2018年10月7日
「奴隷商人から神の僕に」という物語が「百万人の福音」に連載され、91歳の母がそれを楽しみに読んでいます。「母が読んでいるのに、僕が読まないわけには……」と21回目になってから遡って読みだしました。私たちはだれも、自分の信仰心によって神を求めたのではなく、神が私たちを求めてくれた結果、霊の目が開かれて行きます。
それは、このように「何を読むか」、「何に対して心を集中させるか」ということのすべてに及びます。「こんなにすばらしい救いーAmazing Grace」こそが、私たちの人生のすべての源です。それを「ないがしろにする」ことこそが滅びを招きますが、そんなサタンの奴隷状態にある人をも、神は見出し、私たちを新たな奴隷解放の働きへと時間をかけて導いてくださいます。
1.「こんなに素晴らしい救いをないがしろにした場合」
2章1節は、まず、「こういうわけで、私たちは聞いたことを、ますますしっかりと心に留める必要があります」と記されます。それは、1章に記されていたことを指します。そうしないと「押し流されてしまう」ことになるからです。
1章では、神の「御子」がこの世界の真の王として、世界を完成に導くと記されています。様々な詩篇に、キリストの復活、王としての支配、再創造の働きが示唆されていました。
世界で最も愛されている讃美歌「Amazing Grace」の作者ジョン・ニュートンは、1725年に英国のロンドンで生まれました。彼の母は敬虔な信仰者で、6歳になるまでにあらゆる聖書の話を読み聞かせ、様々な聖句を暗唱させました。彼は3歳で読み書きを覚え、4歳で英語の本を普通に読み、6歳でラテン語の基礎を習得しました。
しかし、彼が7歳を迎える直前に母は病のために死んでしまいます。父親は船乗りで家にいないことがほとんどだったため、病弱な母が自分の命の短さを悟って、必死にジョンに聖書教育を施したのでしょう。
ただ、父親が翌年に再婚すると、ジョンは父を忌み嫌うようになり、性格もどんどん歪んで行きました。彼にとっての信仰は、地獄のさばきを回避するための手段に過ぎなくなります。そのうち彼は自分が学んできた聖書知識を用いて、神を冒涜するようにまで堕落します。父親の庇護のもとに船乗りになりますが、父親を嫌っていたため、自暴自棄な行動で身を落とし、アフリカ人をアメリカに奴隷として売ることで生計を立てるようになります。
彼にとっての神は、「人間をきまぐれに苦しめたり、迷わせたりしたあげくに地獄に投げ込んで面白がるペテン師」のような存在でした。
ジョンは十字架で死んだキリストが復活し、「王の王、主の主」として、今も生きて働いておられることが見えないために、刹那的な快楽に「押し流されて」しまい、「信仰の破船」(Ⅰテモテ1:19)に会ってしまったのです。
しかし、彼が23歳の時、彼の乗っていた船が激しい嵐の中で難破しそうになる中で、絶望の中で、ふと、昔、母から教わった、「主よ、私たちをあわれんでください」という祈りが口から出てきました。それは自分でも驚くほどでした。
そのとき、不思議な主の臨在を感じ、主ご自身が自分に、「恐れることはない。わたしの手は、すべての災いの中からあなたを助け出し、昼も夜もこれを守るだろう」と、力強く、優しく語りかけてくださっている声が、心の底に響いてきました。それと同時に、波に「押し流されないように」と自分の身体を排水ポンプに縛り付けながら、必死に水を汲みだし続けました。
そのとき以前教わった、「一度真理を知った後に、真理に背いてしまった者は、処罰を逃れることができない」という教えが心に浮かび、恐怖に満たされます。
それと同じことがここで、「御使いたちを通して語られたみことばに効力があり、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたのなら、こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、私たちはどうして処罰を逃れることができるでしょう」と記されます(2,3節)。
申命記33章1-4節では、主が御使いたちを伴って、モーセを通して語ったようすが描かれています。また使徒の働き7章53節では、ステパノがユダヤ人たちに向かって、「あなたがたは御使いたちを通して律法を受けたのに、それを守らなかったのです」と語り、彼らを責めています。
ですからこの箇所は、イスラエルの民がモーセの律法を守らなかったために、国も神殿も失い、バビロン帝国の捕囚とされた悲劇を、戒めとさせる勧めだと考えるべきでしょう。ここでは、モーセ律法自体が神の救いのみわざであったことを前提に、それよりも「さらにすばらしい救いを無視する」(私訳)ことの恐ろしさが警告されているのです。それを「無視する者」には永遠の「滅び」が待っているというのです。
ジョンはこの警告を思い出したとき、まるで「わたりカラスが泣くように」祈ったと記しています。それは神への信頼の告白などではありませんでしたが、神がそれを聞いてくださっているように感じました。
彼はそれまで自分が嘲っていたイエスの生涯を思い起こしました。イエスは必死にすがりつく者を退けませんでした。
ジョンはまた、「天の父はご自分に求める者に聖霊を与えてくださいます」(ルカ11:13)というみことばを思い起こしていました。自分の意志とは無関係に、主の助けを呼び求める祈りが自分の口から出て以来、何か不思議な変化が生まれていたからです。
彼はまだ、聖書の啓示が真実かどうかは分かりませんでしたが、同時に、「神のみこころを行おう」とする意思のないものにそれは分からないということも、ヨハネ7章17節のみことばが思い出される中で示され、聖書を学ぼうと思わされました。
この回心の出来事はまさに、「この救いは、初めに主によって語られ、それを聞いた人たちが確かなものとして私たちに示したものです。そのうえ神も、しるしと不思議と様々な力あるわざにより、また、みこころにしたがって聖霊が分け与えてくださる賜物によって、救いを証ししてくださいました」(3,4節)と記されているとおりのことと言えましょう。
ジョンは、イエスの生涯と十字架の苦難をまったく違う角度から見るようになりました。また、自分を心から愛してくれた母がそれをどれだけ「確かなもの」として示してくれたかが思い起こされ、今、不思議な聖霊のみわざをとおして「救い」が証しされていました。
ジョンは父親を憎んでいたため、父が彼のためにしてくれた様々な配慮を、意地悪かのようにしか見えていませんでした。しかし、この後、父が自分のことをどれだけ心配していたかということが見えてきました。不思議に、肉の父の愛を知ることと神の愛を知ることが重なって進んで行きました。
彼はこの苦難から救われた後、一艘の船を任される船長に抜擢され、また17歳の時から恋焦がれていたメアリーとの結婚が許されました。ただ、彼が任された働きは、それまでと同じ奴隷売買の仕事でした。
彼は奴隷船の船長として、その後6年間も働きます。妻のメアリーは、ジョンがその仕事から離れることを望みつつ、ただ、航海の間、聖書だけは読み続けるようにと約束させます。
そのようなことを経たあるとき、航海から帰って愛する妻とお茶を飲んでいると、突然、意識が消えて倒れます。彼はそれまで奴隷売買を単なるビジネスとしてとらえ、不法を行っていると感じたことはほとんどなかったとさえ記しています。しかし、この発作を機に、船乗りの仕事を辞め、税関職員の働きに着きます。
そしてその後、ヘブル語やギリシャ語の学びを自分でしながら1758年、回心から10年後に英国国教会の司祭に志願し、六年たって受け入れられます。それは、彼が正規の教育をそれまでほとんど受けて来なかったからです。
2.「人とは何ものなのでしょう」
2章5節と8節bには対比が見られます。まず、「神は……来たるべき世を、御使いたちに従わせたのではない」と記され、詩篇8篇から、人間に対する神のご計画を語った後、「神は万物を人の下に置かれた……それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません」と記されます。
つまり、この世界のすべてのものである「万物」は、人に従うように、「人の下」に置かれたはずなのに、それが実現してはいない。しかし、それは「来たるべき世」で実現するというのです。
創世記1章26節では、人が「神のかたち」また「神の似姿」に創造されたのは、人が「地のすべてのものを支配する」ことができるためでした。それは、「すべての生き物」を人間の奴隷のように従わせることではなく、それぞれが平和のうちに生きることができるように、守り育むことでした。
それは一人ひとりの人間に、この地上での使命を思い起こさせるみことばですが、この2章5節では、この世界を最終的に平和のうちに治めさせる使命は、御使いではなく、人間に与えられていると語ったものです。
ジョン・ニュートンは、神の驚くべき恵み(Amazing grace)を語る牧師として有名になって行きますが、奴隷貿易廃止法案の成立のための運動に加わるのは、回心から38年後、また牧師の任職を受けて22年もが経過した1786年のことでした。
ジョンを心から尊敬していた若い国会議員のウィリアム・ウィルバーフォースは、ジョンが奴隷貿易に関わっていたことを知って、協力を求めてきました。ジョンはそのとき、自分の忌まわしい過去の所業を明るみにさらけ出すことへの恐れを感じました。
しかしすぐに、「神は、奴隷貿易の廃止という使命に参与させるために、私を今まで多くの危険から守り導いてくださった」と示されます。妻のメアリーも、牧師を首になってもいいから、この運動に加わるようにと励ましました。
この法案が英国議会で可決されるのは20年後の1807年ですが、ジョンは法案可決の9か月後に天の神のもとに召されて行きます。そこに神の驚くべき摂理を見ることができるように思えます。
2章6,7節で詩篇8篇が引用されます。これはダビデがイスラエルの王とされ、王家が永遠に続くと約束された時、「神、主(ヤハウェ)よ。私は何者でしょうか。私の家はいったい何なのでしょうか。あなたが私をここまで導いてくださったとは。神よ。このことがあなたの御目には小さなことでしたのに……あなたは私をすぐれた者として見てくださいます」(Ⅰ歴代誌17:16,17)と感謝した祈りから生まれています。
要するに、ここでの、「人とは何ものなのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたがこれを顧みてくださるとは」との問いかけは、神が自分にしかできない固有の使命を与えていることとセットなのです。
ただし、「あなたは、人を御使いよりもわずかの間低い者とし」との箇所は、ヘブル語原文では、「あなたは彼を、神よりわずかに低いものとされて」と記されます。この書では、現在の世界が「御使いの下に置かれ」ているかのように見える一方で、「来たるべき世界が……人の下に置かれる」という文脈の中で、このように記されたのでしょう。
そこには、現在の人間の姿があまりにも非力で愚かに見えるという現実の中で、神は既に「救いを受け継ぐ人々」(1:14)に、既に「栄光と誉れの冠を」約束しておられるという希望を見させる熱い思いが込められています。
ジョン・ニュートンは、自分の回心とパウロの回心とを重ねて証しします。パウロはクリスチャンを迫害するためにダマスコに向かう途上で神に捕らえられました。別にそれまで真剣にイエスのことを求めようとしたわけではありません。同じようにジョンも、自分の意志でイエスを求めていたわけではありませんでした。
信仰はすべて、自分の求道の思い以前に、神の目に留められることから始まるのです。そのことをジョンは、1779年の名作Amazing Graceの歌で「見出された恵み」を次のように描いています。
驚くべき恵み この響きは何と甘いことだろう。 こんな、ならず者を救ってくださったとは。 私はかつて失われていた。しかし、今は見出された。 私は盲目であったが、今は見える
私たちは自分で神を見出したのではなく、神に見出されて見えるようにされたのです。しかも、私がいかに神に逆らった「ならず者」であるかを意識することは、圧倒的な恵みを理解する契機なのです。
しかも、私の命が守られて来たことが、神の一方的な恵みであることを、3番で次のように歌います。
何と多くの危険と苦難と罠の中を 私はすでに潜り抜けてきたことか。 この恵みこそが私をここまで安全に導いてくれた。 恵みが私を永遠の家へと導いてくれる
ジョンは自分が何度もの生命の危険から守られたことを、圧倒的な神の恵みであると深く自覚していました。実は、奴隷貿易の仕事自体が、恐ろしい危険と隣合わせでした。しかも、この働きに関わること自体が、人間性を徹底的に堕落させていました。
ジョンは、自分が「死」と永遠の「のろい」の罠から救い出されたのは神の圧倒的な恵みに他ならないと深く自覚していました。しかし、自分が奴隷貿易の「のろい」から救い出された理由が、奴隷を解放する働き着くためであったことを自覚するのは60歳を超えてからのことでした。しかし、それは英国での世論の転換点でもあり、神の時でもありました。
3.「神の恵みによって、すべての人のために死を味わうため」
ヘブル書の著者は、この詩篇8篇をキリスト預言としても引用しています。7、8節の「人」ということばは原文ではすべて「彼」という代名詞で記されています。
今回の「新改訳2017」で、この箇所の「彼」の代わりに「人」と訳したのは、詩篇8篇をキリスト預言として引用する前に、すべての人間に当てはめて、人間には、御使いにまさる「使命」が与えられているということを自覚できるようにするためでした。
どちらにしても、ここでの「彼」という代名詞は、6節の「人」または「人の子」を指すことばで、そこに大きな意味が込められています。ギリシャ語の「人の子」ということばは、しばしば、イエスを示唆しています。
当時の信者たちは、イエスご自身が、「人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえられなければならない」(マルコ8:31)と言われたことを思い起こしたことでしょう。
また、イエスが最高議会で裁判を受けたとき、「あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります」(同14:62)といわれたことばを思い起こしたことでしょう。
それは、「人の子」の苦難と栄光との、両方を示唆することばです。
それをもとに8,9節は、「それなのに、今なお私たちは、すべてのものが『人の子』の下に置かれているのを観察できてはいません。ただ、御使いよりもわずかの間、低くされた方のことは確かに見ています。すなわちイエスのことです。
その方は死の苦しみを通して、栄光と誉れの冠を受けられました。それは、神の恵みによってすべての人のために死を味わうためでした」と訳すことができます。
イエスがすべての人のために「死を味わう」ことは、すべてのものをご自身の支配の下に置くという目的のためでした。不思議にも、それによって万物に対するイエスのご支配がすべての人に明らかにされるというのです。それは、私たちの肉の目には、イエスの支配がまだ確定しているようには見えていなくても、すでにイエスの復活によって明らかにされたと言えるからです。
イエスの死によって、「来たるべき世」は、すでに私たちのもとに引き寄せられました。私たちは「来たるべき世のいのち」を、今から味わうことができています。主は私たちの代表の真の人として、私たちの前を歩んでくださいました。
詩篇8篇は私たちの一人ひとりが神の目に高価で尊い存在であり、一人ひとりに「この地を治める」という固有の使命が与えられていることを明らかにする歌です。
私たちはアダムの子孫として、それをなかなか自覚できない現実があります。しかし、イエスを見るときに、私たちはどのように生きるべきかが示されます。私たちはみな、神の不思議なご計画の中で生かされ、使命が与えられています。
なお、ヘブル書の著者は、イエスの死の目的を、人を「死の奴隷状態から解放するため」と描きます。それは2章14,15節でイエスが私たちと同じ「血と肉」を持つ人間となられたのは、「死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって、一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした」と記されているとおりです。
ここではイエスの十字架が、奴隷解放のためとして描かれています。ジョン・ニュートンは皮肉にも、神の救いにあずかったあとも奴隷売買によって生計を立てていました。それは残念ながら、彼がAmazing Graceを作詞する3年前に記された米国の独立宣言でも明らかでした。
そこで、「すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」と宣言されましたが、そのときの「すべての人間」の中には、黒人奴隷は含まれてはいませんでした。
ジョンの良心が麻痺していたという以前に、当時の多数のクリスチャンの聖書の読み方が、かなり偏っていたのです。彼らは、奴隷を人間として認めていたとしても、「放っておいたら地獄に落ちるしかなかった哀れな黒人に福音を伝え、天国の保証を与えてあげるという恵みを施してあげた……」かのように考えていました。
幸いにも、ジョン・ニュートンは晩年に奴隷売買禁止運動に加わることができましたが、それは彼を尊敬するウィルバーフォースという若い国会議員に誘われたからに過ぎません。
ジョンは奴隷売買に携わったことを深く後悔してはいましたが、それを禁止する法律を作ろうなどとは思いもよりませんでした。しかも、彼がそれから足を洗えたのは、神が彼を、妻とのお茶の時間に失神させたからです。
彼が神に救いを求めたのは、乗った船が沈みそうになったからです。しかもその時、神に祈ったのは、6歳まで熱い聖書教育を施した母のおかげです。ジョンが何度も道を外しながら船長にまでなったのは、評判の良い父親が自分の様々な友人に便宜を図るように願っていた結果にすぎません。
また彼は自分が牧師を目指すようになったのは、亡き母の意志であったからとさえ記しています。そのように見てくると、彼の人生の歩みはすべて、神の圧倒的な恵みAmazing Graceに包まれていたと言えましょう。
しかし、私たちの人生も同じではないでしょうか。確かに様々な困難がありますが、それでも生かされてきました。それはその試練を通して、あなた固有の使命を気づかせるためではないでしょうか。
私たちの「救い」は、神があなたをご自身の働きのために「召し出された」結果です。それはこの地を治めるすべての働きに適用できます。
それは見過ごしてしまうような小さな働きから始まるかもしれません。あなたが使命を捜すのではなく、使命があなたを捜しています。大切なのはそれに心を開くことです。