ルカ8章22〜39節「嵐を静め、悪霊を追い出すイエスの権威」

2006年4月7日

関東を襲うかもしれない地震、人に災いをもたらす闇の力、それはあなたのすぐそばにあります。目を大きく開き、現実を直視するなら、この世界は不安の材料に事欠きません。人は、幻想に生きるか、天地万物の創造主を知るのでなければ、この不安には直面できないはずではないでしょうか?

1.嵐の中での平安

ガリラヤ湖は南北21km、東西13kmの広さで、ヨルダン渓谷に位置し、湖面は海抜-210mの低さにあり、回りを海に囲まれた美しく豊かな湖です。ただ、この特殊な地形のため、夜になると突風が陸から海に向けて吹くことがありました。イエスは今、西の湖畔から東岸に移ろうと「さあ、湖の向こう岸に渡ろう」(8:22)と言われます。それは、「夕方になって」(マルコ4:35)のことでしたが、弟子たちが舟を出したところ、イエスはお疲れのためか「ぐっすりと眠ってしまわれ」(8:23)ました。主のお身体は私たちと同じ弱いものだったからです。ところが、そこに、舟を転覆させる恐れのあるほどの強い「突風が湖に吹きおろし」ました。「弟子たちは水をかぶって危険になった」ので、「近寄って行ってイエスを起こし」、「先生、先生(ヘブル語では『ラビ』)」と呼びかけ、「私たちはおぼれて死にそうです」(8:24)と訴えます。漁師の弟子たちがこれほど慌てるというのは、よほど大きな嵐だった証拠です。その際、「イエスは、起き上がって」とありますが、それまで主は、大胆にも、「とも(船尾)のほうで、枕をして眠っておられた」(マルコ4:38)のでした。

私たちは、人生が制御できないと思うと、不安で眠られなくなります。しかし、イエスにとって、この嵐は制御不能ではありませんでした。主は、父なる神との深い交わりの中で安心しておられたからです。私たちも、眠りにつく前に、「主よ。この夜、私をお守りください。この身体、たましい、すべてのものをあなたの御手にゆだねます・・悪い敵が私を害しませんように」と祈ることができます。そして、イエスは、この嵐も父なる神の愛の御手のなかで起こっていることを知っておられました。それをイエスは、「雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」(マタイ10:29)と言われました。

イエスは起き上がってすぐに、「風と荒波とをしかりつけ」ます。すると何と「風も波も収まり、なぎになった」というのです(8:24)。なお、「しかる」とは、親が子供をしかるとか、悪霊を厳しく「責める」というようなときのことばです。それは、イエスのことばに「光があれ」と言って、光を創造された創造主の権威があったことを示します。その上でイエスは彼らに、「あなたがたの信仰はどこにあるのです」(8:25)と言われます。それは、彼らが、イエスも父なる神をも、本当には知っていなかったからです。タイタニックは沈まない船と言われていましたが、映画の中で、「鉄は沈む・・」と言われていたのが印象的でした。確かにどんな舟でも沈む可能性があります。しかし、この舟には神の御子イエスがいっしょに乗っているのです。それが沈むのを、父なる神が許すはずはありません。そして、弟子たちはこのことを通して、イエスが単なる律法の教師(ラビ)ではなく、「風も水も、お命じになれば従」わせる権威者だと知ったのです。

私たちの回りにも、様々な不安な材料があります。何よりも怖いのは、自然よりも、人間かもしれません。それは、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」(エレミヤ17:9)とある通りです。しかし、イエスが、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません」(マタイ10:28)と言われたように、真に恐るべき方は、神おひとりです。そして、神は、ご自身にすがってくる者を退けることはありません。しかも、私たちの傍らには、私たちのためにいのちを捨て、よみがえられたイエスがいてくださいます。主がともにおられるのですから、どんな人生の嵐に直面しようとも、私たちは恐れる必要はないのです。

2.イエスの前にひれ伏し、懇願するしかなかった悪霊レギオン

イエスと弟子たちはガリラヤ湖の東岸のゲラサ人の地に着きます。彼らはまことの神を知らない異邦人でした。そして、主が陸にあがられるとすぐに、悪霊につかれている男に出会いました。「彼は、長い間着物もつけず、家には住まないで、墓場に住んでいた」(8:27)ほど、完全に悪霊の支配下に置かれ、人としての感覚を失っていました。そして、「彼はイエスを見ると、叫び声をあげ、御前にひれ伏し」(8:28)ます。マルコは、「イエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し」(5:6)とさえ記しています。つまり、悪霊は、誰よりもイエスの権威と力を知っていて、逃げようがないとあきらめ、あわれみを恋うしかないと恐れたのです。イエスの弟子たちは、「いったいこの方はどういう方なのだろう」(8:25)と問いかけていましたが、皮肉にも悪霊こそが、この方を「いと高き神の子」(8:28)であると認めていたというのです。

この人は、「鎖や足かせでつながれて看視される」(8:29)必要のあるほど危険な状態でしたが、悪霊の力は、「それらを断ち切って・・荒野に追いやる」ほどでした。主が悪霊の名を尋ねると、「レギオン」と答えますが、それは、ローマの軍団の単位で、六千人もの兵士から構成される大集団でした(日本語では「師団」)。そして、「悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんように・・・おびただしい豚の群れに・・入ることを許してくださいと願った」(8:31)のでした。これは、悪霊がイエスの権威に完全に服さざるを得ないことを示しています。イエスが許されると、「豚の群れはいきなりがけを駆け下って湖に入り、おぼれ死んだ」(8:33)のでした。なお、当時の神の民にとって、豚は汚れた動物の代名詞のような存在でしたから、豚の死は問題とは見られませんでした。しかし、豚の飼い主の異邦人たちはこのことに驚き、イエスの前から逃げ出しました。彼らは、悪霊よりも強いイエスを恐れたのです。

この世の人々は、今も、悪霊の働きに怯えて生きています。彼らは確かに人を悲惨に陥れ、滅びに追いやる力を持っています。しかし、私たちはイエスの御名によって、その力に打ち勝つことができます。今も悪霊は生きて働いていますが、彼らはキリスト者を脅しはできても、支配はできないのです。

3. 「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい」

その後、ゲラサの人々は、「イエスの足もとに、悪霊の去った男が着物を着て、正気に返って、すわっていた」(8:35)のを見ましたが、彼らは、それを感動する代わりに、「恐ろしくなった」ばかりでした。そればかりか、彼らは、「イエスに自分たちのところから離れていただきたいと願った」(8:37)というのです。彼らは、この悲惨な人の救いよりも、豚を失ったことの方に目が向ったのではないでしょうか。それとも彼らは、悪霊をことばひとつで従えるイエスを、悪霊の親分と見たのでしょうか。彼らは、レギオンに憑かれた人を見て悪霊におびえ、また、悪霊を追い出したイエスを見てさらにおびえました。共通するのは、自分たちの身に損害がもたらされることを避けようとする思いだけで、真理を求める心などはありません。

今も、多くの日本人は、ただ「たたり」を恐れ、偶像を拝み続けます。それは、暴力団のご機嫌をとりながら見せかけの平和を守るのと同じ生き方です。彼らは、自分たちが悪霊の脅しに屈しているのを知らないのです。それにしても、イエスの登場は、このゲラサの地でのように、見せかけの平和を壊します。しかし、それは、名医が、「がんと分かるのが怖いから、検査を受けない・・」というような人に現実を直面させるのと同じです。一時的な、外科手術を過ぎた後には、希望に満ちた人生が待っています。イエスは、私たちを、怯えて生きる人生から、問題に直面する勇気を持つ者へと変えてくださいます。

「そのとき、悪霊を追い出された人が、お供をしたいとしきりに願った」(8:38)のは、人の救いよりも豚の損失に目が向かう冷たい人々から離れたかったからでしょう。それに対し、主は、「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい」(8:39)と命じました。それで「彼は出て行って、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを町中に言い広めた」のでした。

ゲラサの人々にとってイエスはまぶし過ぎたのかもしれません。しかし、自分たちの仲間の証しには耳を傾けられます。それは、乞食が、隣の乞食に、どこに行ったら恵んでもらえるかを教えるようなものです。互いに乞食だから通じ合うことばや感覚があります。イエスは、罪人の仲間になるために、神であるのに人となってくださいましたが、それでもなお届くことができない人がいたのです。そして、あなたにも、あなたにしか届くことができない魂があり、あなたはその方に福音を分かち合うように召されているのではないでしょうか。神の国の福音は、何の資格もない、欠けだらけの人を用いてこそ広められるのです。

そして、イエスがこの人の中に起こしてくださった変化は、その人を悪霊の支配から解放するばかりか、その人が、自分よりも豚を気にかける冷たい人々のただ中に住み、その人々に福音を告げさせるということでした。つまり、誰の役にも立たなかった人が、その人でなければできないという働きを見いだすことができたのです。人は、誰しも、心の底で、生き甲斐のある人生を求めています。無用の存在として軽蔑されるのは、何よりも辛いことだからです。イエスの救いは、現実逃避をもたらすものではありません。かえって、私たちに働きの場を与えて、この世のただ中でいのちを輝かせるためのものです。

たったひとことで、嵐を静め、悪霊を追い出すことができる方が、あなたの人生の同伴者となってくださいました。何という恵みでしょう。イエスがともに歩んでくださるからこそ、私たちは人生の海の嵐のただ中に漕ぎ出すことができます。この世界は、見せかけの平和を求めますが、私たちは置かれている状況に関わりのない真の平和(シャローム)を、イエスとの交わりのなかに見いだすことができるのです。