ルカ7章24〜50節「イエスとの交わりから生まれる奇跡」

2006年4月7日

人と人とが協力し合うためには一定のルールとか利害の調整が必要です。そのことを先週の申命記で学びました。ところが、バプテスマのヨハネやイエスの働きは、当時のまじめな信仰者の目には、その大切な慣習を破壊するものと見られました。その大胆さには、私たちさえ眉をひそめることでしょう。

1.バプテスマのヨハネ

イエスは群集にバプテスマのヨハネについて、「風に揺れる葦」のように人の意見に左右される者でも、また、「柔らかい着物を着た人」のように権力に取り入って「贅沢に暮らす」ような人ではないと言います(7:24,25)。彼こそは、「預言者よりもすぐれた者」であり、旧約最後の預言書マラキ3:1にある「万軍の主」の到来を告げる「使者」です。ヨハネは主の到来を、神の公正な裁きの実現のときと理解し、「その方は・・麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます」(3:17)と警告しました。彼は、見せかけだけの人の偽善を指摘し、国主ヘロデの悪事を責めて、牢に閉じ込められました。イエスはその率直さを賞賛し、「女から生まれた者の中で、ヨハネよりすぐれた人は、ひとりもいません」(7:28)と言いました。しかし同時に、「神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています」と言いました。それは、彼のように立派な人でも、自分の力で神の国に入ることはできず、神のあわれみにすがるしかないからです。ヨハネもそれを理解したからこそ、「罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマ」(3:3)を授けたのでした。

ヨハネの父ザカリヤはエルサレム神殿での宗教儀式を誤りなく司る忠実な祭司でした。それは「罪の赦し」、つまり、神との和解を得るための神の方法のはずでした。ところがヨハネは、まるでそれが無意味であるかのように、人々を神殿から遠く離れたヨルダン川に導いてバプテスマを授けたのです。これは当時の宗教システムを破壊する革命とさえ言えます。パリサイ人や律法の専門家たちは、自分はまじめにお勤めを果たしているから神の裁きを免れると思っていたのに、ヨハネはその安心を砕きました。一方、取税人は、自分たちが当時の神殿では救われようがないことを分かっていましたから、ヨハネのバプテスマを受けて、神のあわれみにすがろうとしました。つまり、ヨハネは、儀式を守ること以前に、真心から神の前にへりくだることを説いたのです。律法も契約の箱も、聖なる神が汚れた民の真ん中に住むためのあわれみのしるしでした。神は、一方的なあわれみによって、彼らにヨルダン川を渡らせ、ご自身の国を建てようとされました。その原点に立ち返らせるのがヨルダン川でのバプテスマでした。そして、これがなければ、当時の人々がガリラヤ出身の大工のことばに耳を傾けることはあり得なかったはずです。

それにしても彼らの心は、市場にすわっている子どもが、「笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、泣かなかった」(7:32)と、結婚式ごっこや、葬式ごっこに乗ってくれない者に腹を立てているのに似ていました。彼らのルールに反してヨハネが禁欲的な生活をすると、「悪霊につかれている」(7:33)と非難し、人の子(イエス)の祝宴を見ると、「食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間」(7:34)と非難しました。現代の教会でも、それぞれの国の教会も文化の影響を受けた固有のルールが生まれがちです。私はアメリカで信仰の決心に導かれて帰国したときも、ドイツで伝道者への召しを受けて帰国したときも、戸惑いを覚えることがありましたが、それは信仰生活の常識を問い直す契機になりました。日本人はすべてを外形から入る傾向があります。信仰生活も神との個人的な交わりを築くということ以前に、クリスチャン生活の体裁を整えることに心を奪われ、それができることに安心するという傾向がないでしょうか。神はどんな小さな罪にも激しく怒るとともに、そんな罪を犯し続ける私たちを「ご自分のひとみ」のように大切に思っておられます。「そんな生活を続けていて良いの?」と厳しく問いかけながら、同時に、「赦し得ない大きな罪はないから、イエスのもとに来なさい」と招いておられます。

2. ひとりの罪深い女が・・・この女は罪深い者・・・

パリサイ人のシモンがイエスを食事に招きました。ただ、それはイエスを観察するためだったと思われます。何と彼は、当時の接待の常識としての「足を洗う水」さえイエスに出さないという非礼を働きました。当時の食事は、左ひじをついて足を投げ出して横たわりましたが、そのとき「ひとりの罪深い女が・・イエスのうしろで御足のそばに立ち」、何と「涙で御足をぬらし始めた」というのです(7:37,38)。ここでは、「始めた」という動詞が強調されますが、それはこの女の動作は差し止められて当然だからです。しかも、人前で自分の髪をほどいたり、足に口づけし続けるなどとは、自分を売春婦として宣伝しているようなものです。ところが、主は、このような恥ずべき行為に、身を任せました。それが何とも驚きでした。

シモンは、これをイエスが人の罪を見分ける預言者の目を持っていないしるしと見ました。ここでは、彼女が今も、「罪深い女であり続けていた」(7:37)こと、また「この女は(今も)罪深い者であり続けている」(7:39)ということが強調されています。彼女は、バプテスマのヨハネのメッセージを伝え聞いて、神の裁きが迫っていることに身を震わせながらも、生活のために罪を止めることもできず、ただ夢中でイエスに近づいたのではないでしょうか。自分が、イエスの食事の交わりに加えられる資格がないことはあまりも明白と思われたので、ただ自分の宝物の「香油のはいった石膏のつぼを持って」来ました。そこで見たのは、足を洗う水さえ与えられないイエスの姿でした。その痛ましさと、自分の惨めさが重なり合い、涙が止らなくなり、とっさの判断で、自分の涙を、水の代わりにしたのではないでしょうか。あなたも、救いの意味に納得したからというより、自分の生き難さを抱えきれなくてイエスのもとに来るのではないでしょうか。

シモンの心を見ぬいたイエスは、借金が帳消しにされるたとえを話した上で、敢えて「その女の方を向いて」、「この女を見ましたか」とシモンに語りかけ(7:44)、彼女の心の真実を見るように招かれます。シモンは、王であるイエスを乞食のように扱いましたが、彼女は、水の代わりに自分の心の痛みを表わす涙を、タオルの代わりに女性の栄光の表れである髪を用い、頬に口付けする代わりに服従のしるしとして足に口付けし、高価な香油を、頭の代わりに足に塗りました。すべて社会儀礼に反する行為ですが、シモンの傲慢さと彼女の謙遜さが対比されます。彼女は自分にはイエスに近づく資格すらないと思っていましたが、イエスは彼女の行為を賞賛してくださったのです。そんな方は彼女の人生で初めてでした。

3. 「この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。」

その上で、イエスは、「この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです」(7:47)と言われました。ここでは、愛が赦しの原因であるというよりも、「多くの罪」と「よけい(多く)愛する」ことの相関関係が注目されるべきです。愛することと赦されることには、鶏と卵のような関係があります。彼女には、自分の涙、髪の毛、口付け、香油のひとつひとつが受け入れられたことが、ひとつひとつの罪が赦されて行くことのように感じられたことでしょう。そして、その赦しを感じるたびに、イエスへの愛が生まれ、その愛を行動で表わしながら、さらなる赦しを体験したという循環が見られます。私たちも「罪の赦し」を理屈で考えずに、「多く愛し」「多く赦される」という好循環を実体験させていただきましょう。

そして主は女に、「あなたの罪は赦されています」(7:48)と言われましたが、ここには「既に赦している」という意味が込められています。罪深い女の口付けを受け入れ続けた(7:45)こと自体が、赦しの宣言だったからです。「いっしょに食卓にいた人たち」(7:49)が唖然としたのも無理がありません。イエスは神殿でのいけにえを飛び越えて、赦しの事実を宣言したからです。それはご自身を神と宣言することでした。

その上で主は、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」(7:50)と言われました。彼女の「信仰」とは、罪を離れるという決意以前に、「罪深い女」のままで大胆にイエスに近づいて行ったことではないでしょうか。そして、主の優しい眼差しと語りかけを聞くことがでました。その主の愛こそが、罪深い生活から足を洗う勇気を生むのです。イエスの前で自分を取り繕うことこそ、不信仰なのです。

多くの人が、イエスは悪い行ないを捨てる決意を既にできた人だけを受け入れてくださるかのように誤解しています。しかし、それはパリサイ人の論理です。人は、しばしば、自分で自分の心や行動を変えようと努力すればするほど泥沼に落ちて行くという悪循環にはまります。しかし、イエスとの交わりの中で、自分が変えられて行くのです。もちろん、罪に居直る者に、イエスは厳しく立ち向かわれますが、心の底で変わりたいともがいている人を分かってくださいます。イエスはこの女に「安心して行きなさい」と言われました。そこには、「わたしはいつも、あなたの味方、友、神であり続ける」という保証が見られます。自分の世界の中で空回りし、身動きできなかった女が、前に向かって歩み出すことができたのです。

私たちは人の顔色を見ないバプテスマのヨハネのような率直さが求められています。しかし、彼の偉大さは、何よりも人々にキリストを指し示したことでした。それによって罪の中でもがいていたひとりの女は、神殿で門前払いを受ける代わりに、イエスのもとに来ることができました。現代の教会にもそれが求められています。それは私たちが、生き難さを抱えた人に、決断を迫る代わりに、祈りによってイエスとの交わりを教えることです。たとえば神は、不思議に、深い心の闇を抱えた方を私のもとに送ってくださいます。そして、そんな方の話を聞けば聞くほど、解決の道はないように思えてきます。しかし、心の葛藤をそのまま祈ることをお勧めする中で、何とも不思議な解決が与えられてきました。それらはすべて、この罪深い女に接した「イエスの心」が今も、正直に主に祈る者の心の闇の中に届いていることの証しです。