ただ一つの願い〜詩篇27篇

今度の日曜日、1月17日は特別感染対策のため教会堂を閉じさせていただきます。その後のことに関しては、改めてお知らせ申し上げます。


会堂に集まって礼拝することができないことから、一つの有名なワーシップソングが思い浮かびました

ただ一つ 私の願い求めは 主の家に住まうこと いのちの限り麗しき主を仰ぎ見て 主の宮に住み 主を思う(繰り返し)

もとになった英語の歌は以下でお聞きいただけます

これは詩篇27篇1-5節をもとにした賛美です。以下は私訳です

主 (ヤハウェ) は、私の光、また救い。だれを恐れることがあろう

主 (ヤハウェ) は、私の いのちの とりで。だれにおびえることがあろう

悪人どもが私の肉を食らおうと、襲いかかるとき、

私の仇、私の敵、彼らこそが つまずき、倒れる。

たとい、私に向かって陣営が張られても、この心は恐れない。

たとい、戦いが迫ってきても、それでも、私は信頼している。

一つのことを 私は主 (ヤハウェ) に願った。

それを 私は慕い求めている。

私のいのちの日の限り、主 (ヤハウェ) の家に住み、

主 (ヤハウェ) の麗しさを見つめ、その宮で、深く静まることを。

それは、悩みの日に、主(彼)が私を隠れ場に隠してくださるから、

幕屋の奥深くにかくまい、また、岩の上に上げてくださるからだ。

〜解説〜

「主 (ヤハウェ) は、私の光」というとき、いろんなイメージを浮かべることができます。「光」はすべてのいのちの源であり、また目に見えない神のご支配の現実を照らし出すものです。預言者イザヤは、世界の完成の姿を「主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わる」(イザヤ60:20) と預言しました。

また「光」は私たちの心の闇をあらわにしますが、その恐れに対し、「 主 (ヤハウェ) は」、私の罪をさばく方ではなく、「私の救い」と告白されます。

それは、「『光がやみの中から輝き出よ。』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです」(Ⅱコリント4:6) とあるように、「私の光」である方は、私の心を照らし、キリストとの個人的な交わりを生み出してくださるからです。

すなわち「光」は、私たちの心を暖かく包むものなのです。そして、この慈しみの光は、徹底的な受身の姿勢の中でこそ味わうことができるものです。それは日向ぼっこにも似ています。

そして、この「光」にとらえられた私たちに、敵対できる者はいません。神が味方となってくださるので、私たちを襲う悪の力は、私たちを攻撃しようとすることによって神を敵に回してしまい、自滅せざるを得ないのです。

まさに、「私の仇、私の敵、彼らこそが、つまずき、倒れる」(2節) のです。それゆえ「戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は(強調形)動じない」と告白することができます。

その上で、この詩篇作者は、「一つのことを私は主に願った。それを私は慕い求めている」と言いながら、自分にとっての最大の願望は、富でも栄誉でも権力でもなく、「私のいのちの日の限り、主の家に住むこと」だというのです。

この「主の家」とは、当時は「神の幕屋」を指すとも解釈できますが、神との豊かな交わりを体験できるすべての場を指すとも理解できます。

そこで彼は、「主の麗しさを仰ぎ見る」というのですが、「麗しさ」とは、「ここちよさ」とか「魅力」「愛しさ」などとも訳されることばで、英語では、「sweetness」とさえ訳されています。

それは「主を恐れる」という概念と一見矛盾するようですが、決してそうではありません。主はご自分の愛を軽蔑し、ご自身に逆らう者に怒りを発しますが、へりくだってご自分の懐に飛び込んで来る者には、その愛と慈しみを余すところなく示してくださるからです。

そして、「その宮で思いにふける」とは、心の目を神の臨在にただ向けるという「観想」を指していると思われます。

聖書はこの世界の完成の状態を、「そのしもべたちは神に仕え(礼拝し)、神の御顔を仰ぎ見る……神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない」(黙示22:3-5) と述べています。それは、「顔と顔とを合わせて(神を)見る」(Ⅰコリント13:12) ときです。

ヤコブはヤボクの渡しでの神との格闘のあとで「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」(創世記32:30) と言いましたが、この地で味わう天国の前味とは、まさに神を仰ぎ見る体験を指すのです。ヤコブは神との出会いの後、不自由にびっこを引きながら歩きつつ、自分の上に太陽が上っていることを喜びました。

同じように私たちも様々な罪を示されながらも、その自分が「光」に優しく包まれていることが分かります。心の中に誰にも見せられないような暗やみがあっても、「主は私の光、私の救い」と大胆に言えるのです。

そしてダビデは、それほどに主との親密な交わりを求める理由を、「それは、悩みの日に、主が私を隠れ場に隠してくださるから」と説明し、またそれを、「幕屋のひそかなところにかくまい」「岩の上に上げてくださるからだ」と言い換えます。このふたつの表現とも、主 (ヤハウェ) こそが、自分を敵の手の届かないところに守ることができる方であることを表したものです。

そして、彼は、その幕屋で、賛美のいけにえをささげることを心から願いました。実際、彼は苦しみの中で、多くの詩篇を記し、それを主に向かって歌うことをライフワークとしました。そして、それこそが、ダビデが私たちに残した最高の遺産となっています。

なお、以下で何度かご紹介した Margarett Rizza 作曲による詩篇27篇の黙想の歌をお聞きいただくことができます

歌詞は以下のとおりです

The Lord is my light, my hope, my salvation;
in Him I trust, in Him I trust.
There is one thing I ask of the Lord:
for this I long. To live in His house all the days of my life;
to savour the sweetness, sweetness of the Lord;
to behold His temple; for this I long.
The Lord is my light, my hope, my salvation;
in Him I trust, in Him I trust.

一日も早く、新型コロナ感染が収束し、不安を感じることなく教会堂に集まれる日が来ることをともにお祈りいただければ幸いです。

ただ同時に、私たちはそれぞれ、今この場で、生ける神との豊かな交わりを体験することができます。一人一人が、今ここでの主との交わりを体験した上で、教会堂にともに集まることができるなら、そこでの礼拝の場は、まさに主の臨在があふれる場となることでしょう。

今は、そのための訓練の機会であることをともに覚えたいと思います。