インパール作戦〜詩篇8篇

朝ドラ「エール」で今、インパール作戦の場面が放映されています。

昭和19年3月に開始した作成で、現ミャンマーのラングーンから、インド東北部のインパールを目指して進軍し、インド独立運動を助け、英軍を混乱に陥れるという壮大な作戦でしたが、作戦開始2か月で失敗が明らかになったにも関わらず、なお作戦がさらに2か月間も続けられ、投入兵力約9万のうち生還できたのはたった1万数千人に過ぎなかったと言われます。

ほとんどの兵は、飢えと病で命を落としました。それは、補給を軽視したためです。一昨日も、「日本軍はあまりにも一人ひとりのいのちを軽く見ている」と嘆いていた場面が放映されました。

洋子の父は、インパール作戦から奇跡的に生還出来ました。退職したらビルマに慰霊の旅に行くことを人生の目標の一つにして、何度も現地を訪ねていました。戦友たちの無念さが彼の心に焼き付いていました。

義父が、作戦開始の際の連隊長、牟田口中将だったか、定かではありませんが、その演説を聞いてがっかりした……と語っていました。

その人は、「二等兵は一等兵に、一等兵は上等兵に、上等兵は兵長に、兵長は伍長になりたいと思わないか……それを目指して頑張れ」と言ったとのことです。

義父は、「だれが、出世を願って戦いなどに来るものか……」と思ったとのことです。

今日、歌われていた「暁に祈る」の歌詞でも「ああ、あの顔で、あの声で、手柄頼むと、妻や子が」と歌われました。また「露営の歌」でも、「手柄立てずに、死なりょうか」と歌われます。

すべて、組織の中で認められることが目標とされています。今の、私たちから見たら、誰が「手柄立てるために命を懸けるものか……」と思いますが、そのような発想で人々を鼓舞できたというのは、不思議です。

「失敗の本質」という本では、作戦開始後2か月間たって作戦責任者、牟田口が作成中止を具申したところ、河辺大将は、牟田口の自殺を恐れ、あえて攻勢を命じて、彼の気分を引き立てた……と記されています。しかし、その結果、何万人の兵士が、餓死したことでしょう。あまりにも村社会的な人情の論理で進んでいます。

現場の一人ひとりに目が向かっていません。

ちなみに、英軍の責任者スリム中将は、日本の補給体制の弱さに注目し、最初は負けたふりをして撤退に撤退を重ね、日本兵を奥深い山岳地帯まで引き寄せ、その上で、総攻撃をしかけたとのことです。今日の「エール」での英軍の攻撃はその現れです。

ところが、日本軍は、この英軍の策略を見抜こうとせずに、食料は敵から奪えと言って、進軍を続けさせます。当然、現地の方々から奪い取るというようなことになります。

日本文化に詳しいジェームス・フーストン教授は、「日本の文化は、汎神論の影響下で、個人を自然や集団の中に埋没させる傾向がある。しかし、聖書の福音の本質は、『注目の奇跡』と表現することができる。聖書のストーリーでは、イエス様が、ひとりの長血を患った女、とか取税人ザアカイなど、社会から無視されている人々に徹底的に注目する姿が描かれている」と言っておられます。

そのことが最も明確に表れるのが、下記の詩篇8篇のみことばです。

「あなたの指のわざである天を仰ぎ見、

あなたが配置された月や星を見ますのに、

人とは、何者なのでしょう。

これをみこころに留めてくださるとは

人 (アダム) の子とは 何者なのでしょう。

これを顧みてくださるとは」(詩篇8:3、4)

全宇宙の創造主が、私たち一人一人に注目してくださっています。私たちの信仰とは、自然や集団の中に埋没して自意識をなくそうとすることではなく、天地万物の創造主がこの私一人に注目し、期待しておられるという注目の奇跡の中で、自意識過剰から解放される道です。

全宇宙の創造主が、この一人のあなたに注目し、固有の使命を与えてくださいます。私たちは手柄を立てるために命を懸けるのではなく、私たち一人一人をユニークに想像してくださった方が与えてくださる使命のためにいのちをかけ、いのちを燃焼させることができるのです。