イザヤ1章〜6章「主 (ヤハウェ) おひとりだけが高められる」

2008年1月6日

去る元旦のメッセージにあった、「死ぬことによって生きるのがキリストのいのちです」の意味を尋ねてこられたあるお子さんに、「それは難しい質問だね……」としか答えられず、ずっと引っかかっていました。しかし、それはイザヤのメッセージに通じるものです。人生の時がくるまで「言語明瞭意味不明」にとどまるべきことなのかもしれません。

イザヤ書は新約聖書では、他の預言書のすべてを合わせたよりも数多く引用されているほどに重要な書です。イエスご自身がイザヤ書を熟読し、この書を生き、公生涯に初めにはご自分がこの預言を成就したと宣言されました (ルカ4:16-21)。またパウロなどは、復活後のイエスに出会ってキリスト者になりましたが、イエスのメッセージを生で聞く機会のなかった彼は、その後、何よりもイザヤ書を深く思い巡らしながら、イエスこそが預言された救い主であることを確認したことでしょう。実際、「使徒の働き」は、彼がイザヤ書6章のことばを引用したことで終わっています。また現代のユダヤ人がキリスト者に回心する際に最も影響力を持つのがこのイザヤ書だと言われています。

今回は6章のイザヤの召命に焦点を合わせますが、それ以前に1-5章があることの意味をしばしば多くの人は忘れてはいないでしょうか。神のみわざ以前に、イザヤという人物に注目することは神のみこころではありません。「ここに、私がおります。私を遣わしてください」という応答が一人歩きしてはいないかと思わされることもあります。

1.「わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた……」

この書は「幻 (Vision)」という言葉から始まりますが、この書には神からのビジョンが満ちています。当教会もイザヤ書65章17節の「新しい天と新しい地」をビジョンに掲げています。

イザヤの活動は紀元前740年ごろ没したウジヤ王のときに始まりますが、ウジヤはダビデ王国全盛期の南の領土を回復した有能な王でした。そして、イザヤは、ヒゼキヤ王(687年頃没?)の後継者、悪王マナセのもとでの殉教の死を遂げたと言い伝えられています。マナセの時代は、アッシリヤ帝国が南のエジプトまで支配していた時期で、ユダ王国はその属国として独立をぎりぎりで保つほどに落ちぶれていました。つまり、イザヤは、国の最盛期から転落し存亡の危機を迎えるという時代背景の中で預言したのです。その意味で、この預言には、成長期から停滞期に入ったと言われる日本経済や教会の現状にそのまま適用できる教えが満ちているとも思われます。

なお、イザヤという名には、「ヤハウェは救い」という意味が込められています。彼の父のアモツは、王の弟であったとの伝承もあります。とにかくイザヤは王に直接語ることができる貴族の一人であったことは明らかです。

最初に主は、イスラエルをご自身の「子ら」「わたしの民」と呼びながら、彼らが「牛」や「ろば」にも勝って恩知らずであることを嘆いています (1:2、3)。彼らの罪の基本とは、「彼らは主 (ヤハウェ) を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った」(1:4) ことです。スイスの精神科医だった ポール・トゥルニエ は、「罪意識の構造」で、多くの人は劣等感と罪意識を混同しており、「人間は、自分に(社会的に)課せられた義務を果たすことに失敗するとそのたびに罪意識を経験する」(p120) が、それは聖書の語る「罪」とは異なると語っています。なぜなら、神は何よりも私たちが神の恵みを忘れ、自分の救い主を侮り、背を向けて歩くことに対して怒りを発しておられるからです。

続けて、神はイスラエルに対して、「ああ」と嘆きながら、「あなたがたは、なおも、どこを打たれようというのか。反逆に反逆を重ねて。頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷……」と訴えています (1:4-6)。人は基本的に苦しみに会わない限り自分の生き方の誤りを認めることができません。それで、神は深く心を痛めながら、彼らを「打つ」ことでご自身に立ち返るように招いています。彼らは天からの硫黄の火で焼かれて滅びたソドムとゴモラの住民と比べられるほどに堕落しきってしまっていたからです。それでいながら彼らは、自分の生き方を改めようともせずに、多くのいけにえをささげるという熱心さを表現して神の好意を勝ち取ろうとしました。それに対して神は、「わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた……もうむなしいささげものを携えて来るな……これにわたしは耐えられない」(1:10-13) と驚くべきことを言っています。かつて、いけにえを命じられた神が、彼らの礼拝を、「わたしの重荷となり、わたしは負うのに疲れ果てた」(1:14) と言っておられるというのです。なぜなら、「あなたがたの手は血まみれだ」(1:15) とあるように、彼らの礼拝は偽善に満ち、社会的弱者から搾り取った金でいけにえをささげていたからです。残念ながら、今も昔も、多くの宗教が貧しい人々からお金を搾り取っています。それをもとに宗教指導者たちは安定した生活を送りながら、自分たちは義務を果たしているという自己満足に浸っていました。

それに対し主は、「洗え。身をきよめよ……」と信仰の原点に立ち返るように命じます (1:16)。その上で、「来たれ。論じ合おう」と仰せられます。彼らは、罪の赦しを金で買い取ろうとする態度で神に近づいていました。しかし、神は、飢えているわけではなく、取引に応じる必要はまったくありません。罪の赦しは、全能の神の一方的なあわれみによって与えられるものです。それが、「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。もし、喜んで聞こうとするなら、あなたがたはこの国の良い物を食べることができる」(1:18、19) という招きです。そして神はなおも、エルサレムに向かって、「どうして遊女になったのか、忠信な都が」と非難しつつ、そこでなされている偽善と搾取を指摘しています (1:21-31)。

イエスがパリサイ人や律法学者を驚くほど厳しく非難したのは彼らの偽善のためでした。彼らは自分たちの信仰を誇り、戒律を守ることができない「取税人や罪人」を軽蔑し、イエスが彼らとともに食事をしているのを見て、その寛容さを非難しました。それに対しイエスは、「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』」とはどういう意味か、行って学んできなさい」と、旧約聖書を学びなおすように命じられ、その上で「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と言われました (マタイ9:10-13)。

2.「鼻で息をする人間をたよりにするな。」

2章の書き出しは、「ことば、それはイザヤが見たもの」ですが、これから起こることが5章まで記されます。2-4節は、同時代の預言者ミカの記事とほぼ同じです (ミカ4:1-3)。それは神が、ふたりの預言者に同じように、これから訪れるさばきとセットで「終わりの日」の希望を語ったものです。それは「すべての国々」がエルサレム神殿を訪れ、そこで「主 (ヤハウェ) のことば」を聞くようになり、その結果、「彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」(2:4) という神の平和が実現するという預言です。

聖書には、神がこの地の悪にさばきを下すと繰り返し警告されていますが、それと同時に、それを通して神の平和が実現するということもセットで記されてもいます。しばしば、教会によっては、このバランスが崩され、人々に恐怖を語りながら回心に導くという面があるかも知れませんが、最終ゴールを忘れた警告は人の心を萎縮させる脅しに終わってしまうのではないでしょうか。神の平和の実現という神の救いの目的を忘れてはなりません。

そして、そのゴールを見させながらイザヤは、「来たれ。ヤコブの家よ。私たちも主 (ヤハウェ) の光に歩もう」(2:5) と呼びかけます。これは信仰の歩みの励ましが、常に、最終的なビジョンをともに見ることから始まるからです。

その上でイザヤは、神に向かって、「まことに、あなたは、あなたの民、ヤコブを捨てられた」(2:6) と訴えますが、同時に、神のさばきが正しいことを、彼らが自分たちの富を用いて偶像の神々を拝むようになったからという趣旨で説明します。そして、終わりの日のさばきのことが11、17節で、「その日には、高ぶる者の目も低くされ、高慢な者もかがめられ、主 (ヤハウェ) おひとりだけが高められる」と、ほとんど同じ表現が繰り返され、18節では「偽りの神々は消えうせる」とまとめられます。そして、「主が立ち上がり、地をおののかせるとき、人々は主 (ヤハウェ) の恐るべき御顔を避けて、岩のほら穴や、土の穴に入る」という表現が繰り返されながら (20、21節)、偶像のむなしさを訴えるとともに、それと合わせて、「鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろう」(22節) と結論付けられます。偶像礼拝とこの世の人の力を恐れることは神の目からは同じことだからです。世の人々は偶像を神のかたちとして拝んでいました。しかし、キリスト教国では、人間を神のかたちとして拝んでいるとも言われます。私たちも、神よりも、自分や人の信仰深さを見てしまうという落とし穴があることを忘れてはなりません。

3章では、「万軍の主 (ヤハウェ) 、主はエルサレムとユダから、ささえとたよりを除かれる」(3:1) と記されますが、これは国の指導者に関することです。神は、「わたしは、若い者たちを彼らのつかさとし、気まぐれ者に彼らを治めさせる」(3:4) と、ご自身の国を滅ぼすために、指導者にふさわしくない者を敢えて立てられると言われます。

そして、「そのとき」、指導者に飢えた民が、ふさわしくない人に向かって、「私たちの首領になってくれ」と叫び、また要請された人も、理由にならない理由をあげて要請を断るというのです (3:6、7)。

そして12節では、「女たちが彼を治める」と記され、16-26節では、高ぶる女たちへのさばきが宣告されます。どの国も、大奥とかハーレムが政治を裏から動かすようになるとき、滅亡に向かいます。そして、彼女たちの滅びも、「七人の女がひとりの男にすがりついて」(4:1)、保護を求めるような悲惨で現されます。それは女同士で争いながら国を裏から操っていた状態から、男の力に頼らざるを得ない状態への堕落を示します。

そして、この地が、人間の指導者に徹底的に失望を味わった「その日」になって、「主 (ヤハウェ) の若枝は、麗しく、栄光に輝き……」という救い主が現れると預言されます (4:2)。これは一連の預言書の中での最初のメシヤ預言です。また、苦しみを潜り抜けた者を、「いのちの書に記された者」(4:3) と呼ぶのは黙示録の先駆けです。これは私たちが苦しみの中で信仰を全うできるのも、肉の力によるのではなく神の選びによるという告白です。また、主が、「さばきの霊と焼き尽くす霊によって、シオンの娘たちの汚れを洗い」(4:4) とは、預言書で初めての聖霊預言です。

その上で、「主 (ヤハウェ) は創造する」(4:5) という天地創造を思い起こさせることばとともに、主が荒野でイスラエルの民の真ん中に住んで、「昼は雲の柱、夜は火の柱」(出エジ13:21、22) によって民を導いたときの回復が預言されます。エルサレムが滅びたのは、主の栄光が立ち去ったからですが、その栄光が再び戻ってくるのです。しかも、その主の臨在のしるしは、民を覆う仮庵となり、「昼は暑さを避ける陰となり、あらしと雨を防ぐ避けどころと隠れ家になる」というのです (4:5、6)。先に、主の栄光の現れは、人々をほら穴や岩の割れ目に逃れさせましたが (2:19、21)、ここでは、人を守る陰となり隠れ家となるという変化が見られます。それは、私たち信仰者にとっては、救い主の現れは、恐れるべきものではなく、安全と喜びと繁栄の回復であるという意味が込められています。

は、「カラマーゾフの兄弟」の「大審問官」の中で、サタンに魂を売った教会指導者に、「人間という哀れな動物は、もって生まれた自由の賜物を、できるだけ早く、譲り渡せる相手を見つけたいという、願いだけしか持っていない」と語らせています。それは彼が自分の心の闇と向きあった結果の卓越した洞察でしょう。 という社会心理学者は、ナチズムの台頭を、人々が「自由からの逃走」を願った結果であると語りました。実際、ナチスの宣伝相 は、「民衆は上品に支配されること以外なにも望まない」と断言しています。

神はひとりひとりをご自身のかたちに創造し、主体的に自分の意思で神を愛し、人を愛することができるようにされました。しかし、人は、この自由な責任を果たすことを拒否し、偶像と権力者に屈服することを望んだのです。実際、約束の地に導き入れられたイスラエルの民は、神に向かって、自分たちを治める王を求めました。

つまり、神がご自身のさばきとしてリーダーシップを混乱させたというのは、人の奴隷根性の流れるままに任せたということに他なりません。現代の人々も、自由に付随する孤独と不安をもてあまして、何でも断言してくれる宗教指導者を求めています。しかし、使徒パウロはコリントの自由市民に向かって、キリストのあがないのみわざを思い起こさせながら、「あなたがたは代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません」(Ⅰコリント7:23) と勧めています。つまり、「主 (ヤハウェ) の若枝」と呼ばれる預言された救い主は、ひとりひとりの心を神に向け、人を誤ったリーダーシップから解放するためにこの地に来られたとも言うことができます。

3.「わがぶどう畑になすべきことで、何かわたしがしなかったことがあるのか」

5章の1~7節は「ぶどう畑の歌」と呼ばれ、三つの福音書に記されているイエスの「ぶどう園のたとえ」のもととなっているものです。最初は、「わが愛する方のために私は歌おう」と、イザヤが主 (ヤハウェ) を「わが愛する方」と呼びながら、主のために歌ったものと解釈できます。なぜなら3節にあるように、ぶどう畑の所有者は神ご自身であり、イスラエルはぶどう畑だからです。イザヤは、主の痛みを歌っているのではないでしょうか。それは、主が、「甘いぶどうのなるのを待ち望んで」、なすべきすべてのことをしてくださったのに、期待が裏切られ、「酸いぶどうができてしまった」からです。それで、主は、「わがぶどう畑になすべきことで、何かわたしがしなかったことがあるのか」(5:4) と問いかけながら、この畑を捨てる決意をされたというのです。同じように主はぶどう畑としての「イスラエルの家」に、ご自身の「喜び」としての「ユダの人」を植えたのに、「公正」の代わりに「流血」、「正義」の代わりに「泣き叫び」が生まれてしまいました。主が愛情を注いだ畑に、悲しみをもたらす実しか生りませんでした (5:7)。

ユダの人々は畑の真の所有者がどなたであるかを忘れて、我が物顔に、所狭しとその畑を占領しています。しかし、主がその畑を捨てられ結果、「必ず、多くの家は荒れすたれ……一ホメルの種が一エパを産する」(5:9、10) とあるような、種の十分の一の収穫しかない飢餓の時代が来るというのです。そして、このようにして、「人はかがめられ、人間は低くされ、高ぶる目も低くされる。しかし、万軍の主 (ヤハウェ) は、さばきによって高くなり、聖なる神は正義によって、みずから聖なることを示される」(5:16) というので。そして、そのときの状態が、「子羊は自分の牧場にいるように草を食べ、肥えた獣は廃墟にとどまって食をとる」(5:17) と描かれますが、これは今までの「家に家を連ね」(5:8)とあった人の住まいが、家畜と野獣の住まいとなるという意味だと思われます。

そして、「ああ、うそを綱としてとがを引き寄せ」ている者たちとは、イザヤの預言をあざける偽善の宗教指導者のことです。彼らは、皮肉にも、汗を流しながら一生懸命に、「咎と罪」を自分のもとに引き寄せているばかりか、「イスラエルの聖なる方のはかりごとが近づけばよい。それを知りたいものだ」と、自分で主のさばきの日を呼び寄せているというのです。彼らは、神のご支配の代わりに、人間の力に目を向けさせました。彼らは善意に満ちて人の努力を励ますように見えたかもしれませんが、実際は、不信仰のゆえに神の怒りを買っていたのです。

続いてイザヤは彼らのことを、「ああ、悪を善、善を悪と言っている者たち……おのれを知恵ある者とみなし……わいろのために、悪者を正しいと宣言し、義人からその義を取り去っている」(5:20-23) と非難し、「このゆえに、主 (ヤハウェ) の怒りが、その民に向かって燃え……」(5:25) と宣告します。そして、そのさばきは、「主が遠く離れた国に旗を揚げ……」(5:26) とあるように、主ご自身が、神の民の敵と思われる異教の国を用いることによって実現するというのです。その結果、訪れる暗黒の時代のことが、「その日、その民は海のとどろきのように、イスラエルにうなり声を上げる。地を見やると、見よ、やみと苦しみ。光さえも雨雲の中で暗くなる」(5:30) と描かれます。

4.「聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな」

6章になって初めて、イザヤの召命が記されます。「ウジヤ王が死んだ年」(6:1) とは、繁栄の時代の終焉を示唆します。ウジヤは自分の成功に酔ってしまって高ぶり、主を礼拝することにおいても自分のやり方を押し通そうとしました。彼は祭司にしか許されていないことを行って、主のさばきを受けらい病にかかったのです。それはユダ王国が苦しみの時代に入ることを示すものでもありました。そしてそのようなとき、それと対照的な「栄光」として、イザヤは、「高くあげられた王座に座しておられる主(アドナイ)を見た」(6:1) というのです。そして、六つの翼をもつ不思議な生き物、セラフィムたちが主の神殿の上を舞って、互いに、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主 (ヤハウェ)。その栄光は全地に満つ」と叫んでいました。彼らがふたつの翼で顔を覆っているのは、彼らでさえ主を直接に仰ぎ見ることがないためであり、また足を覆っているのは、その動きの方向を隠すためだと思われます。

このセラフィムの賛美の声のために、「敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた」(6:4) という恐怖が起きました。そのときイザヤは、「ああ、私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で……万軍の主である王をこの目で見たのだから」(6:5) と言います。すると、セラフィムのひとりが、燃え盛る炭をもって彼の口に触れ、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた」(6:7) と宣言しました。これは、今まであったテーマの表れでもあります。そこには、人が、いけにえをささげるという務めを果たすことで聖くされるのではなく、主を恐れる者を主ご自身が聖めてくださるという意味が込められています。

そして、リーダーシップの不在に悩む民のために、主が、「誰を遣わそう。誰がわれわれのために行くだろう」と言っておられる声を聞いて、イザヤは、「ここに私がおります。私を遣わしてください」(6:8) と応答します。これはイザヤが肉の身体のままで主を見ることができたこと、また自分のくちびるがきよめられ、罪が贖われたという自覚から生まれた必然的な応答であることを忘れてはなりません。一時の情熱に駆られて、「私を遣わしてください」と応答する人はかえって危ない場合があります。ここで強調されているのは、応答する側のすなおさや熱心さではなく、主の一方的な選びと主の一方的なきよめのわざです。

しかも、「行って、この民に言え」と命じられたメッセージは、「聞き続けよ(聞いて、聞け)。だが悟るな。見続けよ(見て、見よ)。だが知るな」(6:9) という矛盾したものです。それによって、「この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ」というのです。これは、「そんなの聞き飽きた!」といわれる状態を敢えて作り出すためです。しかも、その目的は、彼らが「自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないため」だというのです。つまり、彼らが、「私はみことばを注意深く聞いて、自分の力で悟った!」と思うことがない状態を作り出すことです。

この不思議なみことばは、四つの福音書すべて、また使徒の働きとローマ人への手紙の二箇所で引用されているほどで、イエスやパウロによって語られた福音が実を結ぶことのなかった理由の説明に用いられています。それによって「救い」は、人間の力ではなく、主ご自身の「恵みの選び」(ロマ11:5) によるということが明らかにされます。宣教に関しての私たちの使命は、結果を出すことではなく、みことばを分かち合うことです。イザヤの働きが、その時代には何の理解も得られず、その労苦は実を結ばなかったのは、主のみこころだったのです。

それに対しイザヤは、「主よ、いつまでですか」と問います。すると主は、まず、「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果てるまで」(6:11) と言われます。これはレビ記26章32、33節などにあった預言が成就することですが、そこには地が安息の年を取り戻すという神のご計画がありました。また続けて、「主 (ヤハウェ) が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所が増えるまで」と言われますが、これは申命記28章58-68節などに預言されていた「のろいの誓い」が成就することで、それによって彼らは神を恐れることを、体験を通して学ぶようになるのです。イザヤは神の最終的な救いの完成を預言し続けますが、それは聖書に警告されていた神のさばきが成就して初めて実現することなのです。そして、イエスの十字架は、その神のさばきが全うされたことを意味します。それによって、私たちは祝福の時代に招き入れていただくことができたのです。イザヤの預言は、イエスの十字架と復活を通して初めて本当の意味で理解できるもので、それを深く味わいたいものです。

「そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた焼き払われる」とは、アッシリヤ帝国によって北王国の十部族が滅ぼされ、南のユダ王国しか残らない状況と、しかも、そのユダも後のバビロン帝国によって滅ぼされることを指しています。しかし、ここでそれは、「焼き払われる」と表現され、これが「火によるきよめ」のわざであることが示唆されています。しかも、そこには、「テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように……切り株」(6:13) が残されると記されます。これらの木は、切り株から新しい芽を育てる力があります。つまり、先にあったように「いのちの書に記された」ものは残され、そこに「聖なるすえ」としての「切り株」があるというのです。このあとに、「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」(11:1) という表現とともに救い主の誕生が明確に預言されますが、ここの表現はそれにつなぐ意味があります。神はご自身の民を単に苦しめ悩まそうとしておられるのではなく、彼らをきよめ、豊かな実を結ぶものへと造り変えようとしておられるのです。

主がイザヤに与えた逆説的なメッセージを見て、私は、「放蕩息子のたとえ」を思い起こしました。父は弟息子に愛のことばを語り続けたことでしょう。しかし、息子はその意味を知ろうともしなかったばかりか、父親が生きているというのに財産の分与を要求しました。父は悲しみながらそれに応じました。それは、この息子が苦しみを通してしか、父の家にあった祝福に気づくことがないとわかっていたからです。父は首を長くして息子が自分の心で気づき帰って来るのを待っていました。失ってみなければ分からない恵みがあります。ただ、そのときになって息子が父のもとに帰ってくることができたのは、それ以前に父の語りかけを耳にたこができるほど聞いていたからではないでしょうか。挫折を通して回心できるためには、聞く耳のない人になお、「聞き続けよ」と語り続ける必要があります。ユダヤ人が、バビロン捕囚の苦しみを通して、自分たちの神に失望する代わりに、神に立ち返ることができたのは、その苦しみが主の御手の中にあって起こったものであることを知ることができたからです。

見せかけの繁栄の中で宗教に恐るべき偽善が生まれること、また真のリーダーシップが見られなくなっていること、それはまさに現代の問題です。そして、今、私たちに求められていることは、何よりも、自分の罪に泣き、主の前にへりくだることではないでしょうか。自分の信仰的な熱心さを誇るような姿勢は、イザヤの召命の記事の文脈に反します。私たちは本来、理解することができなかったはずのことを聖霊によって示された神の民です。自分で救いを獲得したのではありません。自分の肉の力に絶望することから驚くべき希望の光が見えてくるのです。イザヤのメッセージは不可解です。しかし、そのことばには、時が来ると豊かな実を結ぶ力が秘められています。