「神がおられるなら、どうしてこんなことが許されるのだろう」ということが、ときに「キリストの教会」の中でさえ起きることがあります。しかし、周りにいる人々も私たちもそれぞれ固有の痛みや不安を抱えて生きながらも、神の導きの中で問題のただ中に置かれるとき、そこに痛みと同時に、様々な恵みと新たな愛の交わりを体験することができます。
「天の御国」は、死後の天国という以前に、今、ここに見ることができる天の神のご支配の現実です。それはしばしば、痛みとともに体験できることかもしれません。
実は主の祈りでは、「御国が天にあるように、この地にも実現するように」と祈られています。天の天においては神のご支配が現わされていますが、それがこの地にも現わされるようにと私たちは祈っているのです。ただ、それを日々祈るように命じられるのは、そのように見えない現実が、目の前に起きていることとセットでもあります。
しかし、どのような悲惨な中にも、神のご支配が現わされるということも忘れてはなりません。時には、自分の力を超える問題があるからこそ、神のご支配が見えるということもあるのですから。
1.「イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい」
10章2-4節では、イエスが十二弟子を不思議な基準で選ばれたことが描かれていました。決してこの世的なリーダーを選ぶ基準ではありません。
その上で5節ではまず、「これらの十二弟子をイエスは遣わされた。その際、彼らに言われた」と記されながら、その命令の内容が「異邦人の道に行ってはなりません。また、サマリア人の町に入ってはなりません。むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい。行って、宣べ伝えなさい『天の御国は近づいた』と。病人を癒しなさい。死人を生き返らせなさい。ツァラアトに冒された者をきよめなさい。悪霊を追い出しなさい」と記されています (10:5-8)。
この前提には、9章35、36節でイエスの働きが「すべての町や村を巡り歩かれた、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒されながら。それでイエスは群衆を見て、深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである」と記されていました。
それはイエスを「ダビデの子」と呼ぶこと (9:27) を政治的な独立運動に結びつける勢力が急速に広がることに対抗するかのように、みことばの宣教と心身の癒しの両面から「天の御国の現れ」の真の意味を明らかにする働きでした。今、それを十二弟子に委ねて派遣しようとしているのです。
異邦人やサマリア人への宣教を禁じたのは、イスラエルの貧しい民が「羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていた」のをイエスが「深くあわれまれた」からですが、そこにはエゼキエル34章の預言がありました。
そこでは主 (ヤハウェ) ご自身が「わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らを憩わせる……わたしは失われた者を捜し、追いやられたものを連れ戻し、傷ついたものを介抱し、病気のものを力づける」(15、16節) と語っておられ、その働きが新しい「ダビデ」に期待されていました (23、24節)。
そして弟子たちに「イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい」と命じられているのは、このエゼキエル預言の働きを成就するためです。神のご計画はイスラエルを「神の民」として整えた上で、彼らを異邦人やサマリア人に遣わすことでした (出19:5、6)。
そして宣べ伝えるべきメッセージは「天の御国は近づいた」です。これは文語訳では「天国は近づけり」と訳され、人々に誤解を与えたのかも知れません。「天の御国」とは、マルコとルカの福音書では「神の国」と訳されているのとまったく同じ概念で、天の神のご支配がこの地に現わされることを意味します。多くの英語訳では、「The kingdom of heaven is at hand」と訳されますが、それは時間的ばかりか空間的な「近さ」を含む観念です。
つまり、天の御国は弟子たちの働きで、今、イスラエルの地に実現しようとしているというのです。そして、「病人の癒し」「死人の生き返り」「ツァラアトのきよめ」「悪霊追い出し」はすべて、天の御国が実現したしるしと言えます。
そしてイエスは「天の御国」に招き入れられる恵みに関し、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(8節) と言われ、お金と無縁な生き方を「胴巻に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはいけません」(9節) と命じられました。これは旅の備えとしてお金を持たないばかりか、いかなるお金も受け取らないことを意味します。
さらに「袋も二枚目の下着も履物も杖も持たずに旅に出かけなさい」と命じられます。これは、まるで家の周りを散歩するような仕度で旅に出るようにという命令です。弟子たちは、招き入れられる家に驚くべき豊かな祝福をもたらすことができるので、生活の必要もその家から豊かに満たしてもらえるからです。
そのことがさらに「働く者が食べ物を得るのは当然だからです」(10節) と言われます。弟子たちは、イエスから委ねられた「病人の癒し」「死人の生き返り」「ツァラアトのきよめ」「悪霊追い出し」の権威によって多くの人々を助けることができます。
彼らは何も持たずに旅をしたというより、多額の旅費にはるかにまさる神の宝を持参していたのです。そして、その宝の豊かさは、自分の力で生きていると思っている人には理解できなくなるものであるからこそ、弟子たちは何も持たずに行く必要があったのです。
なお、これは一軒一軒の家を回りながら、その祝福を祈り、対価としてお米を受け取るような托鉢修道の勧めではありません。その意味でイエスは弟子たちに、「どの町や村に入っても、そこでだれがふさわしい人であるかを良く調べ、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい」(11節) と言われました。
じっくりと腰を落ち着けて、生活の中に生きる福音をともに味わうことが大切だからです。しかも、弟子たちが長期滞在できた家は、将来、その町でのクリスチャンの交わりの拠点となり得る場所です。
そのことが「その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。その家がそれにふさわしければ、あなたがたの祈る平安がその家に来るようにし、ふさわしくなければ、その平安があなたがたのところに帰って来るようにしなさい」(12、13節) と続けられます。
「平安を祈る」とは、ヘブル語で「シャローム・アレヘム(あなたがたに平安〈平和〉がありますように)」と言うことですが、このシャローム(平安、平和)は、それを受けるにふさわしい家と、そうでない家があるばかりか、それにふさわしくない家は、そこにシャロームが留まることができないというのです。
そしてここでの「ふさわしさ」とは、何か「日頃の行いが良い……」とかいう以前に、天の御国の福音を信じ受け入れることに他なりません。それは具体的に、イエスを神が遣わした「救い主」と信じること、またイエスにおいて「天の御国が実現している」と信じることです。
イエスは先に、「心の(霊において)貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです……義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです」と言われました (マタイ5:3、4、6)。
ですからその家のふさわしさとは、「貧しさ」「悲しみ」「義に対する飢え渇き」などを認識していることです。決して、裕福な家が滞在にふさわしい家ではありません。
そして、「だれかがあなたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家や町を出て行くときに足のちりを払い落としなさい。まことに、あなたがたに言います。ソドムとゴモラの地のほうがさばきの日には耐えやすいのです、その町よりも」と記されます (14、15節)。
弟子たちには、自分たちの伝えた福音が拒絶されたとき「話し方が悪かったのか」、「祈りが足りなかったのか」、「福音が身についていなかったからか」などという一見、建徳的な反省をするように勧められてはいません。基本的に福音を受け入れるかどうかは相手の問題として描かれています。
それは、神の国の福音が、弟子たちの伝え方によって変わるほど曖昧なものではなく、それを受け入れた人の人生を根本から変革するほどの決定的な知らせだったからです。
ただし、それは現代の日本にはそのままには適用できない面があります。それは、イエスの時代の人々は、誤った期待を抱いていたという問題があったにせよ、ほとんどの人は、旧約聖書のストーリーを子供のときから聞きながら、イザヤやエゼキエルが預言したような「神の国」「天の御国」の実現を心から待ち望んでいたからです。
日本のような異教社会では、何よりもまず、この世界が唯一の神によって無から創造されたということを理解してもらうこと自体が非常に難しいことです。
2.「あなたがたの父の御霊が、あなたがたのうちにあって話される」
さらにイエスは、弟子たちを遣わすにあたって、「いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい」と言われました (16節)。
私たちが遣わされる場は「羊が狼の中に送られる」ほどに、危険な場であるというのです。そこで「蛇のように賢く」とありますが、蛇は「野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった」(創世記3:1) と記され、その「賢さ」によってエバを惑わしたと描かれています。
また鳩のように「素直」と記されますが、「エフライムは愚かな鳩のようで、良識がない」(ホセア7:11) ということばもあります。つまり、「賢さ」も「素直さ」も悲惨を生み出す原因にもなり得るのですが、主との交わりの中では益とされます。
なお遣わされる場合には、「二人ずつ」(マルコ6:7参照) という原則があります。「ふたりはひとりよりもまさっている……もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる」(伝道者4:9-12) とは、結婚の勧めというより、霊的な同伴者の必要を語ったものです。
「賢さ」と「素直さ」は両立しないことが多いのですが、それが主にある交わりの中で、「強さ」と「弱さ」が相互に補完し合って互いに生かし合うという形で用いられます。
その上でイエスは、「人々には用心しなさい(気をつけなさい)。彼らはあなたがたを地方法院に引き渡し、会堂で鞭打ちます」(17節) と恐ろしい覚悟を求めます。
この「地方法院」と訳される言葉は、サンヘドリン(最高議会)の複数形で、各地での最高議会(裁判の場)を意味するのだと思われます。イエスは後にサンヘドリンで死刑判決を受けますが、弟子も同じような目に合うことが警告されているのです。
また「会堂 (シナゴーグ)」とはユダヤ人が礼拝を守る各地の集会所ですが、そこは悪人を懲らしめる鞭打ちの刑も行われたようです。確かにそれを避けられるように「蛇のように賢く」なければなりません。ただし、「また、あなたがたは、わたしのために総督や王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人に証しをするためです」(18節) と記されます。
捕まらないように注意はするのですが、連行されてしまったときは、それは「証し」の機会となるというのです。これは苦しみに合わないように気をつけることではなく、苦しみに意味があるということを忘れないように「気をつける」という意味としても解釈できます。実際、使徒の働きには、パウロがローマ皇帝の判決を受けることを望んだと記されます。それは証しのためでもあります。
そればかりかイエスはここで、聖霊の働きに関して、「人々があなたを引き渡したとき、心配する必要はありません、何をどう話そうか……などと。それは、そのときに与えられるからです、話すことは。それはあなたがたではないからです、話しをするのは。そうではなく、あなたがたの父の御霊が、あなたがたのうちにあって話されるからです」(19、20節) と記されます。
ただし、これは証しの準備をしなくても良いという意味ではありません。ペテロは、「あなたがたのうちある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい」と命じているからです (Ⅰペテロ3:14、15)。
イエスはここで、「私などは、いざとなったら何も話せない……」などと、自分を卑下して、証しの可能性を閉じてしまうことを戒めておられるのです。私たちの内に天地万物の創造主ご自身が住んでくださるのです。私たちは聖霊の働きによって自分を超えることができます。
ただし、私たちは自分の意志によって「御霊を消す」こともできます。それは、「御霊を消してはなりません」という警告がある通りです (Ⅰテサロニケ5:19)。そして、私たちは日頃から、聖霊の働きに対して自分の心と身体を開く訓練が必要です。
それは、水泳の訓練に似ているかもしれません。泳ぎが下手な人は、無駄な力が入るばかりか、身体が固くなって、沈むことさえあります。しかし、水泳の訓練を積むことで、力を抜いて水に浮きながら、効率的に身体を動かすことができるようになります。御霊によって生きるとは、肩の力を抜いて自由になることです。
3.「人の子が来るときまでに、あなたがたがイスラエルの町々を巡り終えることは、決してありません」
そればかりかイエスは、「また兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を……。子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます」(21、22節) ととんでもないことを言われました。これがキリスト者に定められた歩みであるというなら、だれがイエスの弟子になろうなどと思うことかといぶかしく思います。
しかし、これは家族関係や人間関係で悩んでいる人の慰めにもなり得ることばです。なぜなら、私たちは家族との関係がまずくなったとき、「あのときの私の言動のせいで……」などと、自分を責めることがありますが、それは自分の努力を超えたことであり、それを受け入れるしかないという覚悟を決める契機にもなるからです。
私たちが自分の努力ですべての人間関係を制御できると思うのは、自分の努力不足を認める謙遜さがあるように見えて、実はそこに、とんでもない傲慢さが隠されています。そこに自分の意志で人の行動は変えられるという発想があるからです。
イエスは、人間的な原因結果を超えて、「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます」と言ってくださいました。憎まれている人は、必ず、憎まれる理由を捜し出すことができることでしょう。ただ、ここで問われることは、憎まれる原因を無くす代わりに、それに続く、「しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます」ということばに希望を持つことです。
信仰とは、何よりもすべての苦しみを「産みの苦しみ」と見て、それに耐える力となるものです。しかも、ここに記された「救い」とは、私たちがイエスを救い主と信じることで「救われました!」というのとは異なった表現です。
聖書が用いる「救い」ということばは、多くの場合、キリストの再臨のときに、私たちが死人の中から復活し、キリストの栄光の姿に変えられる時のことを指しています。そして私たちは最後まで苦難を耐え忍ぶことによって、「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られて品性が希望を生み出す」(ローマ5:3、4) という人格の成長を期待することができるのです。
しかも、しばしばパウロのように、激しい迫害者であった人に限って、驚くほど劇的な回心を迎えることがあります。それは自分が迫害を加えた人の中に、人間的な思いを超えたキリストの力が生きて働いているのを見るからです。キリストにあっての苦難は、無駄にはなりません。
そして最後に、「一つの町で人々があなたを迫害するなら、別の町に逃げなさい。まことにあなたがたに言います。人の子が来るときまでに、あなたがたがイスラエルの町々を巡り終えることは、決してありません」(10:23) と記されます。
ここに記された「人の子が来る」とは、一般的にキリストの再臨を指す場合が多いのですが、ここではイエスの再臨まで、あの四国と同じぐらいの広さしかないイスラエルの地を巡り終えることができないという意味なら、それはあり得ないことです。
ですからこれを再臨に限定して考えるとイエスのことばに矛盾が生まれます。これは、キリストの復活による栄光の現れを指すと解釈すべきかと思われます。実は、「人の子の現れ」には、より広い意味があると考えるべきなのです。
たとえば、イエスが最高議会で死刑判決を受ける最終的なきっかけになるのは、大祭司から、「おまえは神の子キリストなのか、答えよ」と問われたときに、イエスが「あなたがたが言った通りです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは、今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして、天の雲とともに来るのを見ることになります」(26:64) と答えたことにあります。
そこでの「今から後に」とは、再臨以前に、様々な時点での「人の子の栄光の現れ」自体を意味します。それはすぐには「キリストの復活と昇天」として現わされることですが、同時にイエスによる預言の成就としても現わされます。
イエスはご自身が十字架に架けられる前に、「エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえはそれを望まなかった。見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる」(23:37、38) と言われました。
また、その直後、弟子たちがエルサレム神殿の荘厳さに感動していると (マルコ13:1参照)、イエスは彼らに、「あなたがたはこれらの物すべてを見ているのですか。まことに、あなたがたに言います。ここでどの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません」(24:2) と言われました。これはローマ軍によってエルサレムが滅ぼされるということを意味します。
イエスは弟子たちを含むイスラエルの民に、「悪い者に手向かってはなりません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい……あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい」(5:39、41) と言われましたが、これはローマ帝国に対して暴力的な独立運動で反抗することを戒めたことばだったのです。
ところがイスラエルの民は、それに聞こうとせずに、ローマ軍に対するゲリラ活動を続け、ついにイエスの十字架から約40年後に、ローマ自らイスラエルを鎮圧せざるを得なくなりました。そして、イスラエルに住んでいたユダヤ人たちは、二千年間近くに渡って、流浪の民とされます。
つまり、イエスの弟子たちがイスラエルの地を回り終える前に、イエスの預言が成就して、ユダヤ人がその地からいなくなったのです。
イエスは「ダビデの子」として二千年前のイスラエルに現れました。しかし、当時に人々は「ダビデの子」ということばに独立運動の指導者の姿をイメージしました。
当時のユダヤ人は、ローマ帝国との争いを避けて自分たちの生活を守ろうとする宗教指導者と、また反対に、200年前のユダ・マカベオスによる独立運動の成功を夢見る過激派が争い合っていました。しかし、イエスが語った「天の御国」または「神の国」とは、ローマ帝国からの独立でも、ローマ帝国に屈服するわけでもない第三の道を示すものでした。
政治的な意見の対立は、いつの時代にも、命がけの戦いになり得ます。しかし、イエスが伝えた神の国は、今、ここでイエスの父なる神に向かって「アバ、父」と呼びかけ、私たちのすべての必要が天地万物の創造主によって満たされる幸いを体験することです。
たとい、一時的に、迫害を受け、肉体的な命を奪われるようなことがあったとしても、すでに「永遠のいのち」が保証されています。それは、「新しい天と新しい地」の「いのち」を今から体験して生きることです。
そして、私たちはその「永遠のいのち」を受けているからこそ、目の前の損得勘定を超えて、目の前の人の痛みに寄り添い、最近、世界各地で見られるように、コロナウィルスの感染の危険を超えて働く人が生まれています。
感染爆発が起こったニューヨークでもロンドンでも、驚くほど多くのクリスチャンが、危険な働きに自ら飛び込んでいます。そして、そこに新しい「愛の交わり」が生まれ、それが成長しています。
「天の御国(神の国)」とはそのような愛の交わりの成長として現わされるのです。批評家ではなく、愛の実践から、「神の国」が広がります。