ヨブ記4〜7章「抽象的な正論を言われることの切なさ」

2021年1月17日

ある人が最愛の人を失った時に、友人のクリスチャンから「神がすべてのことを働かせて益にしてくださる」(ローマ8:28、新改訳第三版) と言われ、無性に腹が立って、そのみことばが大嫌いになったという話を聞いたことがあります。

自分のいのちよりも大切なものが奪われたと悲しんでいるときに、それが「益とされる」というのは何の慰めもならないどころか、神を残酷で無慈悲な支配者にしてしまいかねません。

そのように目の前の人の具体的な痛みを共に味わおうとする姿勢が不足したまま、抽象的な正論を言う誘惑がすべての信仰者にあります。みことばは、人を傷つける「抜き身の剣になる」(詩篇55:21) ことを覚えるべきでしょう。

1.「さあ、思い起こせ。だれか、潔白なのに滅びた者があるか」

4章初めは、厳密には「すると答えた、テマン人エリファズが、そして言った」と記されています。つまりエリファズはヨブの疑問に答えようとしたのです。

ヨブは3章11、20節で、「なぜ私は、胎内で死ななかったのか。胎を出たとき、息絶えなかったのか」、「なぜ、苦悩する者に光が与えられるのか、心の痛んだ者にいのちが……」と問うていました。それは神への訴えで、友への質問ではありませんでしたが、彼は「自分の生まれた日を呪った」(3:1) ヨブの姿勢に対して沈黙を守るべきではないと義憤に駆られたのでしょう。

なおエリファズの出身部族の「テマン」はエサウの孫の名で、その地は「知恵」で有名でした (エレミヤ49:7)。エリファズは、ヨブ自身が「多くの人を訓戒し、弱った手を力づけ、つまずいた者を起こし、くずおれる膝をしっかりさせてきた」(4:3、4) という今までの歩みを優しく振り返ります。

しかしヨブが、自分にわざわいが及ぶと耐えられなくなっているように見える現実を前に、「(神を)恐れることは、あなたの確信ではないか。歩みの完全さこそ、あなたの望みではないか」(4:6) と、ヨブが主 (ヤハウェ) を恐れ、完全な道を歩んできたことを思い起こさせながら、彼が神への苦情を訴える代わりに、現実を謙遜に受け止められるようにと励まします。

ここまでのエリファズのことばはヨブに寄り添いながら力を与えようとする合理的なものですが、7節からのことばはヨブの心を切り裂くものと言えます。

それは、「さあ、思い起こせ、だれか、潔白なのに滅びた者があるか。どこに、真っ直ぐなのに絶たれた者があるか。私の見てきたところでは、不法を耕して害悪を蒔く者が、自らそれらを刈り取るのだ」(7、8節) と、因果応報を説くものでした。

事実、ヨブが受けた病に関しては、申命記28章35節では、主の御声に従わない者に対するさばきとして「主はあなたの膝とももを悪性の種物で打たれ、あなたは癒されることがない。それは足の裏から頭の頂にまで及ぶ」と描かれていました。エリファズはこのような聖書の記述を思いながら、善意からヨブに反省を求めたのでしょう。

その上でエリファズは、10節からライオンのような強い動物の滅亡の例を引き合いに出しながら、自分に超自然的に与えられたという「知恵」のことばを述べます。

それは「人は神の前に正しくあり得ようか。その造り主の前にきよくあり得ようか。見よ。神はご自分のしもべさえ信頼せず、御使いたちのうちにさえ、誤りを認められる。まして、ちりに土台を据えた泥の家に住む者はなおさらのこと」(4:17-19) という、私たちの完璧さを求める基準でした。

それはたとえば現代は、神には罪人をさばく圧倒的な聖なる基準があり、どれほど正しく誠実な人間でも、イエス・キリストの贖いなしには天国に行くことができないという神学として表されます。しかし、列王記9章4節では、あの欠けだらけのダビデが神の前に「全き心と正直さをもって歩んだ」と描かれています。

またイエスは私たちに、「あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」(マタイ5:48) と命じられましたが、それは悪人にも善人にも太陽を昇らせ、また雨を降らせてくださる神の寛容さに倣うようにという達成可能な勧めであって、不可能な完璧さを求める意味はありませんでした。

神が人に罰を与えることを正当化するために、人間の不完全さを指摘するというのは、神の愛に反します。

4章21節は「彼らの天幕の綱は取り去られないだろうか。彼らは死ぬ、知恵がないままで」と訳すことができます。エリファズは「知恵」を大切にしていますので、このことばが17節からの議論の最後に来ます。

これは神が汚れた人間にわざわいを下すことを正当化する議論ですが、私たちはそのような減点主義者、感情の通じない神を愛したいと思うでしょうか。

神は最後にエリファズを、「わたしについて確かなことを語らなかった」と非難します (42:7、8)。神のさばきの正当性を弁護しようとしながら、神に関して誤った説明をすることほど、神を悲しませる論理はありません。

私たちは1、2章を通して、神はヨブの何らかの罪を裁くために、わざわいを下したわけではないことは分かっています。神はエリファズの議論とは正反対に、ヨブの正しさを認め、彼を心から信頼していたからこそ、彼をサタンの攻撃に任せたのです。

実は、エリファズの議論は中世に生き残っていました。それは、神は遠い天から愚かな人間を冷たく見下ろし、それぞれの過ちを記録し、終わりの日にその減点主義によって罪を裁くという考え方です。

その際、イエスでさえ厳しい裁判官に祭り上げられ、聖母マリアの母の愛にすがることによって、またカトリック教会が定めた罪の赦しの手続きを実行して初めて救われるという教えです。そこから贖宥状などという不合理な手段さえ生まれて宗教改革の引き金になりました。神の正義ばかりを強調することには、とんでもない落とし穴があります。

2.「ああ、幸いなことよ、神が叱責するその人は」

5章1-7節のことばは、ヨブを嘲っているようにも見えますが、エリファズとしては真心を込めた愛の鞭のつもりだったことでしょう。

実際、ヨブは3章で、自分の生まれた日を呪い、生まれてすぐ死んでいれば、どれだけ楽だったことかと、生きる希望を全面的に否定し、自殺を肯定するかのようなことばを発していたからです。

それに対しエリファズは、ヨブの問いかけ自体が愚かであると、自分の愛を確信しながら叱責しようとしています。事実、ヨブの「なぜ私は、胎内で死ななかったのか……なぜ、苦悩する者に光が与えられるのか」と問いかけに答えられる人など誰もいません。問い自体が間違っていると言いたくなるのは当然です。たぶん、自死を願う子どもがいたら、その親はエリファズと同じように、必死に説得することでしょう。

なお6節のことばは解釈が困難ですが、7節とセットに考えると意味が明らかになります。それは、不幸や労苦は、自然に生まれたものではなく、人間の罪の性質に由来するというものです。

そして、アダムの子孫は、生まれながら労苦するように定められているということを知ることこそ、最も大切な知恵になります。このエリファズのことばは、徳川家康の遺訓と言われる以下のことばに相当するとも言えましょう。

人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし……勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる……」

その中心的な意味は、人生は苦しみに満ちているのが当然と思うことこそ知恵の本質というものです。しかし、そこに神は必要ありません。

不自由や困窮を悲しみ、敗北を悲しむのが人情です。それを人生の常として諦めるというのは仏教的な価値観です。しかし、ダビデの詩篇は、人のそのような情を訴える祈りに満ちています。エリファズのことばは「知恵」に満ちているようでも、そこから「祈り」は生まれません。

しかし、5章8節から10節までのエリファズのことばは、それを超えた模範的な勧めとも言えます。そこで彼は、死にたいという気持ちばかりを訴えたヨブを教え諭すように、「私なら、神に尋ね、神に向かって自分のことを訴えるだろう」とまず述べ、将来を神に期待するようにと促します。

そして、11、12、16節の、「神は、低い者を高く上げ、嘆き悲しむ者は安全なところに引き上げられる。神は悪賢い者たちの企みを打ち砕かれ、彼らの手は良い成果を得られない……こうして弱い者は望みを抱き、不正は口をつぐむ」ということばは、まるでマリアの賛歌 (ルカ1:46-55) に書いてあるような正当な教理であり、福音の核心とも言えます。

ただ、これがヨブの場合に当てはまらないのは、彼が豊かで力を持っていたとき、何の不正も、貧しい者、弱い者を迫害するようなこともしていなかったのに、突然、何の理由もなくすべてを奪われ、死を望むほどの肉体的な痛みに襲われているからです。

しばしば、現代のクリスチャンも、自分の正義や立場を心の底では誇っていながら、「私は愚かで罪深く、ちりのような者に過ぎません……」ということばを枕ことばにして人前で祈る人がいるかもしれません。

エリファズのことばは教理的には正しいのですが、ヨブのような不当な苦しみに会っている人には、かえって自分の正直な気持ちに蓋をさせる意味しか持ちません。

5章17、18節の、「ああ、幸いなことよ、神が叱責するその人は。だから、全能者の訓戒を拒んではならない。神は傷つけるが、その傷を包み、打ち砕くが、御手で癒してくださるからだ」ということばも、聖書の核心的な教理です。

ヘブル人への手紙12章5-11節でも、「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない……神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか……霊の父は……私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです……これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます」と記されています。

ただ、その文脈は、罪との戦いであり、人を神の聖さと義にあずからせるという目的のための訓練です。ヨブの場合は、すでに神ご自身が「彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない」(1:8) と認めている人であったのです。ですからエリファズのことばはヨブの苦しみの文脈にはまったく当てはまりません。

残念ながら、私たちも、ときに、その人の人生の文脈を無視したみことばを一方的に語り、かえってその人の心を傷つけ、かえってその人を神から遠ざけることがあるかもしれません。

事実、19節以降のことばも、詩篇91篇などに記される神の圧倒的な守りの約束ですが、すでにすべての財産も子どもも失い、死を願うほどの肉体的な苦しみに会っている人に何の慰めになるのでしょう。確かに、そこには、神が全てのわざわいを益に変える力を持っているという正統的な教理が語られてはいますが……。

5章26節の「あなたは長寿を全うして墓に入る」ということばなどは、死に憧れるほどに苦しんでいるヨブの心の傷に塩を塗る意味しかありません。

さらに27節の、「さあ、私たちが調べ上げたことはこのとおりだ。これを聞き、自分自身でこれを知れ」ということばに、エリファズが自分の知恵を誇っているようすが現わされています。日本語で言うところの「上から目線……」の問題です。

深い悩みにある人が、その気持ちを聞いてもらえる代りに、自分が何度も聞いてきたようなことばで説教されるほど、頭に来ることはありません。

詩篇55篇21節に、そのような真理を語る人の危なさが、「その口は、よどみなく語るが心には戦いがある。そのことばは 油より滑らかだが それは抜き身の剣である」と記されています。目の前の人の人生の文脈を無視したみことばの真理は、その人の心を徹底的に傷つける「抜き身の剣」になり得ます

3.「どうしてあなたは、私を標的とされるのですか」

6章2、3節では、ヨブは「だから、私のことばは激しかったのだ」と、3章でのことばの激しさを弁明しながら、同時に、友が自分の「苦悩の重さ」を理解しようとしないことを嘆いています。

確かに、ヨブの友は、彼の痛みに七日七夜、無言で寄り沿っていましたが、その激しい嘆きのことばを受け止めることはできませんでした。そしてさらにヨブは、自分の苦悩の理由を、「まことに、全能者の矢が私に刺さり、その毒を私の霊が飲み、神の脅威が私に対して準備されている」(6:4) と述べます。

これは、理由がわからないまま、自分が神の厳しい攻撃の標的にされているという恐怖を言い表したことばです。これは逃げ場のない恐怖です。

5-7節のヨブのことばは、自分の置かれた状況の中で、エリファズが語る知恵のことばは何の慰めにもならないという趣旨のことを語ったものです。

私たちも、目の前の人が「私の喉はそれを受け付けない」と言いたくなる気持ちを理解すべきでしょう。知恵のことばが「腐った食物のよう」に感じられことがあるのです。

8節で、ヨブは「ああ、私の願いがかなえられ、私が望むものを神がくださると良いのに」と言いますが、これは「神が御手を伸ばして私を絶たれるのであれば、それは……慰めであり」(6:9、10) と言われるように、一日も早く死にたい気持ちに過ぎません。

ヨブはその際、肉体の死を前にした「容赦のない激痛の中でも、私は小躍りして喜ぶ」(6:10) と告白するほどに、神によって命が絶たれることを切望しています。

ただ、その際、「私は聖なる方のことばを拒んだことがないから」と、死後のさばきを恐れる必要がないことも付け加えています。

そして11-13節では、自分には現在の苦痛に耐える力が残されていないと語っています。

14節は、「落胆している者には、友からの真実の愛(ヘセド)が必要なのに、それがなければ、全能者への恐れさえ捨てるだろう」と、友の無理解を非難したことばだと思われます。

それがさらに、友を「兄弟たち」と呼びながら、彼らが人の渇きを癒すかのように近づきながら、かえって水無し川のように、自分の期待を裏切ったと非難しています。

16-20節では、水無し川に期待しながら裏切られた隊商や旅人の例をあげながら、ヨブの友が「そのようになった」と (21節)、彼らが人の期待を裏切る者となったことを非難します。

その際、ヨブは彼らに「あなたがたは恐ろしいことを見ておびえている」(6:21) と指摘します。それは、ヨブが苦しみにあっている理由が分からず、その現実を見て「おびえ」ながら、それを空しい知恵で説明しようとすることの愚かさを指摘したものとも言えます。

22-24節は、ヨブの苦しみは、彼が何らかの隠された罪を犯したことの報いであると、友が見ていることに抗議することばと言えます。その最後の「私がどのように迷い出たのか、私に悟らせよ」とは、抽象的な神学を論じる者への厳しい抗議と言えましょう。

そして、ヨブは、「真っ直ぐなことばは、なんと痛いことか」と、彼らの抽象的な正論が自分を追いつめていることを指摘します (6:25)。そして彼らが「自分で何を責め立てている」のかを理解もしていないことを指摘しながら、彼らがヨブの「絶望している者のことば」を、「」のように聞き流していることを非難します (6:26)。

そして彼らの無理解を、「あなたがたは、みなしごをくじで分け合い、自分の友さえ売りに出す」(6:27) と、彼らがヨブを友と呼んでいながら、現実はその人格を否定し、人間扱いしていないと非難しています。

6章28-30節で、ヨブは再び、友に対して「今、ぜひ、私の方に顔を向けてくれ」と訴えながら、抽象的な神学論議ではなく、彼の現実に目を向け、何らかの落ち度があるなら、それを具体的に指摘するようにと迫ります。

そして7章1-6節のことばは、エリファズが「主を恐れる者の生涯が祝福で満たされる」と言った正論に対する反論を述べたものと思われます。

6節の「(はた)の杼(ひ)」とはシャトルとも呼ばれ、織物を織る際に経糸の間に横糸を通すときに使われる道具で、両面がとがった木をくり抜いてその中に糸巻を入れています。このシャトルは、往復運動を繰り返す中ですぐに糸が無くなります。シャトルバスというときのシャトルとは、この道具から派生した言葉です。

とにかくヨブは自分の人生のはかなさを「私の日々は機の杼よりも速く、望みのないまま終わる」(7:6) と表現することによって、エリファズが神を恐れる者の人生の繁栄と祝福を語ったことに反論し、自分の人生を早く終えたいという気持ちを繰り返したものと言えます。

7章7-21節は、ヨブが神に向かって自分の苦悩を訴えたことばです。最初のことばは「思い起こしてください (remember)」と訳すことができ、「私のいのちが息」のようにはかなく、また、「私の目は、再び幸いを見ることはない」という絶望感に、御目を留めて欲しいと神に訴えたものです。

そして、自分が神の前から消え去り、忘れ去られる者であるからこそ、「私も自分の口を制することをせず、霊の苦しみの中で語り、たましいの苦悩の中で嘆きます」(7:11) と言いながら、自分の葛藤を神に訴え続けます。

そして12節の「私は海でしょうか、それとも竜でしょうか」とは、「」も「」も、神に敵対する力と当時見られていたことを前提にしたことばです。これは、神に向かって、「私はあなたにとって敵なのですか。だから私の上に見張りを置くのですか」と訴えるものです。

しかも13、14節では、自分が眠りの中で痛みを忘れたいと願っても、「あなたは、いくつもの夢で私をおののかせ……おびえさせます」という逃げ場のない状況が訴えられます。

さらに15、16節では、自分が「からだ」の癒しよりも「死を選びます」と断言しながら、「もういやです。いつまでも生きたくありません。かまわないでください。私の日々は空しいものです」という絶望感を訴えます。

17-21節での最初の、「人とは何者なのでしょう。あなたがこれを尊び、これに目を留められるとは」とは詩篇8篇からの引用です。それは本来、神が人間をどれだけ大切に見ていてくださるかに感謝する歌でしたが、ここではそれを皮肉に受け止めたものです。

それを用いてヨブは、「どうしてあなたは、私を標的とされるのですか……どうして、あなたは私の背きを赦さず、私の咎を取り去ってくださらないのですか」(20、21節) と、自分が悪い意味での特別扱いをされ、誰よりも厳しく神から攻められている状態にあると訴えています。

それはエリファズの言うように、自分の側にたとえ罪があったとしても、自分に対する神のさばきは公平さを欠いており、自分が神にとっての「目の敵」とされているようにしか思えないという嘆きです。

エリファズは、友として七日七夜、ヨブの激しい痛みに無言で寄り添いながら、彼の「なぜ」という問いに必死に応えようとしたことで、かえってヨブを深く傷つけました。

その原因は、彼がヨブを見て「おびえ」、心のうちに沸き起こる不信仰な思いを抑え、必死に神の正義を弁明したためです。

それに対してヨブは、神に向かって率直に、「どうしてあなたは、私を標的とされるのですか」と訴えました。ヨブを標的にしたのはサタンですが、それを許したのは神ですから、その訴えは真理をついています。率直な神への問いかけから真の信仰が生まれます。

必死に信じ込もうと思わず、神との対話の中に生かされることが大切です。

先の詩篇55篇の続くみことばが引用されながらⅠペテロ5章7-10節では、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が……だれかを食い尽くそうと探し回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい……神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます」と記されています。これは、率直な神との対話の中で起きることです。