2017年10月1日
「神経科学者たちは、恐怖こそが私たちの人間としての基礎的感情であり、脳の視床の下部で感じられると言います。多くの独裁者たちは卓越した力を身につけ、力の神として支配することを狙っています。しかし、そうすればするだけ、彼ら自身が恐怖にのみ込まれて行くのです」とフーストン氏は記しています(「キリストのうちにある生活」P67)。
それは北朝鮮の独裁者の問題であり、同時にサウルの問題でした。
今回の箇所に、「主(ヤハウェ)からの悪い霊」がサウルに恐怖心を起こしたと描かれています。何とも不可解ですが、サウルの生涯全体を見ようとするとき、彼はその神の霊のみわざの犠牲者とは言えないことが分かります。
一方、それと対照的なのがダビデです。彼は、主の霊によって、詩篇の歌を作り出して人を癒し、神の敵に勝利して行きました。
たとえば、詩篇55篇では、「聴いてください!神よ、この祈りを……私はうろたえ、うめき、わめくばかりです……私の心は奥底から悶え、死の恐怖に襲われています。恐れとおののきにとらわれ、戦慄に包まれました……ああ、鳩のような翼が私にあったなら、そうしたら、飛び去って休みを得ることができるのに……」(1-6節私訳)という美しい祈りの歌が記されます。
聖霊に導かれた彼の心が、自分の繊細な感情を完全に受け入れ、それを神との交わりの泉としているのです。
1.「主(ヤハウェ)からの、わざわいの霊がサウルをおびえさせた」
イスラエル王国の初代王サウルは、自分が主の一方的な恵みによって選ばれ、立てられたことを忘れ、主を恐れるよりも民が離れることを恐れ(13:11)、主の御声よりも民の声に聞くことを優先しました(15:22,24)。
サムエルはサウルに向かって、「あなたが主(ヤハウェ)のことばを退けたので、主(ヤハウェ)もあなたをイスラエルの王位から退けた」(15:26)と言いました。イスラエルの真の王は主(ヤハウェ)ご自身でしたから、最初に立てられた王が、主の命令に真っ向から背いていながら、反省もせずに自己弁護を繰り返すことは許されませんでした。
そして、サムエルは主の導きではありましたが、人々の前で自分がサウルを王として立てたという責任を感じていたからでしょうが、サウルのことで深く悲しんでいました(15:35)。
そのような中で、主(ヤハウェ)はサムエルに、「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか」と言いつつ、改めて、「わたしは彼をイスラエルの王位から退けている」と改めて断言されました(16:1)。それは、人の目からはサウルはまだイスラエルの王として権力を保っていましたが、神の目からはサウルはもはやイスラルの王ではなくなっているという意味です。
そして、主は、「ベツレヘム人エッサイ……の息子たちの中に、わたしのために王を見出したから」と言われます。それに対し、サムエルは、「どうして私が行けるでしょうか。サウルが聞いたら、私を殺すでしょう」(16:2)と答えます。これは、人の目からはサウルの王権は強くなるばかりで、任職したサムエルですら命の危険にさらされていることを意味します。
サムエルがベツレヘムにやって来ると、「町の長老たちは身震いしながら」、「平和なことでおいでになったのですか」と尋ねます。それは、町の長老たちがサムエルとサウルの関係が、すでに切れているということを理解していたことを示唆します。
それに対し、サムエルは、「平和なことです。主(ヤハウェ)にいけにえをささげるために来ました」(16:5)と言いながら、ベツレヘムの長老たちを、新しい王への油注ぎの場へと招きます。これは何とも不思議です。なぜなら、新しい王の任職ということは、ベツレヘムの長老たちが一番恐れるイスラエル民族同士の争いの原因にしかならないはずだからです。これは、長老たちが考える「平和」と、サムエルが考える「平和」の概念が違うことを示します。
聖書が描く「平和」(シャローム)とは、戦争がないという以前に、神のご支配が地を満たすことに他ならないことだからです。平和を求めると言いながら、明らかな悪に譲歩して、問題の先送りをして、後の争いを激化させるという人間の歴史があります。当面の争いを作りだすようでも、それを経なければ真の平和が生まれないこともあります。
サムエルはエッサイの長男エリアブの「容貌や、背の高さ」(16:7)を見て、王にふさわしいと思いました。しかし、主は彼に、「わたしは……人が見るようには見ない……人はうわべを見るが、主(ヤハウェ)は心を見る」と言われます。
確かに、サウルは「イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかった。彼は民のだれよりも、肩から上だけ高かった」(9:2)のでしたが、そのとき主は、「うわべ」を見たのではなく、滅びかかったベニヤミン族から選ぶということで、「人が見るようには見ない」ということを明らかにしておられました。
主は、今度は最大部族ユダの家から選びますが、ダビデは貧しいエッサイ家の八男、末子に過ぎず、父さえも「あれは今、羊の番をしています」(16:11)と食事の席に招かなかったほど「小さい者」でした。
しかし、彼は、「血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱ」(16:12)という素質も見られました。そして、主はその彼を王として選び、彼の上に油を注がせます。
すると「主(ヤハウェ)の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った」(16:13)のですが、これはサウルの場合と同じでした(10:6、11:6)。つまり、ふたりの王とも、主の一方的な選びによって、主のための王として立てられ、主の霊を受けて王として整えられたのです。
ところがここで、「主(ヤハウェ)の霊はサウルを離れ、主からの、わざわいの(原文『悪い』)霊が彼をおびえさせた」(16:14)と記されます。代表的な英語訳でも(NIV、NRS、Jewish Bible)でも「an evil spirit from the LORD 」(主からの悪霊が)と訳されています。新共同訳でもフランシスコ会訳でも「主から来る悪霊」とか「主から遣わされた悪霊」と訳しています。
とにかく神がサウルを自滅させるために悪霊を送っているというのです。そしてその霊はサウルの心に「おびえ」、つまり、恐怖terrorを引き起こしているというのです。
家来はそれを「悪い神の霊」(16:15、16原文)と呼び、著者も短く「神の霊」(16:23)とさえ呼びます。「悪い霊」が、「神の霊」と呼ばれるのは何とも不思議ですが、「主(ヤハウェ)の霊」、つまり「聖霊」とは明確に区別されています。
実はこれはレビ記26章の預言、主は、「もし、あなたがたがわたしに聞き従わず……わたしの契約を破るなら、わたしもまた……あなたがたの上に恐怖を臨ませ……心をすり減らさせる……だれも追いかけて来ないのに、なたがたは逃げる」(14-17節)という警告が実現したものと言えます。
新約だけを読むと、悪霊の働きを神の敵とだけ見て、悪霊をおびえることがあるかもしれませんが、旧約では「わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出る」(哀歌3:38)と、主の絶対的な支配が何より強調されます。主のさばきの御手は、私たちに主だけを恐れるべきことを教え、みもとに招こうとする「愛」でもあります。
これに対し家来は、「じょうずに立琴を弾く者を捜させてください。悪い(わざわいをもたらす)、神の霊があなたに臨むとき、その者が琴を弾けば、あなたは良くなられるでしょう」(16:16)という対処療法しか進言できませんでした。これは三千数百年前の音楽療法の起源とも言われます。
ただその際、ダビデは、「琴がじょうずで勇士であり、戦士です……」(16:18)と不思議な紹介をされ、演奏の技術ばかりではなく、「主(ヤハウェ)がこの人とともにおられる」ことのゆえに招かれているということを忘れてはなりません。
そして、不思議にも、彼が「立琴」(リラ)を演奏すると、「サウルは元気を回復して、良くなり、わざわいの(悪い)霊は彼から離れた」(16:23)というのです。なお、「立琴に合わせて……なぞを解き明かそう」(詩篇49:4)とあるように、ダビデは同時に、主のみわざを歌ったのではないでしょうか。つまり、彼の賛美に合わせて、サウルの心が主に向けられた結果として、元気を回復できたということではないでしょうか。
悪霊は、主のご支配の下にあります。悪霊ではなく、主(ヤハウェ)を恐れ、主を賛美することこそすべてのいやしの元です。
2.主の戦いとして、ゴリヤテを打ち倒したダビデ
ペリシテとイスラエルの軍隊が、エルサレムの西25キロぐらいにある谷をはさんで対峙したときのこと、ペリシテの巨人ゴリヤテ(身長286cm、鎧の重さ57kg)がイスラエルを軽蔑し、挑戦者を求めてきました。そして、「サウルとイスラエルのすべては……意気消沈し、非常に恐れた」という状況が四十日間も続きます(17:11,16)。
そのときダビデは、父の使いで、陣営の兄たちを訪ね、彼のあざけりの声を耳にして、「この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をそしるとは」(17:26)と言います。ダビデは、目の前の出来事を、「人が見るようには」ではなく、主の視点から見ることができていました。
なお、長兄のエリアブの反応を見ると(17:28)、主が「彼を退けている」(16:7)と言われた理由がよくわかります。
これを伝え聞いたサウルはダビデを呼び寄せますが、ダビデは「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦います」(17:32)と言います。
そのときサウルは、「おまえはまだ若い……」(17:33)と言いますが、ダビデは、自分が獅子や熊の口から羊を救い出してきた体験を、「しもべは、獅子でも熊でも打ち殺しました」(17:36)と証しします。しかし、それは自分の力を自慢したようであっても、それを「生ける神」のみわざと認め、「獅子や熊の爪からしもべを救い出してくださった主(ヤハウェ)は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます」(17:37)と断言しています。
サウルは自分の鎧と剣を貸しますが、ダビデはそれに慣れていないからと脱いでしまいます。そして、「自分の杖を手に取り、川から五つの滑らかな石を選んで、それを羊飼いの使う……投石袋に入れ、石投げを手にし」、ゴリヤテに近づきます(17:40)。
ゴリヤテはそれを嘲り、「自分の神々によってダビデを呪った」(17:43)というのです。それに対し、ダビデは、「私は、おまえがそしったイスラエルの戦陣の神、万軍の主(ヤハウェ)の御名によって、おまえに立ち向かう」(17:45)と断言します。
事実、彼にとって「この戦いは主(ヤハウェ)の戦い」(17:47)でした。そして彼は、「すばやく戦場を走って行き……手を袋の中に入れて、石を一つ取り、石投げでそれを放って、ペリシテ人の額を撃った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに地面に倒れた」というのです。
ここでダビデは、「石投げとひとつの石で、このペリシテ人……を殺した」(17:50)と描かれます。現代の私たちにとっての「五つのなめらかな石」とは何でしょうか。それは、「御霊の与える剣である、神のことば」です(エペソ6:17)。それは当時としては、モーセ五書を意味しました。
とにかくダビデの勝利をきっかけにしてペリシテ人が敗走しますが、それはかつてのヨナタンのときと同じように、「あなたがたのひとりだけで千人を追うことができる。あなたがたの神、主(ヤハウェ)ご自身が……あなたがたのために戦われるからである」(ヨシュア23:10)という約束の真実を見ることができます。
ところで、17章55節~58節まで、三回にわたって、ダビデが「だれの子」であるかを尋ねる問いかけがあります。当時は、人のアイデンティティーを父の名を用いて表現したからです。
それにしても、かつて「サウルは彼を非常に愛し、ダビデはサウルの道具持ちとなった」(16:21)と記されていたので、それをここで改めて尋ねるというのは、何とも不思議です。
しかし、サウルはゴリヤテを殺す者に王の娘を与え特別待遇を与えると約束していましたから(17:25)、この期に及んで真剣にダビデの出生を正確に知ろうとしたのかもしれません。サウルは、本当の意味で、人を知ろうとはしていなかったのでしょう。
それにしても、サウルは、わざわいの霊でおびえると立琴を奏でる者を求め、ゴリヤテを見ると大きな報酬で勇士を募ろうとするように、場当たり的な解決しか考えません。彼は、目の前の問題ばかりを見て、琴を奏でて癒してくれる者を愛していたのであって、ダビデ自身を見てはいなかったとも言えましょう。
一方、音楽による癒しと大きな敵との戦いという対照的な必要に応えることができたのは、若いダビデだけでした。彼の心はまっすぐに主に向けられ、行動には一貫性がみられました。
同時に、これらの出来事は、サムエルがダビデに油を注いで以来、「主(ヤハウェ)の霊が……ダビデの上に激しく下った」(16:13)という文脈の中で理解する必要があります。ダビデの音楽にも戦いにも、主の霊のみわざが現れています。
3.サウルはダビデを恐れた
「ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた」(18:1)と描かれているのは、ふたりの戦い方が似ていたからでしょう。
しかも、「ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した」(18:1,3)ということばが繰り返され、その結果として、「ヨナタンはダビデと契約を結んだ」と記されます。これは互いのために命を捨て合うという真の友としての約束だと思われます。
そしてヨナタンは、自分の王子としての誇りの象徴の「上着」ばかりか、よろいかぶとや剣などの武具のすべてをダビデに与えます。
一方、サウルはダビデを「戦士たちの長」として任じます(18:5)。しかし、女たちが、「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と歌っているのを聞くと、「非常に怒り……ダビデを疑いの目で見るようになった」というのです(18:7-9)。
そして、その翌日のことが、「悪い(わざわいをもたらす)、神の霊が激しくくだり、彼は家の中で狂いわめいた。ダビデは、いつものように、琴を手にしてひいたが……サウルは槍を投げつけた」(18:10、11)というのです。それは、「ダビデを壁に突き刺してやろうと思った」からであると記されています。
そしてその直後に、「サウルはダビデを恐れた」と記されます。それこそ問題の本質です(18:12)。つまり、「悪い神の霊」というのは、「わざわい」をもたらすというよりも、恐怖感情を掻き立てるものなのです。
そして、その根拠が、「それは、主(ヤハウェ)がダビデとともにおられ、サウルを離れ去られたからである」と記されます。サウルを「悪い神の霊」が襲うのは、主がサウルを離れ去ったことの結果だったのです。
「それでサウルはダビデを自分のもとから離し、彼を千人隊の長に」しますが、「主(ヤハウェ)が彼とともにおられたので、ダビデは、行くところどこででも勝利を収め」ます(18:13,14)。その結果、「サウルは彼を恐れた」ということになります(18:15)。
息子ヨナタンの姿勢と何と対照的でしょう。サウルは心の奥底でサムエルから告げられた主のさばきを恐れていたのかもしれませんが、それならば、彼が直面すべき相手は、ダビデではなく主ご自身でした。
サウルの「恐れ」の気持ちを駆り立てた「神の霊」は、「わざわい」をもたらすというよりも、恐怖を起こすことでご自身のもとに招く神のあわれみとも言えるのかもしれません。
サウルはその後、ダビデの勝利への報酬として上の娘メラブを妻として与えようとします。ただ、その動機が、ダビデを激しい戦いに追いやって、「自分の手を下さないで、ペリシテ人に手を下させよう、と思った」(18:17)と記されます。
ここにサウルの救い難い卑しい気持ちを見ることができます。彼はいざとなると、この約束を反古にします。しかし、「娘ミカルはダビデを愛していた」ということを知ると(18:20)、王の婿として迎えるために、花嫁料の代わりに、「ペリシテ人の陽の皮(割礼によって切り取る男性性器の包皮の皮)百だけを望んでいる」(18:25)と、家来たちに伝えさせます。
その理由が再び、「サウルは、ダビデをペリシテ人の手で倒そうと考えていた」と記されます(18:25)。神のかたちに創造された人間であるならば、娘の幸せを望んで当然のはずなのに、サウルは娘を利用して、娘が愛したダビデを死に追いやろうとしているのです。何という心の暗やみでしょう。
しかし、主はダビデとともにおられたので、彼はその法外な要求の二倍をすぐに果たします。それで、「サウルは娘ミカルを妻としてダビデに与え」ます(18:27)。
その結果、「サウルは、主(ヤハウェ)がダビデとともにおられ……娘ミカルがダビデを愛しているのを見、また、知った。それで……ますますダビデを恐れた。サウルはいつまでもダビデの敵となった」(18:28,29)というのです。
サウルはダビデを恐れ、彼の敵となったのですが、その理由は、ダビデの勝利と娘ミカルの愛がダビデの立場をなお強くするからです。そこにあるのは王であり父であることを忘れた、「ねたみ」に過ぎません。そのようになったのは、サウルが最初に、主の代わりに人を恐れ、神を敵にまわしたことの結果でした。
30節は、ダビデの度重なる勝利のゆえに、「彼の名は大いに尊ばれた」と閉じられます。本来、王の婿となったものの名声は、王の権威を強めるはずのものです。しかも、サウルの息子のヨナタンは、ダビデの親友となっていました。ですから、ダビデの繁栄は、サウルの息子と娘双方にとっての喜びであり、王家を安定させる要因となるはずでした。
「神のかたち」に創造された人間は、すべて、愛の交わりのうちで平安(シャローム)を体験できるはずで、そこに人としての幸せがあったはずなのです。
ところがサウルは、神から退けられた王位にしがみつこうとして、味方になるはずの人を敵としてしまいました。そのすべての原因は、「恐れ」だったのです。しかし、恐れを力で解決しようとして、ますます恐れに囚われて行きます。
後に使徒ヨハネは、「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します」(Ⅰヨハネ4:18)と記しています。サウルは肉親の愛すら軽蔑し、恐れにますます囚われて行きます。しかし、神の霊が、彼に「恐れ」を掻き立てたのは、神の愛に立ち返るようにという招きでもあり得たのです。
サウルは、「主(ヤハウェ)からの」悪い霊によって「おびえ」、自滅への道を進みます。私たちがダビデと同じ「主(ヤハウェ)の霊」を受けたのは、「恐れ」を通して、神と人との愛の交わりが築かれるためです。
「イエス、あなたのもとへ私は、このままの姿で来よう」というドイツの歌があります。イエスは私たちの葛藤や醜い思いのすべてをご存知で、それを赦すために十字架にかかってくださいました。私たちはもう、自分を取り繕って、人の信頼を勝ち得ようなどとあがく必要はありません。
サウルが神の愛を失ったのは、人の愛を得ようと、自分を取り繕って、神の前に正直になることができなかったためです。神の前に正直になることと、人の前で正直になることは切り離せない関係にあります。
そして、「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」(Ⅱテモテ1:7)とあるように、私たちはサウルを怯えさせた霊ではなく、ダビデを神と人への愛に動かしたと同じ主(ヤハウェ)の御霊を受けているのです。