2006年6月11日
イエスは十二使徒を選ばれました。しかし、彼らは、人々から尊敬される人格者というよりは、「この世の取るに足りない者」(Ⅰコリント1:28)と呼ばれるにふさわしい者たちでした。しかし、その彼らによって、「教会」の基礎が作られたことは確かです。それはあなたにも、希望を与えることではないでしょうか。
1.「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。」
イエスは、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて山に登り、一時的に天の栄光の姿を表されました。ところが、山から降りると、残された弟子たちが人々に失望を与えていました。悪霊が、ある人のひとり息子に取り付き、「ひきつけさせてあわを吹かせ、かき裂いて、なかなか離れようとしない」(9:39)のでした。これは、「てんかん」(マタイ17:15)と訳されることもありますが、マルコでは、「この霊は、彼を滅ぼそうとして」(9:22)とも描かれるように、この霊は、取りついた人を公衆の面前で激しく苦しめるものでした。悪霊は、この子を通して、人々を恐怖に落とし入れ、神よりも悪霊を恐れるように仕向けたのだと思われます。
この父親はイエスに、「お弟子たちに、この霊を追い出してくださるようお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした」(9:40)と失望を表現しています。それは、弟子たちがかつて、「すべての悪霊を制する力と権威を授け」ていただき、「病気を直す」ことができていたからです(9:1,6)。できたことができなくなったのはなぜでしょう?それでイエスは、「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしていなければならないのでしょう」(9:41)と言われました。
「今の世」ということばに、弟子たちばかりか、そこにいるすべての人への叱責が込められています。それは神のみわざを人間的な能力ととりかえてしまう落とし穴です。そこにいる人々は、悪霊追い出しを神のみわざとしてよりは、人間の働きかのように誤解していました。また弟子もかつての成功体験にあぐらをかいていたのかもしれません。彼らはイエスに後で、自分たちがどうして追い出せなかったかの理由を聞きますが、イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ・・」と答えられました(マルコ9:28、29)。
イエスは、父親に、「あなたの子をここに連れて来なさい」と、その子をご自身のみもとに招き、「汚れた霊をしかって、その子をいやし」ましたが、その結果、「人々はみな、神のご威光に驚嘆した」というのです(9:41-43)。ここでは、人々の目が、イエスのご威光ではなく、父なる神に向かったということが何よりも驚きではないでしょうか。人々は、「神の国」、つまり、神のあわれみに満ちたご支配が、この地に戻ってきたことを感謝できたのです。それは、様々な預言者たちの預言が成就したことを意味します。
私たちも「あの人の信仰が立派だから・・」などと、神のみわざ以前に、人の信仰心とか人格とか賜物にばかり目を向けて、「神のご威光」をともにあがめるというところに行き着かないことがないでしょうか。
2.「あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです」
イエスは、このような神のみわざを示した直後、弟子たちに再び、「人の子は、今に人々の手に渡されます」(9:44)と、ご自身の受難を予告されました。ところが彼らは、それが理解できなかったばかりか、「このみことばについてイエスに尋ねるのを恐れた」(9:45)というのです。しかし、いやなことから目を背け、現実を直視することができないような信仰は、知らないうちにこの世の力に流されてしまうのです。
そして、この後すぐに、「弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった」(9:46)というのです。イエスが繰り返しご自身の受難を示唆された後に、何ということでしょう!主の心の痛みが伝わってくる気がします。弟子たちにしたら、三人だけが山にお供を許されたこと、また、他の弟子たちが悪霊追い出しに失敗したことで、互いの競争心が刺激されたのかもしれませんが・・・。
しかし、イエスはこのとき弟子たちに、「何とあさましい!」と叱責する代わりに、その隠された気持ちを受け止め、彼らの目の方向を逆転させます。人は、自分より少しでも能力が勝っている者に強い競争心を感じます。それで、主は、彼らより、はるかに能力が劣る子供(幼児)の手をとって自分のそばに立たせ、その子を「受け入れる」ことを勧めました。このことばは、客人を歓迎し、もてなすことを意味します。
人は、自分に益をもたらす者を懸命にもてなします。影響力の強さによって料理にも差が出ます。ところがイエスは、何の見返りも期待できない幼児を「もてなす」ことを命じたのです。そればかりか、幼児はしばしば、まわりの空気を読むことができずに、静寂を破ってしまいます。ですから弟子たちですら、イエスの説教の場から子供を退けようとしました。また多くの教会も大人だけで礼拝を守ろうとしました。しかし、では、この弟子たちを含め、大人たちはイエスの話を、本当に理解できていたのでしょうか?
イエスは、無力で理解力のない子供を「受け入れる」ことは、ご自身を「受け入れる」ことだと言われました(9:48)。そればかりか、イエスを受け入れることは、イエスを遣わされた父なる神を受け入れることだと言われました。それは、後に、イエスが犯罪人として捕らえられたときに弟子たちができなかったことです。自分の身に危険をもたらす人を、「主」として認め続けることは、決して容易なことではありません。
イエスはその上で、「あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです」と言われました。私たちは、無意識にも、「私とお付き合いすることはあなたの益となり・・」とか、「私を採用することはあなたの会社にとって得です・・」とアピールする思いがあるものです。しかし、イエスは、子供のように、誇るものを何も持たないものこそが、「一番偉い」と言われたのです。私の中には、「あなたは重要な存在です」と言ってもらいたい思いがあります。それで自分の有能さを証明しようと頑張っています。しかし、イエスは、この世的に能力の劣った「小さい者」にこそ、最も大きな存在の意味があると言われたのです。
子供は、直感的に、自分が人の助けなしには一瞬たりとも生きてゆけないことを知っています。ですからストレートに助けを求めます。同時に、身体全体で満足を表してくれます。子供は何よりも、大人に「誇り」を与え、比較地獄の中で緊張している心を和らげてくれるのではないでしょうか。その意味で、彼らの無力さや弱さこそが、最高の贈り物になり得るのです。反対に、見るからに立派な人の傍にいると、緊張し、劣等感に苛まれるという体験がないでしょうか。イエスに敵対したパイサイ人などはその典型で、神に対してさえも自分の信仰深さを誇っていました。しかし、神が私たちに何よりも望んでおられることは、私たちが自分の無力さを認め、幼児が親のふところに飛び込む姿に習うことではないでしょうか。
3.「天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と口走ったヨハネ
イエスのおことばに、「ヨハネが答えて言った」(9:49)とありますが、彼は何に応答したというのでしょう?たぶん、彼は、自分こそイエスを受け入れ、謙遜に仕えているとでも思ったのでしょう。彼は、イエスの御名によって悪霊を追い出している人をやめさせたことを報告しました。それは、その人が、「私たちとともに従おうとしていないから」(9:49別訳)というのです。それは確かにもっともです。イエスも、別のところで、イエスの御跡に従おうとしないで御名を利用する人に警告をしておられましたから・・(マタイ7:21-23)。
しかし、イエスはここで、「あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方です」(9:50)と言われました。それは、どっちつかずの人を、敢えて敵に回すことを戒めたものだと思われます。実際、イエスの御名を用いた後に、イエスを悪く言うことはできないでしょうし(マルコ9:39)、そのような人も、やがて挫折を味わい、イエスに従う必要を感じることでしょうから、そのときを優しく待つということかもしれません。
その後、イエスは、ご自分の十字架が待つ