エレミヤ書は現代のクリスチャンホームの子にふさわしい福音です。創造主を礼拝する幸いを教えられてきたことは大きな恵みなのですが、心を興奮させるこの世の文化の刺激を受け、信仰生活を空虚で惰性的なものに思え、心が交わりから離れようとすることがあります。表面的に取り繕ってはいても、福音の本質が心に落ちていません。 “エレミヤ1章1節〜4章4節「背信の子らよ。立ち返れ」” の続きを読む
イザヤ58章10節「駅前の路上から小さく始まった、世界に広がる神の国の祝福」(湯本沙友里FVIカタリスト)
2024年4月21日(音声のみ)
ローマ人への手紙4章13〜25節「創造主との対話に生きる幸い」
人はときに、立派な信仰を、「何の疑いもなく、信じ通す」ことと誤解します。そして、今日の箇所でも、アブラハムの「信仰は弱まりませんでした。不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく」ということばを、そのように、アブラハムは目の前の不安な状況に動じることもなく、神への信頼の姿勢を貫いたと誤解されがちです。 “ローマ人への手紙4章13〜25節「創造主との対話に生きる幸い」” の続きを読む
イザヤ66章15~24節「神が創造してくださる礼拝の完成」
預言者イザヤは、イスラエル王国が圧倒的な大国から攻撃を受けるという中で、人間的な解決を求める前に、何よりも神の前に静まり、神に助けを求めることを優先しなければならないと繰り返し強調しています。 “イザヤ66章15~24節「神が創造してくださる礼拝の完成」” の続きを読む
ルカ24章13〜36節「福音の核心としてのイエスの復活」
ロシアのプーチン政権を真っ向から批判して今年2月に死を遂げたアレクセイ・ナワリヌイ氏は、2021年の裁判の際に、「私はかつて過激な無神論者でしたが、今はクリスチャンです。信仰が私の活動を助けてくれます。それは聖書の中に様々な状況の中で、どのような行動を取るべきかが記されているからです」と語りました。特に彼はイエスが山上の説教で、「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです」(マタイ5:6) ということばに支えられていたとのことです。 “ルカ24章13〜36節「福音の核心としてのイエスの復活」” の続きを読む
マタイ26章36〜46節「ゲツセマネの祈り」(寺村幸雄神学生)
2024年3月24日
イザヤ66章1〜14節「父性的であるとともに母性的である神の愛」
イザヤ66章10–14節は、キリスト教に対する偏見を決定的に砕く預言のようにも思えます。母親が大好きな僕は、「あなたがたは乳を飲み、脇に抱かれ、膝の上でかわいがられる」という「新しいエルサレム」で実現する「救い」の描写に、何とも言えない平安(シャローム)を感じます。 “イザヤ66章1〜14節「父性的であるとともに母性的である神の愛」” の続きを読む
ローマ人への手紙4章1〜12節「不敬虔な者と義と認める方への信仰」
私たちプロテスタント教会の流れの中にある人は、「人は善い行いによってではなく、キリストへの信仰によって、神の前で義(正しい)と認められる」という教えを信仰の核心としています。その教えが「信仰義認」と呼ばれます。 “ローマ人への手紙4章1〜12節「不敬虔な者と義と認める方への信仰」” の続きを読む
イザヤ65章16~25節「わたしは新しい天と新しい地を創造する」
私たちは今、「すぐに結果を出さなければ……」というプレッシャーの世の中に置かれています。私自身もかつてそのような職場に身を置き、その発想を身に染み込ませて牧師になりましたが、そのために信仰生活が苦しくなった時期があります。なぜなら、あまりにも結果が見えなさ過ぎるからです。それは目に見える教会の成長のことばかりではありません。「これだけ神のみことばに親しんでいるのに、どうしてこうも僕は成長できないのだろう……」と思ってしまうことがあります。 “イザヤ65章16~25節「わたしは新しい天と新しい地を創造する」” の続きを読む
ローマ人への手紙3章19〜31節「私たちに与えられた圧倒的な救いとは?」
神の「愛」と「義」が同じことを表わすことは、親子関係を考えるとよくわかります。たとえば、自分の子が不良仲間に入りながら、そこで我に返って、そこから抜け出たいと願っているとき、そこで求められる親の正義とは何でしょう。「悪の勢力と関係を持つことは自分の正義の基準に反する。自業自得なのだから、自分でどうにかしなさい」と言うのが親の正義でしょうか。 “ローマ人への手紙3章19〜31節「私たちに与えられた圧倒的な救いとは?」” の続きを読む