ルカ10章21〜37節「愛されているとの自覚から生まれる愛」

2006年7月9日

生活習慣病にかかりそうだとの自覚は、健康的な生き方を始めるきっかけになります。同じように、「自分には愛がない」という自覚を持つことから、神の愛に動かされる隣人愛が生まれないでしょうか。

1.「父がだれであるかは、だれも知る者がありません」

  イエスは七十人の弟子たちが自分たちの働きの成果を喜んで報告したとき、「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」(20節)と言われました。そして、「ちょうどこのとき」のことですが、イエスご自身が、「聖霊によって喜びにあふれて・・」(21節)と記されます。つまり、弟子たちの喜ぶべき根拠が神の一方的な恵みのみわざにあったように、イエスの喜びさえも聖霊によって与えられた恵みだったというのです。私たちは、自分で自分の感情をいじって空回りしていることが多いのではないでしょうか。真の喜びは、私たちの働きから生まれるのではなく、父なる神のみわざから生まれるなら、私たちのなすべきことは何よりも、この地上で何かを達成しようと頑張る以前に、主との交わりに目を向けることではないでしょうか。
  そこでイエスは、弟子たちとの会話の中で急に、「父よ。あなたをほめたたえます」と言われます。生活自体が、父なる神との祈りの中にありましたから、会話と祈りに境目が見えません。これこそ私たちにとっての手本です。主はそこで、「これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました」(21節)と言われました。私たちのうちには、自分の知性によって神を理解しようとする姿勢がないでしょうか。少なくとも私の中にはそれが根強くあります。しかし、霊的な真理は、本を読むこともできないような「幼子」にこそ知らされているというのです。子どもたちは、まだ社会的に何の働きも成し遂げていませんし、経済力もまったくありません。しかし、神はそのような無力な者にこそ、ご自身を最初に現してくださいます。22節は原文で、「だれも知る者がありません。子がだれであるかは・・父がだれであるかは・・」と記されています。つまり、御父と御子を知るという信仰は、人にとって不可能なことであり、それでもあなたが信じることができているのは、「子が知らせようと心に定めた」結果であるというのです。あなたは今、自分の意思で、イエスの父なる神に信頼していると思っているかも知れませんが、実は、あなたの信仰自体が神の奇跡、今ここで礼拝をささげていること自体が神の御子の創造のみわざです。 私たちは、神と人から愛されるにふさわしい人になろうと日々努力することでしょう。しかし、それ以前に、あなたはそのままで、神によって愛されています。それでなければイエスの御名によってイエスの父なる神に祈ることすらできなかったはずなのです。当時の人々は、平安の源となるはずの全能の神との交わりの生活の中で、疲れを覚えていました。ですからマタイは、この直後イエスが、「すべて疲れた人(くたびれた人)、重荷を負っている人(負わされてしまっている人)はわたしのもとに来なさい」(11:28)と言われたことを記します。あなたも、毎日、様々な責任を与えられて疲れておられるかもしれません。また、その中で、自分自身を責めているかもしれません。しかし、そんなあなたをこそ、イエスは招いておられます。もちろん、世に生きる限り、なすべき多くの務めがありますが、「できなければ大変なことに・・」という不安ではなく、神に愛されているからこそ、それに応答したいという思いでなされるなら幸いです。

2.「彼は、自分の正しさを示そうとして・・・」

それからイエスは、弟子たちにひそかに、「その目は幸いです」(23節)と言いながら、彼らが今見ているイエスのみわざや聞いているみことばは、多くの預言者や王たちが憧れていたことだと言いました。多くの人が旧約の預言者たちのように神から直接に語られる体験をしたいと願っていますが、実は、彼らがあこがれていた救いを、今、この私たちこそが手にしているということの恵みを知るべきでしょう。私たちが今、ここで聞いているイエスのみことばを預言者たちは待ち望んでいたのですから・・・。 そこに、ある律法の専門家がイエスを試す質問をします。それは、「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるのでしょう」(25節)という質問です。あなただったらどのように答えるでしょうか?実は、今の私たちにとって自明と思える答えは、この律法学者には理解不能なことでした。分かっていないにも関わらず、「私は知っている!」と思い込んでいる人は厄介です。それでイエスは、「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか?」(26節)と、彼が何を知っているかを尋ねます。彼は、申命記6章5節とレビ記19:18節から引用しつつ、全身全霊で主を愛することと、隣人を自分のように愛することと答えます。それは正しい答えではありますが、彼は、イスラエルの民がこの命令を何度も聞きながら、しかも実行できなかった原因がどこにあるのかを理解していません。私たちの場合も、「こうしたら良い・・」と分かっているのに、それができないということがあります。それは理解力や「やる気」の問題ではなく、心の内側がアダム以来の罪の累積によって腐敗し、無力になっているからです。実際、人は親の欠点や愚かさはよく見えますが、自分も親と同じ過ちを繰り返していることに気づきます。そして、その親自身が、その前の親の影響を受けています。さかのぼるとアダムに辿りついてしまいます。   ですからイエスは、「それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます」(28節)と言い放つことでアダムの子孫としての限界を気づかせようとします。ところが彼はそれを理解できず、さらに「自分の正しさを示そうと」、「私の隣人とは、だれのことですか」と尋ねます(29節)。そこには、聖なる神の律法を人間レベルに引き下げて隣人の範囲を狭く限定し、「私は責任を果たしている!」と言い張る姿勢が見られます。

3.「だれが隣人となったと思いますか」

  それでイエスは彼にたとえを話されます。「ある人が、エルサレムからエリコにくだる道で、強盗に襲われた」(30節)とは、エルサレムは標高八百メートル、エリコは標高マイナス三百メートルぐらい、それをつなぐのは、荒れ野を巡る野獣がたむろする険しい道で、そこをひとりで歩む旅人が強盗団に襲われたということです。彼は着物を剥ぎ取られ半殺しにされました。その後、そこを祭司が通りましたが、「彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った」(31節)というのです。要するに「見て、見ぬふり」です。そして、その後、レビ人も同じ態度を取りました。彼らは、「私は全身全霊で神を愛している。」と言い張る彼の仲間です。イエスはここで、「あなたならどうしますか?」と試しています。確かに、祭司は死体で身を汚してはならないという掟がありましたが(レビ21:1)、この人は死んではいません。しかも、彼らはエルサレム神殿から下る途中ですから、目の前の奉仕に穴を開ける心配はないのです。ただ、彼らはあらゆる汚れから身を遠ざけることに夢中でしたから、自分の隣人でもない人の面倒に巻き込まれたくはなかったのでしょう。   そこを通ったのが、「あるサマリヤ人」でしたが、律法学者は、彼らを宗教的な異端者、ユダヤ人の敵として軽蔑していました。ところがこの人は、「彼を見てかわいそうに思い、近寄って」(33節)、傷の手当てをし、「自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった」というのです。彼はこの負傷した人と一晩ともに過ごしたばかりか、宿屋の主人に、デナリ銀貨を二枚差し出して介抱を頼みます。これは当時の労働者二日分の給与でした。そればかりか、帰りに再び寄ってさらに必要な費用を支払うと約束して旅に向ったというのです。そして、イエスは、「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか」と尋ねます(36節)。律法学者は、隣人の「範囲」を聞いたのに、主は、「隣人になる」という発想の転換を迫ったのです。彼は、サマリヤ人ということばを出すことを避けて、「その人にあわれみをかけてやった人です」と答えます(37節)。それに主は、「あなたも行って同じようにしなさい」と言われます。これこそ律法の趣旨でした。律法学者はレビ記から、汚れを遠ざける「きよめ」の教えばかりを引き出していましたが、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(レビ19:18)という命令こそレビ記の核心であり、その直後には、「在留異国人をあなた自身のように愛しなさい。あなたもエジプトで在留異国人だったのだから・・」(19:34)と記されています。これはあなたの社会で差別され迫害されている人を、自分自身のように愛しなさい、それこそが、神に習って、「聖なる者となる」(レビ19:2)という意味だったのです。   イエスは、このとき、「主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた」(申命記32:10)というみことばを意識しておられたのではないでしょうか。律法の核心は、イスラエルに一方的に近づいてくださった神の愛を覚え、それに身を任すことでしたが、律法学者たちは、自分の力で神の愛を勝ち取ることを願って、神を奴隷の主人のように見てしまっていました。私たちも自分たちの勝手なイメージを聖書の神に当てはめて見てはいないでしょうか?  善きサマリヤ人のたとえは、新しい隣人愛の教えではなく、既に啓示されていた律法を解き明かしたものです。それは、「自分の正しさを示そう」とした律法学者の傲慢を砕き、彼を神の前での無力な幼子の自覚に導くための教えでした。ですから、私たちも、隣人愛の崇高な教えを人間的なレベルに引き下げて、「私は責任を果たしている!」と高ぶるのでもなく、また反対に、「それは私のような者には無理です!」と居直るのでもなく、「主よ。こんな罪人の私をあわれんでください」と祈りつつ、自分の心と身体を全能の主に明け渡し、神の愛が自分を動かしてくださるようにと祈るべきでしょう。私たちのすべての働きは、神が私たちを一方的に愛してくださったその「初めの愛」(黙示2:4)から始まっています。そして、「イエスは私の主です」と告白するあなたのうちに、既に創造主ご自身である聖霊が宿っているのですから。