2007年3月25日
詩篇69篇
指揮者のため、ユリの調べに合わせ、ダビデによる
救ってください!神よ。 (1)
水が喉元にまで迫っています。
私は深い泥沼に沈み、足がかりもありません。 (2)
大水の底に沈み、奔流に押し流されています。
叫ぶことに疲れ果て、喉は涸(か)れ、 (3)
この目は、私の神を待ちわび、衰え果てました。
ゆえなく私を憎む者は髪の毛よりも多く、 (4)
あざむいて滅ぼそうとする敵は強いのです。
それで私は、盗まなかった物さえも、
返さなければならないのでしょうか。
神よ。あなたは、私の愚かさをご存じで、 (5)
過ちの数々も隠されようもありません。
あなたを待ち望む人々が、私のことで恥を見ませんように。 (6)
万軍の主 (ヤハウェ)、主(主人)よ。
あなたを慕い求める人々が、私のことで卑しめられませんように。
イスラエルの神よ。
あなたのために 私がそしりを負い、 (7)
この顔は侮辱に覆われていますから。
私の兄弟からは、のけ者にされ、 (8)
同じ母の子らにさえ、私はよそ者です。
あなたの家に対する情熱が、私を食い尽くし、 (9)
あなたをそしる者たちのそしりが、私に降りかかりました。
断食をしてたましいが泣き悲しむと、そのことでそしりを受け、 (10)
荒布を衣とすると、それがまた、物笑いの種となりました。 (11)
町の有力な人々は、私のうわさをし、 (12)
私は酔いどれの歌にされました。
私、私の祈りはあなたに!主 (ヤハウェ) よ。みこころの時に、 (13)
神よ。豊かな真実の愛と御救いのまことによって、答えてください。
私を泥沼から救い出し、沈まないようにしてください。 (14)
私を憎む者から、大水の底から、助け出してください。
奔流に押し流されず、深みに呑み込まれないようにして、 (15)
私の上で、穴の口が閉じられないようにしてください。
答えてください!主 (ヤハウェ) よ。真実の愛のいつくしみのゆえに。 (16)
豊かなあわれみによって、御顔を私に向けてください。
あなたのしもべから御顔を隠さないでください。 (17)
私は苦しんでいます。早く答えてください。
私のたましいに近づいて、あがない、 (18)
敵の手から、私を買い戻してください。
あなたは、私が受けている そしり、恥、侮辱をご存じです。 (19)
私に敵対する者はみな、御前にいるのですから。
そしりが 心を打ち砕き、 (20)
私はひどく傷ついています。
理解してくれる人を待ち望んでも、誰もなく、
慰めてくれる人も、見いだせませんでした。
彼らは食物の代わりに苦味をよこし、 (21)
渇いたときには酢を飲ませたのです。
彼らの前の食卓はわなとなり、平和が落し穴となりますように。 (22)
彼らの目が暗くされ見えなくなり、腰がいつもよろけますように。 (23)
あなたの憤りを彼らに注ぎ、燃える怒りで圧倒してください。 (24)
その陣営は荒れ果て、宿営には住む者もなくなりますように。 (25)
それは、あなたご自身が打たれた人を、彼らはなおも迫害し、 (26)
あなたが刺し通された人の痛みを語りぐさにするからです。
彼らの咎に咎を加え、あなたの義の中に入れることなく、 (27)
いのちの書から消し去り、正しい者と並べ記さないでください。 (28)
私は、卑しめられ、痛んでいます。 (29)
神よ。御救いが私を高く上げてくださいますように。
神の御名を、歌をもって私はたたえ、 (30)
感謝をもってあがめます。
それこそ、雄牛にまさって、主 (ヤハウェ) に喜ばれましょう。 (31)
角と割れたひずめを持つ若い雄牛にまさって。
悩んでいる人々は、これを見て、喜びます。 (32)
神を尋ね求める人々よ。あなたがたの心は生き返ります。
主 (ヤハウェ) は、貧しい人々に耳を傾け、 (33)
その捕われ人らをさげすまれないのだから。
天と地は、主(彼)をほめたたえよ。 (34)
海とその中に動くすべてのものも。
確かに神は、シオンを救い、ユダの町々を建てられる。 (35)
彼らはそこに住み、その地を治める。
主(彼)のしもべの子孫はその地を受け継ぎ、 (36)
御名を愛する人々はそこに住み着こう。
交読のための詩篇 翻訳責任 高橋秀典
注:
タイトルの「ゆり」と訳されることばは調べの名称だと思われるが、意味は不明、詩篇45、60、80にも同じ名が出てくる。
12節の「町の有力な人々」とは原文で「町の門に座る人々」となっているが、それはさばきつかさたちが座る場所。
13節は、転換を表わす最も短い接続詞 (ワウ) の後、「私」という代名詞が敢えて強調され、その後、「私の祈り」「あなたに」と続き、「ヤハウェ」という主の御名が出てくる。
また、同節の「真実の愛」はヘブル語のヘセッド(契約の愛)、「まこと」はヘブル語の「エメット」で、「アーメン」(それはほんとうです)と同じ由来の言葉。
20節の「ひどく傷ついています」ということばは、聖書中、ここにしかないことばで、「ひどく病む」、「絶望する」「無力になる」「気力を失う」などとも訳されることがある。
31節の「角と割れたひずめを持つ若い雄牛」とは、最上のいけにえを表現するためのことば。
多くの日本人は、罪責感に悩むよりも、「恥をかく」ことを恐れます。未信者の家庭に生まれた私もそうでしたが、一方で、人の目を意識する自分が本当に厭で、「恥じる自分を恥じて」もいました。しかし、この詩篇に出会ったとき、「ここに僕の気持ちが書いてある!」と驚き、何とも言えず、ほっとしました。しかも、ここに記されているのはイエスのお気持ちでもあると分かったとき、不思議に、傷つき悩むこのままの自分が神に受け入れられていると感じられました。そして、マイナスの感情を受け入れるにつれ、日々の小さな出来事に対する感動が増し加わって来たような気がします。私は、今、生きていることが喜びです。その転換の鍵こそ、この詩篇にありました。
イエスは生涯を通してこれを味わっておられました。パウロもこれを引用しつつイエスの御苦しみの意味を説明し、またこれはダビデの預言であるとも語っています。多くの学者はこの詩篇の内容はバビロン捕囚以後の時代を反映していると主張しますが、私たちはパウロの証言の方を信じ、これがダビデによって記され、またイエスご自身がここに記されている不当な苦しみを敢えて積極的に引き受けようとされたと理解すべきでしょう。ただし、ダビデがどのような状況下でこれを記したかは不明ですが、何度も自分の同胞から見捨てられた悲しみが表現されていることは間違いありません。彼は、息子アブシャロムの反乱の際には、信頼していた顧問アヒトフェルに裏切られ、都落ちの際はベニヤミン人のシムイからのろいのことばを浴びせられ、アブシャロムの死を泣き悲しんでいるときには将軍ヨアブから、「あなたは……あなたの家来たち全部に、きょう、恥をかかせました」(Ⅱサムエル19:5) となじられました。彼は、誰にも理解してもらえない、やり場のない怒りと悲しみを、神に向かって注ぎだしているのです。
1.泥沼に沈んだような気持ちの時の切迫した祈り
1-4節でダビデは自分の絶望的な状況を詩的に表現します。人の相談にのりながらのこの箇所をお読みすると、「それこそ私が表現したかった気持ちです!」と急に心を開いてくださるということが何度もありました。それは、イエスが一緒に「深い泥沼に沈んで」(2節) くださる方であることを覚え、闇の中に光を見ることができるからです。しかも、「叫ぶことに疲れ果て、喉は涸れ、この目は、私の神を待ちわび、衰え果てました」(3節) という祈りを聞くとき、「私の祈りは全然かなえられない……」という焦る気持ちから、「これは私だけではなく、すべての信仰者が一時的に通らされる現実なのだ……」と落ち着くことができます。そして、「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に合わせることはなさいません」(Ⅰコリント10:13) という慰めを感じることができるでしょう。しかも、イエスご自身が、当時の宗教指導者のから憎まれていることの意味を、「ゆえなく私を憎む者」(4節) というみことばの成就だと引用されました (ヨハネ15:25)。そして、「私は、盗まなかった物さえも、返さなければならないのでしょうか?」とは、自分の責任ではないことの責任を取らされる不条理を嘆いたものです。みな人生のどこかでこの気持ちを味わったことがあるのではないでしょうか。しかし、そこで私たちは、「キリストの苦しみにあずかる」(Ⅰペテロ4:13) という誇りを抱くことができます。
5、6節でダビデは、自分が自業自得の苦しみにあっていることを認めながらも、神が自分の苦しみを放置し続けることは、「万軍の主 (ヤハウェ) 、主(主人)、イスラエルの神」というご自身の御名を汚し、また神に従おうとするすべての人にとってのつまずきになると訴えています。人が神を知るきっかけは、目に見える信仰者を通してです。ですから、私たちも、「私をこの悲惨から救い出すことは、あなたの栄光のためです」と大胆に祈ることができます。
「あなたのために私がそしりを負い……」(7節) 以降の記述は、私たちが神への信仰のゆえに誤解されあざけりを受ける現実が記されていますが、それは何よりも私たちの救い主イエスが受けた苦しみそのものでした。たとえば、「あなたの家に対する情熱が、私を食い尽くし」(9節) とは、イエスが神の神殿から商売人を追い出されることに関して述べていると弟子たちは理解しました (ヨハネ2:17)。そしてパウロは、「キリストでさえご自身を喜ばせることはなさらなかった」(ローマ15:3) と言いつつ、イエスご自身がこの9節2行目の、「あなたをそしる者たちのそしりが、私に降りかかりました」というみことばをご自身に当てはめていたと解説しています。つまり、イエスが受けた「そしり」は父なる神への「そしり」であるというのです。イエスは十字架上で、「今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから」(15:32) とあざけられましたが、それは人々が自分の期待通りに動いてくださる神だけを信じようとすることの現われです。今も、世の人々は、「私の理想を実現し、私の必要を満たしてくださる神」だけを求め、神が創造主、絶対者であり、私たちにどんな命令をくだすこともできるかたであるということを忘れています。人々は、神にもあなたにも、身勝手な要求を押し付けてきます。それをわきまえて私たちは生きるべきでしょう。
しかも、その際、私たちは、人の誤解を解こうなどと頑張る前に、「私、私の祈りはあなたに!主 (ヤハウェ) よ……答えてください」(13節) と祈ることが大切です。残念ながら、人々から不当な「そしり」や「侮辱」を受け、村八分にされながら、「神のみこころは私たちが苦しみに耐えること……」と思い込み、神に向かって大胆に叫ぶことができない人がいます。それでは、「運命だと思って諦めよう!」という世の人々と同じ発想ではないでしょうか。神は絶対者であられますが、意地悪な方ではありません。私たちが、1-3節に描かれ、また14、15節で繰り返されている切羽詰った状況をから「救い出し……助け出してください」と必死に願うことを喜んでくださいます。興味深いのは、13節での「みこころのときに……答えてください」という控えめな祈りは、16節では「答えてください!主 (ヤハウェ) よ」という叫びになり、17節では、「早く答えてください」という性急な訴えになっている点です。また16節では、神の「真実の愛・・・豊かなあわれみ」とあるように、神が私たちにいつも目を留めておられると告白されていながら、17節では、「あなたのしもべから御顔を隠さないでください」と、神がよそ見をしておられるかのような訴えがされています。これは、私たちの感覚からすると、極めて、お行儀の悪い、無礼な願い方かも知れません。確かにこの世で人にものを頼むときには、一定の手順があり、相手の意向に反する願い方をすれば聞いてもらうことはできません。しかし、神は、幼い子供が親に願うときのような率直さや正直さを何よりも喜んでくださいます。人間の心は不思議です。忍耐できない気持ちを表現できて初めて、「必要なのは忍耐です」(ヘブル10:36) と納得できるようになるからです。
2.イエスに知られている「そしり」と「恥」と「侮辱」を受ける苦しみ
私たちの喜びは、多くの場合、誰かと心が通じ合う中に感じられ、反対に、悲しみは、理解して欲しいと思っていた人から誤解され、いわれのない非難を受けたときに生まれるのではないでしょうか。人の基本的な悩み、痛みは交わりの中から生まれますが、そのことが19節で、三つのことばで言い表されます。それはこの詩全体で繰り返されていることばであり、また詩的に婉曲的に表現されている概念の本質です。その意味は基本において重なっていますが、敢えて説明すると次のように定義することができます。第一の、「そしり」(ハラプ) とは、人格を傷つけるような中傷、あざけりで、「尊敬」の反対語です。第二の、「恥」(ボーシュ) とは、面目を失う、期待が裏切られる、立場がなくなること等の痛みを意味します。第三の、「侮辱」(カラム) とは、いやしめられ、プライドが傷つくこと、恥ずかしい思いをすることを意味します。日本語の「はぢ」にはこれらすべてを含めるような意味があると思われ、「はぢ」はしばしば、「恨み」に転じます。不思議に、そのような心の動きは22-28節にも見られます。そして、この「はぢ」の痛みは、創世記によると、アダムが自分を神のようにして、神から離れてしまった結果として生まれた痛みです。私は昔、「キリスト教は恥ではなく、罪を問題にする」という説明に違和感を覚えたことがあります。それは多くの日本人にとって、罪責感よりも恥の方が根源的な痛みだからです。しかし、創世記ではまさに恥をより根源的な痛みと描いています。つまり、福音は、罪からばかりでなく、恥からも語ることができるのです。
19節では「あなたは」ということばを強調しつつ「ご存知です」と断定し、また、「私に敵対する者」は、「みな御前にいるのですから」と言いながら、なお、自分の痛みを赤裸々に表現します。ダビデは、「すべて主に知られているから訴える必要がない……」ではなく、「だからこそ遠慮なく言える」と思いました。私たちは人のことばに傷ついた時、自分の傷つきやすさを責めることがありますが、ダビデは、「そしりが心を打ち砕き、私はひどく傷ついています」(20節) と、生きる気力を失ったほどの痛みを率直に表現します。ダビデはライオンと戦うほどに勇敢な人ですが、同時に驚くほど繊細で感受性が豊かな人でした。自分の感性を恥じる必要はありません。しかも、彼は、「理解してくれる人」、つまり「一緒に泣いてくれる」ような人を求めますが「誰もなく」、また、「慰めてくれる人」、つまり母親が泣く子を抱くように (イザヤ66:12ー14) 寄り添ってくれる人を「見出せなかった」という孤独を味わったと訴えています。「人の同情などを求めてはならない!」と自分に言い聞かせながら空回りするのではなく、正直に祈っています。
そればかりか、悲しんだことで、傷口に塩を塗るような批判を受けてしまった痛みが、「彼らは食物の代わりに、苦味(または毒)を与え」「渇いたときには酢を飲ませた」(21節) と表現されています。アブシャロムの死を泣き悲しむダビデに投げかけられたヨアブのことばはそのように彼の心に響いたのではないでしょうか。多くの牧師たちは、社会や教会のルールを守ることができないような人にも真剣に寄り添い、彼らが神を見上げることができるようにと労苦していますが、その対応が「甘すぎる……」、「教会の聖さを傷つける」と非難の対象になることがあります。しかも、事情を説明することも許されません。私も牧師になって間もなくの頃、そのような孤独感に圧倒されたことがありました。そして、そんなとき、20、21節に自分の気持ちが記されているのに深い慰めを見いだすことができました。
それは、何よりも、イエスご自身が十字架で味わった痛みであることが分ったからです。福音記者ヨハネは、イエスが十字架上で「わたしは渇く」とおっしゃって、「酸いぶどう酒を受けられた」のは、この詩篇のことばが成就するためであったと解説しています (ヨハネ19:28ー30)。イエスはそのとき、「水」ばかりか「愛」に渇いておられたのです。
イエスの十字架は、絶対的な孤独のシンボルです。イエスは私たちに先立ってその苦しみを通りぬけられました。だからこそ、私たちの心が深く傷つき、孤独を味わっているとき、イエスは私たちを慰めることができるのです。
イエスは、私たちの心の痛みを軽蔑することなく、まず、一緒に泣いてくださる方であることを覚えたいものです。
3.神のさばきと救いを祈ることができる者が味わう自由
22ー28節を読むと一瞬、「こんなことを祈ってよいのだろうか?」という気持ちになります。しかし、「彼らの前の食卓はわなとなり、平和が落し穴となりますように。彼らの目が暗くされ見えなくなり、腰がいつもよろけますように」(22、23節) は、ダビデがイスラエルに対する神のさばきは預言したものだと解説しています (ローマ11:9、10)。また「その陣営は荒れ果て、宿営には住む者もなくなる」(25節) とは、イエスご自身がエルサレムへのさばきの預言としてとして理解しておられました (マタイ23:38、ルカ13:35)。またイエス昇天後はペテロが、イスカリオテのユダに対する神のさばきを、「実は詩篇には、こう書いてあるのです」(使徒1:20) と言いつつ、この同じ箇所を引用しました。そればかりか、28節では「いのちの書」という言葉が聖書中初めて出ますが、これは黙示録の鍵の言葉で、神の御前に悔い改めた者に関して、再臨のイエスが、「わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない」(3:5) と約束する際に用いられており、福音の核心を表現する言葉となっています。つまり、私たちが飛ばして読みたくなるような箇所を、イエスもパウロもヨハネも他の弟子たちも深く思い巡らしていたという現実があるのです。
「あなたの憤り……燃える怒り」(24節) とあるように、神は罪に対して怒られる方です。そして、神のかたちに造られた私たちも、怒りの感情を持つ者として造られています。私たちの真の問題は、怒ってしまうことではなく、怒るべきことに怒らず、怒らなくてもよいことに怒ってしまうことではないでしょうか?確かにイエスは、十字架上で、この詩篇を祈る代わりに、「父よ。彼らをお赦しください」と祈られました (ルカ23:34)。しかし、それは、自分を十字架につけた者たちが、父なる神からどれだけ厳しいさばきを受けるかを知っておられたからだということを忘れてはなりません。イエスはそのために25節を引用され、また、この祈りの前に、「彼らが生木 (イエス) にこのようなことをするなら、枯れ木(宗教指導者)には、いったい何が起こるでしょう。」と語っておられるのですから (ルカ23:27ー34)。
私たちが他の人から深く傷つけられ、怒りが押さえられないとき、自分に向かって「怒ってはならない!」と言い聞かせるよりは、まずこの詩篇に従って祈ってみるとよいのかもしれません。それは、いじめにあった子供が「お父ちゃん……」と泣き叫ぶような気持ちを訴えるものです。そのとき、私たちは、神の目がふし穴ではなく、聖徒たちのためにすみやかに復讐をしてくださる方であることを知ることができます (黙示6:10)。そして、私たちは、神の復讐の恐ろしさを理解したとき初めて、真実に、「父よ。彼らをお赦しください。」と祈ることができるようになるのではないでしょうか。祈りの基本は、私たちの心の底にある気持ちを神に聞いていただくことにあります。しかも、さばきを下すかどうかは、神がお決めになることなのですから、何でも自由に打ち明けたら良いのではないでしょうか。
「私は卑しめられ、痛んでいます」(29節) という告白は、それまでのすべてを総括することばですが、その後、この詩篇の調子は、感謝と喜びに大きく転換します。それは、「心を神の御前に注ぎ出」(詩篇62:8) した結果です。しかも、キリスト者は、痛みの中で、イエスが「私たちの病を負い、私たちの痛みをになって」(イザヤ53:4) 十字架にかかられたこと、そして三日目に、「御救いが私を高く上げてくださいますように」という祈りの結果として、死人の中からよみがえられたことを知ることができます。それは私たちのどんな苦しみにも出口があることの保証です。
30、31節では、「神の御名」を、賛美することこそが、どのような高価な犠牲にもまさって神に喜ばれると表現されます。御名とは神の「真実の愛」、「まこと」、「あわれみ」などのご性質を表わすものです。つまり、ここでは17節とは反対に、神がご自身の「しもべから御顔を隠す」ということが決してない方であることが歌われているのです。
32節は、祈りとして訳すこともできますが、「悩んでいる者たちは、これを見て、喜びます。神を尋ね求める人々よ。あなたがたの心は生き返ります」という断定形に訳す方が、前節、また33節の「主 (ヤハウェ) は……貧しい人々に耳を傾けられるのだから」という説明と整合性があると思われます。ここで語られているのは、「喜べ」「生かせ」という励ましよりは、私たちにとっては、キリストの復活が、「悩む者たちを……喜ばせ……生き返らせる (revive)」という約束ではないでしょうか。私たちの心が萎えて、生きる気力を失ってしまうようなとき、自分で自分を励まそうとするのではなく、主に自分の気持ちを奥底から訴えることで、主ご自身が私たちのこころを生き返らせてくださるのです。それこそ、まさにイエスが私たちにお送りくださった聖霊のみわざです。「何でこんなことで自分は悩んでいるのだろう……」と悩む自分を責めたり、また、悩んでいる人に、「あなたは何でそんなことぐらいでくよくよ悩むの?」などと蔑むような言い方をしてはなりません。イエスは決してそのように私たちを見ることはなさらないからです。しかも、イエスは私たちを落ち込んだままにはしておかれず、私たちに再び生きる活力を与えてくださいます。
イエスは父なる神に従った結果として、「そしりと恥と侮辱」に襲われているということを訴えるように、「私は卑しめられ、痛んでいます」と言われました。私たちは、「平安 (シャローム) がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている」(エレミヤ8:11) ということがあるかもしれません。しかし、その「平和 (シャローム) が落とし穴」(22節) となることがあります。ですから、自分の心の痛みを偽ることなく、それと正直に向き合いを、詩篇の祈りを通して、主に取り扱っていただく必要があるのではないでしょうか。イエスご自身が、苦しみの中でこの詩篇を祈って、高く上げられたのですから。