北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの救出を巡って、本人情報の公表に関して当初ご両親の間に葛藤があったとのことです。そのときお父様は、「きちんと出して覚悟して進まなければだめだ」と言われ、お母様は、それに従ったおかげで「北朝鮮のことが世界中に分かってもらった」と言っておられます。
戦いにおいては覚悟が大切です。ヨブ記のテーマは「不条理な苦難」というより、神とサタンとの戦いに、ヨブが神の戦友として用いられた記録とも言えるかもしれません。だからこそ、主はヨブに向かって、「腰に帯を締めよ、勇士のように」と繰り返しておられます。ここからイエスの十字架の意味が見えてきます。
1.「すると主 (ヤハウェ) はヨブに答えられた、嵐のただ中から」
38章1節は、「すると主 (ヤハウェ) はヨブに答えられた、嵐のただ中から。そして言われた」と記されています。今までヨブは、「私があなたに向かって叫んでも、あなたはお答えになりません」(30:20) と言っていたように、必死に神に訴えていました。
そしてヨブの友人たちの主張は、彼がこのようなわざわいに会っていること自体が、全能の神からの応答としてのさばきであるというものでした。そこでヨブの訴えは「全能者が私に答えてくださるように」(31:35) という願いで終わります。
そして、最後のヨブの友のエリフは、「訴えは神の前にある。あなたは神を待て」(35:14) とヨブに助言をしていました。ところが今、主ご自身が直接にヨブにことばをかけてくださったのです。これは、恋い焦がれていた人から語りかけてもらえる以上に、驚くべき感動です。
しかも、今までは、ヨブも友人もこの方のことを「神」とか「全能者」と呼びかけていたのに、ここでは主 (ヤハウェ) ご自身の固有の名で記されます。これは1、2章にあったサタンとの対話で描かれた主 (ヤハウェ) の御名と同じです。
ヨブはこの主 (ヤハウェ) ご自身の語りかけを聞くことができたということ自体に安心を得たことでしょう。しかも、このことばは「嵐のただ中」から発せられたもので、そこには何とも言えない恐怖が伴ったことでしょうが、同時に、この途方もない嵐も、主のご支配の中にあるということが明らかです。
続く2、3節は、「この者はだれか、摂理(主の計画、意図)を暗くする者、知識もなく言い分を述べる者は。さあ、腰に帯を締めよ、勇士のように。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ」と記されています。これはヨブを沈黙させる乱暴なことばに見えますが、そうではありません。
ヨブは神に向かって「あなたは残酷な方へと変わられました……御手の力で私を攻め立てられます」(30:21) と訴え、また神が自分の敵となっている状況を嘆いていました (16:9参照)。それに対し神は今、ご自身の「摂理」とも言える「測り知れない計画」があるということを紹介して安心させ、それはヨブの知識を超えていると言っておられるのです。
私たちは1、2章で、主 (ヤハウェ) がサタンに対して、ヨブの誠実(完全)さ、まっすぐさを自慢するかのように語っていたことを知っています。それはヨブには最後まで知らされませんが、神はヨブを敵視したのではなく、ヨブのその資質を通してサタンへの勝利を宣言しようとしておられるのです。
しかも、「腰に帯をしめよ、勇士のように」とは、ヨブが自分の主張の最後で、「君主のようにしてこの方に近づきたい」(31:37) と願ってことへの応答とも言えます。
そして何よりも「この者はだれか」と、ヨブが被造物にすぎないことを思い起させる表現を用いながらも、「あなたに尋ねる、わたしに示せ」と対話を促していることを忘れてはなりません。天地万物の創造主がたった一人のヨブを選び出して、対話をしていること自体が驚きです。
2.「どこにいたのか、だれがその大きさを定めたのか、あなたは知っているはずだ」
4、5節で主はヨブに、「どこにいたのか、わたしが地の基を定めたとき。だれがその大きさを定めたのか、あなたは知っているはずだ。だれがその上に測り縄を張ったのかを」と問いかけています。それは、「どこに」とか「だれが」と問いかけることによって、私たちが分かっていることと知り得ないことの区別を明確にさせる問いかけです。
さらに6、7節でも、「何の上にはめ込まれたのか、その台座は。だれが据えたのか、その要の石は。明けの星々がともに喜び歌い、神の子たちがみな喜び叫んだときに」と問いかけがなされます。これらの表現は、神がこの天と地をご自身の神殿として創造されたことを示唆しています (イザヤ66:1、2参照)。そこには御使いたちの喜びがありましたが、そこにヨブはいなかったことが明らかです。
8ç11節では「海」の創造について描かれます。「新しい天と新しい地」においては「もはや海もない」と描かれるように (黙示21:1)、海は古代の人々にとって恐怖の対象でした。
しかしここで主は、海がご自身の「胎内から流れ出た」かのように描いています (38:8)。しかも、海と陸との境界線を「ここまで……これ以上はいけない……ここでとどまれ」(38:11) と命じて、神が地の生き物を守っておられることが強調されます。
12–15節は、当時の人々が毎日の「朝」を「新しい創造」のように、また「夜」を「地のふち」から暗幕が広げられるときのように捉えていたことを前提として記されます。
ヨブは苦しみの中で「暁のまばたきを見ることがないように」と願っていました (3:9)。それに対して神は、ヨブが幸いを味わい続けていた時代の「生まれてこのかた」、夜明けの準備で暗幕の中に身を潜めていた「悪しき者を……振り落とした」ことがあるかを問います。
今のヨブに毎朝が恐怖の始まりのように思えても、彼が幸せだったとき、主が夜の間に悪しき者を滅ぼし、「光」を彼らから「退けて」いてくださったことを、彼は思い起こすべきだったです。
38章16–21節で、主は「海の源」「死者の世界」「地の広さ」「天の広がり」をヨブに思い起させ、彼が人生の中で、そのような限界まで体験したかを問いかけます。それはヨブが「ああ、できれば昔の月日のようであったらよいのに」(29:2) と昔の時代を懐かしみ、現在の不幸を嘆いていたことへの答えとも言えましょう。
「あなたはよく知っているはずだ……あなたの日数は多いのだから」(38:21) とは、ヨブに対する愛に満ちた皮肉とも言えます。ヨブはまだ知るべきことを知らないまま、昔を懐かしんでいるに過ぎません。
22–30節で、主は、気象現象を示しながら、ヨブの知識の限界を問いかけます。「東風」(38:24) はイスラエルの東に広がる乾燥地帯から吹いてくるもので、地の作物を枯れさせます。一方、「稲光」とともに降る「雨」は、「荒れ果てた廃墟の地を満ち足らせ、それに若草を生えさせ」ます (38:25–27)。
その上で、主は、「雨に父があるのか……氷はだれの胎から出てきたのか。空の白い霜はだれが生んだのか」と問いながら (38:28、29)、気象現象の中に、神の新しい創造のみわざを見させようとします。これは、ヨブが「自分の生まれた日を呪った」(3:1) こと、「なぜ私は、胎内で死ななかったのか。胎を出たとき、息絶えなかったのか」(3:11) と問いかけたことへの答えであると言えましょう。
NHK朝ドラの「おかえりモネ」で描かれるように、現代人は学びによって、気象現象の未来予測が可能になると考えがちですが、当時の人々にとって、気象現象こそ神の創造のみわざと思われました。
とにかく、ヨブは、驚くほど複雑な約束の地における気象現象を通して、神による「新しい創造」に目を向けるべきなのです。それはヨブの友人たちが、人生の幸不幸を原因結果で捉えたことへの神の答えでもあります。
「荒野と砂漠は喜び、荒れ地は喜び踊り、サフランのように花を咲かせる」と言われるときは、同時に「目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる」という (イザヤ35:1、5)、人生における「新しい創造」を期待できるときでもあるからです。
31–33節には天の星座の話しが登場します。これはほとんどが現代人に分かりやすいギリシャ風の星座名に訳しなおされています。たとえば、オリオン座と訳されたヘブル語は「愚か者」ですが、ギリシャ人と同じイメージをこの星座に持っていたとは思われません。
とにかくここは星と星を「結ぶ」または「解く」ということで神の創造のみわざを思い起させ、ヨブに「天の掟を知っているか」「地の法則を立てられるか」と尋ねています (38:33)。これはヨブが、「神は怒って、山々をくつがえされ……地をその基で震わせ……星も封じ込め」(9:5–7) などと、神がわざわいの創造主であるかのように描いたことへの答えとも言えます。
34–38節は22–30に描かれた天候の話しの連続だと思われます。とくに「だれが天の水袋を傾けることができるか」(38:37) と問われるように、イスラエルに雨を降らせることこそ神のみわざのシンボルでした。
とにかく神の創造のみわざは被造世界全体に現わされていることをヨブは心から知る必要があるというのです。私たちも世界の不思議を見ながら、神の日々のあわれみのみわざに感謝することができます。
3.「烏の子が神に向かって鳴き叫ぶときに」
38章39節からは、荒野に住む動物の世界のことが描かれます。そこでは、「あなたは獲物を狩るのか、雌獅子のために。また若い獅子のために食欲を満たすのか、それらが洞穴に伏し……ているときに」という問いかけから始まります。詩篇104篇21節では、「若い獅子は……神に自分の食物を求めます」と記されるように、最も力強いライオンの必要を満たすのは、主ご自身であるからです。
また41節は「だれが烏に餌を備えるのか」という問いかけから始まり、「烏の子が神に向かって鳴き叫ぶときに」と続きます。この背後には、ヨブが同じことばを用いて自分は「叫び求める苦しむ人を……助け出した」(29:12) という告白があります。
ヨブは自分の正義を、自分は貧しい人ややもめの叫びに耳を傾け助けてきたと弁明しましたが、神こそがライオンの子から烏の子までの叫びに耳を傾け、それらの必要を満たしているというのです。
39章1–4節には、野生の「野やぎ」や「雌鹿」のことが語られます。ヤコブは「やぎ」の繁殖をうまく導くことによって家畜を増やしましたが (創30:37–43)、ここで主はヨブに向かって、「あなたは知っているか、野やぎが子を産むときを。見守ったことがあるか、雌鹿が子を産むのを」と問いかけながら、野生のやぎや鹿が、羊飼いの世話を必要とせず、神ご自身によって守られ、放り出された胎児が力強く成長する不思議に目を向けさせます。
さらに39章5–12節では、「野ろば」「野牛」について語られます。ろばも牛も、農作業に不可欠な動物で、人の世話を受けることの結果として人に仕えているように見えます。しかし、野生のろばも牛も、本来、人の世話を必要とはしないもので、また人の「働き」を「任せる」べき対象でもないと描かれます(11節)。
詩篇104篇10、11節に記されるように、「主は泉の水を谷に送り 山々の間を流れさせ 野のすべての獣に飲ませ……野ろばも渇きを癒す」ことができるように守っていてくださるのです。
39章13–18節では、のろわれた動物の代表である「だちょう」も神のご計画の中で生かされていることが語られます。だちょうは「卵を地面に置き去りにし」、「その産みの苦しみが、無駄になることも全く気にしない」のですが、それは「神がこれに知恵を忘れさせ……悟りを授けなかったから」と説明されます。
しかし、「それが高く飛び跳ねるとき、馬とその乗り手をあざ笑う」かのような強さを現わすと描かれます。かつてヨブは、「私はジャッカルの兄弟となり、だちょうの仲間となった」(30:29) と自分の身を嘆いていましたが、そのようなだちょうも、神の不思議な摂理の中で生かされているということがここで示されています。
19–25節では「馬」のことが描かれます。馬はここに登場する動物の中で唯一、野生に生きずに、人間に飼い慣らされますが、不思議にもそこには生まれながらの驚くべき「力」が与えられています。
「馬は……力を喜び、武器に向かって進んで行く、恐怖をあざ笑って、ひるむことなく、剣の前から退くことはない」のですが、これほど勇猛な動物が、飼い主に従うこと自体が、神の不思議なみわざと言えましょう。
39章26節では、「あなたの考え(分別)によっているのか。鷹が舞い上がり、南にその翼を広げるのは」と問われます。これは鷹が冬にはるか南に移動することを指しますが、それと同じ理解力をヨブは持っているのかという問いかけだと思われます。この背後に多くの渡り鳥の行動がイメージされますが、その行動は人間の理解力をはるかに超えています。
さらに27、28節では「鷲が高く上がり、その巣を高いところに作るのは」、「あなたの口(命令)によっているのか」と問われます。その目的は、「切り立つ岩の上……から獲物を狙う」ためですが、別にヨブの命令で鷲が高く飛ぶわけではないことは明らかですから、ここでヨブの「口」と獲物を狙う鷲の「口」が重ねられていると考えることもできましょう。それはヨブの直感能力を超えた働きであると言われているだと思われます。
最後の39節の「ひなは血を吸い、殺されたもののところに、それはいる」という記述は、38章41節の「烏の子が神に向かって泣き叫び」という初めの描写に立ち返るものです。ひなは、自分の必要が満たされるのをただ待つしかないのですが、それを満たすのは親の鷲である前に、神ご自身であるというのです。
とにかく、鷹も鷲も人間の知恵や直感を超えた行動をします。エレミヤ8章7節では、「空の鳥」が「自分の季節を知っている」こととの対比で、「わが民は主 (ヤハウェ) の定め(さばき)を知らない」と記されています。それは、残念ながら、ヨブにも適用できることと言えましょう。
4.「すべての高ぶる者を見よ。そしてこれを押さえ、悪者どもを、その場で踏みにじれ」
40章1、2節では、「主 (ヤハウェ) はヨブに答えられた。そして言われた、『全能者と(言い)争おうとするのか、非難する者が。神を責める(叱責する)者は、それに答えよ』」と記されています。
ヨブは、神が自分を理由もなく苦しめていると「非難」しています。ヨブは自分の側に正義があるかのように言い争う態度を取っていますが、神はヨブを「神を責める者」と呼びながらも、彼のことばに耳を傾けようとしています。
ヨブの友人たちは、彼が神を冒涜しているかのように非難していましたが、神はヨブとの対話を求めています。
それに対してヨブは、ただ神が親しく自分に向き合ってくださったこと自体を喜び、「ああ、私は取るに足りない者です。あなたに何と口答えできるでしょう。私はただ手を口に当てるばかりです」と応答します (40:4)。
ヨブは神に憎まれ、無視されているかのように感じていたのですが、今、主がご自身の全能のわざをヨブに説明してくださいました。それはヨブの訴えには、直接的には答えていないようでありながら、この地上の気象を支配し、烏の子の叫びに耳を傾ける神が、自分を大切に思っていることが分かりました。
それでヨブは、「一度、私は語りました。もう答えません。それどころか二度も。さらに付け加えはしません」と応答します。ヨブは、もう神と「言い争う」必要を感じなくなったのです。
これは、親に自分の願望を泣きながら訴えていた子どもが、親の抱擁を受け、何を訴えていたかを忘れるようなことに似ています。
そして6、7節は先の38章1–3節と同じで、勇士のように主の前に立つことの勧めです。
8節には主の怒りが込められ、「おまえは何とわたしのさばきを無効にしようとするのか(無にするのか)。おまえはわたしを悪とする(不義に定める)のか、自分を正義とするために」と言われます。ここでの神の「さばき」とは、裁判において有罪、無罪を決めるという意味ではありません。それなら、神が正しいか、ヨブが正しいかのどちらかになりますが、どちらにも正義があるというのがヨブ記のテーマなのです。
私たちのまわりのことでも「どちらが悪いとも言えない」という複雑なことがあります。そのように、善悪を超えた神のご支配こそ、聖書が語る「さばき(ミシュパート)」なのです。これは先に神がヨブを「摂理を暗くする者」と非難したことと同じ意味です。
神にはヨブには理解できない「ご計画(摂理)」があるのですが、それこそ「神のさばき」です。
さらに40章9–11節では、「あなたには神のような腕があるのか。神のような声で雷鳴をとどろき渡せるのか。さあ、誉れと気高さで身を飾り、威厳と威光を身にまとえ。あなたの激しい怒りを吐き散らせ」と驚くべきことを勧めます。
これはヨブが自分を神のような立場に置き、神を非難していることに対し、皮肉を込めて、「それなら神のように振舞ってみろ!」と、突き放すように語ったという意味だと思われます。
そして「すべての高ぶる者を見よ。そしてこれを低くせよ。すべての高ぶる者を見よ。そしてこれを押さえ、悪者どもを、その場で踏みにじれ」と説明します。
ここでは「すべての高ぶる者を見よ」という命令を繰り返しながら、ヨブに真の敵を指し示しながら、「おまえが神なら、これらと戦い、これらの力を踏み砕いてみろ」と、チャレンジしているのだと思われます。神はヨブにサタンの存在を隠してはいますが、これを通して、ヨブにとっての敵となっているのは、神ご自身ではないということを示唆したと言えましょう。
しかも神はここでさらに、「彼らをともに土に中に隠し、その顔を隠れたところにつなぎ留めよ」と命じます (40:13)。これは、黙示録20章で、神がサタンとその勢力を「底知れぬ所に投げ込んで鍵をかけ、その上に封印をする」(3節) と記されるような、途方もないさばきのみわざで、神にしかできないことです。
主は、もしヨブがそのようなことができるなら、「あなたの右の手は自分を救うことができる」と言って、ヨブを「たたえよう」と言われます。これは明らかに逆説的な皮肉です。ヨブは、神からサタンの存在を聞いてはいませんが、そのように「高ぶる者」との戦いが、神にとっても困難を極めるということを示唆されたのかもしれません。
神はヨブの傲慢さを真っ向から非難しているようでありながら、「すべての高ぶる者」との戦いを示唆しています。確かに神は、皮肉を込めて、その勢力との戦いにヨブが勝利できるかと問うているのですが、そこには、ヨブを戦いの「戦友」として扱う思いが隠されています。
実際に、神はサタンにヨブを苦しめることを許可しながら、ヨブの痛みをご自身の痛みとし、ヨブと共にサタンと戦っていたと言えましょう。
イエスの時代に、多くの人々は、救い主が現れたなら「高ぶる者」との戦いを速やかに制覇して、神の国を確立すると期待していました。ヨブ記においても、私たちは神がサタンを抑えるために、最愛のヨブに犠牲を強いる必要があるということに違和感を覚えます。
しかし、圧倒的な力で悪を滅ぼすという方法こそが、サタンの常とう手段で、サタンはそのような力による解決に人々の目を向けさせ、この世界に争いの連鎖を生み出させようとしています。
神がヨブをご自身の協力者として用い、ヨブの苦難を通してサタンに勝利しようとされたということは、後に神がご自身の御子の十字架の苦しみを通して、サタンの力を無力化するということにつながります。
人の目には十字架は、神の御子がサタンとその勢力に敗北したしるしでしたが、神と神の民にとっては、十字架はイエスが死の脅しと恐怖に勝利したしるしとなったのです。十字架こそが、神による「新しい創造」のみわざでした。十字架への歩みこそが、サタンへの勝利の道でした。