残念ながら多くの方々は旧約聖書のイスラエルのという国の大枠の物語を理解しないまま、「イエスが救い主である」と理解しようとしますが、それでは「救い」の意味は理解できません。そこでは、個人というよりも社会全体の「救い」が課題になっています。 “マタイ24章23〜35節「人の子の栄光の現れ」” の続きを読む
箴言29章「幻とみおしえ(律法)が与えられる幸い」
箴言のことばはクリスチャンとして生きる際の「常識」のような規範を教えてくれます。ただ、簡潔さを大切にする詩文なので、私たちの感性の現実に合わない、誤解も生まれやすい表現があります。しかし、神の民としての「王道」を示すという意味で、いつも味わうべきことばと言えましょう。 “箴言29章「幻とみおしえ(律法)が与えられる幸い」” の続きを読む
マタイ24章9〜22節「愛が冷える中での愛の種蒔き」
イエスは世の終わりについての預言を語りますが、それは当時の政治状況を背景にしています。たとえば紀元37年にローマ帝国第三代皇帝としてガイオス・カリグラが即位しますが、彼は自分が神として称えられることを望み、ついにはエルサレム神殿の中に自分の像を建てさせようと、ペテローニオスを将軍とする軍隊を派遣します。 “マタイ24章9〜22節「愛が冷える中での愛の種蒔き」” の続きを読む
民数記16章1〜11節「自分の立場に不満を覚える時」
2022年7月17日 早坂恭先生(東村山福音自由教会牧師)
エステル9、10章「あなたは祝福の基(もとい)となる」
「あなたのせいで、何もかも滅茶苦茶になった……」などと言われるのは辛いことですが、モルデカイが権力者ハマンにもっと柔軟に対処していたら、ユダヤ人を根絶やしするなどという王命が発せられることはなかったかもしれません。 “エステル9、10章「あなたは祝福の基(もとい)となる」” の続きを読む
マタイ23章37節~24章8節「産みの苦しみの始まり」
多くの人々は様々な困難に直面しながら、それが速やかに終わることを期待します。それがときに、余りにも安易な、短絡的な問題の解決を望んで、問題をさらに大きくするという過ちにつながります。 “マタイ23章37節~24章8節「産みの苦しみの始まり」” の続きを読む
エステル7、8章「神の怒りにゆだねなさい」
私たちは「怒り」や「憤り」の気持ちに振り回されて大きな過ちを犯すことがあります。それは「怒る者は争いを引き起こす。憤る者は多くの背きがある」(箴言29:22) と記されている通りです。 “エステル7、8章「神の怒りにゆだねなさい」” の続きを読む
マタイ23章16〜36節「偽善につながる生活規定」
キリスト教はユダヤ教やイスラム教とルーツが同じですが、根本的に違うのは、目に見える生活規定が驚くほど少ないということです。ある意味で非常に分かりにくく、達成感も得られ難い「教え」とも言えます。 “マタイ23章16〜36節「偽善につながる生活規定」” の続きを読む
エステル5、6章「驕るハマンは久しからず」
平家物語の冒頭では、「おごれる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者もついには滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ」と記され、それによって「驕る平家は久しからず」などと、傲慢の代名詞のように言われています。しかし、平清盛は純粋でナイーブな人間だったという見方もあるようです。 “エステル5、6章「驕るハマンは久しからず」” の続きを読む
Ⅱコリント3章1〜18節「キリストの手紙として」
復活祭から50日目にエルサレムの弟子の集団に「聖霊」が「炎のような舌が分かれ」るように下りました (使徒2:3)。これがペテンテコステ(聖霊降臨日)の由来ですが、そこで起きたことは、使徒たちが遠い地方出身者の言語で少数者に寄り添うようにキリストの復活が証しされたことと、それによって三千人ほどの人がバプテスマを受け、すべてを共有する愛の交わりが生まれたことです。それが現代に続く教会の始まりです。 “Ⅱコリント3章1〜18節「キリストの手紙として」” の続きを読む