ルカ11章33〜52節「神よりも自分を見る信仰の愚かしさ」

2006年9月10日

私たち信仰者が陥り易い過ちは、創造主である神を愛するというより、自分の信仰の姿勢を見てしまうことではないでしょうか。それは、ある人を恋していると言いながら、その人のことを表面的にしか知らず、ただ「恋に恋している」ということと同じです。それはナルシズムであって、真の愛ではありません。

1.あなたの心の目は何を見ているのか。

イエスは弟子たちに、「あなたがたは、(既に)世界の光です」(マタイ5:14)と言われました。同じように33-36節の核心でも、「あなたのうち」に既に「光」があると保証されています(35節)。ですから「もっと輝かなければ・・」などと頑張るのではなく、イエスによって灯された光を隠さないようにすることこそが大切なのです(33節)。人によっては、「私がクリスチャンだなどと言ったら、イエス様のイメージを悪くしてしまいそう・・」などと、妙な謙遜さから信仰を隠す人がいますが、自分がどのように見られるかを心配するのではなく、「あなたの目が」、「健全」(原文:「単純」)にイエスを見上げているなら「全身も明るい」という状態になるというのです(34節)。しかし、目を「悪いもの」に向けているなら、「からだも暗く」ります。つまり、ここで問われているのは、あなたの目の向けどころなのです。また「何の暗い部分もない」(36節)とは、「罪がない」という状態ではなく、あなたの様々な問題が「光」のもとに照らし出されている状態を指します。パウロは、「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです」(Ⅱコリント4:7)と言いましたが、私たちの外側がいかに惨めな状態でも、内側に既にある「福音の光」こそが、世界を照らす光となるのです。ですから、「あなたのうちの光」が、あなたの闇を照らすことを恐れずに、輝くままにすることこそ大切です。

この話の後で、ひとりのパリサイ人がイエスを食事に招きます。そのとき彼は、イエスが当時の宗教指導者なら当然守るはずの、言い伝えどおりに手を洗うということを省かれたことに驚きます。レビ記7章21節には、汚れた物に触れたままで主への和解のいけにえの肉を食べるなら、その者は民から断ち切られると警告されていましたが、彼らはその教えを、日常の食事にどのように適用するかを研究しました。本来、レビ記の核心は、聖なる神が汚れた民の真ん中に住んでくださるという恵みを、恐れをもって受け止めさせるための具体的な教えでした。しかし、彼らは、卵一個半程度の水の量や「こぶし」(マルコ7:3原文)で手のひらをこする作法などを守ることによって、人はあらゆる汚れからきよめられるかのように教えて、本来の趣旨を忘れさせてしまったのです。彼らは神よりも人間が作った規則ばかりを見てしまいました。

イエスは、客として招かれながら、「しきたり」を敢えて破ることで、彼らの律法解釈の誤りを正そうとされました。イエスはここでアイロニーを語っています。私たちは誰でも「杯や大皿」の内側をきよめることに気を配りますが、彼らは、愚かにも器の「外側」をきよめることに夢中になっているというのです。しかし、律法には、私たちの「目」、自分自身ではなく、神の聖さに向けさせそれによって内側にある「強奪と邪悪」の思いをきよめようとの神の配慮が満ちています。しかも、イエスは、「うちのものを施しに用いなさい。そうすれば、いっさいが・・きよいものとなる」(41節)と言われました。レビ記で最も有名なのは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(19:18)ですが、神の前に聖くあることと隣人愛を実践することは不可分です。イエスは彼らをその原点に立ち返らせ、その目を隣の貧しい人に向けさせたのです。

クリスチャンらしい生き方とは、間違いを犯すことに臆病になることではありません。あなたの霊の目がイエスを見つめ、隣人を真心から愛そうとするときに、あなたは黙っていても輝くことができます。

2.みかけばかりを整えようとするパリサイ人の忌まわしさ

イエスは、「わざわいだ(忌まわしいものだ)。パリサイ人・・」と繰り返しながら、厳しく彼らの偽善を指摘されます。彼らは、収穫の十分の一を主にささげるということに関しては、本当に細かいものに至るまで几帳面に計算しているが、「公義と神への愛」という心の部分はなおざりにしているというのです(42節)。ただ、イエスは念のために「ただし、十分の一もなおざりにしてはいけません」とも付け加えます。確かに、神への愛は、形に表れてこそ真実なものになりますが、それが義務と認識され、それを果たしている自分は偉いなどと思うと本末転倒になります。よく、「十一献金は現在も適用される律法なのですか?」と問われますが、その質問自体にすでに「律法」に関しての誤解があります。それは「人から挨拶されたとき、挨拶を返すことは義務ですか?」と問うように愚かな質問かもしれません。神は私たちと愛の交わりを築こうとしておられます。献金は私たちの愛の応答の機会であり、それを通して私たちの心が神に向けられます。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある」(マタイ6:21)とイエスが言われたように、それは私たちの心がこの世の富から自由にされ、神に向けられるための教えでもあるのです。それは人間的には大変かもしれませんが、イエスを見上げつつ、思いきって実践してみるなら、人から微笑まれたとき、自然に微笑を返したくなるような自然な行為へと変えられます。あくまでも、献金は義務ではなく恵みです!

そして、パリサイ人の何よりの問題は、神への信仰を、人の尊敬を勝ち得る手段に変えてしまったことです(43節)。彼らは神を見ているのではなく、神を信じる自分の姿勢を見ており、またそれを人に見せようとしていました。しかし、しばしば言われるように、私たちの伝道とは、乞食が隣の乞食に、どこに行ったら食事にありつけるかを教えることに他ならないのです。そこで問われているのは乞食としての作法ではなく、どこに行くべきか、誰を頼るべきかということを自分自身の正直な体験を通して語ることです。

そして、イエスは、彼らを「人目につかぬ墓のようだ」と言いました(44節)。当時は遺体を土葬するのが普通でしたから、墓石の下は、腐敗で満ちていました。そうして、彼らの解釈によれば、墓に触れることは身を汚すことになるのですが、彼らはただ表面をつくろうことに長けており、自分たちの内側にある罪こそが人を汚すということにまったく気づいていません。イエスは、彼らが軽蔑した取税人や遊女やサマリヤ人などよりも、ずっと人を汚す存在であるということを強烈な皮肉を持って言い切られたのです。

私たちの心の内側も、そのように醜いもので満ちていることでしょうが、それがないかのように振舞うことと、認めることでは、天地の差があります。それを主に差し出すなら、主はご自身の方法であなたを内側からきよめてくださいます。また、「私は大丈夫!」と思っている人こそ、回りの人を振り回し、息苦しくさせますが、「私は罪人の頭です」と自覚する人の周りには、自由な心からの愛の交わりが生まれます。

3.知識の鍵を持ち去った律法の専門家

このことばを聞いて、「ある律法の専門家が」、それは自分たちを侮辱したことばだと怒ったのは当然と言えましょう(45節)。しかし、それ以上に、イエスは彼らの偽善に満ちた教えに、心を痛め、怒っておられました。彼らは、「人々に負いきれない荷物を負わせ」ました(46節)。それはたとえば、安息日に労働をしてはならないということを具体的に規定して、歩行距離はどこまでは許されるとか、何をどのように持ち運ぶことが労働になるのかを細かく教えるものでしたが、社会的弱者はそれをいちいち気にしていては生活が成り立たないようなところがありました。律法の専門家は、神の教えを実生活に適用すると称して、その根本を曲げて伝え、聖書を神からの愛の手紙の代わりに、人々をさばく規範に変えてしまったのです。たとえば、モーセ五書は「トーラー」(みおしえ)とヘブル語では呼ばれていますが、それがギリシャ語で、「ノモス」(規範、法)と呼ばれるようになったのは、当時の律法学者やパリサイ人の解釈が影響していると思われます。神はご自身の民イスラエルを恋い慕っておられ、その愛の契りとして、様々なみおしえをお与えくださいました。それは神が私たちの幸せを何よりも願っていることの証しでした。

イエスは、「おまえたちの父祖が預言者を殺した」と言いました(47節)。彼らは、自分たちは父祖のようではないと思いながら、預言者たちの記念碑を立てています。しかし、両者とも偽善者であるという点では一致します。預言者たちは、人々の見せかけの信仰を暴き、人がいかに無力であるかを訴えたことでひんしゅくを買い、殺されました。アベルのささげ物は、カインのものがみせかけであることを明らかにするきっかけになり、ザカリヤは南王国の王ヨアシュの堕落を戒めて何と、神殿の庭で殺されたのでした(Ⅱ歴代誌24:21)。そして、「この時代はその責任を問われる」(51節)とは、イエスも預言者たちと同じように、人々から憎まれ、殺されようとしていますが、それに対して神の厳しい裁きが下ることを警告しています。彼らが誇り、大切にしていたエルサレム神殿は、40年もたたないうちに彼らとともに滅ぼされるからです。

「律法の専門家たち」が「わざわい(忌まわしい)」なのは、彼らが「知識のかぎ」を持っているように見えたからです(52節)。彼らはモーセの律法を暗記し、解き明かしていましたが、それによって、神の愛に満ちた教えを捻じ曲げて伝え、「神の国」、神のご支配をこの世の法の支配のように変えました。法律は、罰則によって人々を矯正しようとするため、しばしば過ちを犯した人を自暴自棄と絶望に駆り立てることがあります。しかし、モーセの教えの中心は、神は愛するに価しない罪人を一方的に選んで悲惨から救い出し、新しく神の民と造りかえるという希望に満ちたものでした。しかし、彼らは神のあわれみに自分からすがろうとしないばかりか、神のあわれみにすがろうとする人を妨げています。人を救うための教えを、人を殺すための教えに変えることほどに、神にとって忌まわしく、赦しがたい罪があるでしょうか。

私たちの意識はしばしば空回りを起こし、自意識過剰とか心配の種ばかり見つけるという状態に陥ります。自分の心臓の鼓動をじっと気にしていると不安になるかもしれませんが、それを忘れて前に向って動きだすと、それに合わせて鼓動のスピードは自ずと調整されます。それと同じように、そのままの姿で、ただ、神を愛し、人を愛するという生き方を目指すとき、すべてが変えられてくるのではないでしょうか。