」という意味にも理解されることがありますが、文脈からすれば、それは誤まった解釈だと思われます。ここには三つのことが記されています。第一は、その子が「悪を退け、善を選ぶことを知る」という年齢に成長するまで、「凝乳と蜂蜜」という貧しい砂漠の食物で育つということです (7:15)。つまり、ダビデの子孫である救い主は、王家が廃れた後の貧しさの中に生まれるという意味です。そして、第二に、その子が善悪を選択できるほどに成長する前に、「あなたが恐れているふたりの王の土地は捨てられる」ということ (7:16)、つまり、救い主は、アハズの危急に間に合うようには現れないという意味です。そして、第三に、主は、「エフライムがユダから離れた日(イスラエル王国が分裂しとき)以来、まだ来たこともない日」、つまり、国ができて以来の最大の「恐怖の日」として、アッシリヤ王の攻撃をもたらす (7:17) ということです。アハズが頼みとしたアッシリヤは、自分たちを救うどころか、エルサレムに最大の恐怖をもたらす者に変わるというのです。

神の信仰への招きを拒絶したアハズに与えられたしるし、それは、希望ではなく、さらに大きな悲惨を迎えるというさばきの宣言でした。自分の知恵や力で問題を解決しようと思っている人は、救い主を求めることができません。そのため、神は、しばしば、その人に悲惨や苦しみを敢えて与えることで、その傲慢を砕かれます。事実、イエスを身ごもったマリヤは、大頌栄(マニフィカート)で、「主は……心の思い高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろし……低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせる」(ルカ1:51-53) と歌っています。それは、もし、人が傲慢になるなら、主ご自身から裁かれるということ、しかし、私たちがへりくだるなら、主ご自身が引き上げてくだるということです。ですから、イエスは繰り返し、「だれでも自分を高くする者は低くされ、低くする者は高くされます」(マタイ23:12等) と語られたのです。

3.「私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を」

7章18節~25節には、「その日」という名のもとに、アッシリア帝国がもたらす災いが述べられます。これはアッシリヤの救いを求めるアハズの過ちを正すためです。主はまず約束の地がエジプトとアッシリヤの二大強国の勢力争いの結果として災いがもたらされることを思い起こさせますが、それぞれを「あのはえ」とか「あの蜂」と呼びながら、神の御手にある小さな存在に過ぎないと言われます。その上でアッシリヤの王を「かみそり」と呼び、彼がイスラエルを辱める様子が、「頭」ばかりか、「足」(厳密には男性器を指すと思われる)の毛とひげをそり落とすと描かれます。そして、21、22節は家畜を十分に飼うことができないほどの貧しさを、23、24節は「乳と蜜の流れる地」と呼ばれたところが荒地とされる様子が描かれます。

そして8章1、3節に記された「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」とは、「速い餌食、急ぐ分捕り」という意味不明のことばです。これは、イザヤが女預言者を通して生んだ第二子がことばを覚えるその前に、アッシリヤ帝国がダマスコとサマリヤを滅ぼし、その宝を持ち去ることを預言する名前となります。それは滅びが目の前に迫っているということの警告です。

8章6節の「この民……」とは、ユダではなく北王国イスラエルの民を指すと思われます。先に、「エフライムがユダから離れた日」(7:17) という表現がありましたが、彼らは、「シロアハの水」として表現されるエルサレムをないがしろにして、自分たちの礼拝の場を作り、そして今は、アラムとの連合によって北の脅威に対抗する政策を喜んでいます。彼らは自分たちの国を守ろうとしてかえって神の怒りを買い、墓穴を掘っています。その結果、北の大河ユーフラテスを支配するアッシリヤ帝国からの洪水が北王国イスラエルの地を呑み込み、ついには「ユダにまで流れ込む」(8:8) というのです。しかし、そのとき、ユダはインマヌエルの国、つまり、神がともにおられる国として、広げられた神の御翼の下で生き延びることができるというのです。つまり、ここには北王国の滅亡と、南王国ユダが、ぎりぎりのところで守られることの二つが預言されています。

8章9節の「国々の民」とはイスラエルの神ヤハウェを知らない人々を指しています。彼らは自分の力を誇り、ヤハウェを侮り、神の国を滅ぼそうとしますが、そのはかりごとは成功しません。なぜなら、「神が、私たちとともにおられるから」(8:10) です。なお、このことばもヘブル語では「インマヌエル」と記されています。つまり、7:14、8:8、8:10と三回、「インマヌエル」ということばが用いられながら、神の救いはこの世の人々が理解できない形で実現することが預言されているのです。

その上で、8章11-16節まで、神が預言者イザヤに、神の民イスラエルを正すために、彼らから敢えて分離する生き方を全うすることを恐れないようにと励ましを与えます。「万軍の主 (ヤハウェ)、この方を、聖なる方とし、……恐れとし……おののきとせよ」(8:13) というみことばは、人の顔色を伺いながら行動しがちな私たちすべてに対する警告です。

しかも神は、イザヤのメッセージが人々の心を閉ざす方向にしか働かないことも告げておられましたが (6:9、10参照)、ここでは彼の存在自体が、主を証すことになるどころか、「妨げの石とつまずきの岩……落とし穴」(8:14) にしかならないと破壊的なことが預言されます。しかし、神が「わたしの弟子」と呼ぶ人々は皆無ではないとも示唆されます。そこでのイザヤの使命は、聞く耳のある人々の「心のうちに」みことばを「封じる」ことなのです (8:16)。

これに対するイザヤの応答が、「私は主 (ヤハウェ) を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に望みをかける」(8:17) です。それは、主が今、イスラエルにわざわいをもたらそうとしていることを知っていながら、なお、この方に望みをかけるという意味です。そして続けてイザヤ自身が、「私と……私の子たちは……しるしとなり、不思議となっている」と告白します。これは、主が信じることを拒絶したアハズや同じ立場をとる人々にとって、イザヤとその子の生き方こそが証しになるという意味です。そして、不思議なことに、ヘブル2章11-15では、このイザヤの告白がイエスご自身の告白となっていると記されています。イエスご自身が、父なる神に向かって「わたしは彼に信頼する」と告白しつつ苦難の道を歩み、またご自身に従う弟子たちを、「神がわたしに賜った子たち」と呼びながら、私たちと同じ不自由な肉体をとってくださいました。

つまり、イザヤは救い主の先駆けとして、当時の人々から拒絶され、あざけられ、つまずきとなり、救い主ご自身も、そのような孤独な歩みをする者の仲間となるために、「ひとりの処女」から敢えて誕生されたというのです。それを思うときに、私たちも、主が「御顔を隠しておられる」としか思えないような苦しみと孤独の中でも、なお、「この方に望みをかける」ことができます。そして、そのような信仰者の歩みの後には、なお多くの神の子たちが従うようになります。つまり、キリストにあっては、絶望が望みに、孤独が交わりに、苦しみが喜びに変えられるのです。それは幻想ではなく、キリスト者の確信です。

4.「ひとりのみどり子が私たちのために生まれる」

そして、「霊媒や……口寄せなど」のような死んだ者の霊との交信を否定しながら、神のみことばから離れて生きる者には「夜明けがない」(8:20) と宣告されます。そして、ヘブル語聖書では9章1節は8章23節として記されていますが、そのように、8章21節から9章1節はひとつのまとまりととらえられ、アッシリヤ帝国によってもたらされる苦しみの時代を指すと解釈できます。「ゼブルンの地とナフタリの地」とは、肥沃なイズレエル平原からガリラヤ湖西岸に広がる肥沃な地を指し、ガリラヤ地方と呼ばれる地です。つまり、ここはアッシリヤによって異邦人の地とされてしまった絶望の地も、「光栄を受ける」という約束なのです。救い主は自業自得で苦しみ希望を失った人々に光を見させるために現れてくださいました。

そのことが、「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た」(9:2) という美しい預言として表現されます。それは、「あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられた」という繁栄の時代がくるということですが、その様子は今から三千年前の人の感覚に通じるような喜びとして描かれており、現代人には馴染みにくいものかもしれません。しかし、その中心は、かつて収穫を奪われた地の民が収穫を喜び、自分たちの宝を分捕りものとして奪われた民が、分捕り物を分け合って喜ぶ立場に変わるという立場の逆転です。その理由の第一は、今までの圧制者に裁きが下されるからです。9章4節にある「ミデアンの日」とは、イスラエル北部がミデアン人によって圧迫されていたとき、主がギデオンを立て、イスラエルを解放したことを指します。そしてその理由の第二は、戦いの武具が必要なくなる平和の時代の実現が実現されるからです (9:5)。

その上で、そのような解放と平和をもたらす救い主の出現が、「ひとりのみどり子が、私たちのために生まれる」(9:6) として預言されます。これは、7章14節の「インマヌエル」の誕生のことを指します。両者に共通するのは、救い主は赤ちゃんとして生まれるので、救いの実現には時間がかかるということです。当時の人々は、救い主の登場と共に、すべての問題が解決すると期待していましたが、神のご計画はそうではありませんでした。そして、救い主の名はここでは、『不思議、助言者(カウンセラー)、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」と呼ばれます。最初の「不思議」は独立した名詞としても解釈できます。かつてサムソンの父に対し、主の使いはご自身の名を「わたしの名は不思議という」と言われました (士師13:18)。また8:18でも「不思議となる」とも言われました。また救い主は私たちにとって最高のカウンセラーであると同時に「力ある神」です。イエスは男だけで五千人の人々の腹を満たすことができました。さらに、「永遠の父」と呼ばれるのは、イエスが「父なる神である」という意味ではなく、私たちが心から信頼することができる権威者であるという意味です。

「平和の君」とは、イエスこそがこの世界に最終的な平和をもたらすという意味です。それはイザヤ書11章に記されているように、「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し……乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる」(6-8節) と言われるような完全な平和をこの方が実現してくださるからです。

私たちは、救い主のみわざをあまりにも小さくとらえているのではないでしょうか。イエスによって世界はすでに変わりました。そして、主のみわざは今も続いています。そして、それは「神の平和」という完成に向かっているのです。

その神の国の成長の様子が、「その主権は増し加わり、その平和は限りなく」(9:7) と描かれます。そして、それをもたらす救い主は、「ダビデの王座について」と描かれ、今滅亡しようとしているダビデ王国が立て直されることとして表現されます。そして、最後に、「万軍の主 (ヤハウェ) の熱心がこれを成し遂げる」と、それが父なる神の断固たる意思であることが改めて強調されます。つまり、主は、自業自得で失われようとしている国を、まったく新しい形で建て直してくださるというのです。

そしてこのキリスト預言がこの後、七百年後に実現しました。私たちの世界は今、平和の完成の途上にあります。ですから私たちは、今が、どれほど希望に満ちた時代なのかを、いつでもどこでも意識しながら生きる必要があります。

私たちの人生には、神がご自身の御顔を隠しておられるようにしか思えないことがしばしばあることでしょう。しかし、それはイエスご自身が歩まれた道であり、すべての時代のキリスト者が体験してきたことでした。ニーチェの言うようにキリスト者は幻想を見ながら生きるものではなく、神の平和の実現という真のビジョンを見ながら、その方向へと旅をしている者たちです。御顔を隠していると思われる主に、なお信頼し続けているのがキリスト者の不思議です。それはひとりひとりが預言者イザヤのように、神にとらえられているからです。そしてそこで生きる意味と喜びを見出し続けているからです。アハズのような夢のない現実主義者は目先の解決に走り、より大きな悲劇への道を開きます。しかし、私たちは夢を掲げた現実主義者です。今、目の前に置かれている課題を、神の視点から見直し、神の求める道に進むものでありたいものです。