哀歌3章40節〜5章22節「哀歌からクリスマスへ」

2007年12月16日

百万人の福音一月号の特集は「祈れない時にー知らなかった豊かな世界」と題して、小生の詩篇の翻訳交読文を含め六ページにわたって記載していただきました。十数年前に、詩篇の中にある「うめきの祈り」に深く感動して、それを熱く語ったとき、「そんな暗い話ばかり聞きたくない……」という反応が多かったのですが、時代が変わってきた感じがします。

当教会のクリスマス・イヴ音楽礼拝は24日(月)午後4時半開始です。ドイツ系の深い味わいのクリスマスの賛美歌を含め有名な英米系のクリスマスキャロルやクリスマスの古典的な曲を、弦楽四重奏、ソプラノ、味わい深いリードオルガンの演奏で味わい、分かりやすいメッセージもあります。どなたでも歓迎します。

今回の拙著「心を生かす祈り」の巻末に、ルターやパウル・ゲルハルドのクリスマスコラール、それぞれ15番までとか9番までを歌えるように訳しています。ぜひ味わってみていただければ幸いです。今回のメッセージの最後にも少し解説を載せています。

列王記からイスラエル王国の滅亡までの歩みを見た後、二回にわたって哀歌を読んでいます。バビロン捕囚の悲しみを歌ったものですが、現代の人々は、富の欲望の帝国「大バビロン」の捕囚となっているともいえるのではないでしょうか。本当に多くの人々の心の余裕がなくなっています。

「クリスマスのお祝いの季節に哀歌を読むなんて……皮肉みたい」という声が聞こえそうですが、聖書からするとその連続性は驚くほど明確です。バビロン捕囚という異教の帝国の支配はローマ帝国に至り、人々はその支配からの解放を望んでいました。今も、世の多くの人々は黙示録が語る「大バビロン」という富の欲望の帝国の支配下で捕囚とされ、真の心の自由を求めてうめいています。世界のうめきを聞くことなくして、イエス・キリストがもたらしてくださった救いの喜びは分かりません多くの人は、「喜びとは悲しみのないことであり、悲しみとは喜びのないこと」だと考えがちです。しかし、神の子イエスは、悲しみのお方であり、また完全なる喜びのお方でもあります。

ヘンリ・ナウエンは、喜びと排除しあう関係にあるのは、悲しみではなく、「皮肉」であると言いました。皮肉屋はどこへ行っても闇を探し出し、小さな喜びへの感動を軽蔑するからです。これは本日の箇所では、「横着な心」とも呼ばれます。自分の罪を悲しむことに横着な心は、神の赦しを喜ぶことにも横着になることでしょう。

バビロン捕囚の悲しみを歌った哀歌を、私たちの救い主イエスご自身が口ずさみました。そればかりか、「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた」(イザヤ53:3) と預言されたように、彼はエルサレムで起こった人々の悲しみをご自分で体験するために神でありながら人となってくださいました。

クリスマスは、神が人の悲しみをご自分で体験するために人となってくださったことを記念するときです。「私が悲しんでいるとき、神はどこにいるのか……」と問いかける人に、神は、「わたしはあなたの心の中で、あなた以上に悲しんでいる」と言われるのではないでしょうか。それを知るときに、何も状況が変わっていないのに、そこに希望があふれているのが分かるでしょう。

1.「主 (ヤハウェ) のみもとに立ち返ろう」

哀歌の作者は、エルサレムの悲劇を、「わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出るのではないか」(3:38) と、全能の神のみわざと受け止めています。その上で、「私たちの道を尋ね調べ……よう」(3:40) と、「尋ねる」と「調べる」の両方の訴えがなされます。これは、この世的な意味での「反省」ではありません。

人は、何か悪いことが起こったとき、その原因を探り求め、「あの人のせいで……」とか、「あのことのせいで……」という結論を引き出します。たとえば、この世の歴史家は、エルサレムが廃墟とされたことを「外交政策の失敗」と位置づけることでしょう。しかし、聖書は、そのような発想自体が神の怒りを買っていると言います。

それで、著者は、「道を尋ね調べる」方向を、「主 (ヤハウェ) のみもとに立ち返ろう。私たちの手をも心をも、天におられる神に向けて上げよう」(3:40) と訴えます。

「立ち返る」とは「悔い改める」とも訳されることばですが、このわざわいが神によってもたらされたからこそ、神にすがり、手と心を神に向けてあげて祈ることが解決になるというのです。私たちも何かのわざわいに直面したとき、人間的な原因探しをする以前に、神に「立ち返る」ことが何よりも大切ではないでしょうか。

たとえば、家庭や共同体の中では、誰かを悪者に仕立てようとする自称「善い人」自身が、最大の癌であるということがよくあります。しかも人は、自分が苦しみに会ったとき、誰かを悪者にしなければ自分が成り立たないようなところがあります。しかし、そのようなとき、何よりも大切なのは、起こっているできごとを神との関係から見直すことではないでしょうか。

その上で著者は、「私たちはそむいて逆らいました……」(3:42) と告白します。しかし、よく考えると、罪を犯したのは、彼ではなく、彼の父祖であり、また彼の同胞です。ところが著者は、自分がその共同体の一員であるという現実を重く受け止め、その代表者であるかのように、神に祈っています。

たとえば、子供は、親に与えられた豊かさを享受し、親の遺産を受け継ぐのは当然の権利であると考えますが、それなら反対に、親が残した不の遺産に対しても責任を果たすのが当然であるとも言えましょう。

「それは私のせいではない!」という前に、自分がその共同体の中で生かされているという現実を覚え、共同体の罪の赦しを神に願うという姿勢も大切でしょう。

なお、「あなたは私たちを赦してくださいませんでした……御怒りを身にまとい、私たちを追い、容赦なく殺されました……」(3:42、43) という訴えは、神を非難するというより、わざわいの意味を神の視点から冷静に認めようとする姿勢です。これが神の御怒りによるのであれば、それが「なだめられる」ようにあわれみを乞うしかないからです。

そして、著者は、エルサレムを滅ぼした敵の傲慢さを訴えるとともに、「私の民の娘の破滅のために、私の目から涙が川のように流れ、私の目は絶えず涙を流して、やむことなく、主 (ヤハウェ) が天から見おろして、顧みてくださるときまで続く」(3:48-50) と、涙を流しながら主のあわれみの御手を差し伸べてくださるのを待ち望んでいます。

彼は、「もう絶望だ」(3:54) と言いますが、そのとたん不思議な展開が起こり、「主 (ヤハウェ) よ。私は深い穴から御名を呼びました。あなたは私の声を聞かれました……私のたましいの訴えを弁護して、私のいのちを贖ってくださいました」(3:55-58) という感謝へと導かれます。

私たちも、「もう終わりだ……」と思ったとたん、「まだ、私は生きている!」と感動したことがないでしょうか。私たちが自分の悲しみ、まわりの人々の悲しみに涙を流すことは大切ですが、それで終わらずに、「今、なお、生かされている」ということ自体を、神の救いのみわざと感謝を持って受け止める必要もあります。わざわいをもたらす神は、同時に、道のない所に道を開くことができる方でもあります。人は、生きている限り、希望があります。

最後に、「主 (ヤハウェ) よ。あなたは……ご覧になりました。どうか、私の訴えを正しくさばいてください……あなたは聞かれました……私は彼らのからかいの歌になっています」(3:59-63) と、自分たちが虐げられ、嘲られていることを切々と訴えながら、同時に、そのようなわざわいを直接的にもたらした敵の傲慢を砕くように訴えます。

その際、「横着な心を彼らに与え、彼らにのろいを下してください」(3:65) と言います。「横着な心」とは、「覆いをかぶされた心」とも訳すことができることばです。彼らの心が繊細で柔らかいなら、彼らはすぐに神に悔い改めます。するとあわれみ深い神は、彼らを赦してしまいます。それでは期待していた神の復讐が実現しません。それで彼は被害者の正直な気持ちとして、「彼らが傲慢のままいて、神にさばかれる」ということを願ったのです。

この著者は同胞の痛みや敵のからかいに深く傷つく「繊細な心」をもって主に祈っていますが、それこそ神の賜物といえましょう。あなたは「横着な心」と繊細な心のどちらを望んでいるでしょうか。

2.私たちは……見張った。救いをもたらさない国の来るのを……」

4章は再び各節の頭文字がヘブル語のアルファベットの順番にならべられた詩になっています。「ああ、金は曇り……」(4:1) とはエルサレム神殿が滅ぼされた様子だと思われます。「ジャッカルさえも……乳を飲ませるのに、私の民の娘は、荒野のだちょうのように無慈悲になった……」(4:3) とは、母親が自分の空腹を満たすのに精一杯になり、野の獣よりも無慈悲になっている様子が訴えられています。それはまた、「私の民の娘の咎は、ソドムの罪より大きい」(4:6) とも評されます。何と、神の民イスラエルが、堕落と退廃の代名詞の町よりも罪深いというのです。

また、「そのナジル人は雪よりもきよく……その姿はサファイヤのようであった。しかし、彼らの顔は、すすよりも黒くなり……かわいて枯れ木のようになった」(4:7、8) とは、神に自分の身を聖別した人が、どれほど惨めな状態に落とされたかを表現しています。神殿が廃墟とされたとき、神殿を頼りに生きている人はすべてを失いました。

そして、「剣で殺される者は、飢え死にする者よりもしあわせであった」(4:9) とは、バビロンに包囲されたエルサレムの飢餓の激しさを描いています。そして、2章20節に続いて、「あわれみ深い女たちさえ、自分の手で自分の子供を煮て、自分たちの食物とした」(4:10) いう悲劇が再び描かれます。これは、レビ記26:29、申命記28:53、エレミヤ19:9などで繰り返し警告されていた悲劇です。しかし、彼らはその警告を真剣に受け止めませんでした。

そして、「主 (ヤハウェ) は憤りを尽くして燃える怒りを注ぎ出し、シオンに火をつけられたので、火はその礎までも焼き尽くした」(4:11) と、主ご自身が主の宮を廃墟とされたと描かれます。

そして、その理由が、「これはその預言者たちの罪、祭司たちの咎のためである……」(4:13) と描かれます。彼らは神殿を自分の生活の手段に貶めました。そこでは、神のみことばの名目で、人をさばき、自分の身を守ることが正当化されました。しかし、神のことばが正しく語られない神殿などは存在意味がないばかりか害にしかなりません。それで神はこの空虚とされたご自身の宮をご自身で滅ぼされたのです。

使徒パウロも若い牧師のテモテに向かって、「敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じる」(6:5) と警告しています。みことばを取り次いで糧を得ている教師は、特に自分を厳しく律する必要があります。聖職者と見られた人が、「あっちへ行け。汚れた者」(4:15) と軽蔑されることにならないために。

「私たちの目は、衰え果てた。助けを求めたが、むなしかった。私たちは……見張った。救いをもたらさない国の来るのを……」(4:17) とは、エルサレムの人々が、南の国エジプトに頼って、北のバビロン軍に立ち向かおうとした愚かさが描かれています。

しかし、「私たちを追う者は、大空の鷲よりも早く、山々の上まで追い迫り……主 (ヤハウェ) に油注がれた者までも、彼らの落とし穴で捕らえられた」(4:19、20) と、主に油注がれた王の惨めな最後が描かれます。

最後の王ゼデキヤは、預言者エレミヤのことばを何度も聞きました。彼がそれに聞き従っていたら、多くのユダヤ人たちはこのような悲惨に会わずに生き延びることができたはずでした。神の民の指導者の頑迷さと堕落ほど神の民にとって有害なものはありません。そして、ゼデキヤは、息子の死を見た直後に、その目をえぐりとられます。それは、主ご自身が、「主 (ヤハウェ) に油注がれた者」であるイスラエルの最後の王にくだしたさばきでした。

預言者イザヤは、「神である主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』しかし、あなたがたはそれを望まなかった。あなたがたは言った。『いや、私たちは馬に乗って逃げよう』それなら、あなたがたは逃げてみよ……」(イザヤ30:15) と言っています。

ここで「立ち返る」とは「悔い改める」こと、「信頼する」とは「待ち望む」とも訳されることばです。つまり、目の前の危険は、神に立ち返ること、神を待ち望むことを迫る神からの招きなのです。それを無視して逃げることを考えても、わざわいをもたらす根本原因が神であるならば、誰も逃げおおせることはできません。

4章の最後に、ユダ王国の滅亡を、その隣国エドムが何よりも喜ぶ様子が描かれます。しかし、それと同時に、「シオンの娘。あなたの刑罰は果たされた。主はもう、あなたをとらえ移さない」(4:22) と、エルサレムに対する主のさばきが終えられることが預言される一方で、その滅亡を喜んだエドムへのさばきが宣告されます。エドムとイスラエルは兄弟でしたが、互いにその子孫の世代までも争い続けました。しかし、兄弟の悲劇を喜んだ「エドムの娘」は、「主はその咎を罰する。主はあなたの不義をあばく」と、神のさばきが公平にくだされることが語られます。

3.「主 (ヤハウェ) よ。あなたのみもとに帰らせてください……私たちの日を昔のように新しくしてください」

「主 (ヤハウェ) よ。私たちに起こったことを思い出してください……私たちの相続地は他国人の手に渡り……私たちはくびきを負って、追い立てられ、疲れ果てても、休むことができません」(5:1-5) とは、このバビロン捕囚以後のイスラエルの民の嘆きを要約するような表現です。「私たちの先祖は罪を犯しました……彼らの咎を私たちが背負いました……」(5:7) とは、それ以降のすべてのユダヤ人たちの告白になっています。

「女たちはシオンで……はずかしめられました。首長たちは彼らの手でつるされ……幼い者たちはたきぎを背負ってよろめき……私たちの心から喜びは消え、踊りは喪に変わり、私たちの頭から冠も落ちました」(5:11-16) とは、自分たちの国を失うことの悲劇をあらわしています。ユダヤ人はこの苦しみを味わい続け、今も、約束の地を完全に支配することに憧れています。

「ああ、私たちにわざわいあれ。私たちが罪を犯したからです。私たちの心が病んでいるのはこのためです。私たちの目が暗くなったのもこのためです」(5:16、17) とは、神のさばきを真正面から受けようとする姿勢です。バビロン捕囚のときのユダヤ人はこの姿勢によって、旧約聖書をまとめることができました。それがイエス・キリストの出現への備えとなりました。

そして、イエスは十字架にかけられるとき、「没薬を混ぜたぶどう酒」が差し出されてもそれをお飲みにならずに、痛みを真正面から受けられました。それによって私たちの罪があがなわれたのです。

「シオンの山は荒れ果て、狐がそこを歩き回っているからです」(5:18) という嘆きは、エルサレム神殿の復興への待望へと結びつきます。イエスの時代の壮麗な神殿はヘロデ大王が完成したものでしたが、その栄光は見せかけばかりでした。イエスは、自己保身に汲々としているヘロデの息子、国主ヘロデ・アンテパスを、「あの狐」(ルカ13:32) とさえ呼びましたが、主の目には当時の壮麗な神殿の立つ「シオンの山」はなお「狐の歩き回る所」と見えたかのようです。そして、「この神殿をこわしてみなさい。わたしは三日でそれを建てよう」(ヨハネ2:19) と言われました。それはご自身の十字架と復活で、人々に永遠の罪の赦しを与える真の神殿を完成するという意味でした。

「しかし、主 (ヤハウェ) よ。あなたはとこしえに御座に着き……」とは、神がこのバビロン捕囚の悲劇をもご自身の御手の中に治めておられ、「それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり……将来と希望を与えるためのもの」(エレミヤ29:11) と呼んでおられるからです。それにしても、ユダヤ人たちは、その苦しみの中で、「なぜ、いつまでも、私たちを忘れておられるのですか。私たちを長い間、捨てられるのですか。主 (ヤハウェ) よ。あなたのみもとに帰らせてください……私たちの日を昔のように新しくしてください」(5:20、21) と訴え続けていました。

それは当時のユダヤ人にとっては、ダビデ王国の栄光がこの地に再び実現することを意味しました。そして、救い主は、それに応える方としてダビデの町のベツレヘムにお生まれになったのです。そしてイエスは新しい意味でのダビデ王国、真の「神の国」を建ててくださいました。それは今も成長を続け、神の平和という完成のときへと向かっています。

私たちの救い主は、二千年前、当時のユダヤ人をバビロン捕囚から救い出すために来てくださいました。目に見えるバビロン帝国はなくなっても新たなバビロン、ローマ帝国が来たからです。そして、今も、世界中の人々が、富と権力の国、「大バビロン」(黙示18:2) の圧政下で苦しんでいます。その人の持つ富と権力によって人間の価値が測られるような社会で、人は休みのない競争に駆り立てられています。自分のペースでゆっくりと仕事をしようと願っても、かなえられません。インターネットの普及で社会が驚くほど便利になったはずなのに、かえって余裕がなくなっているかのようです。まるで互いが互いの首を絞めあっているようなのが現代社会ではないでしょうか。

イエス・キリストはそんな私たちをこの大バビロンの捕囚状態から救い出すために来てくださったのです。それは、私たちをこのままで、目に見える現実を超えた永遠の神のご支配の中に招き入れるためです。そのことをパウロは、「私たちの国籍は天にあります」(ピリピ3:20) と言い、ヘブル書の著者は、「私たちはこの地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです」(13:14) と言い、またペテロは、「私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいるのです」(Ⅱペテロ3:13) と言いました。

私たちは物質的な意味では、哀歌の著者が憧れたような平和と繁栄をすでに手にしています。ダビデやソロモンがいたら目を丸くして驚くような豊かさの中に住んでいます。ですから、約束の地の回復こそが神の民の祝福の鍵だという幻想はそれだけでも明らかになります。哀歌の最後は、「それとも、あなたはほんとうに私たちを退けられるのですか。きわみまで私たちを怒られるのですか」(5:22)となっています。どれだけ物質的な豊かさを体験していても、神から退けられ、怒られていると感じるような中では、何の平安も生まれません。

哀歌の中心にあるみことばは、「主 (ヤハウェ) こそ、私の受ける分です」(3:24) という告白です。イエスは私たちを「神の子」とするために人となり、十字架にかかり、三日目によみがえられました。

「主よ、人の望みの喜びよ」の原歌詞は、「イエスを持つ私は何と幸いなことでしょう……」という歌詞から始まっています。それにまさる幸いはありません。

またマルティン・ルターが貧しさの中で子供たちへのクリスマスプレゼントとして作った賛美歌、「天より来たりて」(拙著P348) の歌詞には、飼い葉おけのなかにあふれる主の栄光のことが歌われ、私たちの心がイエスをおいれする飼い葉おけになるという不思議が歌われています。私たちは自分の心の闇を恐れる必要はありません。神の御子の御霊が私たちのからだをご自身の住まいとしてくださったからです。そこには、世界の痛みを見て涙を流す繊細な心と、まわりの状況に関わりなく喜ぶことのできる心とが同時に存在しています。この世はいつも私たちを新たな欲望へと駆り立てます。しかし、神ご自身を自分の財産とした者は、今、ここで平安を得られるのです。