詩篇16篇「私はいつも、目の前に主 (ヤハウェ) を置いた」

2007年1月1日

詩篇16篇
ダビデのミクタム

守ってください。神よ。 (1)

あなたに私は身を避ける。

主 (ヤハウェ) に私は申し上げた。 (2)

「あなたこそ私の主 (アドナイ)。あなたに反して、私の幸いはない。」

地に住む聖徒、栄光ある者たちは、

すべて私に好ましい。 (3)

しかし、他の神々を追い求める者たちの痛みは増し加わる。 (4)

私は、彼らが注ぐ血の供え物を注がず、その名を口にもしない。

主 (ヤハウェ) こそ、私の割り当ての地、また私の杯。 (5)

あなたは、私の運命を 握っておられる。

はかり縄は私の喜びの地に落ち、

受け継ぐ地は美しい。 (6)

導いてくださった主 (ヤハウェ) を ほめたたえよう。 (7)

夜になっても、内なる思いが私をさとしてくれる。

私はいつも、目の前に主 (ヤハウェ) を置いた。 (8)

主が右におられ、私は揺るがされないから。

それゆえ、この心は楽しみ、私のいのちが喜び、 (9)

この身体も安らかに落ち着いている。

それはあなたが私のたましいをよみに捨て置かず、 (10)

あなたに忠実な者には墓の穴さえも見させないから。

あなたは私に、いのちの道筋を知らせてくださる。 (11)

御前には楽しみが満ち、その右には歓喜が絶えない。

翻訳:高橋秀典

注:
ミクタムとは意味不明のことばで、刻まれた歌、黄金の歌、贖いの詩などという解釈がある
5節で「運命」と訳した言葉は、原文では土地を割り当てるときの「くじ」を指すことば
7節の「内なる思い」とは原文では「腎臓」と記され、そこに感情の座があると思われていた。
9節の「私のいのち」と訳した言葉は、原文では「私の栄光」となっており人の最も高貴な部分を指す。

この詩篇は今から三千年前にダビデによって記されたものですが、それから千年後のペンテコステのときにペテロがキリストの復活を語るときに用いた中心聖句です (使徒2:25-28)。また、パウロもキリストの復活を語るときにこの詩篇から解き明かしました。そして、この詩篇は現代の私たちにも信仰の基本を告白させるものです。

1.「あなたこそ私の主(主人)、あなたに反して、私の幸いはない」

この詩篇には全体として、神への信頼が力強く歌われ、希望に満ち溢れている調子が感じられますが、書き出しは、「守ってください!」という必死の叫びになっています。たぶんダビデはこれをサウル王に追われてユダの荒野をさ迷い歩き、またペリシテの地に亡命しているときに記したのではないでしょうか。彼は目の前の危険を見ないようにして自分に「私は大丈夫だ!」と言い聞かせようとしていたのではありません。私たちも自分の置かれている状況を冷静に判断するなら、日々、危険が満ち、何が起こるか予想もつきません。ですから、この単純な叫びを日々、口にすべきでしょう。そしてそれと同時に、人間的な安全策を図ろうとしたり、頼ってはならない人にたましいを売るような屈服をするのではなく、神に向かって、「あなたに私は身を避ける」とも告白すべきです。

その際ダビデは、最初、「神よ」と呼びかけた方を、「ヤハウェ」として描きます (2節)。そこには、この方こそがすべての存在の源であり、全世界を治めておられるという意味が込められています。そして彼は、「あなたこそ、私の主(アドナイ)」と告白します。これは後に「ヤハウェ」と発音することをはばかって、「主人」という意味を込めて読み変えたことばで、ここでは、「私にとっての主人は、地上のだれでもなく、あなたご自身です」という思いが込められています。そして「あなたに反して、私の幸いはない」とは、厳密には、「私の幸いは、あなたの上にはない」と記されています。それは、自分を神の上に置き、願い事ばかり並べて神を御用聞きのように扱うときに自分の幸いもありえないという意味です。人間の最初の罪は、創造主を「私の主」とする代わりに、自分を神のようにし、欲望のおもむくままに神の命令を破ったことでした。それによって、人は、エデンの園での「幸せ」を失ったのでした。ですから、ここは、「私の幸いは、あなたを私の主人とすること以外にはありえません」と意訳することもできましょう。

その上で、ダビデは、3、4節で、自分が他者とどのような関係の中に生きるかを明確にします。まず彼は、自分以外のこの地の神の民をも「聖徒」、つまり「聖なるものとされた人々」と呼び (3節)、また王侯貴族であるかのように「栄光ある者たち」と呼び、彼らとの交わりをこそ自分の喜びとすると告白します。一方で、他の神々に走った者たちが、一見、うまく生きているように見えても、「痛みは増し加わる」(4節) という自滅に向っていることを冷静に見つめます。実際、サウルは、霊媒をする女に助けを求めて自滅しました。またダビデはペリシテ人の支配地に逃れますが、彼らの偶像礼拝の習慣の影響を受けることはありませんでした。私たちもこの地では、別の神々を追い求める人々の中に住まわざるを得ませんが、偶像礼拝に加わるようなことがあってはなりません。私たちにとっての何よりも「好ましい人々」こそは、同じ神を礼拝する聖徒なのです。使徒信条に、「聖徒の交わりを信ずる」という告白があります。人間的には、「クリスチャン以外の方が尊敬できる人々が多い」という現実があるかもしれません。しかし、キリストつながっている人々は、すべてそのままで、「聖なる者」であり、「栄光ある人々」なのです。そのように他のクリスチャンを神の基準で、「霊の目」で暖かく見ることができなくて、どうして自分を「高価で尊い」者と見ることができるでしょうか。私たちは目に見える現実を越えて、「聖徒の交わりを信じる」ように召されているのです。

ヤハウェだけを「私の主」とすることこそが信仰の始まりですが、それは同時に、クリスチャンとの交わりをこの世の交わりに優先して生きることの始まりでもあります。私たちは他者との交わりの中で主を礼拝するのです。

2.「ヤハウェこそ、私の割り当ての地、また私の杯」

ダビデは続けて、「ヤハウェこそ、私の割り当ての地、また私の杯」(5節) と告白しました。イスラエルにとっての「幸い」は、約束の地での生活の中にあり、その相続地は命賭けで守るべき宝でした。しかし、土地を与えてくださる主を見上げる代わりに、地上的な駆け引きや、人間の力によって自分の権益を守り通そうと必死になる時に、そこには争いが絶えなくなります。ダビデは自分の居場所を力づくで守ろうとするのではなく、サウルや同胞の裏切り者との争いを避けて逃げ続けました。それは、主こそが全地の支配者であると信じていたからです。また同時に、ダビデは「ヤハウェこそ、私の杯」と告白しました。それは、「ヤハウェこそが私の喜び」と言いかえることができます。「主よ、人の望みの喜びよ」という賛美歌は、キリストへの愛の告白です。最愛の人とともにいられることが喜びであるのと同じように、「主がくださる何か」ではなく、主ご自身との交わりをこそ私たちは第一に求めるべきです。

「あなたは、私の運命を握っておられる」と訳した「運命」とは、原文で「くじ」と記されます。それは土地の分配を決める手段でした。日本ではおみくじで一年を占う習慣がありますが、神は明日のことを心配するよりも、明日を支配する神に信頼することを繰り返し命じます。私たちの人生における、偶然の出会いや偶然の事故または幸運ということすべての中に神の御手が働いています。私たちは自分の人生を本当の意味でコントロールすることはできませんが、私の主である方こそは、私の人生をコントロールすることがおできになるのです。イエスは、「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。」(マタイ10:29) と言われました。

そのような中で、「はかり縄は私の喜びの地に落ち、受け継ぐ地は美しい」(6節) とダビデは告白します。この「はかり縄」は「境界線の縄」(バウンダリー・ライン)とも訳されることがあります。土地の境界線は、自分の財産というよりは、私たちが守るべき責任範囲と理解すべきだからです。それは家族や仕事であったりするでしょう。富の分配という観点からすると、人生は決して平等ではありません。自分の出生の惨めさを一生恨みながら生きざるを得ない人もいます。しかし、すべてを支配する神に信頼できる人にとっては、家族も仕事も環境もすべてが「美しい」ものと変えられるのです。そして人生の喜びは、与えられた責任を果たすというプロセスの中に生まれます。

それは、ヤハウェが「導いてくださった」(7節) 結果です。「夜になっても、内なる思いが私をさとしてくれる」というときの「内なる思い」とは原文で「腎臓」を意味します。これは私たちの最も奥深い思い、感情の奥にある部分ですが、そこが「私をさとしてくれ」、この人生全体を「神の賜物」として喜ぶことを可能にしてくれるというのです。

3.「主が右におられ、私は揺るがされない」

8節から終わりまでは、ペテロがペンテコステの日のメッセージに引用した箇所です。そのことばが旧約での詩篇と若干違っているのは、聖書のギリシャ語訳からの引用が記録されているからです。ダビデは何よりも、「私は目の前にヤハウェを置いた」と告白します。これは、ギリシャ語訳では「私はいつも、自分の目の前に主を見ていた」となっています (使徒2:25)。多くの人々は、いつも誰かの顔色を伺い、他の人の期待に添うような生き方をしがちですが、私たちはいつも、すべてのことを主に向って行ない、主のご期待に添うことを考えなければなりません。

不思議にも、そのようにできる理由が、「主が右におられ、私は揺るがされないから」と記されます。つまり、主が右にいて私を支えてくださるからこそ、「目の前に主 (ヤハウェ) を置く」ことができるというのです。これは、位置関係ではなく、力関係を言い表したものです。人は、自分の支えとなる人の眼差しを意識し、その期待に添おうとするのが常ですが、目に見える助け手の背後におられる方こそが、主 (ヤハウェ) です。ですから、私たちは常に、主の前に立たせられている者として、主に対する責任を果たすという気持ちですべてのことをなすべきなのです。

そうするとき、「この心は楽しむ」(9節) ことができます。多くの人の憧れは「楽しむ」ことにありますが、「主を目の前に置く」者こそが、真に楽しむことができるというのです。また「私のいのちが喜び」は原文で、「私の栄光……」と記され、ギリシャ語訳では「私の舌」、またしばしば「たましい」とか「全存在」と意訳されます。これは自分にとっての最も尊い部分が喜ぶことを意味します。最後に、「この身体も安らかに落ち着いている」と加えられ、心、たましい、肉体のすべてが、安心し、喜んでいる様子が描かれます。「目の前に主 (ヤハウェ) を置く」とは、主の厳しいさばきを恐れるという意味ではありません。ダビデは詩篇18:19で「主が私を喜びとされたから」と告白しますが、私たちもキリストにあって大胆に同じ告白をすることができます。つまり、主がこの自分のことを楽しみ、喜んでおられるからこそ、私も目の前に主を置くことで、楽しみ、喜び、この身体をも安らかに落ち着かせることができるのです。

それがまた、「それはあなたがわたしのたましいをよみ(原文「シェオル」、ギリシャ語訳「ハデス」)に捨て置かず、あなたに忠実な者に墓の穴さえも見させないから」(10節) と説明されます。ルカは、ぜいたくに遊び暮らしていた金持ちが、死んで葬られた後、ハデスの炎の中で苦しみもだえる様子を描きました (16:19-25)。イエスが十字架上で、悔い改めた強盗に、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカ23:43) と約束されたように、イエスのたましいは「ハデス」ではなく「パラダイス」に引き上げられました。この箇所を、ペテロは、「神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです」(使徒2:24) ということの証明に、またパウロは、「神がよみがえらせた方は、朽ちることがありませんでした」(使徒13:37) ということの証明として引用しました。私たちも、イエスの御跡に従い、神に「忠実な者」として生きるときに、肉体的な死を恐れる必要はまったくありません。ただしそれは、「私は忠実です!」と言えるような生き方のことではなく、「不信仰な私をお助けください」(マルコ9:24) と、ただただイエスの真実にすがる生き方のことです。パリサイ人ではなく、自分の罪深さを認めた取税人こそが「忠実な者」と見られたということを決して忘れてはなりません。

そして、私たちが自分の足りなさを自覚するときに、「あなたは私に、いのちの道筋を教えてくださいます」(11節) と告白することができます。そして、「いのち」とは、「主の御前で楽しみ、主の右には歓喜が絶えない」と言えるような状態が永遠に続くことを意味します。それこそ私たちの人生のゴールです。私たちは、キリストにつながることによって、「主の右の座」にまで引き上げていただくことができるのです (ダニエル7:27、黙示22:5)。

ダビデが記したこの詩篇には三位一体の真理が隠されているように思えます。私の心が沈んでいるときに、私の「うちなる思い」を導き、私がイエスにすがるようにと「さとして」くださるのが聖霊です。そして、イエス・キリストが、「私の右」にいて私を支え、弁護してくださることがわかるからこそ、私は目の前に、恐れることなく「主 (ヤハウェ) を置く」ことができるのです。私たちは三位一体の神の愛に取り囲まれて、永遠の「楽しみと歓喜」の世界に向って、この地上にある束の間の悲しみや苦しみに立ち向かって行くことができるのです。「守ってください」という叫びから始まった信仰者の歩みは、楽しみと歓喜に確実に向っているということを今年も心に留めて生きたいと思います。