昨年来、元法務大臣の河井克行議員の醜聞がマスコミを賑わしていました。法務省の英語表記は「Ministry Of Justice(正義の省)」ですが、多くの人はこんな品位のない不誠実な人が法務大臣であったと報じられることに政治不信を抱いたことかと思われます。ただ同時に、このような人を何度も当選させた広島選挙区の方々は、それほど人を見る目がなかったのかといぶかしく思っていました。
残念ながら、人の評価は、その人の置かれている状況や立場によって驚くほど変わります。現在、当教会でのメッセージでは、ヨブ記をともに味わっていますが、そこでヨブは、自分が財産全てを失い、重い病に冒されたときに、人の態度がガラッと変わったことを以下のように述べています。
親族は見放し、親しい友も私を忘れた。
私の家に身を寄せる者や召使の女たちも、
私をよそ者のように見なし、私は彼らの目に他人となった。
私がしもべを呼んでも、彼は返事もしない。
私は自分の口で彼に懇願しなければならない。
私の息は妻にいやがられ、身内の者たちに嫌われる。
若輩までが私を蔑み、私が立ち上がると、私に言い逆らう。
親しい仲間はみな私を忌み嫌い、私が愛した人たちも私に背を向けた
ヨブ記19章14-19節
ヨブのように人々から尊敬されていた人でも、わざわいに会う時に、多くの身近な人から見捨てられることになります。
河井氏も、同じような孤独感を味わっていたことでしょう。しかし、誰からも見捨てられたと思える時、不思議なことが起きます。
多くの報道機関は、そのことを「保釈後間もなくして、20年以上交流がある教会の神父から激励の電話があったという。神父からは『自分の内面に誠実に向き合ってください』と言われたとし、この言葉で買収を認める決意を固めたと述べた。」と報じています。
それを読みながら、何か、ほっとした気持ちを味わいました。たぶん、この神父の方は、本当に親身に彼のことを心配し、彼にとっての最善と思えることをアドバイスしたのだと思われます。河井氏も、神父が本当に自分のことを親身に心配してくれていることに感動し、その勧めに従ったと言っていることでしょう。
なお、河井氏の信仰はよくわかりません。何しろ経歴には神道政治連盟国会議員懇談会に属するなどと記されているほどです。
ただ、彼は同時に、カトリック・イエズス会が設立母体である広島学院中学・高校の出身で、母親の聡子さんが05年に死去した際には、葬儀・告別式がカトリック祇園教会(広島市)で行われていたとのことです。そればかりか、ローマ教皇フランシスコの訪日決定を伝える公式ブログの記事では、05年に前教皇ベネディクト16世が就任して以来、それまでに計6回にわたりバチカンを訪問し、教皇訪日を要請してきたことを明かしているとのことです。
どちらにしても、すべての人から見捨てられたと思ったであろうとき、また裁判で争っても難しいと思えた時、最後に頼りにしたのは、神に仕える神父のことばであったというのは、嬉しく感じられました。それは神父が、この世のすべての損得勘定から自由な立場から彼に寄り沿ってくれたからでしょう。
なお、詩篇142篇にも、身近な人々から目を背けられる苦しみが以下のように描かれています。
ご覧ください。
私の右に目を注いでください。
私には顧みてくれる人がいません。
私は逃げ場さえも失って
私のいのちを気にかける人もいないのです
詩篇142:4
以下は、以前記した詩篇142篇の解説です
詩篇142篇 「絶望感の告白から生まれる感謝」
標題は、ダビデがイスラエルの初代王サウルの攻撃から身を隠すために洞窟に隠れたことを指します。聖書ではそのうちの二回が描かれますが (Ⅰサムエル22:1、24:3)、どちらの場合も、不思議にも、そこからダビデの新しい歩みが始まっています。ただし、ここでは4節にあるように「私は逃げ場さえも失って」と記された絶望的な状態での祈りが描かれています。「洞窟」は入り口と出口が同じですから、敵が来たらひとたまりもありません。
1節では「声を上げて」ということばの繰り返しが印象的です。そして2節では「御前に」と繰り返しながら、ダビデは自分の祈りを描いています。それは彼が「私はいつも 主 (ヤハウェ) を前にしています」(詩篇16:8) と告白したとおりです。私たちは、「それなら、静かに祈っていたらよいのでは……」とも思いますが、ここでは声を張り上げて、大胆に自分の気持ちを訴えているようすが描かれます。それこそが彼の祈りの特徴とも言えます。
また3節では、「私の霊が……衰え果てたときにも」と自分の状況を描き、その上で「あなたは 私の道を知っておられます」と告白します。ここでも、「それなら黙って待っていれば良いのでは……」とも思いますが、4節では、大胆に、「ご覧ください 私の右に目を注いでください」と性急に訴えています。
そしてその理由が「私には 顧みてくれる人がいません」と描かれます。ただ、その嘆きも、「主が私の右におられるので 私は揺るがされることはありません」(詩篇16:8) という信頼と矛盾しているように思え、「人の理解や同情を求めること自体が、信仰的ではない」と言われかねません。
ある人は孤独感を味わいながら、そのように自分に言い聞かせているうちに、「祈ることすらできなくなった……」とのことです。しかし、詩篇69篇20、21節で「同情」や「慰める者」を求める祈りが記され、しかもそれが十字架のイエスのお気持ちでもあった (ヨハネ19:28) ということが分かった時、自由に自分の気持ちを祈ることができるようになり、信仰が回復しました。
知的に神を理解する以前に、神があなたの感情を受け入れてくださることが分かることで、信仰が活性化されます。それは「心が通じ合う」ことが人間関係の基本であるのと同じです。
5節の「あなたこそ私の避けどころ 生ける者の地での 私の受ける分」ということばは私たちにとっても最も基本的な大切な告白です (16篇5、6節参照)。それは、主 (ヤハウェ) がご自身を求める者のいのちを守り、必要を満たしてくださるという信頼です。
ただ、ここでも続けて、ダビデは自分が受けている攻撃の激しさを切々と訴えています。その上で、不思議にも、「私があなたの御名に感謝するようにしてください」(7節) と記されます。それは、ダビデの感情を絶望感から喜びに満ちた希望に変えてくださるのは、まさに主ご自身のみわざであるという告白です。
私たちは、自分で自分の心を管理するように訓練されてきていますが、それができるぐらいなら、祈りは必要ないとも言えます。自分の心の貧しさを主に認めることこそ、神に喜ばれる生き方の始まりです。続けて、「正しい人たちは私の周りに集まるでしょう」という希望が記されますが、それが実際にダビデに実現します。ダビデが身を隠していた洞窟に、次々と仲間が集まってきたからです (Ⅰサムエル22:2)。
祈り
主よ、あなたは私の不安や絶望感をすべてご存知です。しかし、それでも、私の心の奥底の混乱した気持ちを、この口で表現することを待っておられ、望んでおられます。そして、その生きた神との交わりから、生きた人との交わりも広がることを感謝します。