自分の身近なところで、犠牲者の血が流されている現実に直面するとき、また、それを思い起こすようなとき、人は、不条理に対する怒りを超えて、自分の人生を厳粛に受け止めるという思いになるということがないでしょうか。神は、イスラエルの救いのために流されたエジプト人の犠牲を、忘れさせないようにしておられます。 “出エジプト12章43節〜15章21節「主があなたのために戦われる」” の続きを読む
2015年3月22日
出エジプト8章1節〜12章42節「心が強くされることの悲劇」
2015年3月1日
しばしば、人は、信仰の成長を、「心が動じなくなること」と誤解してはいないでしょうか。今日の箇所では、パロの心が動じないことによって、エジプト人がどれだけ苦しんだかが描かれます。そして、現代の世界では、心が動じないテロリストと政治家との狭間で、どれだけ多くの悲惨な犠牲者が出ていることでしょう。 “出エジプト8章1節〜12章42節「心が強くされることの悲劇」” の続きを読む
出エジプト4章18節〜7章25節「この地の真の支配者」
2015年2月22日
現代の感覚で聖書を読むと誤解が生まれます。今から三千数百年前、民族ごとに異なった神々が礼拝されていました。聖書の神ヤハウェは、奴隷の民「へブル人の神」(5:3)としか見られていませんでした。 “出エジプト4章18節〜7章25節「この地の真の支配者」” の続きを読む
出エジプト1章1節〜4章17節「『わたしはある』という方が、私を遣わされた」
2015年1月25日
ある方がご主人の介護で、危険な場面があったことを振り返りながら、「あのときは、どうして、あのようなことを私ができたのだろう・・・不思議にごく自然に身体が動いた」と言っておられました。それこそ、「主ヤハウェ」が、「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて信頼すれば、あなたがたは力を得る」(イザヤ30:15)と約束してくださったことの成就です。 “出エジプト1章1節〜4章17節「『わたしはある』という方が、私を遣わされた」” の続きを読む
出エジプト33章12節〜34章10節「主の臨在に導かれる」
2012年7月15日
私たちはひとりひとり、神との個人的な出会いをした結果として信仰生活を始めることができました。しかし、多くの人々が、「あの感動をもう一度・・」と求めながら、それを見失って行きます。それは神が私たちを神秘体験の奴隷にしないためでもあります。 “出エジプト33章12節〜34章10節「主の臨在に導かれる」” の続きを読む