ヨハネ20章1〜18節「イエスのために泣き続けたマリヤへの祝福」

2017年7月16日

現代はポスト・モダンの時代と言われ、合理性重視の陰で人の心情が軽んじられてきたことへの反省が起きています。17世紀のパスカルは、「心情は、理性の知らない、それ自身の理性を持っている」(パンセ277)との名言を吐きました。

私は学生の頃、イエスの墓は空だったとの証明を聞いて、「私は理屈では信じません」と拒絶しました。しかし、米国留学中にイエスの愛が人の心を捉えている様子を見て、「信じたい!」という気になりました。

この箇所には、墓が空であったことへの信仰と、泣いてばかりいた女にイエスが現われ、その名を呼んだという心の出会いが記されています。そして、主は何よりも私たちの感情に寄り添い、感情を癒すことによって、私たちの人生に希望を生み出してくださいます。

人間が人口知能と根本的に異なるのは、「感情を持つ存在である」ということにあります。実は、私たちが思う以上に、世界は、理屈ではなく、感情によって動いています。そして、最も強力な感情は「恐怖」です。しかし、イエスの愛こそが、「全き愛は恐れを締め出します」(Ⅰヨハネ4:18)とあるように、「恐怖感情」を越えさせます。

1.「だれかが墓から主を取って行きました」

「週の初めの日」とはカレンダーを変えた表現です。多くの人の感覚で、週の初めは月曜日です。しかし、キリストの復活を祝って、この日が休日となりました。しかも、これは聖書全体のストーリーに目を開かせます。

この福音書は最初に、キリストこそがすべての創造主であることを宣言し、その方が人となられたと描きます(1:3,14)。そして主は、十字架上で息を引き取られる直前に、「完了した」(19:30)と宣言されました。これは、神が六日間で世界を創造され、七日目に「なさっていたわざの完成を告げられ……すべてのわざを休まれた」(創世記2:2)ことに匹敵します。この福音書は、主が十字架で殺されたのではなく、世界の王として、みわざを完成し、休まれたという面を強調します。

そして過越の安息日の翌日、墓を空にして復活しました。この「週の初めの日」は、世界の「新しい創造(New Creation)」が始まった日です。

キリスト教会は、「安息日」を土曜日から日曜日に移したとも言えますが、しかし、それによって「安息日」の意味も変わったとも言えます。それは日々の労働から解放される日という以上に、復活のキリストにある「新しい創造」を思い起して感謝し、「安息日の休みは、神の民のためにまだ残っている」(ヘブル4:9)とあるように、安息の完成、この世界が神の平和(シャーロム)に満たされる日待ち望んでいる日なのです。

「マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに、墓に来た」(1節)と描かれますが、他の福音書によると、少なくとも他に二人の女が一緒でした(マルコ16:1)。この書は、客観的な事実よりもパーソナルな出会いに注目するため、一人しか記されていないのだと思われます。

とにかく、ここでマリヤは、「墓から石が取り除けられているのを見た」のですが、それで、「走って」ペテロとヨハネのもとに来て、「だれかが墓から主を取って行きました」(2節)と、飛躍した結論を知らせました。たぶん彼女は、ユダヤ人の指導者たちが、イエスの遺体を運び出して、公衆の前に「さらし」、イエスが「救い主」であるという希望を完全に断ち切ろうと画策したと思ったのでしょう。

マタイによる福音書では、イエスの墓を封印し、番兵を置いたのは、弟子たちがイエスの遺体を盗んで、復活という噂を広めることを防ぐためであったと説明されています(27:62-66)。とにかく、墓の封印が解かれていることは、弟子への迫害の初めと思っても当然でした。

その後のことが、それを聞いた「ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロより早かったので、先に墓に着いた」(4節)と描かれているように、みなが恐怖に駆り立てられるように「走って」います。先に着いたヨハネは、墓の中に入るのを躊躇しますが、ペテロはすぐに中を確認します。

そこでは、「亜麻布が(平らに)置いてあって、イエスの頭に巻かれていた(包んでいた)布切れは……離れた所に巻かれたままに」(6,7節)なっていました。これはイエスの身体だけが、包んでいたものからすっぽりと抜け出た様子を示しています。

そのとき、「もうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた」(8節)と記されています。使徒ヨハネが自分でこれを書いていることを前提にするなら、彼はイエスの復活を信じたと解釈するのが自然でしょう。

その直後に、「彼らは、イエスが死人の中からよみがえられなければならないという聖書を、まだ理解していなかったからである」(9節)と記されているのは、彼が復活の意味を、聖書の必然的なストーリーの一部としての、神の真実、死の力に対する勝利、「新しい創造」としては理解できていなかったことを示します。人は、起こったことの意味が分かって初めて、心から納得できるからです。

たとえば、イザヤ53章の「主のしもべ」の歌は、52章13節の「見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる」という復活預言から始まり、その勝利に至る過程として、「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ」(53:3)と苦難が描かれ、最後は、「彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする」と、彼の苦しみの意味の説明と、勝利の凱旋が描かれています。この歌は、イエスが繰り返し味わい、弟子たちにも分ち合っていたのですが、その意味は隠されたままでした。

ところが、「それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った」(10節)と記されます。それは彼らもイエスの復活の可能性を信じながらも、目先の恐怖に駆りたてられ、自分たちの身を隠そうとしたからでしょう。アリマタヤのヨセフやニコデモが、イエスの死後、自分の信仰を顕にしたことを見るなら、ユダヤ人の指導者が危機感を覚えて、何らかの対応をしても不思議はありません。

それにしても、亜麻布や頭を巻いた布切れがきれいに残されている現実は、イエスの復活を証明しているとしか思えないはずですが、彼らはまだそれを、聖書のストーリーの中から、神の救いの時代の到来とは見られていませんでした。

弟子たちは、空の墓」を、さらなる悲劇の始まりと見てしまいました。あなたも、目の前の出来事をすべて、そのようにただ悲観的にばかり見てはいないでしょうか。それは、この世の人の目には悪の勝利かもしれませんが、それこそ神の勝利の一過程ではないでしょうか。それを心から納得するなら、私たちは暗やみに光を見出すことができます。「新しい創造」はすでに「週の初めの日」に起こったからです。

2.「マリヤ」「ラボニ」

ところがマリヤは、その場を去ることができず、ただ「外で墓のところにたたずんで泣いていた」(11節)と描かれています。彼女は、「恐れ」に囚われて帰ろうと思う前に、イエスの身体が奪われたという思いに圧倒されていました。

それでも、「泣きながら……墓の中をのぞき込んだ」(11節)のですが、そのとき「ふたりの御使いが見えた」と、衝撃的なことがまず記されます(12節)。さらに、その状況が、原文の順番では、「白い衣をまとって。ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに。イエスのからだが置かれていた場所に」と描かれます。それは、恐ろしいほどに、まばゆい光景だったはずです。

ところが彼女はそれを見て、恐怖に圧倒されてはいなかったかのようです。彼女は、ひたすら泣き続けていたのだと思われます。

御使いたちは彼女に、「なぜ、泣いているのですか」(13節)と尋ねます。それに対し彼女は、「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私には分からないのです」と答えます。

これは先の弟子たちへの報告の繰り返しと同じようでも、「私の主」と呼ぶ、熱い思いが強調されています。彼女の応答は不合理ですが、そこには、「イエスへの愛」があらゆる「恐れ」を超えた様子が見られます。

マリヤは、十字架で無残な死を遂げ、消えてしまった方を、なお「私の主」と告白し続けます。彼女は、ルカ8章2節では、「マグダラの女」と呼ばれ、「七つの悪霊を追い出していただいた」と記録されています。

マグダラとは、「塔」を意味し、ガリラヤ湖西岸の高い見張り塔のある漁師町でしたが、彼女が「マグダラの女」と呼ばれていたというのは、「新宿の女」と呼ばれることに似ているかもしれません。彼女は教会の伝承では、「罪深い女」の代表者かのように言われることがありますが、それは後代の推測に過ぎません。

何よりも明確なのは、彼女は「七つの悪霊」に憑かれていたということで、想像を絶する苦難の中から救い出された女性であるということです。彼女は誰よりも苦しんできたからこそ、誰よりもイエスを愛していました。彼女にとっては、自分の人生全体がイエスからの賜物と思われたことでしょう。

「彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた」(14節)と描かれますが、御使いと話していながら後ろを振り返るなどというのは、信じがたいことです。それほどに彼女はイエスの遺体を必死に探そうとしていたということかもしれませんし、圧倒されるような不思議な気配を感じたからかもしれません。

とにかく「彼女はイエスを見た」と、原文ではまた衝撃的な表現で記されます。しかし、彼女にはその方がイエスだとは分かりませんでした。たぶん、ひたすら泣き続けていたのでしょう。

それでイエスは彼女に、「なぜ泣いているのですか」と御使いと同じ質問をしながら、すぐに続けて、「だれを捜しているのですか」と尋ねました(15節)。

彼女は、不思議にも彼を「園の管理人だと思って」、「ご主人様(キュリエ)」と丁寧に呼びかけつつ、「あなたがあの方を運んだのでしたら、どこに置いたか言ってください。そうすれば私が引き取ります」と言います。園の管理人が、イエスの身体の布をはずして、どこかに運ぶなどと、どうして考えることができたのでしょう?しかも、彼女がひとりでそれを引き取るなどとは、不可能です。彼女は何と混乱していることでしょう!

ただし、それにしても、彼女がこのときのイエスを「園の管理人」であると思ったのは、意味深いことです。人の悲惨は、「エデンの園」から追放されたことから始まりましたが、今、ここに、混乱に満ちるばかりの私たちを、新しい「園」に導いてくださる方が現れたとも解釈できるからです。

ここでイエスは、彼女がこれほどの熱い思いで「イエスを捜している」、その気持ちを喜ばれ、たったひとこと、その名を呼びます。これは「アリアム」というアラム語の発音そのままの記録です(16節)。それは彼女を滅びの中から救い出し、生きる力を与え続けた、あの愛に満ちたなつかしい御声でした。それで十分でした。

彼女の目は開かれ、「ラボニ」と応答しました。これもマリヤのアラム語の発音がそのままです(ヘブル語では「ラビ」(マタイ26:49ユダの呼びかけ)と呼ぶのが普通でした)。

著者はこの驚くほどに短い会話を、ふたりの発音のそのままを記録し、その感動を私たちに伝えようとしています。ここにはことばを超えたパーソナルな心と心のふれあいがあります。救いはいつもパーソナルな現実だからです。

人生の中年期に愛する夫を失った方が、深い悲しみに打ちひしがれていました。僕はそのご主人に自分の心の葛藤を親密に分ち合っていました。彼女の悲しみがとても身近に感じられ、そこに泣いてばかりいたマリヤの姿が重なりました。それで彼女にこの箇所のメッセージをお送りしました。

彼女は、「だれを捜しているのですか」と、後ろから語りかけられるように感じました。その時、ご主人が最後に、「僕の人生のテーマは、神様との親密性、Intimacyだったと思うよ」と言われた言葉が心によみがえりました。空の墓を何度も覗き込んでは泣き続けるような気持ちが、空っぽの心を、復活のイエス様が満たしてくださるという思いに変えられました。

彼女はそれ以来、いろんなところで、深い悲しみを抱えた方に寄り添いながら、主の前に静まるという個人的な黙想会を開いておられます。悲しみが消えることはないしょう。しかし、そこでこそ感じられるイエスの臨在があります。「新しい創造」が始まっているからです。

エデンの園では、蛇が、「神は、本当に言われたのですか」(創3:1)と、神のみことばを自分の知恵で判断するように誘惑しました。それに対し、新しい時代の始まりの「園」で、イエスは知恵ではなく、パーソナルに名を呼ぶことからすべてを始められました。

神のようになることに憧れたエバは悲惨の基となり、ひたすらイエスご自身を求め続けたマリヤは、希望の基となりました。イエスは今も、ご自身を隠しながら、「何を」ではなく、「だれを捜しているのですか」と尋ねておられます。

私は長い間、知識や力を求め続けてきましたが、心の奥底にあったのは「愛への渇き」でした。それは世的な成功によってではなく、イエスご自身からの語りかけによって満たされるものでした。あなたの信仰もそのようなパーソナルな出会いから始まっています。それは主の福音が、目に見える生身の人を通して伝えられたからです。

3.「わたしの兄弟たちのところに行って……告げなさい」

このときマリヤは、イエスの御足にすがりついたのだと思われます。それで主は「わたしにすがり続けてはいけません」(17節私訳)と言われました。そして、「わたしはまだ父のもとに上っていないからです」と言われ、彼女の心を天の父と、父から与えられた使命の方に向けさせました。

イエスは父から遣わされ、父のもとに帰って行かれますが、同じように私たちがこの地におかれているのは、神から与えられた使命を果たすためだからです。彼女は復活のイエスに出会って満足したままでいてはならなかったのです。

その上で主は、臆病な弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼び、彼女にご自分のことばを託し、ご自分を遣わされた方のことを、「わたしの父またあなたがたの父……」と呼びます。これは、イエスの父が、弟子たちの父でもあるという意味です。それこそ福音の核心です。

イエスはかつて、弟子たちを「わたしの友」と呼んで、ご自身の愛と信頼を表明しました(15:14,15)。ところがイエスは今、この失敗者としか見えない弟子たちを「兄弟」と呼び、ご自身の父を、「あなたがたの父」と紹介したのです。

三度にわたってイエスを否認したペテロを、わたしの弟」と呼んでおられます。それこそ、イエスが罪と死の力に勝利された「新しい創造」のシンボルです。

弟子たちは、自分の罪を悔いることによって、「神の子」とされたというより、イエスによって一方的に選び出され、親しく教えを受け、失敗を赦され、また、最後には、何の功績もないままで、イエスの弟と呼ばれ、イエスの父を「私の父」と呼ぶことができるようにされたのです。

ただ、これを弟子たちは、この無力なひとりの女から聞く必要があったという事実自体に深い意味があります。最初の女エバは、アダムを罪にひき入れましたが(Ⅰテモテ2:14)、マグダラの女マリヤは、失敗者の使徒たちを生かす使徒とされました。それはマリヤの心がイエスへの愛でいっぱいだったからです。

この事実を通して、主は弟子たちに、ご自身が彼らの知恵でも力でもなく、愛を求めておられることを示しました。弟子たちは、この圧倒的な福音をマリヤから聞くことを通して、謙遜にされたことでしょう。

また、「わたしの神またあなたがたの神」とは、聖書全体を通しての「救い」の目的を表現します。神はモーセにイスラエルの民を救う目的を、「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる」(出エジプト6:7)と言われました。

私たちの救いの目的も、「主(ヤハウェ)は私たちの神」(申命記6:4)と告白できるためです。その告白と、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主(ヤハウェ)を愛しなさい」(同6:5)という命令は不可分でした。信仰とは、霊的洞察力とか教義の理解力である以前に、神へのなのです。

イエスが十字架で私たちの罪の身代わりになられたのは、ご自身の神を、「私たちの神」とするためでした。そして、イエスが伝えたいのは何よりもこの愛の交わりの連鎖であるからこそ、イエスへの愛以外の何も持っていないマリヤが最初の使徒として適任と思われたのでしょう。

私たちはみな、目の前のいやなことを避けたいという思いがあります。しかし、災いを避けることで平安を得ようとするなら、待っているのは、「孤独」という無限地獄です。

ドストエーフスキーは長老ゾシマの口を借りて「あなたは大きな悲しみを見るでしょう。しかし、その中で、あなたは幸せになるのです。これは最後のことばです。悲しみの中に幸せを探しなさい」と言い切りました。それは、人が、悲しみの中でこそ、本当の愛を発見できるからです。

イエスは弟子たちに自分たちの無力さ、卑怯さを自覚させることによって神の愛を教え、愛によって彼らの信仰を育まれました。そのためにマリヤの涙が用いられました。私たちにはマグダラのマリヤのような愛がないかもしれませんが、マザー・テレサの詩を味わいましょう。

「神は いっぱいのものを 満たすことはできません。

神は 空っぽのものだけを 満たすことができるのです。

本当の貧しさを、神は 満たすことができるのです。

イエスの呼びかけに 「はい」と答えることは、空っぽであること、

あるいは 空っぽになることの 始まりです。

与えるために どれだけ持っているかではなく、どれだけ空っぽか が問題なのです。

そうすることで、私たちは人生において 十分に受け取ることができ、

私たちの中で イエスがご自分の人生を 生きられるようになるのです。

今日イエスは、あなたを通して 御父への完全な従順を もう一度生きたいのです。

そうさせてあげてください。

あなたが どう感じるかではなく、あなたの中でイエスが どう感じているかが問題なのです。

自我から目を離し、あなたが 何も持っていないことを 喜びなさい。

あなたが何者でもないことを、そして 何もできないことを 喜びなさい。」

私たちは自分のうちに愛がないこと、問題に対処する力がないことを、社会や親の責任にして自己弁護を繰り返すことがあるかもしれません。

しかし、「神の御前で嘆く」ことこそが、出発点になります。なぜならイエスは、「いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから」(ルカ6:21)と言われたからです。