マタイ13章1-23節「百倍の実を結ぶみことば」

2020年10月11日

誰かの講演を聞いたとき、「先生のお話はとってもわかりやすく、実生活に役立つものでした」というのは、最高の賛辞になります。しかし、聖書のお話しでそれを望むことは、ときに、邪道に陥る場合があります。なぜなら、イエスはときに、敢えて、簡単に理解されることがないことばを話されたからです。

しかし、それは不思議に、心に残ることばでした。ヨハネの福音書の冒頭には、「初めにことばがあった……すべてのものは、この方によって造られた……ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(1:1、3、14) と記されています。神は、「ことば」によって世界を創造し、「ことばによって世界を贖い、ことば」によって世界を完成に導いておられます。

ある意味で、聖書のことばはわかりにくくて当然とも言えます。わかりやすく訳そうとしすぎることは、神のことば」を人間のことばに変えてしまうことになりかねません。

今はわからなくても、何とも言えず、心に残るみことばがあります。それは世界を創造した「神のことば」の一部です。そして、それは神のときが来るならば、心の底に落ちて、あなたを再創造することができるのです。

ある先生がメッセージの最初に、「眠い人はどうぞお休みください。しかし、人のじゃまにならないように、いびきはお控えください……」と言いました。そこに隠された深い意味が、今、改めてわかった気がしています。

聖霊の働きは人間的なはからいを超えたところで、みことば自体を通して見られるからです。

1.「無駄になる種と、百倍の実を結ぶ種」

マタイ13章は、この福音書で記録されている五つの説教の三番目、まさに真ん中に位置します。その1、2節で、「その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると大勢の群衆がみもとに集まってきたので、イエスは舟に乗って腰をおろされた。群衆はみな岸べに立っていた」と記されます。

イエスはご自身が留まっておれたカペナウムの家に近い湖のほとりに座っておられましたが、多くの群衆が集まってきたので、ご自身のことばを伝える工夫をされました。ガリラヤ湖のような盆地の湖では、昼間は山側の温度が湖側に比べて高くなるので、風は湖の真ん中から陸に向かって吹きます。しかも、山側の傾斜は、野外劇場と同じ状況を作ります。

そこでイエスは舟に座って、群衆と距離を取りながらも多くの人に聞こえるように話すことができました。イエスはより多くの人々が聞こえる環境を整えてくださったのです。

それにしてもここでは同時に、「イエスは彼らに、多くのことをたとえで語られた」と記されます (3節)。これは、イエスが、敢えて聴衆がすぐには理解できない話をされたという意味です。

特に、この種まきのたとえは、日常的なことばが用いられ心に残り易いのですが、それと対照的に、解釈は極めて困難です。

まずイエスの説教が、「見よ。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いていると、種がいくつか道端に落ちた。すると鳥が来て食べてしまった。また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種は茨の間に落ちたが、茨が伸びてふさいでしまった。

また、別の種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。耳のある者は聞きなさい」(3-9節) と記されています。

イエスは話の最初で「見よ」と注目を促し、最後で「聞きなさい」ということばを強調しておられます。これを聞いた人々は、イエスがなぜ、このようなたとえを用いて話されたかの意図はわかりませんでしたが、それは忘れられないような強い印象を残したのではないでしょうか。

せっかく種が蒔かれたのに、「道端」「岩地」「茨の間」に落ちた種は無駄になってしまいました。日本では、このような大雑把な種蒔きは決してしません。種を蒔く土地をまず丁寧に耕して一粒一粒、決して無駄にならないようにします。それは当時でも同じだったことと思います。

敢えて言うと、悪いのは聴衆の聞く姿勢ではなく、「種を蒔く」側の問題、つまり種を蒔いた神の責任とさえ言えます。

ですから、イエスはここで、土地の良し悪し以前に、せっかく蒔かれた種が実を結ばないことがあるという現実に人々の目を向けさそうとしたことにあります。それを聞く人は、せっかくの種が無駄に蒔かれてしまったことに、何とも言えない失望感を覚えることでしょう。

ただし、すぐに「良い地」に落ちた種にはダイナミックな希望が生まれるようすが、「百倍、六十倍、三十倍」の実を結んだと記されます。

この百倍の実を結ぶという話は、創世記26章12、13節での、「イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主 (ヤハウェ) は彼を祝福された。こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった」を思い起こさせます。

その文脈は、イサクが自分の妻リベカを自分の妹と偽ったにも関わらず、主 (ヤハウェ) はアブラハムへの契約のゆえにイサクを祝福されたというものです。彼は嘘をついてまで自分の身を守る必要を感じなくなりました。

その直後には、イサクを妬んだペリシテ人が三度にもわたって井戸を塞ぎ、また奪い取ったと記されますが、彼は彼らと争うことなく移動を続け、ベエル・シェバに着いたとき、主が彼に現れ、「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加える。わたしのしもべアブラハムのゆえに」と仰せられます。

つまり、百倍の実を結ぶという祝福の鍵は、人間の努力以前に、一方的な神のあわれみに基づいているのです。そのことを後にパウロは、「ですから、これは人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです」(ローマ9:16) と記しています。

ですから、このイエスの話を聞いた人は、何か話の意味が分からないながらも、イサクの時代に神が百倍の実りを与えてくださったことを思い起こし、目の前の状況が悪くても、神のあわれみが注がれるならばすべてが変わり得るのだという期待を持ったかもしれません。

なぜなら、彼らの時代は、働いても、働いても、その実りがローマ帝国やユダヤ人の上層階級によって奪われるという失望の中にあったからです。問題は、イスラエルの神のご支配が見えないことでした。

それで彼らは「天の御国」がイエスによってこの地に実現することを待ち望みながら、臆病な平和主義者イサクの物語を思い起こしたのかもしれません。

2.「彼らが……心で悟る(理解する)ことも、立ち返ることも、わたしが癒すこともないため」

この後のことが、「すると、弟子たちが近寄ってきて、イエスに『なぜ、彼らにたとえでお話しになるのですか』と言った」と記されます。

それに対するイエスの答えは、「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されて(与えられて)いますが、あの人たちには許されて(与えられて)いません。持っている人は与えられてもっと豊かになり、持っていない人は持っているものまで取り上げられるのです」という何とも不思議なものでした (11、12節)。

これはイエスの弟子として、イエスへの信頼を「持っている人」は、「奥義を知ること」が「与えられて(許されて)、もっと豊かになる」という、弟子たちに対する励ましです。つまり、イエスは群衆に向かって話しておられるのですが、そこでは何よりも、イエスご自身の弟子になるという決断が伴わなければ分かり得ないことがあるということも示唆しながら、献身を促しているとも言えます。

後の教父たちは常に、「理解するために、信じる」と言いながら、「理性を通して信仰に達する」という理性の優位を退けながら、同時に「信じていることに、喜びを見出すために」理性的な探求にも意味を与えました。

さらにイエスは、「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らが見てはいても見ないためであり、また聞いてはいても聞かないため、また理解しないためです。こうしてイザヤの告げた預言が、彼らにおいて実現したのです」と言われます (13、14節)。

それはイザヤ6章9、10節の「心をかたくなにするメッセージ」と呼ばれるもので、ここでは、預言が文字通りに実現したということが強調されています。ですから、このイエスのことばは、彼らが見ようとも聞こうともしないことを責めたというよりも、彼らが理解できないようにイエスは敢えて語られたという意味です。その不思議は、イザヤ6章の文脈を見ないと理解できません。

その前に預言者イザヤは、セラフィムの賛美とともに神の栄光を拝し、燃え盛る炭によってくちびるがきよめられ、罪を贖っていただきます。

その上で彼は、主が「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか」と言われる声を聞き、「ここに私がおります。私を遣わしてください」と応答します (6:8)。

ただそこで託されたメッセージは奇想天外なもので、聞き続けよ聞いて、聞け)だが悟るな。見続けよ(見て、見よ)だが知るな(6:9) というものでした。さらにそれによって「この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ」というのです。

つまり、敢えて理解されることがないように語れと命じられたのです。しかも、その目的は、「彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返って癒されることもないように」なるためだというのです。

そこで神は、彼らが「私は洞察力が鋭いから、自分の力で悟った!」などと自分を誇ることがない状態を作り出そうとしておられるのです。

ただしイエスのことばは、目の前の人の責任を問うかのように、「あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない(理解しない)。見るには見るが、決して知覚しない(認めない)。この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。それは、彼らがその目で知覚することも、耳で聞くことも、心で悟る(理解する)ことも、立ち返ることも、わたしが癒すこともないためである」と記されます (14、15節)。

確かに、人々の聞こうとも見ようともしない姿勢が非難されてはいますが、彼らが自分の心がけ次第で変わることができるという可能性を言ってはいません。何よりも「神が人を頑なにされた」と記されます (ローマ9:18参照)。

このイザヤのことばは、四つの福音書すべて、また使徒の働きとローマ人への手紙で引用され、イエスやパウロによって語られた福音が実を結ぶことのなかった理由の説明に用いられています。

それによって「救い」は、人間の力ではなく、主ご自身の「恵みの選び」(ローマ11:5) によるということが明らかにされます。宣教に関しての私たちの使命は、結果を出すことではなく、みことばを分かち合うことです。

イザヤの働きが、その時代には理解が得られず、労苦が実を結ばなかったのは、まさに主のみこころだったのです。イザヤの預言の意味が理解されるようになるのは、イスラエルの民がバビロン捕囚という苦難を体験した後のことでした。

ただ、彼はその前にマナセ王に殺されました。またイエスの弟子ペテロが、神の国の福音を真に理解できたのは、イエスを三度知らないと否認するという挫折体験の後でした。

残念ながら、人は、自分の無力さや罪深さを思い知らされるまで、福音を「心で」理解することができない傾向があります。私たちも、みことばを学び、またそれを伝えながら、何の変化も見えなくて空しくなることがあります。しかし、それはみことばが無力なのではありません。イエスのみことばは分かり易く、心に残り易いのですが、時が来なければ心の底に落ちないのです。

たとえば、イエスは、「心の貧しい者は幸いです」「悲しむ者は幸いです」と不思議なことを言われましたが、どう考えても、「(霊)が貧しい」ことや「悲しむ」ことを「幸い」と言うのは言葉の矛盾です。

これは簡単に納得してはいけないことばです。しかし、ふと、自分の心の貧しさに打ちひしがれ、また、圧倒的な悲しみに直面したとき、この逆説に込められたイエスの愛と慰めが迫ってくることがあります。

しかし、本当に落ち込んでいるときには聖書を開く気にもならないということがありますので、普通の状態のときにみことばを蓄えて置く必要があるのです。

3.「みことばを聞いて受け入れ、百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶ人たち」

ただしその上で、イエスは弟子たちに向かって、「しかし、幸いです、あなたがたの目は、見ているのですから。またあなたがたの耳は、聞いているのですから。まことにあなたがたに言います。多くの預言者たちや義人たちが、あなたがたが見ているものを知覚し見)たいと切望しながら知覚でき(見られ)ませんでした。あなたがたが聞いているものを聞きたいと切望しながら、聞けませんでした」と言います (16、17節)。

これはイエスの弟子とされている「幸い」を改めて理解させることばです。ただ、同時に、彼らの前の預言者や義人たちが必死にみことばの種を蒔きながら、その収穫を見ることができなかったということを思い起こさせ、彼らが蒔いた種の収穫を見られるという特権の幸いを思い起こさせるものでもありました。

その上でイエスは、「あなたがたは、ですから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい」(18節) と、「あなたがたは」という彼らの特権を思い起こさせながら、種蒔きのたとえの奥義を語って聞かせます。

第一は「道端」に蒔かれた種のことで、「だれでも御国のことばを聞いて悟らない(理解しない)と、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪います。道端に蒔かれたとは、そのような人のことです」(19節) と言われます。これはアダムとエバの最初の堕落が代表例です。今も新興宗教などは聖書のことばを文脈を無視し、数多く乱用して信用を失わせながら、「蒔かれたみことばを奪うことを続けています。

第二には、「岩地に蒔かれたものとは、みことばを聞くとすぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分の中に根を持っていないので、ほんの短期間しか続きません。みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます」(20、21節) と言われます。

事実、イスラエルの民は最初に律法を受けたとき、「すぐに喜んで受け入れ」、心から感動をしているかのように「主の仰せられたことは、みな行ないます」(出エジ24:1) と応答しましたが、驚くべきことに、そのように約束した直後、金の子牛を作って拝み、また、カナン人の強さを知ってエジプトに帰りたいと言い出してしまいました。

今も残念ながら、涙を流してみことばに感動したはずの人が、いつのまにかつまずいて、消えているということがあります。

第三には、「茨の中に蒔かれたものとは、みことばを聞く人のことで、この世の思い煩いと富の誘惑とが、みことばをふさぐ(窒息させる)ため、実を結びません」(22節) と言われます。イスラエルの民は、約束の地で豊かになったとたん、「世の思い煩いと富の誘惑」に捉われ、神の恵みを忘れました。

モーセはそれに対し、「あなたは心のうちで、『私の力、私の手の力がこの富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主 (ヤハウェ) を心に据えなさい(申命記8:17、18) と警告していました。それは、現代的な危険でもあります。何か問題が起きても、すべてハウ・ツーで解決することに目が向かい、主にすがり、主のみことばに聞くということを忘れてしまいがちではないでしょうか。

なお、「みことばをふさぐため、実を結びません」とは、「みことばを窒息させ、生み出せなくなる」とも訳せる言葉です。残念ながら、外面的には敬虔な信仰者に見えても、内面では、霊的ないのちが窒息しているということがあります。

これらのたとえは、しばしば、みことばを聞く人間の姿勢を正すために用いられますが、そればかりが先行すると本質を見失います。そればかりか、みことばの力よりも、自分の信仰の姿勢ばかりに目を向けると言うナルシズムに陥りかねません。

たとえば、「あなたの心は、道ばただ、岩地だ、いばらで満ちている」などと責めても、どうして、自分の心の土地の改良を自分で行うことができるでしょう。岩地は岩地でしかあり得ないのです。それを責めるなら、かえって、人を自己嫌悪に追い込むだけではないでしょうか。

これは何よりもイスラエルの歴史を振り返えるためのたとえと言えましょう。そのようにみことばを受けながらも堕落をして行く民を見られた神は、預言者イザヤを通して、「雨や雪は、天から降ってもとに戻らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く者に種を与え、食べる人にパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送った事を成功させる(イザヤ55:10、11) と、みことば自身が歴史を動かしていると驚くべきことを言いました。

そのようにして神は、「まことに……山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。茨の代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える……」(同55、12、13) という新しい世界をご自身のみことばが造り出すと約束されました。

そのことを思い浮かべながら、ここで、イエスは、今、ご自身の弟子たちによって、新しい時代、みことばが豊かな実を結ぶことができる時代が到来しつつあることを、「良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る(理解する)人のことです。本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍。あるものは三十倍の実を結びます」(23節) と言ったのではないでしょうか。

そしてイエスは、ご自身こそ、それをもたらすことができる救い主だと宣言されたのです。ですから、「良い地」とは、キリストに結びついている弟子たちのことを指しているのです。肉のイスラエルはバビロン捕囚の後に、決して偶像礼拝をしない民へと成長しましたが、キリストの弟子たちは、イエスの十字架と復活の後、死をも恐れない者に変えられ、みことばを全世界に宣べ伝える者へと変えられ、そのみことばが実を結んでゆきました。

それを可能にしたのが、イエスが遣わされた聖霊です。つまり、イエスは、弟子たちに対して、「良い地になれ!」と命じたというより、神のみことばが百倍の実を結ぶ時代が到来したことを告げているのです。私たちは、ペンテコステの日に与えられた聖霊の働きと、みことばにある神秘的なを、余りにも軽く扱ってはいないでしょうか?

アジア最大の福音自由教会がシンガポールにあり、それをリードしてきたのがエドモンド・チャンです。彼は多くの人に一対一で個人的に関わることを大切にし、彼によって導かれた人が次から次と、別の人々を個人的に導くというすばらしい連鎖が起きています。

それで、私はチャン先生に、その秘訣を尋ねました。彼の答えは、それは、自分の力ではなく、学びたいという人の側の霊的な渇きにあるというものでした。

イエスは、「(聞く)耳のある者は聞きなさい」(9節) と言われました。イエスご自身も、「聞く耳のある人」にこそ、真に聞いてもらいたいと思われて、敢えて「たとえ」を用いて語っておられるとも言えましょう。