詩篇36篇「罪を照らす光のうちに、癒しの光を見る」

2021年8月22日

イエスは私たちに、「あなたの罪は赦された」(ヨハネ9:2) と宣言してくださいました。しかし、あなたが身近な人に、このイエスのことばをそのまま伝えても、多くの場合、「あなたは私を罪人と見ているのですか」と反発されるだけです。それは、「人には自分の行いがみな純粋に見える」(箴言16:2) と記されているからです。

昔、全米を震えあがらせていたギャングの帝王アル・カポネは自分が捕らえられた時、「俺は働き盛りの大半を、世のため人のために尽くしてきた。ところが、どうだ……俺の得たものは、冷たい世間の非難と、お尋ね者の烙印だけだ」と嘆いたとのことです。彼は自分を慈善実業家と大真面目で認識していたようです。タリバンが攻めてきたときに、真っ先に大金も持って外国に逃亡したと伝えられるアフガニスタンの大統領も同じでしょう。

神に背いたアダムは、自分の罪を認めることができなかったと創世記3章に記されています。それなのに、罪の指摘から福音を語るというは大間違いではないでしょうか。余裕のない人は自分の罪を認められません。

神の愛が分かって初めて罪が理解できます。罪人に寄り沿ったイエスの愛が分かって初めて、「罪を照らす光のうちに、癒しの光を見る」という詩篇36篇の神秘が分かります。

1.「悪しき者の背きのことばが私に心の奥底に」

1、2節は翻訳が困難ですが、次のように訳す方が、後の文脈に沿うと思われます

悪しき者の背きのことばが私の心の奥底に。 彼の目の前には神に対する畏怖がない。なぜなら、彼は自分の目で自分自身に媚びているからだ。それで、自分の咎を見つけ、それを憎むこともない

最初のことばは、「的外れ」を意味する「(ハター)」ではなく、神に逆らう「背き(ペシャー)」と訳されているものの擬人化です。それはエデンの園で蛇が、エバの心の中に神の命令に背く思いを起こさせたことを示唆します。

その後、神がアダムに「あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか」と聞いただけなのに、アダムはこの女が、あなたが私のそばにいるようにと与えてくださった者が、あの木から取ってくれたので、私は食べたのです」と返事しました (創世記3:11、12)。

彼は自分の責任を認める代わりに、女とその女を自分の傍に置いた神が問題の根源なのだと言って、自分の罪を見ようとはしませんでした。同じように、自分を神のようにしたアダムの子孫は、自分に関する限りあらゆる言い訳をしてしまいます。

そしてそのことが、「彼の目の前には、神に対する畏怖(恐れ)がない」(1節) と評されます。

使徒パウロは、このことばをローマ人への手紙3章18節で引用しています。そこではまず、「すべての人が罪の下にある」(同3:9) ということを説明するために様々な詩篇やイザヤ書のことばを引用しながら、「義人はいない。一人もいない」(同3:10) から始まり、その最後で「彼らの目の前には、神に対する恐れがない」とこの詩篇のみことばが引用されます。

興味深いのは、この詩篇で「背き」ということばが擬人化されているのと同じように、ローマ書でも「」ということばが擬人化されています。それはアダム以来のすべての人間が、の力の支配下に置かれ、自分の努力では救いようのない現実が描かれているのです。

ですから冒頭の「悪しき者のそむきのことばが私の心の奥底に」とは、自分の「心の奥底に」、アダムを誘惑したサタンの「背きのことば」が響いているということを描いていると言えましょう。

2節に関しては新改訳の脚注にもわざわざ「原文難解」と記されているように様々な翻訳の可能性があります。

ここで「なぜなら、彼は自分の目で自分自身に媚びているからだ。それで、自分の咎を見つけ、それを憎むこともない」と訳したのは、英語で (For he flatters himself too much in his own eyes to find his iniquity and to hate it) という訳も可能と思われるからです。

協会共同訳では、「彼は自分の過ちを認め、憎むはずが 自分の目で自らにへつらった」と訳されています。ただ、どの翻訳を採用しても、アダム以来の人間の罪意識自体が神の目には歪んでいることを描いているという点では一致しています。

福音の核心に「罪の赦し」があるのは確かですが、それ以前に、サタンの誘惑に負けて「神のようになって善悪を知る者」となったアダムの子孫は、自分自身の感覚に「媚びて(へつらって)」しまい、「自分の咎を見つけ、それを憎む」という健全な罪意識が無くなっていると言えましょう。

そうすると福音の最初は、罪を認めさせる前に、神が一人ひとりを「高価で貴い」、かけがえのない存在として創造してくださったという、神の愛による創造を伝えることが何よりも大切だということが分かります。アダムの子孫には」は理解不能となっているとも言えます。

引き続きこの3、4節では、「彼の口のことばは 不法と欺き。 思慮深くあることも 善を行うこともやめている。 不法を彼は謀っている 寝床において。 そして善くない道に立っている 悪を拒むこともなく」と述べられています。

ここで二度登場する「不法(悪事)」とは「悲惨」とも訳し得ることばで、彼らが寝床において密かに謀略を練りながら、昼間は「善くない道に立っていると、悪に身を任せるようすが描かれています。それは自分を神の立場に置いたアダムの子孫の罪の現実なのだと思われます。

そのように人間の堕落の様子が描かれる意味は、「それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです」(ローマ3:19) と描かれます。ただそれに続いて、「人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められない……しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。すなわちイエス・キリストの真実によって、信じるすべての人に与えられる神の義です」(同3:20–22下線部別訳) という結論が述べられます。

つまり、福音とは、アダムの子孫の救いがたい現実を描きながら、しかもそのような堕落した民を、神がご自身の御子を遣わして救い出そうとすることなのです。

しばしば「救い」は、すべての人間が地獄に向かっている中で、イエスがその人々の罪を身代わりに負って天国への道が開かれたと単純化されますが、ここでは、アダムの子孫が「罪」の支配下に置かれ、自分で自分を変えられない中で、神がキリストにあって新しく生きられる道を開いてくださったと説明されています。

私自身も昔から自分を変えようと努力して来ましたが、少し成長したと思ったとたん、自分を誇ったり、他の人を軽く見る思いが生まれ、自己嫌悪に苛まれ続けました。しかし、自分で自分の身長を伸ばすことができないように、自分で自分を変えることができないと分かり、繰り返しイエスにすがるようになりました。

ですからこの1-4節に記されていることは、すべてのアダムの子孫が置かれている現実を語ったものです。その記述の目的は、すべての人が神の一方的な「救い」を必要とすることを示すためです。

2.「あなたの喜び(エデン)の流れで あなたが潤してくださいます

5、6節の原文は、「 (ヤハウェ) 」ということばで始まり、「 (ヤハウェ) 」ということばで閉じられます。つまり、すべての人間の救い難い現実を描いた後で、その悲惨な状態から解放する主 (ヤハウェ) ご自身の性質と御力がここに描かれているのです。

まず「あなたの慈愛(ヘセド)は天にあり」と記されますが、ヘセドというヘブル語は翻訳困難なことばで新改訳では「恵み」、共同訳では「慈しみ」と訳され、英語では steadfast love, unfailing love, loving kindness などと訳されます。

それは創造主ご自身の被造物に対する「誠実さ」を意味することばです。それはご自身に背いた者たちが自滅に向かっていることを見過ごすことができないという神の不動の愛の動機を示すことばです。

そして、その神の「ヘセドが天にある」とは、天から救いの御手が地に差し伸べられ続けているというニュアンスを現わしていると言えましょう。

さらに、「あなたの真実は雲にまで及びます」と記されますが「真実 (エムナー)」とは、アーメンと同じ語根のから生まれたことばで、信頼できる誠実さが天の雲にまで達するというイメージを現わします。

さらに「あなたのは神の山々」と記されますが、「(ツダカー)」とは共同訳では「正義」と訳され、英語では righteousness(高潔さ、公正さ)と訳されます。これは神がご自身の契約を守り通されるという「正義」を指し、それが高くそびえる「神の山々」のように見える様子が描かれています。

また「あなたのさばきは大いなる深淵」と描かれますが、「さばき」とは神のご支配の現実を現わしています。それが「大いなる深淵 (テホーム)」と呼ばれるのは、天地創造の際の「大いなる水」のように神のご支配が全世界を覆っているからです。

そしてこの「慈愛(恵み)」「真実」「」「さばき」によって「あなたは人も獣も救ってくださいます、主 (ヤハウェ) 」と賛美されます。

これはアダムの罪によって、「大地はあなたのゆえにのろわれる」(創世記3:17) と描かれた世界から、神が人間ばかりか獣さえも救い出してくださるという神の熱い思いが描いたものです。

さらに7節では「なんと貴(とうと)いことでしょう、あなたの慈愛 (ヘセド) は、神よ」と賛美されますが、「貴い」とはこの地ではめったに見られない貴重さを指します。神の慈愛はこの世の基準では測られないのです。

そして、「(アダム) の子らは御翼の陰に身を避けます」とは、モアブの女ルツが神の民ボアズに向かって「あなたの覆いを、あなたのはしための上に広げてください。あなたは買い戻しのある親類です」(ルツ3:9) と願ったように、アダムの子の異邦人が神の愛のご支配のもとに身を寄せ、救いを得ること意味します。

そのことがさらに「彼らは満たされます あなたの家の豊かさで」(8節) と、神の御翼の下に身を避ける者の繁栄が約束されます。

さらに「あなたの喜び(エデン)の流れ(川)で あなたが潤してくださいます」と述べられますが、「喜び」ということばの原語が「エデン」です。これは「一つの川がエデンから湧き出て、園を潤していた。それは園から分かれて、四つの源流となった」(創世記2:10) という表現を思い起させます。

それは、神の救いにすがる者に、エデンの園での祝福に満ちた喜びが回復されることを意味します。

そしてその理由が、「それは いのちの泉はあなたとともにあるからです」(9) と告白されます。これは「いのちの泉」が人間の力によって獲得できるものではなく、神の恵みによって一方的に与えられるものだからです。

私自身もこの世的な成功で平安を得ようと頑張ったあげく、絶え間のない「渇き」に駆り立てられるような生活から自由になり、「いのちの泉」の源である神に立ち返ろうと、イエスを信じるようになりました。

かつてイエスは真昼に遠い井戸の水を汲みに来たサマリヤの女に「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」(ヨハネ4:14) と約束されました。

ただし、私はイエスを信じたら「渇き」が無くなると期待しましたが、そうはなりませんでした。それどころか別の「渇き」が出てきました。それはもっと神の愛で満たされたいという思いでした。

しかし、そこで分かったのは、その新たな「渇き」を起こしているのは神ご自身であり、それはイエスとの生きた交わりの中で満たされ続けるということでした。それは「飲む人は」と言われた「飲む」ということばはギリシャ語のアオリスト形で、一度「飲む」という行動を取った者は、「いつまでも決して渇くことがありません」という新しい状態に入れられるということです。

ただこれはイエスとの生きた関係が絶たれることがないという意味であって、心理的には「渇き」を覚えて神を慕い求め、そこで満たされ、さらにまた「渇く」というプロセスは続きます。それは昼と夜が繰り返されることに似ています。

ですから、「たましいの暗夜」と言われる絶望のときを通ることを恐れる必要はありません。それは神の愛の御手の中で起きることで、それを通して自分の心の奥底の問題に気づかされ、主に取り扱っていただけるのです。

さらにそのことが「あなたの光のうちに 私たちは光を見ます」と告白されます。それは私たちの罪を明らかにする「神の光」は、同時に、私たちを癒すところの「」でもあると解釈できます。

私たちはこのアダムの子孫としての肉体を持っている限り、古いアダムの性質との戦いが自分のうちに続きます。しかし、その私たちの心の闇を照らしだすは、同時に、私たちを心の奥底から作り変えてくださる神の光なのです。

ヨハネの福音書の最初には、イエスに関して「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった(1:4、5) と記されています。光の創造主であるイエスこそが闇の力に打ち勝たせてくださいます。

太陽の光は眩しく暑すぎることがありますが、来たるべき新しいエルサレムでは、「都には、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである」(黙示21:23) と記されています。

聖書の歴史はエデンの園に始まって、「新しいエルサレム」で完成します。そこはイエスご自身が私たちを照らす光となっておられる世界です。

3.「高ぶりの足……悪しき者の手」からの守り

10節では、「注ぎ続けてくださいあなたの慈愛 (ヘセド) を あなたを知る者に。 あなたの義を 心の直ぐな人たちに」と祈られます。私たちを滅びの中から引き出し、エデンの園にあった喜びに満ちた祝福の中へと導いてくださる神の慈愛 (ヘセド) は既に私たちの心の奥底に注がれていますが、さらにそれが「注がれ続けるように」とここで祈られています。

さらに「あなたの義」が「心の直ぐな人たちに」注ぎ続けられるようにと重ねて祈られています。これも神がご自身の契約を守り通すという「(正しさ)」が私たちのうちに神が喜ばれる「高潔さ」として現わされることを願ったものと理解できます。

またイエスは、「まず神の国と神の義を求めなさい(探しなさい)。そうすれば、これらのものはすべて(何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかなどの必要)、それに加えて与えられます」(マタイ6:33) と言われましたが、そこで「神の国(ご支配)」と「神の義」はセットに描かれています。

ですから、神の義」とは、この世界を神がご自身の正義の基準で保っているということを意味すると言えましょう。そしてこれは、先の「不法」ということばと対照的です。

讃美歌90番の「ここも神の御国なれば」の3番では「よこしま(不法)しばしは 時を得(う)とも 主の御旨のややに成りて 天(あめ)地(つち)ついには一つとならん」と歌われます。これは、世に不法やよこしま(不法)が満ちているように見えていたとしても、神の正義の支配は広がって行き、天の神のご支配がこの地にも実現するという希望を歌ったものです。

さらにコロサイ1章17節では「御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています」と告白されますが、これは万物に先立って存在する御子に「神の慈愛(ヘセド)」が、万物を成り立たせている御子に「神の義」が現わされているとも言えます。

神の慈愛は万物を成り立たせる原因であり、神の義とは万物を統合させる神の完全さと呼ぶことができるかもしれません。

さらに11節では、「高ぶりの足が私に追いつくことがありませんように。 悪しき者の手が 私を追いやることがありませんように」と祈られます。これは私たちがこの地上の生活では神の敵に囲まれるという危険のただ中に生きざるを得ない現実があるからです。

もし、神が私たちを「高ぶりの足」「悪しき者の手」から守ってくださるということがなければエデンの園の祝福へと戻ることはできません。これは先の4節で悪しき者が「不法を謀っている」ことの結果の現れでもあります。

そしてそれは先の神の慈愛 (ヘセド) と神の義こそが、神に従いたいと思う者をそのようなものたちの攻撃から守ってくれるという意味になります。

12節の「そこでは」とは、神が私たちを導いてくださる「その場」を指します。そして「そこでは不法を行う者たちは倒れます。 彼らは突き倒されて 立ち上がることができません」と告白されています。

ここでの「不法」ということばは三回目の登場で、「慈愛 (ヘセド) が三回登場することと対照的です。この「不法」こそが、「神の慈愛 (ヘセド)」と「神の義」を見えなくするものだからです。

私たちはそのような「不法」を自分の力で目の前から除き去りたいと願いますが、使徒パウロは、「自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい(場所を空けなさい)。こう書かれているからです。『復讐はわたしのもの。わたしが報復する』」と述べました (ローマ12:19)。それは神が私たちに「不法を働く者」に対して公平なさばきを下されるということを前提として語ったものです。

そこで私たちの務めは、「敵が飢えていたなら食べさせ、渇いているなら飲ませる」ことであり、それこそが「善をもって悪に打ち勝つ」道であると記されています (同12:20、21)。

多くの人々は、神のさばきを恐怖の対象と見ています。しかし旧約聖書では神の「さばき」は、神にすがる謙遜な貧しい者を救うこととして描かれます。神のさばきこそは福音なのです。

たとえばゼパニア3章では、「そのとき、わたしがあなたのただ中から、おごり高ぶる者どもを取り除く……あなたはわたしの聖なる山で二度と高ぶることはない。わたしはあなたのただ中に、へりくだった、貧しい民を残す。彼らは主 (ヤハウェ) の名に身を避ける……主 (ヤハウェ) はあなたへのさばきを取り除き、あなたの敵を追い払われた……あなたの神、主 (ヤハウェ) は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」(11、12、15、17節) と約束されています。

すべて自分の罪深さを認め、遜ってイエスの御名を呼び求める者に、神はこのように語ってくださいます。主は「あなたのことを大いに喜び」あなたの喜び(エデン)の園の祝福に迎え入れてくださいます。

イエスを救い主と信じ受け入れている人は、神の目にはもう「おごり高ぶる者」ではありません。「主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」と約束されたことがあなたにそのまま実現しています。

今、この世界では、自分を正当化し、お金と権力で人を従えることができるような人が上に立っていると思えるような現実が、ときにあるかもしれません。

しかし「悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみ出されることを恐れて、光の方に来ない」(ヨハネ3:20) と記されているとおり彼らはイエスを敵にしているだけです。

ただし「闇は光に勝つ」ことはできません。しかも、あなたの罪のために十字架にかかられたイエスは、罪を照らす光であるとともに、あなたを癒す光です。この世界はエデンの園から始まって癒しの光に満ちた新しいエルサレムに向かっています。